モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
ゴールの瞬間に見えたのは、ただ、眩いばかりの光。
一瞬遅れて、東京レース場の芝生の緑と、晴れ渡った空の青が視界に満ちて。
ゆっくりと脚を緩めたジャラジャラの耳に聞こえるのは、自分の鼓動の音。
そして――遅れて響き渡ったのは、どよめきにも似た、府中の大歓声。
流れる汗が目に入って、ジャラジャラは右手で目元を擦り、そしてスタンドを見上げた。
――勝った。
掲示板を振り返ることはしなかった。じわじわと湧き上がってくる確信に、ジャラジャラはゆっくりと両の拳を握りしめた。
――勝ったのは、あたしだ。
ぶるり、と身震いする。こみ上げてきたのは、これまでにない昂ぶりだった。
そして、その昂ぶりの正体が――歓喜であることに、ジャラジャラは気付く。
――はっ、はははっ……なんだこれ。なんだよこれ。
――そうか、そうだったな。勝つって――こんな、嬉しいもんだったな!
「だああああっ、っしゃああああああああああああっ!!」
震える両拳を突き上げて、ジャラジャラは歓声に応えるように吼える。
その雄叫びに呼応するように、スタンドから湧き上がるコール。
――ジャラジャラ! ジャラジャラ! ジャラジャラ!
阪神JFをはるかに上回る、10万人のジャラジャラコール。
大波のようなその声を一身に浴びて、蒼天を仰いだジャラジャラの元へ――。
「ジャラジャラ!」
駆け寄ってくる、大柄な影がひとつ。担当の棚村トレーナーだった。
視線を戻したジャラジャラは――駆け寄ってくるトレーナーが、見たことのない顔をしていることに目を丸くする。
棚村は、角刈りの精悍なその顔を、ぐしゃぐしゃにして――泣いていた。
「お、おいおい、トレーナー、なんだよその顔? ――って、おわっ」
「よくやったっ、すごいっ、本当にすごいな君は……っ! ありがとう、ありがとう……っ、君を信じて良かった……っ」
「ちょっ、待てよ、落ち着けよトレーナー!」
トレーナーの太い腕に抱きすくめられ、ジャラジャラはもがく。
「……すまん、桜花賞のときは余計なことを言った。君の将来を守りたい一心で、君に不完全燃焼のレースをさせてしまったかもしれない……」
「――――」
無理だけは、絶対にしないでほしい。――桜花賞の前、トレーナーからかけられた言葉。
そのせいで自分が負けたのではないか。……そんなことを、ひょっとして、ずっと気にしていたのか。このトレーナーは。
――なんだよそれ。バカだなぁ……。
ジャラジャラは苦笑して、トレーナーの胸板を押して暑苦しい身体を引き剥がす。
そして、目元を拭うトレーナーの胸元へ、どん、と拳を突き出した。
「ばーか。あんまジャラジャラさんを舐めんじゃねーよ。それに――このぐらいでそんなに感激してたら、この後涙で干からびんぞ?」
にっ、と笑って、ジャラジャラは突き出した拳を銃の形にして、「BANG!」とトレーナーの胸を撃ち抜く。
「ジャラジャラさんの最強伝説は、こっから始まるんだからな」
そしてジャラジャラは、トレーナーを押しのけるようにして、もう一度スタンドに向き直る。まだ鳴り止まないジャラジャラコールへ向け、両手を銃の形に構え。
「――BANG!」
スタンドを撃ち抜いてやると、10万の歓声は地鳴りとなって府中を揺るがした。
* * *
地下バ道で、腕組みをして待つ王寺トレーナーの姿を見て、エレガンジェネラルは脚を止めた。脚元を見つめる顔が上げられない。合わせる顔がないとはこのことだった。
トリプルティアラ、エリザベス女王杯、有馬記念を全て勝つ。桜花賞後に打ち明けられたトレーナーの夢。最強の証明。それを最初で躓いてしまうなんて。
何が完璧か。何が万全か。――何が姫将軍か。
「……申し訳、ありま、せん」
震える拳を握りしめて、脚元を見つめたままそう、絞り出すことしかできない。
どんな言葉も甘んじて受け入れる覚悟だった。敗れてしまった以上は、何も返せる言葉はない。結果が全てだ。
――けれど、次の瞬間。
ジェネラルの頭に乗せられたのは、トレーナーの温かい手のひらだった。
「……どうやらまだまだ、私の想定も計算も甘かったようだ」
「――――」
「相手がこちらの想定を超えてくるなら、それすらも想定して君を仕上げるのが私の仕事だった。これは、私の敗戦だ。何が足りなかったか。ジャラジャラを完膚なきまでに倒すために、何が必要か。もう一度、秋華賞までに、ゼロから全てを検討し直そう」
「――――――はい」
こみ上げてくるものを、唇を噛んで堪えながら、エレガンジェネラルは小さく頷いた。
* * *
ゴールした瞬間は、ただ無我夢中だった。
自分が何着でゴールしたのかもわからないまま、エンコーダーは脚を止めた。
鼓膜に戻ってくる大歓声。その中心で、コースに飛び込んできたトレーナーに抱きしめられた、褐色のウマ娘の姿がある。――ジャラジャラだ。
ああ、彼女が逃げ切ったんだ……。
ひとつ息を吐き出して、それからエンコーダーは視線を彷徨わせ、掲示板を見上げた。
一番上に点灯した数字が、1。ジャラジャラ。
その下に点灯した数字が、14。エレガンジェネラル。
そこまではエンコーダーにもすぐわかった。最上位人気のふたりが順当にワンツー。やっぱり、強いウマ娘は強いのだ。自分なんかには到底手が届かないほど――。
「……え? あれ?」
その次。3番目に点灯した数字を、エンコーダーは咄嗟に理解できなかった。
11。6枠11番。その番号に、ひどく、見覚えがあった。
――え? え、え、えええええ?
