モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
バイトアルヒクマ、メイクデビュー完勝。
その歓声の中、ヒクマは――。
「……あれ、おーいクマっち、ちょっと、どこ行くの!」
「ひ、ヒクマちゃん……あれ、ゴールしたの気付いてないんじゃ……」
ゴール板を駆け抜けたヒクマは、なぜかそのままペースを落とすことなく、全速力で第1コーナーを曲がっていってしまう。
『おや? バイトアルヒクマが一コーナーを曲がってどこへ行くんでしょう?』
『まだレース続いてると思ってるんですかね?』
観客がざわめく中、第2コーナーまで来たところでようやく我に返ったようで、ヒクマは戸惑ったように脚を緩める。そしてキョロキョロとあたりを見回して、ゴール板をとっくに通り過ぎたことにようやく気付いたように、慌てて踵を返して戻ってきた。
『バイトアルヒクマ、やっぱりゴールを間違えたようです』
『あっはっは、ゴール前で勘違いしなくて良かったですね』
観客から微笑ましい笑い声があがり、実況と解説も笑っている。ようやく正面スタンド前まで戻ってきたヒクマは、掲示板を見て自分が勝ったことを確かめて、それから恥ずかしそうに客席に向かって手を振った。観客席から温かい拍手。
「まったくもー、なにやってんだか」
「あはは……」
呆れ顔のコンプと苦笑するエチュードの傍らで、私は笑顔で手を叩きながら――そんな、ゴール板を通り過ぎてなおスパートを続けたヒクマの姿に、ひとつ思う。それは前々から、薄々感じていたことだった。
――ひょっとしたらこの子に、1600は短いんじゃないか?
ともあれ、地下バ道にヒクマを迎えに行くことにした。
小坂トレーナーを残し、コンプ、エチュード、ミニキャクタスを連れて地下バ道へ。敗れたウマ娘たちが、ある者は悔しそうに、ある者はサバサバした表情で戻っていく中、光溢れるターフから戻ってきたヒクマは、こちらを見つけると、
「あっ、トレーナーさーんっ!」
だっと勢い良くこちらに駆け寄ってきて――そのまま、私に飛びついてきた。
「おわわわっ」
全速力ではないとはいえ、ウマ娘のタックルをまともに食らって私はよろめく。後ろに立っていたコンプとエチュードが慌てて私の背中を支え、どうにかそのまま押し倒されるのは回避したが、まさかいきなり抱きつかれるとは思わなかった。
「やったよ! わたし勝ったよ! トレーナーさん!」
「あ――ああ。おめでとう、ヒクマ! どうだった? 楽しかった?」
「うんっ! レース楽しい! もっと走りたい!」
「よしよし」
大きな目をキラキラ輝かせるヒクマの頭を、私はまた撫でてやる。ヒクマは気持ちよさそうに目を細めて、尻尾をぶんぶん振っていた。
「……なーんかトレーナー、大型犬にのしかかられてる飼い主みたい」
コンプが呆れ顔で言う。私もちょうどそんな気分である。
まあ、何はともあれ初勝利だ。勝ちっぷりもタイムもデビュー戦としては文句なし。これは本格的に、トリプルティアラを目指すのは現実的な選択肢になってくるだろう。
「クマっち、汗まみれでトレーナーにくっついてたら汗臭いって思われるけどいいの?」
「うえ? あわわ、ごめんなさいトレーナーさん!」
コンプがそう言うと、ヒクマは慌てて私から離れる。気にしなくていいのに。
「……ヒクマちゃん、おめでとう」
「ん、おめでと、クマっち」
「うん、ふたりともありがと! えへへ」
「ま、勝ったからいいけどさあ。ゴールした後どこまで行く気だったの?」
「あ、あれはえと、楽しくてつい……うう」
ヒクマは恥ずかしそうに身を縮こまらせ、その場に和やかな笑いが広がる。
「あ、キャクタスちゃん!」
と、ヒクマはミニキャクタスに気付いて、そちらに駆け寄った。
「えへへー、ぶい!」
「……ぶ、ぶい」
ヒクマのVサインに、ミニキャクタスもおずおずとVサインを返した。――レース前の地下バ道で、このふたりにどんな会話があったのかはわからないけれど、それがヒクマの力になったのであれば良かったと、そう思う。
小坂トレーナーの元に戻ったミニキャクタスと別れ、選手控え室に戻ると、ヒクマは「う~~っ」と身を震わせた。
「トレーナーさん! 次のレースいつ? もっと走りたい!」
「クマっち、さっきまでレースしてもうそれ? 疲れてないの?」
「あはは、ヒクマちゃんらしいなあ……」
苦笑するコンプとエチュードの傍らで、私は頷く。――あの走りを見せられたら、私だってすぐに次のことを考える。予定していたいくつかのプランはあったが――今日のレースで改めて感じたことを、確かめてみたい。
ヒクマの適性は、もっと長い距離なのではないか? 1600を快勝してまだ走り足りずにスパートし続けるヒクマの豊富なスタミナと、府中の上り坂を苦にしないパワーは、より長い距離でこそ輝くのではないだろうか?
