モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
7月30日、日曜日。今日も札幌は快晴の真夏日である。
第5レース、メイクデビュー札幌、芝1800メートル。リボンエチュードはデビュー戦を16人立ての4番人気で迎えていた。
『7番、リボンエチュード、4番人気です』
エチュードは、パドックでジャージを脱ぎ捨てるパフォーマンス自体は、ちゃんとこなしたものの。その後、ファンに自分をアピールすべきところでは、大勢の観衆を前に怖じ気づいたように俯いてしまう。いつものあがり症が出てしまったようだ。
『ちょっと緊張気味でしょうか、元気がないですねえ』
「リボンってことは、リボン家か?」
「そうそう。オークス勝ったリボンスレノディの従姉妹だって」
「へー。でもその割にあんまり名前聞かないなあ」
「リボン家だからってみんながみんなGⅠ級のウマ娘ってわけでもないしなあ。なんか気が弱そうだし、性格がレース向きじゃないんじゃないの?」
周囲の観客からも、口さがないそんな声が聞こえて来る。ブリッジコンプが口を尖らせて文句を言おうとするのを、私はなだめる。
「あーもうエーちゃん、あれで大丈夫かなあ」
「大丈夫だよ、エチュードちゃんもいっぱい練習したんだし!」
「そりゃ、クマっちぐらい何も考えずにいられたらエーちゃんだって楽だろうにね」
「……あれ? 今わたし褒められたの? 貶されたの?」
首を捻るヒクマに苦笑しつつ、私たちはエチュードが引っ込むのに合わせてパドックから芝コースに面した最前列へ移動する。
「ヒクマは次、札幌ジュニアステークスで走るコースだ。エチュードの応援しながらでいいから、自分が走るイメージを掴んでおこう」
「うん!」
ほどなく、パドックから移動してきたウマ娘たちが続々とターフに姿を現す。主流の中距離路線に繋がる1800メートルのデビュー戦ということで、16人立てとヒクマやコンプのときに比べて人数が多い。その中に紛れるようにして現れたエチュードの姿は、この中では取り立てて目立つものではなかった。
でも、それは今だけだ。レースが終わったときには、きっと――。
『4番人気のリボンエチュード。5月に同じリボン家のリボンスレノディがオークスを制しましたが、彼女もティアラ路線を目標としているそうですね』
『名門の新鋭、どんな走りを見せてくれるか期待しましょう』
緊張気味の顔で何度も深呼吸をしているエチュードは、ゲートへ向かって踵を返そうとしたところで最前列の私たちに気づき、こちらへと歩み寄ってきた。
「……トレーナーさん」
「まだ怖い?」
「……はい、少し」
小さく身体を震わせるエチュードに、私は柵越しに手を伸ばして、その頭を軽く撫でた。エチュードは小さく呻いて、顔を赤くして俯く。
「大丈夫。私もヒクマもコンプも、ここで待ってるから。怖くなったら、私たちだけ見て走っておいで」
「――――」
手を放すと、エチュードはゼッケンの前でぎゅっと手を握りしめて。
「あの……トレーナーさん、もし、勝てたら、その」
「うん」
「…………や、やっぱり、終わってからにします」
何か言いかけたのを、首を振ってエチュードは打ち切り、顔を上げた。
「行って、きます」
その表情は、まだ緊張気味ではあったけれど――戦うウマ娘の顔になっていた。
「エチュードちゃん、ふぁいとー!」
「勝っちゃいなさいよ!」
ヒクマとコンプの声援に頷いて、エチュードはゲートへと向かう。
その背中を見送っていると――不意に、私の隣に誰かが来た気配があった。
隣を見やると、中折れ帽子を被ってサングラスを掛けた、小柄な栗毛のウマ娘の姿がある。なぜかこの暑い中にトレンチコートを羽織っていて、露骨に怪しい。コートと帽子の隙間から見えるウェーブの掛かったボブの髪型に見覚えがあった。……まさか。
