モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
第106話 宝塚記念・あんたがいなきゃダメなんだ
6月23日、日曜日。阪神レース場。
第11レース、GⅠ、宝塚記念。
日本ダービーが終われば、クラシック級のウマ娘にも、シニア級の重賞の門戸が開かれる。とはいえ、秋であればともかく、6月のシニアのGⅠ級のレースに、まだ成長途上のクラシック級のウマ娘が出てくることは基本的にない。
逆に言えば、そこにクラシック級のウマ娘が出てきた場合、トレーナーが既にシニア級の第一線で通用すると、それだけの自信を持って送り出してきている、とも言える。
――そして、この年の春のグランプリ、宝塚記念は、ひとりのウマ娘の参戦が大きな話題を呼んでいた。
言わずもがな、オークスをスーパーレコードで制した、ジャラジャラである。
折しも今年のシニア級中長距離路線は、絶対的な存在が不在の混戦模様。大阪杯は重賞未勝利だった9番人気の伏兵イツツバクローバーが勝ったし、天皇賞(春)も5番人気のシニア級3年目イマジンサクセスが逃げ切って悲願のGⅠ初制覇を果たした。それはそれでドラマではあったが、長距離王オボロイブニングが去り、芦毛の逃亡者テイクオフプレーンが海外路線を選んだ現状、国内の中長距離を盛り上げるスターウマ娘の登場が待望されていたのもまた事実である。
そこへ、今年の日本ダービーを上回るとんでもないタイムでオークスを勝った〝褐色の弾丸〟が、ライバルのエレガンジェネラルが秋華賞へ向けて休養へ入る中、一足先にシニア級に殴り込みをかけてきたのだ。ファン投票は並み居るシニア級のウマ娘らを抑え、なんと堂々の1位。シニア級相手にいったいどんな走りを見せるのか、これで盛り上がるなという方が無理な話だ。気の早いメディアは、ここで結果が出るようなら、秋は凱旋門賞挑戦も――などと書き立てている。
「はえー、すごいねジャラジャラちゃん。断然の1番人気だって」
ヒクマがスマホを見ながら言う。
当日、私は担当の3人と、トレーナー室のテレビで観戦していた。目的は主にリボンスレノディの応援だが、秋華賞へ向けて、問題のジャラジャラがどんな走りをするかももちろん要チェックである。現地まで行っても良かったのだが、来週にはコンプのCBC賞があるので、コンプの調整を優先してのテレビ観戦だった。
「ノディ姉さんは……?」
「んーと、6番人気だって。あ、ノディさん、がんばれー」
本バ場入場を迎え、画面に勝負服姿のリボンスレノディが映る。リボンスレノディは今年、どちらも2番人気に支持された大阪杯で6着、ヴィクトリアマイルで4着。ともに悪い内容のレースではなかったが、気付けば昨年のオークスからもう1年以上勝ちがない。秋のエリザベス女王杯へ向けて結果を出しておきたい舞台だ。
エチュードが祈るように手を組み、コンプが腕組みしてパイプ椅子の背にもたれ、ヒクマはいつも通り大きな目を輝かせて画面に手を振る。
『さあ枠入りが始まっています。太田さん、順調でしょうか』
『はい、今ジャラジャラがちょっとゲート入りを嫌がっているようです』
カメラがゲート前に立つジャラジャラを映した。何か苛立たしげに耳を絞り、ジャラジャラは目の前のゲートを睨み付けたまま、そこからゲートに入っていこうとしない。ゲート入りの順番を待つ他のウマ娘たちが訝しげにジャラジャラを見やる。
人間の身としてはもうひとつよくわからない感覚だが、ゲート入りを嫌がるウマ娘というのは一定数存在する。単に狭いところが嫌いだったり、あるいはレースの重圧に竦んでしまっていたり、とにかく他人の指示に従うのが嫌というワガママだったりと理由は様々で、だからこそゲート試験というものもウマ娘には課せられるわけだが……。
ゲートに入ろうとしないジャラジャラに、係員が歩み寄って背中を押す。
――その瞬間。
画面の中で、ジャラジャラが両手を振り上げて、係員を振り払った。
そして――何を思ったのか、そのまま係員を突き飛ばすようにして踵を返し、ゲートとは逆方向へ走り出した。リポーターが悲鳴を上げ、大観衆のどよめきがテレビの中からでもはっきりと聞こえてくる。
