モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
あの三つ編み眼鏡が――ユイイツムニが、自分をライバルだと思っている。
そう聞いたときの感情を、言葉で説明するのは難しい。
嬉しさや安堵がなかったと言えば嘘になる。ただ、それをそのまま認めてしまうと、結局自分があいつより格下だと認めてしまうことになるから、一瞬でもそう思ってしまった自分が悔しい。そして事実として今の自分はあいつより格下だということを理解しているから、なおさら癪に障る。吼えたところで三戦全敗という事実は揺るがないのだ。
それから、チョコチョコに対していい気味だと思い、そう思ってしまう自分はやっぱり器が小さいと自己嫌悪し、別にあたしはあの三つ編み眼鏡に認められたいわけじゃない、と自分に言い聞かせてみても、事実としてあいつを倒すことが目下の目標であるし、CBC賞であんな無様な走りをしてもまだ当人からライバル視されているということが、惨敗で折れかけていた気持ちと自信に力を与えてくれたのもまた事実であって――。
要するに、ブリッジコンプの頭の中はそういった感情が入り乱れてぐちゃぐちゃで、頭を空っぽにするためにランニングコースを無茶苦茶に走っているのであった。
当然、ペース配分など考えもしない、ただ思考を消し去るためだけの暴走なので、すぐに息が切れる。脚を緩めて道ばたの草むらに立った看板の日陰で汗を拭い、やり場のない感情と一緒にコンプは大きく息を吐き出した。
――なにやってんだか、あたしってば。
結局のところ、CBC賞の惨敗を未だに引きずっているのだ。単なる出遅れ撃沈なら割り切れた。割り切れずにいるのは――トレーナーと一緒に立てた先行策で潰されてしまった自分自身の情けなさゆえだ。
あれだけ、逃げではなく先行で折り合いをつけるトレーニングを積んできたのに、全て台無しにしてしまった。トレーナーは前向きに「次は逃げて折り合おう」と言ったけれど、それが自責の念と、自分の心を折らないための必死の空元気であることぐらい、コンプだって察している。
トレーナーを信じてついていく、と決めたのだから。自信を失っていたトレーナーを、3人でそう言って励ましたのだから。今さらあのトレーニングが無駄だったとは、自分もトレーナーも認めるわけにはいかないのだ。
泥沼の第一歩なのかもしれない。しかし、それ以外にどうすればいいのだろう?
確かにトレーナーはちょっと頼りないところはある。それでも、「最強のウマ娘になる」という夢を笑わずに受け止めてくれたトレーナーを信じたいし、その信頼に報いたい。
「……結局、あたしが勝つしかないんだ」
当たり前のことである。勝利は全てを正当化するのだ。秋のスプリンターズステークスで、ユイイツムニにもチョコチョコにも、シニア級のウマ娘にも勝って、最強のスプリンターになる。そうするしかない――。
汗を拭って顔を上げ、息を整え、もう一度走りだそうとしたところで。
「あっ、すみませーん!」
と、突然誰かに声を掛けられた。コンプが振り向くと、見覚えのある青鹿毛の小柄なウマ娘が、視線を彷徨わせながらこちらに駆け寄ってくる。
知り合いではない。だが、その顔はあまりに有名で、もちろんコンプも知っていた。
「あの、リードサスペンス会長を見かけませんでした?」
トレセン学園生徒会書記。稀代のアイドルウマ娘、ドカドカだった。
* * *
「サボり? 会長さんが?」
「ええもう、いつものことなんですけど。ちょっと目を離すとすーぐどこか行っちゃうんですよ、リサさんってば。肝心なときにはちゃんと戻ってくれるんですけど、でも何があるかわからないじゃないですか。連絡取れないと困りますっていつも言ってるのに、LANEも返事してくれないですし……」
はああ、と疲れたように溜息をつくドカドカ。姿を消した生徒会長のリードサスペンスを探しているという彼女に、なんとなくコンプは付き合っていた。
「……会長さんって、そんな風来坊なんですか?」
「そうなんですよ! いつもいつもギリギリまで仕事を溜め込んで、そのくせ涼しい顔して間に合わせるのでこっちも怒りにくいですし、なんにも考えてないみたいで指示は的確なので頼りにはなるんですけど、頼りにしようとするとどこか逃げちゃいますし……」