「……スレノディさん?」
コンプが先に気付いて声をあげる。帽子にサングラスにコートのウマ娘はびくっと身を竦め、それから、
「だ、だだだ、誰のことでしょうかしら? 私はただの通りすがりのウマ娘ですわわわ?」
露骨に狼狽しながら首を振る。――いや、バレバレである。
私たちの反応に、困ったようにそのウマ娘――リボンスレノディは、サングラスをずらして帽子の下の素顔を晒した。
「……どうしてバレてしまいましたの?」
「いや、バレバレですって」
呆れて肩を竦めるコンプ。ヒクマは今気付いたのか、「あ、スレノディさんだ!」と目を丸くしていた。
リボンスレノディは秋へ向けて合宿中と聞いていたが、わざわざ合宿を抜け出して応援に来たらしい。それもそうか、と思う。同じリボン家の後輩のデビュー戦なのだ。
「すみません、エチュードちゃんにはこの通りすがりのウマ娘が私だということは内緒にしてくださいまし……。私が来ていると知ったら、エチュードちゃんに余計な気を使わせてしまいそうですから」
「いや、ここにいたらどうせ気付かれると思うけど」
「ええ? そんな、完璧な変装をしてきたはずですのに……」
どこがだ。この暑い中、トレンチコートを着ているのは怪しすぎる。
「プレーンさんは『変装っていったらやっぱりこうでしょ!』と仰いましたのに……。でも、この季節にコートはやっぱり暑いですわね。困りますわ、プレーンさんったら」
コートを脱いで腕に掛け、スレノディはぱたぱたと首元を手で仰ぐ。どうやらテイクオフプレーンの入れ知恵らしいが、真に受ける方も真に受ける方では……。
と、そんな馬鹿な話をしている間にファンファーレが鳴り響く。私たちはゲートの方へと視線を向けた。出走ウマ娘が次々とゲートに入っていく。
『全員ゲートイン、体勢完了。メイクデビュー札幌、芝1800――スタートです!』
ガコン、とゲートの開く音とともに、リボンエチュードがターフへ飛び出した――。
* * *
一周が短い札幌レース場では、1800のレースでもコースを一周する。
緊張からか若干出遅れたエチュードは、そのまま第1コーナーで最後方に控えた。
それはいい。ただでさえ16人立てで、選抜レースや模擬レースよりごちゃつく展開になるところだ。他のウマ娘を気にしすぎるエチュードは、下手に好スタートを切ってバ群に包まれてしまうより、少し出遅れて最後方をのんびり走る方がいい。
ただ――芝の関係でスローペースになりやすいと言われる札幌だというのに、レースは予想外の展開になった。
『おーっと先頭のふたりがどんどん飛ばしていきます! あっという間に5バ身、7バ身、大逃げだ! 先行集団もそれを追いかけていきます! 序盤から縦長の展開だ!』
真っ先に飛び出したふたりのウマ娘が、そのまま玉砕覚悟としか思えない破滅的な大逃げをかけたのである。どうやら競り合って互いに掛かってしまったらしい。その上、その逃げっぷりを見た先行集団まで掛かってしまい、メイクデビューとは思えないとんでもないハイペースのレースになった。
2コーナーを曲がって向こう正面。800メートルの通過タイムが――。
『800を通過! タイムは47秒、切ったかもしれません! これはとんでもないハイペースだ! 先頭からしんがりまで何バ身離れているのかとてもわかりません!』
「メチャクチャだ……!」
そのまま先頭は1000メートルを58秒台で通過していく。GⅠでも飛ばしすぎと言われるペースである。メイクデビューで出すラップではない。
そんな超縦長の展開で、最後方を走るエチュードと先頭の差はもうバ身ではなく、10メートル単位で計った方がいいほど離れている。いくらなんでもこのまま先頭が逃げ切ることはないにしても、この差はあまりにも……。
