モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ-   作:浅木原忍

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第32話 リボンエチュードの憂鬱

 未勝利戦での敗戦の翌日、日曜日。

 午前中のうちに札幌から東京へ戻ってきたリボンエチュードは、バイトアルヒクマ、ブリッジコンプとともに学園の前でトレーナーの車から下りた。

 

「それじゃあ、各自お昼食べて少し休んで、3時からトレーニングね。レース開けのコンプとエチュードは軽めに。ヒクマは昨日休んだぶんみっちりやるよ。時間になったらジムに集合」

「はーい」

「らじゃー」

「…………」

「エチュード?」

「あ、はっ、はい! 3時集合……です、ね」

 

 ぼんやりしていたエチュードは、トレーナーの言葉で我に返った。

 

「大丈夫? レースで疲れてるなら今日は休みにする?」

「い……いえ、大丈夫、です」

 

 俯いてエチュードは首を横に振る。車の窓からそれを見上げたトレーナーは、少し心配そうに眉を寄せていた。その視線に顔が熱くなって、エチュードは視線を逸らす。

 ああ……昨日から何やってるんだろう、私。あれはその……そういうんじゃなくて、ただトレーナーさんは、私を慰めようとしてくれただけで……。私はあくまでトレーナーさんの担当ウマ娘、トレーナーさんはトレーナーさんなのに……。

 

「無理はしないように。何か心配事があったらすぐ言って。じゃあ、また後で」

 

 トレーナーの車が走り去る。手を振っていたヒクマが、エチュードの方を振り返った。

 

「エチュードちゃん、どうしたの? 昨日からずっとぼんやりしてるけど……」

「え? あ、あの、えと……」

 

 ヒクマのぱっちりした瞳に覗きこまれて、エチュードはたじろぐ。

 ――そんなこと言われても、ヒクマちゃんになんて答えれば。

 

「クマっち、クマっち」

 

 と、コンプがヒクマの袖を引くと、振り向いたヒクマに何か耳打ちした。

 

「ほえ? でもコンプちゃん」

「いーから。じゃエーちゃん、あたしたち先に寮戻ってるね」

「コンプちゃん? ほええ、エチュードちゃん、またあとでねー」

「あ、えと、うん」

 

 コンプに背中を押されて、ヒクマは寮へと戻っていく。ぽかんとしながらそれを見送り――門前にひとり残されたエチュードは、じりじりと照りつける東京の青空を見上げた。遠くからトレーニング中のウマ娘たちの声がしている。それを掻き消すみたいに鳴き続ける、蝉の声がやけにうるさい。

 ……どうしたらいいんだろう、私。

 ニンジンみたいな形の雲に向かって呟いてみても、答えてくれる声はない。

 

 

       * * *

 

 

「あ、エチュードちゃん、おかー。遠征おつかれ」

「……ただいま、マルシュちゃん」

 

 寮の自室に戻ると、椅子に座って爪にマニキュアを塗っていたルームメイトのマルシュアスが顔を上げて笑顔を向けてきた。ねぎらうだけで、昨日の未勝利戦の結果には触れずにいてくれるのが、今のエチュードにとってはありがたい。

 レースとかトレーニングの話題は、寮の部屋には持ち込まない――というのが、この栗東寮に入ってマルシュアスとルームメイトになったその日に、彼女から提案されて交わした約束だった。マルシュアスいわく、

 

『オトナはオンとオフをしっかり区別するの。トレーニングもレースも真剣にやって、プライベートはプライベートで全力で楽しむのがオトナのウマ娘なんだって! ランデブーさんが言ってた!』

 

 ――ということで、寮でのマルシュアスはウマチューブで音楽を聴きながら流行のファッションやカフェをチェックしたり、ウマスタ映えするアイテムを探したりしている。高等部のネレイドランデブー先輩のような、オトナっぽいウマ娘になる。マルシュアスの行動原理は一にも二にもまずそれなのである。

