モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
小さい頃から、あたしが一番足が速かった。
誰もあたしの前を走れない。あたしは誰かの背中なんか追いかけない。
ずーっと、ずーっと、あたしが一番。あたしはいつだって、誰よりも先を走るんだ。
だってあたしは、世界で一番足が速いウマ娘なんだから。
あたしは――最強のウマ娘なんだから。
もちろん、現実はそうじゃない。
あたしは、ちょっと足が速いだけの、たくさんいるウマ娘のひとりでしかない。
そんなことは、この学園に来たその日に思い知っている。
でも、そうなのだとしても。それがなんだっていうのだ。
あたしは最強だ。最強のウマ娘だ。
今がそうじゃないなら、これからそうなるんだ。
そう自分に言い聞かせないと、走り続けていられなかった。
* * *
夜。仕事を終えてトレーナー室を出たところで、スマホにバイトアルヒクマからメッセージが入った。最近ようやく、直接走ってくるのではなくまずスマホに連絡を入れることを覚えてくれたので、こちらとしてもありがたい。
《トレーナーさん、門限過ぎちゃったんだけどコンプちゃんが戻ってないの》
という文面に、どうしよう、のスタンプ。そういえばブリッジコンプは、ヒクマのルームメイトだったか。時計を見ると、確かに寮の門限を過ぎている。
《ブリッジコンプのスマホにメッセージは入れた?》
《入れたけど既読つかないの》
心配だよー、というスタンプ。
《そろそろ寮長さん点呼に来ちゃうし》
《わかった。私の方で探してみる。見つけたらそっちの寮長に連絡しておくから、ヒクマは待ってて。いいね?》
栗東寮の寮長の連絡先は、ヒクマと担当契約を交わしたときに教えてもらっている。
《わかった。ありがとうトレーナーさん、よろしく!》
お願いします、というスタンプを送ってくるヒクマに苦笑しつつ、仕方ないな、と私はブリッジコンプを探しに向かった。
グラウンドをざっと見渡してみたが、それらしい姿は見当たらなかった。
となると屋内か。寮の門限を過ぎても、屋内のトレーニングルームやプールはまだしばらく開いている。トレーナーの監督下であれば、門限後のトレーニングも許可されるからだ。とはいえ、夜遅くまでのスパルタトレーニングが珍しくなかったのは昔の話で、現代は効率を重視したトレーニングが主流だが……。
そちらに足を向けてみるが、トレーニングルームは既に閉まっていた。となるとプールか? 向かってみると、まだ明かりがついている。中を覗くと、がらんとしたプールにひとりだけ、黙々と水を掻くウマ娘の姿があった。
ざぶん、と水から上がって、ぽたぽたと雫を垂らしながら首を振る小柄なウマ娘に、私はゆっくりと歩み寄る。間違いない、ブリッジコンプだ。
「ん? ……あれ、クマっちのトレーナー? なんでここに……」
私に気付いて目をしばたたかせたブリッジコンプに、私はプールの掛け時計を指さす。
時計を見上げたコンプは、「あっ!」と口元を押さえて声を上げた。
「あーっ、しまった門限過ぎてる! うわ、寮長に怒られるぅ!」
慌ててコンプは走りだそうとして――濡れたプールサイドで脚を滑らせる。
「わわっ」
「危ない!」
咄嗟に私は手を伸ばして、その小さな身体を支えた。体当たりされるような格好になったが、なんとか踏ん張って押さえる。
近くで支えてみると、思った以上に小さな身体だった。150センチもないこの身体で、時速60キロ以上のスピードで走るウマ娘という存在の不思議さを、改めて思う。
「……あ、ありが、と」
照れくさそうに頬を染めて、ブリッジコンプは濡れた手で私のシャツを掴んだ。私は苦笑して、それからスマホを取り出すと、栗東寮の寮長の番号に電話を掛けた。
「――ああ、どうも。バイトアルヒクマのトレーナーです。実はブリッジコンプの自主トレに付き合ってあげていたら門限を過ぎてしまいまして……。はい、どうもすみません。しっかり私が送り届けますので、はい、はい、ありがとうございます」
寮長が話の解るウマ娘で助かった。私が電話を切ると、コンプがきょとんと私を見上げている。ぽたぽたと、濡れた栗毛から滴った雫が足下を濡らしていた。
「トレーナー……あたしのこと、庇ってくれるの? なんで?」
「なんでって言われても……時間を忘れるぐらい真剣に努力してるウマ娘が、そのせいで怒られるのは忍びないってだけだよ。まあでも、夜のプールでひとりで自主トレは感心しないな。何かあったときに助けがいないのは危険だよ」
「……う、ごめんなさい」
存外素直に謝るブリッジコンプ。その濡れた髪をぽんぽんと撫でてやると、「な、撫でるなー! 子供扱いするなー!」とぶんぶん手を振り回して怒りだした。うーん、年頃の女の子の扱いは難しい……。