「うーわー、いくらあたしでもあそこまで破滅的な逃げはやらないって……」
「トレーナーさん、エチュードちゃん大丈夫?」
ヒクマが心配そうに私を見上げる。
……いや、大丈夫だ。私は最後方を走るエチュードの姿に目を細める。
落ち着いている。先行集団の暴走には我関せず、オータムマウンテンとの併走で身体に刻み込んだラップでしっかり走っている。集団が縦長になりすぎて、もうエチュードにとっては掛かるどころの状況ではないのだ。前が全員潰れてくれれば、これなら――。
『さあ3コーナー、残り600! だんだん隊列が詰まってきたが、しかし札幌の直線は短いぞ、後ろの娘たちは間に合うのか?』
やはり、逃げたふたりが揃って残り600で明らかに脚色が鈍った。だが――それを追いかけてしまった先行集団もやはり脚が鈍り、暴走についていかなかった後方集団が徐々に追い上げてきて、みるみる隊列が詰まっていく。
残り400。エチュードはまだ最後方。中団で脚を残していたウマ娘が、総崩れになった先行集団を割って先頭に躍り出る。
『さあ残り300を切って直線に入った! 逃げたふたりは完全にバ群に沈んだ! 抜け出すのは誰だ!』
「行け、エチュード!」
「エーちゃん、いっけええええ!」
「エチュードちゃん!」
「……エチュードちゃあああん!」
私たちが声をあげた瞬間――最後方のエチュードが、大外からぐっと加速する。
ベリーショートの栗毛が、観客席の目の前を一気に駆け抜けていく。
『外からリボンエチュード! 最後方から一気にリボンエチュードが上がってくる!』
総崩れになった先行集団を一気にかわして、エチュードはまっすぐ先頭へ――。
『――ゴールッ!』
大歓声とともに、エチュードがゴール板を駆け抜けたとき。
――あと1バ身、中団から差したウマ娘の背中が、まだ前を走っていた。
* * *
1着と1バ身差の3着。それが、リボンエチュードのデビュー戦の結果だった。
ゴールして、ゆっくりとペースを落として立ち止まったエチュードは、掲示板の自分の番号を確かめて、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
それは、届かなかった悔しさなのか、最後方から3着まで届いた驚きなのか――。
勝ったウマ娘がガッツポーズする横で、エチュードはぼんやりと視線を彷徨わせる。そして――私たちに気付いて、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。スレノディが慌てて私の背後に隠れる。何をしているのだか。
「エチュード」
「……トレーナー、さん……」
息を切らせたまま私を見上げたエチュードは、くしゃりと顔を歪めた。
「…………ごめん、なさい…………負け、ちゃい、ました…………」
ぎゅっと目を瞑って俯き、絞り出すようにそう口にしたエチュードに。
私が、何か声を掛けるよりも、先に。
「リボンエチュード!」
「最後の末脚、すごかったぞー!」
「かっこよかったー!」
「次がんばれ! 応援するぞー!」
私たちの周囲の観客から、そんな声があがっていた。
はっと顔を上げたエチュードに、私たちの周囲の観客から自然と拍手が湧き上がる。
私とヒクマ、コンプ、それに背後に隠れたスレノディも、皆で手を叩く。
その拍手に包まれて――エチュードはまた、くしゃりと顔を歪ませて。
「……あ、ありがとう、ござい、ます……っ」
ぺこりと、その場で大きく頭を下げた。
上がり最速。札幌の短い直線で、最後方から一気に3番手までごぼう抜き。
負けはしたが、あのメチャクチャなレース展開に惑わされずに自分の走りをして、結果を出した。何の文句があるだろう。
「エチュード。――今までで一番の走りだったよ。お疲れ様」
私は柵から手を伸ばし、エチュードの汗の滲んだ髪をくしゃくしゃと撫でる。