私たちも唖然として、テレビの中であらぬ方向に走り出すジャラジャラの姿を見ているしかなかった。
そのまま、ジャラジャラは阪神レース場から姿を消した。
ウマ娘自身のゲート入り拒否、遁走による競走除外。メイクデビューなどではたまにあるアクシデントだが、GⅠで断然の一番人気がというのは滅多に起こることではない。
原因は、後に数々の目撃証言と『月刊トゥインクル』の取材などで明らかになるが――この事件は、「宝塚記念ジャラジャラ脱走事件」として、後々まで〝褐色の弾丸〟の数々の気性難エピソードの代表格として語り継がれることになる。
* * *
阪神レース場から最寄りの、総合病院。
そのエントランスに、勝負服姿のウマ娘が息せき切って駆け込んできた姿に、スタッフや診察を待つ患者たちは一様に目を丸くした。待合室のテレビで先程まで流れていた宝塚記念を見ていた者たちは、飛び込んできたそのウマ娘の姿になおさら驚愕していた。
そんな驚きの顔に構わず、そのウマ娘は受付に駆け寄り、身を乗り出して叫ぶ。
「おい、棚村ってトレーナーが救急車で運ばれてきただろ! 病室どこだよ!」
「しょ、少々お待ちを――救急外来でしたらあちらで、」
目を白黒させながら受付は答え、そのウマ娘は返事もなくそちらへ猛然と駆けだした。走りながら案内図で救急外来の初療室を確かめ、すれ違うスタッフの制止も気に留めずその部屋に飛び込んで、
「トレーナー!」
叫んだその声に、棚村は振り向いて、唖然として目を見開いた。
「ジャラジャラ!? こんなところで何やって、レースは――」
棚村のその言葉に、ジャラジャラは扉に手を掛けたまま、一拍おいて大きく息を吐く。ただひたすらに、安堵の感情だけを吐き出して。
「ばっかやろー、なんだ、元気そーじゃんか……」
そのままへたりこみそうになったジャラジャラに、棚村は何が起きたのか理解して、痛む頭を抱えそうになりながら立ち上がった。そしてジャラジャラに歩み寄ると、
「――なにやってんだ、このバカ!」
病室が震えるほどの怒声を、ジャラジャラの頭上から叩きつけた。ジャラジャラは思わず耳を絞って身を竦ませる。
「ちょっと、他の患者さんもいるんです、お静かに!」
看護師の鋭い非難の声が飛び、棚村とジャラジャラは同時に口を押さえて顔を見合わせ、そして棚村はそのまま顔を覆って、深く深く溜息をついた。
「……一応、念のために確認するが、レースは、どうした?」
「…………」
ジャラジャラは押し黙る。その沈黙が答えで、棚村はそのまま気を失いたくなった。
「お前、よりによって、ファン投票1位で1番人気のグランプリを出走拒否してここに来たのか……」
阪神レース場がどんな騒ぎになっているか想像もしたくない。
しゃがみこみそうになった棚村の手を、ジャラジャラが掴んだ。そしてそのまま、ウマ娘の怪力でギリギリと握りしめられる。
「ちょっ、ジャラジャラ、待て、痛い痛いっ」
「バカはそっちだろーが! そのグランプリの直前に階段から落ちて救急車で運ばれた間抜けなトレーナーはどこのどいつだよ!」
「お静かに!」
再び看護師の注意と厳しい視線に口元を押さえ、ジャラジャラと棚村は同時にただ、溜息のように息を吐いた。
――事が起きたのは、ジャラジャラが控え室で勝負服に着替えている最中のことだった。
ジャラジャラと棚村の場合、控え室でレースについて打ち合わせることは特にない。作戦なんてわざわざ細かく指示はしない。ジャラジャラには好きに走らせる。それがふたりの契約だった。
だから棚村はいつもジャラジャラを先に行かせて、最後に地下バ道で見送りがてら声を掛けるだけである。今回もそのつもりで、先に地下バ道へ向かっていたそのとき。
階段で、他のレースに出走していたウマ娘とぶつかってしまったのだ。
人間とウマ娘がぶつかれば、大の男であっても弾き飛ばされるのは人間の方である。バランスを崩して階段を転げ落ちた棚村は、肩を打って鎖骨を骨折、そのまま救急車でこの病院に運ばれた。
そしてジャラジャラは、パドックで棚村の身に起きたアクシデントを知り、棚村を探して見つけたときには、もう彼は救急車に運び込まれるところだった。その後、レース場のスタッフによってターフまで連れてこられたが――結局、今ここにいるわけである。