ティアラ路線の王道、阪神JFと桜花賞が1600だから、今まで当たり前に1600をヒクマにも走らせてきた。けれど、その次には一気に2400に伸びるオークスが待っている。そして何より、ヒクマの大目標はドバイシーマクラシック。2410メートルのレースだ。そこを目指すなら、国内ではやはり、ジャパンカップか有馬記念――。
「ヒクマ。もっと長い距離を走ってみない?」
「ほえ? え、もっと長く走っていいの?」
「ああ。よし――夏は思い切り鍛えて、9月頭の札幌ジュニアステークスに出よう!」
私がそう言うと、ヒクマよりもエチュードが驚いた顔をした。
「うん、出る出る! あれ、でも札幌ジュニアステークスってどんなレース?」
「……GⅢだよ。芝の1800メートル」
「わ、重賞だ!」
ヒクマも目を丸くする。デビューからいきなり2戦目で重賞というコースは、ヒクマも予想していなかったらしい。
「トレーナーさん、いきなり重賞って、大丈夫なんですか……?」
心配そうにエチュードが問う。私は力強く頷いた。
「今日の勝ちっぷりを見たら、むしろ当たり前の選択だよ。1800でヒクマがどれだけ走れるかも見てみたいし――ここでも勝てるようなら、ちょっと考えもあるんだ」
――ティアラ路線は、桜花賞まで中距離レースの選択肢が極端に少ない。特に阪神JFからチューリップ賞を経由して桜花賞という王道路線を行くと、2400どころか2000メートル以上自体をオークスで初体験するということになりがちだ。オークス前にティアラ路線で2400を走らせようと思えば条件戦ぐらいしか選択肢がなく、結果を出すほどにオークスへ向けた事前準備は難しくなる。そこがオークスの難しさなのだが……。
試してみたい。ヒクマが、どれだけ走れるのかを。
「どうかなヒクマ。GⅢ、挑んでみる?」
「――うん! わたし次もがんばるよ! よーし、次は札幌だー!」
笑顔で高々と拳を突き上げるヒクマ。いつかどこかで壁にぶつかるとしても、怖いもの知らずのこの前向きさを、忘れないでほしいと思う。
「う~~っ、よーし! 学園戻ってトレーニングしてくる!」
「あ、ヒクマ!」
と、いつもの調子で控え室を飛び出していこうとするヒクマ。しかしそれを読んでいたように、ドアの近くに回り込んでいたコンプがその襟首を捕まえる。
「ぐえ。こ、コンプちゃん、なにするの~」
「クマっち、この後何あるか完全に忘れてるでしょ」
ジト目でコンプに睨まれ、「ふえ」とヒクマは首を捻る。私も苦笑した。
「ウイニングライブ」
「あ! そうだった! わたし一着だったから、わわ、センターだ!」
「シャワー浴びて着替えておいで」
「はーい!」
シャワー室の方へ駆けていくヒクマ。それを見送りつつ、私はコンプに耳打ちする。
「……ねえコンプ。ヒクマって、ライブは大丈夫?」
ベテラントレーナーの中には自分でダンスの指導までやる人もいるそうだが、私はそこまで手が回らないし、歌と踊りはそもそも指導できるような能力はないので、そっちの指導は学園のダンストレーナーに任せている。トレセン学園のカリキュラムには歌唱とダンスの授業があるので、そっちで基礎は積んでいるはずだし、練習の合間にダンスレッスンの時間も確保してはいたが……。
私の問いに、コンプはただ黙って腕を組んで目を伏せた。
……大丈夫だろうか?