 そういう考え方から――なのかどうかはよくわからないが、マルシュアスは同室のエチュードに対してもあまり踏み込んでこない。他人に対する距離感がやたら近いヒクマに普段から振り回されているので(もちろんそういうヒクマが好きだから一緒にいるのだが)、寮に戻ると適度な距離を置いてくれるマルシュアスがいてくれるのは、エチュードにとってもありがたいことだった。

 ともかく。荷物を置いて、エチュードはそのままベッドにうつ伏せに倒れこんだ。

 枕に顔を埋めて、溜息を枕で押し殺す。

 ――昨日の未勝利戦。勝ちたかった。負けたくなかった。ちゃんと結果を出して、トレーナーの期待に応えたかった。

 だけど、結果は5着。不利があったと言われても、結果が全てだ。トレーナーに慰められてしまうと、余計に自分が情けなかった。親友ふたりが勝ち上がって、自分ひとりだけが未勝利戦に居残りになってしまったのだから、尚更だ。

 泣くつもりなんてなかったのに、気が付いたら涙がこぼれてしまっていて。

 ――それで、そのあと。

 

「……うううう」

 

 トレーナーに抱きしめられてしまった。

 レースを走り終えたばかりで汗まみれの身体で、その腕に包みこまれてしまった。

 ――思い出しただけで、呻き声をあげてじたばたと暴れたくなってしまう。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。

 いきなりあんな風にされたら――どうしたらいいのか、わからなくなってしまう。

 そんな意味じゃないってことぐらい、頭ではわかっているのに。

 背中に回されたトレーナーの腕の感触と、その身体の匂いとが蘇って。

 叫びながらベッドの上を転がり回りたいけれど、さすがにルームメイトがいる前でそんなことをできるわけもないので、エチュードはただ枕を強く握りしめる。

 わかってる。トレーナーにとって自分はただの担当ウマ娘のひとり。しかも押しかけるみたいにして無理に担当になってもらったのに、3人の中でひとりだけ結果を出せないでいる困ったウマ娘でしかない。トレーナーの一番の期待はヒクマに向いていて、自分はそのオマケなんだってわかっているのに――。

 それなのに。それだからこそ。勝ちたかったのに。

 勝って、私だって、トレーナーさんの期待以上のものを見せたかったのに――。

 

「ねーねー、エチュードちゃん」

 

 と、マルシュアスの声がして、エチュードは枕から顔を上げる。

 

「この色、どうかな?」

 

 マルシュアスは両手を胸の前で広げて、マニキュアを塗った爪をこちらに見せる。濃いめの紫。……正直に言って、ちょっとケバケバしいとエチュードは思った。

 

「……ちょっと、色、濃すぎるんじゃないかな……」

「うーん、やっぱりそう? オトナっぽく見えるかなあって思ったんだけど。ラメとか散らしたらいい感じにならないかなあ」

 

 紫に染まった自分の爪を見下ろして、マルシュアスは首を傾げる。

 それから、手をひらひらさせながらエチュードへと向き直った。

 

「それで、エチュードちゃん、どしたの? なにか悩み事ならこれ乾くまで聞くよ? あ、レースで勝つ方法とかそれ以外でなら」

 

 ごく自然な調子で、マルシュアスはそう訊ねてくる。エチュードは目をしばたたかせて、ベッドの上に座り込んで枕をぎゅっと抱きしめた。

 ――確かに、ヒクマちゃんやコンプちゃんにはとてもじゃないけど相談できないし……。

 このモヤモヤした気持ちをどこかで吐き出さないと、この後のトレーニングでもトレーナーと顔を合わせられる自信がない。溜息を吐き出して、エチュードは口を開いた。

 

「……ええと、あのね……」

「うん」

「昨日のレース、負けちゃったんだけど……。私、悔しくて、そんなつもりなかったのに、泣いちゃって……そしたら、トレーナーさんに、その」

「うん」

「……抱きしめ、られちゃって」

「――――」

「それから、トレーナーさんの顔、今日までずっと、まともに見られなく、て」

 

 抱きしめた枕に顔を埋めて、そう吐き出したエチュードに。

 