意外な話だった。コンプのような一般生徒にしてみれば、伝説の九冠ウマ娘リードサスペンスは雲の上の殿上人。普段は式典やメディアでのかしこまった姿しか見る機会がないし、現役時代も堂々たる王者という印象しかなかったのだが……。
「ふふ、意外そうな顔ですね」
「まあ、そりゃ」
目をしばたたかせるコンプに、ドカドカは笑う。
「やっぱりリサさんってそういうイメージなんですね。外面だけはいい人ですし……。でも、付き合うとわかりますけどほんっとにもー困った人なんですよ」
「え、ホントに付き合ってるんです?」
「あ、いやいやいやそういう意味ではなく! っていうかホントにってなんですか!」
顔を赤くしてぶんぶんと首を横に振るドカドカ。――リードサスペンスとドカドカの関係は、当然コンプも知っている。通算一勝のまま重賞戦線で勝ちきれない戦いを続け、リードサスペンスの引退レースで、レコードタイムで2勝目を挙げて十冠を阻止し、絶対王者に引導を渡した1年後輩のライバル。今は生徒会長と書記として、トレセン学園の運営に携わっているふたりが、公私ともに親しいことは周知の事実だ。
大柄で浅黒くキリッとしたイケメンであるリードサスペンスと、小柄で色白、穏やかな顔をしたドカドカは、本当にいろいろな意味で対照的で、その関係性に邪な妄想を抱くファンも少なくない。いや、コンプにそういう趣味はないけれども……。
しかし、文句を言いながらもリードサスペンスのことを語るドカドカの口ぶりは楽しそうで、邪な意味でかはともかくとして、彼女はなんだかんだ言いながらも心からリードサスペンスのことが好きなんだな、ということは伝わってきた。
――部屋でトレーナーの話してるときのクマっちに、ちょっと似てるかも。
コンプはひとつ鼻を鳴らし――それから、ふと思う。
……どうしてドカドカさんは、勝てない日々に、心折れずにいられたのだろう。
未勝利戦を脱してから、有馬記念でリードサスペンスを打ち破るまでのドカドカの戦績は有名だ。青葉賞2着、ダービー5着、神戸新聞杯2着、菊花賞2着、有馬記念4着、阪神大賞典2着、天皇賞(春)2着、宝塚記念3着、天皇賞(秋)4着。絶大な判官贔屓を集めたその戦績は、「諦めないこと」の象徴として子供時代のコンプの記憶にも強く刻まれている。
しかし実際、トゥインクル・シリーズで走ってみて、それは道徳の教科書に載るようなキラキラした泥臭さではないということが、今は嫌というほどわかる。勝てないということは、ただただ苦しい。報われるゴールがあるという確信など誰にもないのだ。勝ちたい。勝つために全力を尽くして、なお遠いあと一歩。それがどれだけ心を削るか、今のコンプにはどうしようもなく実感としてわかってしまう。
「……ドカドカさん」
「はい?」
「同じ路線に、バカみたいに強い絶対王者がいるって、しんどくなかったんですか?」
コンプのその問いに、ドカドカは目をしばたたかせ――そして。
「しんどかったですよ。当たり前じゃないですか。リサさんだけじゃなく、誰にだってもう負けるたびにバキバキに心折られました」
青空を見上げて、陽光に目を細めながら、明るい口調でそう言った。
「毎回毎回、あと一歩、あと一歩って――たくさんの人に応援してもらって、それなのに勝てない自分が情けなくて、悔しくて、もうレースなんかやめて田舎に帰りたいって、現役の間はほとんど毎日思ってました」
「――――」
「諦めなかったんじゃなくて、ただしがみついていただけです。走ることしかできませんから。……憧れた人が走っている間は、せめてその背中を追いかけていたい。あの人にとって私がただのその他大勢のひとりでも、せめてその他大勢のひとりでありたい。……本当に、ただそれだけだったんです。世間に言われてるような綺麗な物語なんかじゃなくて、ただの意地っ張り、自己満足なんですよ」
「……でもそれで、絶対王者を倒しちゃったわけじゃないですか」
「だから、それだけで終わっちゃいました」
「――――」
リードサスペンスを倒して、ドカドカは燃え尽きた。そう言われていることも、実際ほぼその通りの戦績であることも、もちろんコンプも知っている。
「リサさんに勝てたことは私の一生の誇りです。でも、だからって無責任に『諦めなければいつか報われる』なんて、今もがいている人にしたり顔で言いたくはないです。もがいている間の辛さはよく知ってますから。……ブリッジコンプさん」