* * *
メイクデビューのウイニングライブ、その曲目はその名もズバリ「Make debut!」。
私はエチュードとコンプと、3人でサイリウムを持って、ステージのヒクマの勇姿をハラハラしながら見届けた。
肝心のセンターのヒクマはというと――振り付けがやや大ぶりで勢い余り気味になり、ぎこちなくはあったものの、一生懸命さがよく伝わるライブであったと思う。
ただ――ライブの終盤、最後のサビで、センターの3人でステージをぐるっと一周走り回る、その場面で。
『――へぶっ』
ヒクマが盛大に脚を滑らせてすっ転んだときには、思わず私たち3人は天を仰いだ。
けれど、慌てて立ち上がってステージの中央に戻っていったヒクマに。
「がんばれー!」
「しっかりー!」
「名前覚えたぞー! バイトアルヒクマー!」
客席からそんな、温かい歓声が飛び交っていて。
私はコンプとエチュードと、顔を見合わせて笑い合った。
ヒクマの元気いっぱいの歌声が、東京レース場のステージに響き渡っていく。
* * *
「キャクタスちゃん…………ウイニングライブ、見なくて良かったの…………?」
隣接する東京レース場からかすかに聞こえてくるウイニングライブの音楽と歓声を聞きながら、小坂御琴はミニキャクタスにそう訊ねた。てっきり、バイトアルヒクマのウイニングライブは一緒にサイリウムを振るのだと思って用意もしていたのだが。
「…………はい」
キャクタスは短くそう答え、それからトレーニングの手を止めて、小坂を振り返った。
「あの子……レースの前、私に……追いつきたいって、言ったんです。……必ず追いつくから、大きなレースで勝負しよう……って、約束、しました」
俯いて、訥々と、キャクタスは語る。
「……トレーナーさん。私は……本当に、あの子の前を、走れているんですか……?」
――選抜レースでも、模擬レースでも勝ったじゃない。小坂はそう言いかけて、口を噤む。たぶん、そういうことではないのだ。
バイトアルヒクマ。いつも明るく前向きなあの子のおかげで、ミニキャクタスは前よりも少しだけ、自分を表に出すようになったと小坂は思う。阪神JFを見に行った後の新幹線で、キャクタスが「勝ちます」と宣言したのを聞いたとき、小坂は驚いたものだ。この子が自分の中の闘争心を、あんなにはっきり口に出したのは初めてだったから――。
だけど、そんな内に秘めた強い闘争心と同時に、この子はひどく根深いコンプレックスを抱えている。自分とよく似た――誰も自分に期待も注目もしていない、自分は誰かの目標になれるような、そんなキラキラした存在ではない――という。
キャクタスから見れば、誰とでも仲良くなって、いつも前向きに走っているヒクマの方が、ずっとキラキラした存在に見えているのだろう。今日のレースぶりを見れば尚更だ。今日の勝利で、バイトアルヒクマは一躍、このジュニア戦線の注目株になったはずだ。
まだデビューしていないキャクタスが、そんなヒクマの前を走れていると思えない……という気持ちは、痛いほどわかる。
――でも、だからこそ。
「なら…………それを、自分の力で、証明しましょう…………キャクタスちゃん」
「――――」
「キャクタスちゃんの方が強いって…………私は信じていますから…………。その約束を守った上で…………追いつかせはしないって、背中を見せつけてあげましょう…………」
「――――はい」
頷くキャクタスの手を、小坂はぎゅっと握りしめる。
――バイトアルヒクマに勝つ。ふたりの、最初の目標が定まった瞬間だった。