「まあ、とにかく自主トレはここまで。身体拭いて着替えておいで。風邪引くよ」
「……ん」
頷き、ぱたぱたとシャワー室へ駆けていくブリッジコンプ。もうすぐ次の選抜レースだ。前回の選抜レースで結果を出せなかったブリッジコンプが、自分を追い込むのはまあ理解できるが、何事にも限度はある。
――そういえば、彼女は前回の選抜レースでは芝2000メートルに出ていたけれど、次回はどうするのだろう? 何度か走る姿を見た限りでは、彼女の適性は短距離のように思うのだが……。
* * *
制服に着替えたブリッジコンプを連れて、プールを後にする。普段は強気に胸を張っているブリッジコンプだが、今は少しばつが悪そうに俯きがちに歩いていた。
「ヒクマも心配してたよ」
「……ん、クマっちには部屋に戻ったら直接謝っとく」
プールで泳いでいる間、鞄に入れっぱなしにしていたスマホには、ヒクマからのメッセージが大量に残っていたらしい。それへの返事を入力しながら、コンプは頷く。
「次からは、門限ギリギリまで自主トレするなら私に声かけて。見ててあげるぐらいはできるから」
私がそう言うと、コンプは顔を上げて、きょとんと私のことを見た。
「え、なんで? いいの? あたし、トレーナーの担当ウマ娘でもないのに」
「まあ、ヒクマの友達だしね。この前はヒクマの模擬レースに付き合ってくれたし」
「…………」
模擬レースのことを口に出すと、コンプはぎゅっと口を引き結んで俯いた。――先日の模擬レースでも、ブリッジコンプは先頭で逃げたが、途中でスタミナが尽きて最下位に終わっている。1200メートルまでは素晴らしいスピードを出せるが、1600を走りきるスタミナはまだ彼女には身についていないのだ。遅くまでプールで泳いでいたのも、おそらくはその自覚があるからなのだろうが……。
「……あのさ、トレーナー」
「うん?」
「正直に答えてほしいんだけど。――あたしのこと、バカだって思ってる?」
「え?」
「適性もないくせに、マイルも走りきれないくせに、意地張ってめちゃくちゃに先頭走って、それでスタミナ尽きてヘトヘトになって、最後はビリッケツ。……バカみたいだって、思ってるでしょ?」
足を止めて、ぎゅっと拳を握りしめて、その小さな肩を震わせて。
ブリッジコンプは、絞り出すように、そう口にした。
「わかってる! わかってるの! 自分がバカだってことぐらい! でも、でもっ、それしかできないんだもん! あたしはっ、あたしは――」
吐き出すようにそう叫んで、ブリッジコンプはまたぎゅっと唇を引き結ぶ。
「あたしは――最強のウマ娘に、なるって決めて、ここにいるんだから……!」
中央のトレセン学園に入れる時点で、ウマ娘としては充分にエリートだ。
しかしそれはつまり、ここが全国から選ばれたエリートの集合体であるということ。
誰もが大きな夢を抱いて、この学園の門をくぐる。
けれど、その夢を抱き続けることができるのは、選ばれたほんの一握りだけ。
多くのウマ娘は、地元で一番だった自分が、このトレセン学園では何ら特別な存在ではないという現実に打ちのめされ、夢を見失う。
それは、才能と実力が、厳然と勝者と敗者を分ける残酷な世界の宿命だ。
……新人トレーナーの私も、その事実は理解している。
しかし、理解しているだけの私に――いったい、何が言えるというのだろう?
「……ねえ、ブリッジコンプ」
私が呼びかけると、ブリッジコンプはゆっくりと顔を上げた。
「君の目指す『最強のウマ娘』って、どんなウマ娘?」
「――そんなの、三冠ウマ娘に決まってるじゃない!」
身を乗り出して、ブリッジコンプは叫ぶ。――確かにそうだろう。皐月賞、日本ダービー、菊花賞。一生に一度しか挑めないクラシック三冠。それを制覇した三冠ウマ娘とは、紛れもなく『最強』の称号に他ならない。
「あたしは、三冠全部逃げて勝つの! 最初から最後まで、あたしが先頭で! 最初から最後までずっと一番前を走って勝つのが、最強のウマ娘に決まってるんだから!」
三冠全て、逃げ切って勝つ。それを実現したウマ娘は、未だひとりもいない。
確かに、それができれば、『最強』と呼ばれるに相応しいかもしれない。だけど――。
唇を噛みしめて、現実を受け入れるのを必死に拒否するように、ブリッジコンプは私を睨むように見上げる。
彼女自身も、きっとわかっているのだ。
――ブリッジコンプ。彼女の適性は、おそらくスプリンターだと。
距離適性は努力で克服できるという考え方もあるが……それは結局、距離適性を努力で克服できる才能を持ったウマ娘だけに許された権利だろう。
私は、彼女にそう言ってあげるべきだろうか? 努力で適性は克服できると?