「――――」

「……マルシュちゃん?」

 

 マルシュアスの反応がなく、エチュードが枕から顔を上げてそちらを伺うと。

 

「……お」

「お?」

「オトナだああああっ!」

 

 突然、マルシュアスは椅子の上に正座して、びしっと背筋を伸ばした。

 

「エチュードちゃん、いや、エチュード先輩! その恋バナ、もっと詳しく聞かせていただけますでしょうか! トレーナーさんへの想いを自覚したのはいつ頃から!? その瞬間に恋が芽生えちゃった系!? 今後の告白のご予定は!?」

「えええっ!? な、なんでいきなり先輩? 同い年だよ……? っていうか、違、こっ、恋バナ、とか、そういうんじゃ、なくて、私、その、」

「そのシチュエーション、ウマ娘ものの少女漫画でいっぱい見たよ! ほら、『疾風のリューン』でリューンがスランプに陥ったのもトレーナーへの恋心を自覚できてなかったからだし! 引退レースの有馬記念優勝したリューンにトレーナーがプロポーズするシーン良かったよね! ランデブーさんもあのシーン好きだって言ってた!」

「ま、漫画じゃないよ……。私、そんな、そういうんじゃ、」

「エチュードちゃんのトレーナーさんってあの人だよね? そっかぁ、エチュードちゃんはとっくにもうオトナの階段を上り始めてたんだね……。あたしも早くオトナにならなきゃ! エチュード先輩! どうぞお幸せに!」

「だ、だから違うってばぁぁぁぁ……」

 

 エチュードの悲鳴が、栗東寮の片隅にこだまして消えていく。

 

 

       * * *

 

 

 午後3時。集合場所のジムに3人が集まっても、肝心のトレーナーの姿がなかった。

 

「あっちから言っといて、もう時間過ぎてるじゃない。既読つかないし、トレーナー、なにやってんだか」

「わたし呼んでこよっか?」

 

 呆れ顔のコンプに、ヒクマが手を挙げる。「そうね、」とコンプは言いかけて、それから首を振って、エチュードに向き直った。

 

「エーちゃん行ってきてよ。トレーナー室で昼寝でもしてるんでしょーから、どうせ」

「え、わ、私?」

「クマっちは来週に向けてみっちりやるんでしょ? トレーナー来るまで自主トレ、自主トレ。あたしが見ててあげるから」

「ほえ? う、うん、わかった」

 

 コンプがエアロバイクの方へとヒクマの背中を押しながら、エチュードを振り向いてウインクしてみせる。いや、そんな風に気を遣われても……とエチュードが抗議する間もなく、自分がトレーナーを迎えに行かねばならない流れになってしまっている。

 どうしよう、と助けを求めても、コンプはもうヒクマの背中を叩いて促していて、こちらを見ていない。見ていても助けてはくれないだろう。……行くしかないようだ。

 仕方なく、エチュードはジムを出てトレーナー室へと向かう。廊下を歩きながら、寮でマルシュアスに言われたことが頭をぐるぐるしていた。

 ――この気持ちは、トレーナーへの恋愛感情なのだろうか?

 自分でもよくわからない。……わからないけれど。

 ……抱きしめられたときとか、頭を撫でられたときとか。

 胸がきゅっと苦しくなって――自分で自分のことが、よくわからなくなってしまう。

 この気持ちがもし、マルシュアスの言うように、恋というものだとしたら――。

 

 たぶん、それは叶わない気持ちだ。

 ――だって、トレーナーさんは、ヒクマちゃんのことを一番に見ているんだから。

 トレーナーさんに直接スカウトされたヒクマと、押しかけるみたいにして担当になってもらった自分とでは、スタート地点が決定的に違っている。

 ――私なんかが、トレーナーさんを好きになったって……。

 その気持ちが、叶うなんて、あり得ない。

 