「……ジャラジャラ。気持ちはありがたいが、自分が何をしたか解ってるのか? いや、君の自由にやらせるというのが契約だが……。それにしたって、戒告、ゲート再試験、夏合宿の参加禁止……いやその程度で済めばいいが……」
既にしてジャラジャラの気性難ぶりは広く知れ渡っている。GⅠ、それもファン投票1位選出のグランプリで出走を拒否してレース場を脱走したとなれば、トゥインクル・シリーズを侮辱したとして、最悪、トレセン学園からの退学処分もあり得なくもない。
「知るかよ、んなこと」
「いや、君の競走人生だぞ。それをこんな、俺なんかの怪我ぐらいで――」
「あたしがそれを預けたのはあんただ! 他の誰でもねー、あんただけだ!」
「――――」
ジャラジャラの言葉に、棚村は息を呑む。棚村のシャツを掴んで、ジャラジャラはその顔を見上げて、ぎゅっと唇を引き結んで――そして、棚村の胸元に額を押し当てた。
「いくらあたしでもな、人生預けた相手が病院運ばれて、気にせずレースに燃えられるほど、人でなしだとでも思ってたのかよ、ばかやろう……。こんな気持ちで走って満足できるわきゃねーだろ! あたしの好きに走れって言ったのはあんただろーが。勝手に、あたしが好きに走れなくなるよーなドジ踏むんじゃねーよ……ばかやろう……」
「………………すまん」
シャツを引きちぎらんばかりに握りしめるジャラジャラに、棚村は返す言葉を失って、結局その肩に手を置いて、耳元で謝罪の言葉を囁くしかできなかった。
「……お静かにと何度も言っているはずですが?」
そして、ものすごく怖い顔で睨んでくる看護師に平謝りするしかできないのであった。
* * *
その日の夜。
新幹線で東京に戻り、府中のトレセン学園栗東寮に帰宅したジャラジャラを待っていたのは、寮の玄関で仁王立ちするエレガンジェネラルだった。
「……もうお説教は聞きたくねーんだけどな」
「私が怒らなくても、生徒会から明日の朝一で呼び出しがかかっていますから、トレーナーと一緒に出頭してください」
「うげ」
「なにが『うげ』ですか。自分のやったことの重大さをもっと深く受け止めてください。まあ、担当トレーナーの負傷という事情は聞きましたから情状酌量の余地は認めますが、それでも呆れて言葉もありません。やむを得ない事情での出走取消は認められているんですから、正規の手続きを踏めば良かったんですよ。あんな大勢の人の前で脱走騒ぎを起こすなんて、ジャラジャラさんの脳はオプションですか?」
腰に手を当てて、エレガンジェネラルは呆れたように嘆息をする。
「うるせえよ。そんなまどろっこしいこと……あ? ちょっと待て、なんで関係ないジェネがもう事情知ってんだ? 昨日の今日ですらねーぞ」
「URAからの正式発表は無いですが、貴方が脱走してから、レース場での救急車の目撃証言、学園のトレーナーが救急搬送されたらしいという噂、それから病院に勝負服姿で駆け込んできた、宝塚記念に出走しているはずのウマ娘の目撃証言が多数。――以上の情報があっという間にウマッターで拡散しました」
「…………」
「その結果、『担当トレーナーが救急搬送され、ジャラジャラはそれが心配でレースを放りだして脱走して勝負服のまま病院に駆けつけた』というストーリーが既に大方のファンの共通認識となっています。批判も少なくないですが、同情的な声も多いですよ」
「…………」
ジャラジャラは頭を抱える。起きた事実としてはなにひとつ間違っていない。いないのだが――改めて自分のやったことを第三者の視点から聞かされると、それはあまりにも。
頭を抱えながら、ジャラジャラはふと気付く。……ジェネラルの背後、物陰からちらちらとこちらを覗いているウマ娘たちの集団がいることに。ジャラジャラの視線に気付くと、彼女たちはさっと身を引っ込める。
「……おい、なんだよあのギャラリー」
「皆さん興味津々のようですよ?」
「……何にだよ」
「それはもちろん、ジャラジャラさんとトレーナーの強い絆についてでは?」
「おいやめろ! ばっか、そんなんじゃねーっての!」
「なるほど、これが俗に言うツンデレというものですか」
「ちげーよ! ちげーっての! 勝手に変な解釈すんじゃねー! うがああー!」
ジャラジャラの悲鳴が、夜の栗東寮にこだまして消える。