『ジャラジャラ、大レコードを叩き出しました! そして2着は14番エレガンジェネラル! 3着は11番のエンコーダー! そして2番バイトアルヒクマはまたも4着!』
場内実況の声が、自分を呼んで――そこでようやく、エンコーダーは理解した。
――3着? わたしが……3着?
けれどそれが現実とは思えず、エンコーダーはスタンドの方を振り返った。
トレーナーが、動画を撮るためのカメラを構えながら、エンコーダーへ向けて高々と拳を掲げていた。
「おめでとう、エンコーダー! すごいぞ、オークスのウイニングライブだ!」
歓声の中で、トレーナーの叫んだ声が、はっきりとエンコーダーの耳に届く。
――あ、あ……わたし、わたし……ウイニングライブ……? オークスの、3着?
もう一度掲示板を見上げる。夢でも幻でもなく、11の数字は3番目にあった。
その下に、あの芦毛の子。デビュー戦で負けたバイトアルヒクマの2番がある。
……勝った。いや、3着だから負けたんだけど、わたし、あの子に勝った……!
3着。GⅠで、クラシックで、わたしが、3着……! あとちょっと、あとちょっとで、1着まで、センターまで、届きそうなところまで……来られたんだ……!
次の瞬間――ぶわっとこみあげてきた感情を抑えきれず、エンコーダーはトレーナーに動画を撮られていることも忘れて、その場で声をあげて泣きだした。
その涙の理由もわからないまま、エンコーダーの涙が歓声を吸い込んで、芝生に落ちて消えていく。
* * *
自分がいつ、何着でゴールしたのかも、エブリワンライクスにはわからなかった。
気が付いたらレースが始まり、気が付いたらレースが終わっていた。
その2分半ほどの間、ライクスの頭はずっと真っ白だった。
自分がどうやって、どんな風に走ったのかもわからない。
無我夢中。――いや、違う。ただの茫然自失だった。
掲示板を見上げても、そこに自分の番号がないことしかわからなかった。
歓声も、陽光も、芝生の感触も、何もかもひどく現実感がない。
流れる汗と、切れた息が、自分がレースを走りきったということを示しているだけ。
敗れたウマ娘たちが地下バ道へ引き揚げていく。その流れに流されるように、ライクスもふらふらとそちらへ向かった。
地下バ道の入口で、トレーナーが痛ましそうな顔をして、ライクスを待っていた。
「……おつかれさま」
言葉はそれだけ。タオルで身体を抱えられて、それでもまだ、ライクスは現実感を取り戻せない。――あだし、なして、なして……どんだんだ?
トレーナーに肩を抱えられるようにして、奧へと引き揚げていく、その最中。
「――それにしても、エブリワンライクスはどうしたんだ?」
ふと、そんな誰かの声が聞こえた。
「出遅れも酷かったが、その後がもっと酷い。全く走りに集中してなかったな」
「パドックでも気迫を感じなかったし、嫌な予感はしてたんだが……」
「まさかブービーから5バ身差の最下位とはなあ」
「やっぱり〝四強〟なんてのは過大評価だったな。バイトアルヒクマも頑張ったが、この世代はジャラジャラとエレガンジェネラルの2強だ。あのふたりは怪物だよ」
それが、取材待ちをする記者の会話だということも、ライクスにはわからない。
わからないまま、言われた言葉だけが、ライクスの身体に、容赦なく突き刺さる。
「それにしたって、今日のエブリワンライクスは無いな。全くレースになってなかった」
「どこまで食い下がれるかと思ってたんだが……がっかりだったな」
隣で、トレーナーが抗議の声をあげようとした。しかし話をしていた記者はそれにも気付かず、「あっ、ジャラジャラが戻ってきたぞ!」とそちらに駆けだしていく。
「……ライクス」
隣でトレーナーが気遣うように囁く。けれど、その声もライクスの耳には届かない。
今言われた言葉の全てが、ライクスの頭の中を反響して、こだまして、消えない。
ライクスはその場に膝を突いた。
もう、そこから立ち上がれる気がしなかった。
* * *
汗みずくの姿で地下バ道に戻って来たヒクマを、私はコンプとエチュードと一緒に、タオルを広げて出迎えた。
「……トレーナー、さん」
脚を止めたヒクマが、次の言葉を発する前に、私はその身体をタオルで包みこむ。「わぷっ」と声をあげるヒクマを、私は抱きしめるようにして、その汗に濡れた芦毛を拭う。
「トレーナーさん……ごめん、ね」