 名門、リボン家の落ちこぼれ。

 人見知りであがり症で、内気で気弱で、後ろ向きな自分。

 キラキラした穢れのない瞳で、どこまでも走ることを楽しんでいるあの子の明るさに、励まされることもあるけれど――同時に、どうしようもなく眩しく思うこともある。

 ――私は、ヒクマちゃんみたいには、なれないのに。

 あんな風に、真っ直ぐな瞳で前だけを見続けることなんて、できないのに。

 そんな自分が。なにひとつ彼女に勝てるところのない自分が――。

 トレーナーだって、そんな自分に、そこまでの期待をかけてなんて……。

 

 嫌なことばかり考えているうちに、トレーナー室の前まで来ていた。

 このまま踵を返して立ち去りたい衝動に駆られたけれど、それに反して手はドアに伸びている。おそるおそる、ドアに手を掛ける。鍵はかかっていない。

 

「……トレーナー、さん?」

 

 そっと、部屋の中を覗きこむと――。

 ノートパソコンを開いた机に突っ伏して、寝息を立てるトレーナーの姿があった。

 コンプの言う通り、眠ってしまっていたらしい。足音を忍ばせて、エチュードはそっとトレーナー室に足を踏み入れる。トレーナーのそばに歩み寄って、どうしよう、とりあえず揺り起こしてあげるべきだろうか……と、考えていたところで。

 

「んん……」

 

 トレーナーが身じろぎして、その腕がマウスに当たり、スリープモードになっていたパソコンの画面が立ち上がった。

 

 ――画面に映っていたのは。

 途中で止められた、昨日のエチュードの未勝利戦の映像だった。

 

「ん……あ、あれ? うわ、しまった、寝てた!」

 

 と、突然がばっとトレーナーが身を起こし、エチュードは驚いて後じさる。目を擦って時計を見て、「うわ、3時過ぎてる!」と慌てて立ち上がったトレーナーは、次の瞬間、そこにエチュードがいることに気付いて目をしばたたかせた。

 

「エチュード?」

 

 きょとんと瞬きするトレーナーの頬には。

 下敷きにしていた紙の文字が写りこんで、変な模様になっている。

 ――それを見て、思わずエチュードは小さく吹き出していた。

 

「トレーナーさん。……あの、顔」

「え? うわ……あっちゃー。ごめんエチュード、迎えに来てくれたんだよね? ごめん、顔洗ったらすぐ行くから、それまで各自で始めてて」

「……はい、わかりました」

 

 トレーナーは慌てた様子でばたばたと机を片付け始める。

 エチュードは、机に散らばった資料をちらりと見やった。

 全部、昨日のレースの資料だった。来週のヒクマの札幌ジュニアSのものではなく。

 ――そういえばトレーナーさん、帰りの飛行機でも寝ていたっけ……。

 ひょっとして、昨日のレース後から……ホテルでもずっと、昨日のレースを洗い直していてくれたのだろうか? 来週のヒクマの初重賞よりも、自分の未勝利戦の敗因分析の方を優先して……飛行機で睡眠時間を確保して、まだ足りずに寝落ちするぐらいに?

 

「トレーナー、さん」

 

 思わずエチュードは、部屋を出るところだったトレーナーを呼び止める。

 

「なに?」

 

 顔に文字を写したままで振り返ったトレーナーを見つめて、エチュードは。

 ――何かたくさん言いたいことがあったはずなのに、結局何も言えなくなってしまった。

 だから、たった一言だけ。

 

「……寝癖、ついてますよ」

 

 全然関係ない、そんなことしか言えなかった。

 

 

 

 ――トレーナーさん。

 勝ちたい。次は、次こそは、絶対に、勝ちたいです。

 そうしたら。ちゃんと勝てたら。未勝利戦だけじゃなく、その先も――もし、勝ち続けることができたら。

 リボン家のウマ娘として、胸を張ることができるぐらいの結果を、出せたら。

 そのときは――。

 

 そのときが来るまでは。

 今のこの気持ちは、胸にそっとしまっておこう。

 誇れる自分になりたい。胸を張って、自分の気持ちに素直になれるようになりたい。

 目を瞑って、ぎゅっと手を握りしめて。エチュードはただ、そう願った。

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