それとも、諦めてスプリントを目指せと、そう言ってあげるべきだろうか?
「――――」
いや、たぶん、それはどっちも正しくはない。それなら――。
「……ちょっと、寮に戻る前に、寄り道しようか」
「え?」
「見せたいものがあるんだ」
私の言葉に、ブリッジコンプはきょとんと首を傾げた。
* * *
「ねートレーナー。こんな時間に担当でもないウマ娘をトレーナー室に連れ込むって、見つかったらなんかマズかったりするんじゃないの?」
「誤解を招く言い方はやめようね……」
ブリッジコンプを連れてきた先は、私のトレーナー室である。私はブリッジコンプをパイプ椅子に座らせて、部屋のモニターにとあるレースの映像を映し出した。
――それはある年の、短距離GⅠ・スプリンターズステークス。
ウマ娘ファンの間では、今も伝説のレースとして語り継がれている一戦だった。
「トレーナー? なに見せようっての?」
私はその問いに答えず、映像を再生する。説明抜きですぐにレースが始まる。スタート直後、抜群のダッシュでひとりのウマ娘が先頭に躍り出た。そのまま後ろを2バ身離して、どんどん逃げる。逃げる。逃げる。
コーナーを越えて直線に入ると、そのウマ娘はさらに加速した。後ろは誰も追いつけない。6ハロンの電撃戦だというのに、直線でみるみる差が開く。メイクデビューにGⅠウマ娘が出てきたような、圧倒的な、あまりに圧倒的な実力差。
――最終的についた差は、短距離GⅠではおよそあり得ない6バ身差。言うまでもなく、スプリンターズステークス史上最大バ身差である。
そのあまりにも圧倒的な、他のウマ娘にとっては絶望すら届かないパフォーマンスに、ブリッジコンプはあんぐりと口を開けて見入っていた。
「……え、ちょっと待ってトレーナー。今の、ホントにGⅠ?」
「GⅠ。スプリンターズステークス」
「いやいやいや、あり得ないでしょ! なにあれ! あんなのアリ!?」
呆然と、ブリッジコンプは今見たものが信じられないという顔で首を振る。――良かった。有名なレースだから彼女は知っているかもしれないと思っていたが。このレースを初めて見たときの衝撃は、私も忘れられない。私もリアルタイムでは知らない時代のレースだが、短距離GⅠでこんな圧勝劇があるなんて――と。
「中長距離でどのウマ娘が最強かっていうのは、ウマ娘ファンの間では永遠の論争の種だ。三冠ウマ娘は何人もいる。無敗の三冠ウマ娘だって複数いる。GⅠを一番勝ったウマ娘か。年間全勝のウマ娘か。海外の大レースで勝ったウマ娘か――みんなそれぞれに思い入れがあって、特定の誰かが最強って結論は絶対に出ない。――でも」
私は映像の中で、力強くガッツポーズするそのウマ娘を見やった。
「《短距離最強》は、議論の余地なしだよ。誰もが認めてる。彼女こそ史上最強だって」
「――――」
私の言葉に答えず、ブリッジコンプはぶるりと身震いしながら、その映像に食い入るように見入っていた。
「最強……あれが、最強……」
握りしめたブリッジコンプの拳が、小さく震えていた。
その横顔を見れば、もう私が言うべきことは何も残っていないとわかったから、私はそっと立ち上がってトレーナー室を出た。部屋の中からは、映像を頭から再生し直している音声が聞こえてくる。
廊下の窓の外、夜空を見上げて、私は息を吐く。
――私はひょっとしたら、ひどく残酷なことをしたのかもしれない。
ひょっとしたらブリッジコンプも、努力で距離適性を克服できる才能を持っているのかもしれない。その夢の形を変えさせる権利が、私にあったとは思えない。
だけど、せめて。
彼女が、ウマ娘として悔いのない競走生活を送ってくれるといい。
ヒクマと一緒に走るブリッジコンプの姿を見てきた私にできるのは、そう祈ることだけだった。