エチュードは泣き笑いのような顔で、ただされるがままにしていた。
――そのあと、隠れていたスレノディが見つかって、他人の空似と言い張るスレノディと、苦笑するエチュードとの間でちょっとしたドタバタがあったのは、まあ、語るまでもない一場面である。
* * *
レース後。控え室のテレビで、新潟第5レースの中継が流れていた。
『さあ残り100メートル、並んだ、並んだ、内か外か、いや内からもうひとり来た、もうひとり来た、2番のミニキャクタス! ミニキャクタスだ!』
「キャクタスちゃん、いっけー!」
『かわした、かわした、そのままゴールッ! ミニキャクタスです! 最後、内から抜け出した5番人気のミニキャクタスがまとめて差し切りました!』
控え室で固唾を飲んでそのレースを見守っていた3人の歓声が、ぱっと弾ける。
直線で抜け出して競り合うふたりを、最後の100メートルで3番手集団の陰からすっと抜け出してクビ差で差し切り勝ち。――模擬レースでヒクマが差し切られたときを思い出すようなレースで、ミニキャクタスはデビュー戦を勝利で飾った。
テレビの中で、控えめに手を振るミニキャクタス。その姿に、私は目を眇める。
決して圧倒的な内容ではない。僅差の、タイム的にも地味な勝利だ。――彼女の実力は、こんなものではないはずだが。
「トレーナーさん、キャクタスちゃんやったね!」
「……ああ」
勝ちは勝ちだ。ミニキャクタスも、これからジュニアの重賞戦線に出てくるだろう。ヒクマと、ジュニアのうちからぶつかることになるかもしれない。
……それでもやはり、あの走りが、彼女の力ではないはずだ。
どうしても、そんな違和感が、頭から拭えなかった。
* * *
そして、全てのレースが終わり、ウイニングライブ。
3着だったエチュードは、ステージに上がる権利を手に入れている。
「……うう、わ、私、似合わないよ、この衣裳……」
「そんなことないない! エチュードちゃん似合ってるよ!」
「エーちゃん、観客はニンジンだと思って!」
「わ、そんなにたくさんニンジンあったら食べきれないよ」
ライブ衣裳に着替えて、恥ずかしそうに身を縮こまらせるエチュード。レース本番よりも、むしろエチュードにはこっちの方が難題だったかもしれない。
しかし、トゥインクル・シリーズで走り続けるなら、ウイニングライブから逃げるわけにはいかないのだ。
「エチュード。最前列にいるから、私たちのことだけ見て踊ればいいよ」
「……トレーナーさん」
「大丈夫。エチュードならやれる」
エチュードの手を握ってそう言うと、エチュードはかーっと顔を赤くして俯き、
「――は、はいっ」
ぎゅっと唇を引き結んで、顔を上げた。私は頷き、「行っておいで」と送り出す。エチュードは頷き、小走りにステージに向かっていった。
それを見送りながら――そういえば、レース前にエチュードが「レースが終わったら」と言っていたのはなんだったのだろう? と少し首を捻っていると、コンプが何かジト目で私を見上げているのに気付いた。
「……なに? コンプ」
「べっつにー。トレーナーが無自覚だとエーちゃん大変そうだって思っただけ」
後頭部で腕を組んで視線を逸らすコンプに、私は首を傾げるしかなかった。
――その日のウイニングライブは、ぎこちなく、たどたどしかったけれど。
それでもエチュードは、あがって固まってしまうこともなく、ちゃんとステージを踊りきった。
私たちは最前列でサイリウムを振りながら、それを見届けて。
札幌の熱いデビュー戦は、そうして終わりを迎えたのだった。
バイトアルヒクマ 1戦1勝 メイクデビュー東京(芝・1600) 1着
ブリッジコンプ 1戦0勝 メイクデビュー札幌(芝・1200) 2着
リボンエチュード 1戦0勝 メイクデビュー札幌(芝・1800) 3着
これはまだ、始まりの一歩だ。