「は、はい」
「意地を張るのに疲れたとき、そう言える相手を大切にしてあげてください」
「――――」
ドカドカのその言葉に、なんと返事をすべきか、コンプが口ごもっていると。
ひとりのウマ娘が、ジャージ姿でふたりの横を走り抜けていく。
その姿に、ドカドカが目を丸くした。
「――あっ、リサさ、会長!」
「おっと、見つかってしまったな――ドカドカ、大丈夫、夕飯までには戻るよ!」
「待ってください、会長! ああもうっ、仕事はいっぱいあるんですよー!」
走ってきたリードサスペンスを見つけたドカドカは、そのまま逃げだしたリードサスペンスを追いかけていく。その場に取り残されたコンプは、茫然とそれを見送って――溜息をついて踵を返した。
意地を張るのに疲れたとき、そう言える相手――か。
ルームメイトの能天気な笑顔がすぐに脳裏に浮かんで、コンプは首を横に振る。そうして顔を上げ、一旦合宿所に戻るか、と走り出して――ほどなく。
一番顔を合わせたくない相手と、再びはち合わせてしまった。
「あ」
「あっ」
向こうから走ってきた顔に、お互い脚を止めて、睨み合うように向き合った。
ブリッジコンプとチョコチョコ。――不倶戴天の天敵同士。
* * *
「捕まえましたよ、リサさん!」
「やれやれ、私も衰えたかな」
飄々と肩を竦めるリードサスペンスを捕まえ、ドカドカは息を吐く。手加減されたことぐらいは理解している。今でもこの会長が本気を出したら、今の自分では追いつけない。
まったくもう、と溜息をつこうとして、リードサスペンスのジャージが思った以上に汗みずくであることにドカドカは気付いた。……そもそも、姿を消したときにはまだ制服姿ではなかったか?
「……会長、誰かと併走でもしてました?」
「さすがドカドカ。私のことはなんでもお見通しだね」
そういうことか。ドカドカは改めて溜息をつく。
「なんだい、一緒に併走したかったのかな、ドカドカ? 私はいつでも構わないよ」
「私は構います! もう、とにかく一旦合宿所に戻りますよ」
「はいはい、わかりましたとも、次期会長殿」
「なりませんから!」
「なってほしいんだけどね。……ところで、ブリッジコンプ君と何を話してたんだい?」
「……大したことではないです。会長のいい加減さについて愚痴を聞いてもらっていただけですから」
答えつつ、ドカドカは目を眇めて、ブリッジコンプの顔を思い出した。
正直、彼女の問いにちゃんと答えられた自信はない。自分が報われてしまった立場にいるからこそ、勝ちきれない者の苦しみには、何を言っても上からの傲慢な言葉になってしまう気がするのだ。
勝ちきれない日々を乗り越えて、絶対王者を打倒した挑戦者。――散々、メディアなどでそういう「美しい物語」として自分の競走生活が消費されてきたことに文句を言うつもりはない。それに憧れてくれる後輩がいることも否定したくはない。ただ――。
夢を叶えた後も、目標を達成した後も、何者かになった後も、人生は続く。
自分の物語は、しかし物語でないが故に、キリのいいところで終わってなどくれない。
夢に向かってもがく後輩たちに、ドカドカが本当に言いたいのはそのことだった。
――本当に大事なのは、夢を叶えたあとにどうするかなのだと。
だけどそれは、夢に向かってもがいている当人たちに言っても仕方のないことで。
だって、結局夢を叶えられるのはほんの一握りでしかないのだから。
やはり、それは「物語」を手に入れた者の傲慢なのだろう。
だからドカドカは、口をつむぐしかないのだ。
「……リサさん」
「うん?」
自分より頭ひとつ高いリードサスペンスの顔を見上げて、ドカドカは目を細める。
――結局自分は、どこまでもこのひとに依存しているのかもしれない。
夢を終わらせてしまったあとにもまだ、背中を見せ続けてくれるこのひとに。
「なんだい? ……そんなに熱心に見つめられると、愛の告白でもされてしまいそうだな。ふふ、ドカドカなら私はやぶさかではないよ?」
「――ちっ、違いますから! もう! リサさん!」
くいっと顎を指先で持ち上げられて、ドカドカは真っ赤になって吼え、リードサスペンスは楽しげに笑う。
そんな代わり映えのしないやりとりが、ドカドカにとっては愛おしい、今の自分の物語なのだった。