「謝るな。……ヒクマが謝る必要なんてない。よくやった。ヒクマは本当に、よくやったよ。最高のレースだった。――勝てなかったのは、ヒクマのせいじゃないから」
タオルの中で小さく震えるヒクマの背中を、私はただ、さすってやることしかできない。私の両脇で、コンプとエチュードが心配そうにヒクマの肩に手を置く。
――と、そこへ。
「おい、クマ!」
聞き覚えのある声がして、私は顔を上げ、ヒクマもタオルから身を離して振り向いた。
そこに、ウイナーズサークルでの取材を終えたらしい、ジャラジャラが立っていた。隣に眼を赤くした棚村トレーナーを従えて。
「ジャラジャラ、ちゃん。……わたし、クマ、じゃ、ないよ」
力のないヒクマの反駁に、ジャラジャラはひとつ鼻を鳴らして、
「おう、そうだったな」
と。そう言って、ジャラジャラは拳を突き出して、ヒクマの胸を軽く突いた。
ヒクマはきょとんと目をしばたたかせる。そんなヒクマに――ジャラジャラは笑った。
「最高の勝負だったぜ。次もすり潰してやっから、お前も次はもっと強くなって来いよ。――なあ、バイトアルヒクマ!」
どん、とヒクマの胸を叩いて、そしてジャラジャラは「じゃあな」と私たちの傍らを通り過ぎて行く。ヒクマは茫然とそれを見送って――。
「――負けない! わたしも、次は絶対負けないよ! ジャラジャラちゃん!」
その言葉に、ジャラジャラは振り向くと、片目を瞑って、銃の形にした指をヒクマに向けて、「BANG」と撃ち抜くポーズをして。そうして、ひらひらと手を振って立ち去っていく。
その背中を見送るヒクマの背には、もう、先程の弱々しさはなかった。
「う~~~~~っ、くやしいっ! トレーナーさんっ、わたしくやしいっ、すっごいすっごいくやしいっ! ジャラジャラちゃんにもジェネラルちゃんにも、勝ちたいっ、今度こそ勝ちたいっ!」
そうして、私の方を振り返ったヒクマは、ぶんぶんと両腕を振って、ぎゅっと唇を引き結んで私を見上げる。その表情に溢れた闘志に、私はぶるりと身を震わせる。
――ああ、本当に、本当にすごい子だ。
とうに解りきっていたことだけれど、ジャラジャラとエレガンジェネラルは本物の怪物だ。どっちも間違いなくトゥインクル・シリーズの歴史に残るウマ娘になる。いや、このオークスで既にそうなったと言っていい。そんな怪物に何度も叩きのめされて、それでもヒクマは、あのふたりに勝ちたいと言えるのだ。折れることなく。
こみあげてくるものを堪えるように、タオルの端で顔を拭って、私はヒクマに向き直った。ここで私が、情けない顔をするわけにはいかない。
「――ああ。次こそ勝とう! 秋華賞だ、秋華賞で勝って、ジャパンカップに行くぞ!」
「うんっ! う~~~~~っ、次は絶対勝~~~~つ!」
両腕を高々と掲げたヒクマの声が、地下バ道に響き渡る。私はもう一度ヒクマのその肩を叩いて――それから。
こちらに向かってくるマスコミの記者たちの姿が、目に入った。
「……コンプ、エチュード。ヒクマを控え室まで送ってくれる?」
「え、トレーナーは?」
「私はちょっと、後から合流するから。少しヒクマを休ませてあげて」
「……はい、わかりました。行こう、ヒクマちゃん、コンプちゃん」
エチュードが私の声音で何かを察したか、ヒクマとコンプを促して控え室の方へ急ぐ。それを見送って――向かってきたマスコミの前に、私は立ちはだかった。
「バイトアルヒクマ選手のトレーナーですね? バイトアルヒクマ選手は――」
「まだレースが終わったばかりです。休ませてあげてください」
「では、今日のレースについて一言。ジャラジャラ選手と一緒に逃げたのは作戦だったのでしょうか?」
マイクを差し出され、フラッシュが焚かれる。私は小さく唇を噛みしめて、そして可能な限り、毅然と答えた。少なくとも、自分ではそのつもりで。
「私の指示です。ジャラジャラ選手の前に出て、スロー逃げに持ち込む作戦でしたが、逆に向こうのペースに飲まれました。けれど、ヒクマはその中で、今できる最高のレースをしてくれたと思います」
そこで一度言葉を切り、私はただ、こう付け加えた。
「――ですから、今日の敗因は、全て私にあります」
* * *
5月19日、オークス(GⅠ)。
1着、1番ジャラジャラ(2番人気)。
2着、14番エレガンジェネラル(1番人気)。
3着、11番エンコーダー(15番人気)。
4着、2番バイトアルヒクマ(3番人気)。
18着、8番エブリワンライクス(4番人気)。