モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
9月30日、土曜日、阪神レース場。
翌日に中山でのスプリンターズステークスを控えたこの日、阪神のメインレースはダートの中距離GⅢ、シリウスステークスだ。と言っても、私たちの出番は当然そこではない。
第9レース、ジュニア級オープン特別、ききょうステークス、芝1400メートル。11月の京王杯ジュニアステークスへ向けた、ブリッジコンプの第3戦である。
「ねえトレーナー。スヴェルの奴も今日なのよね?」
「デュオスヴェル? うん、そうだね。中山の第9レース、芙蓉ステークスだよ。こっちの10分前の発走だから、コンプが応援するのは難しいかな」
「別にアホスヴェルのこと応援する義理なんかないから! あいつが勝ってあたしが負けるわけにはいかないってだけ! またバカにされちゃたまんないもん」
ふん、とそっぽを向いてコンプは口を尖らせる。なんだかんだ言って、デュオスヴェルが芙蓉ステークスを勝つとは思っているわけだ。口喧嘩ばかりしているけれど、お互い実力を認め合ってこそのことなのだと改めて思う。
だからこそ、コンプが短距離路線に向かったとき、デュオスヴェルはだいぶ不満げにしていたのだろう。クラシック三冠でコンプと鎬を削るつもりでいたのなら、梯子を外された気分になるのも無理はない。
「そうだね。デュオスヴェルも認めるしかないような結果を出して、コンプが最強だって証明してあげよう!」
「別にあいつに認められる筋合いなんかないっての!」
素直じゃないな、全く。私が苦笑していると、「それに」とコンプは胸に拳を当てた。
「あの三つ編み眼鏡にも、負けるわけにいかないもん」
――ユイイツムニ。デビュー戦でコンプに勝利したあのウマ娘は、先週の中山のオープン特別、カンナステークスを楽勝で逃げ切っていた。レース後には正式に京王杯ジュニアステークスへの出走を表明している。
目下のコンプの目標は、ユイイツムニへのリベンジだ。そのためにも、まずはこのききょうステークスで、今までより200メートル長い1400メートルを経験しておくことは大事になってくる。
たかが200メートル、されど200メートル。1400を想定したトレーニングはしてきたが、トレーニングと本番は全くの別物だ。今のコンプが、レースでこの距離を走りきれるのか。今日は大事なその試金石になる。やや気がかりなのは、昨日の雨でバ場が稍重になっていることだが……。
「よし、コンプ。今日の作戦は?」
「もちろんスタートダッシュ決めてそのまま逃げ切り!」
「そうだね。でも、今日は今までより200メートル長い。だから」
「コーナーで息入れて、最後の坂まで脚を残せっていうんでしょ? わかってるから! 序盤は飛ばしてコーナーで息入れて直線スパート、練習してきたから大丈夫だって!」
「よろしい。ゴールでヒクマとエチュードと待ってるよ」
「まっかせなさい!」
笑顔でブリッジコンプはパドックへと駈けだしていく。その背中を見送りながら、私はぎゅっと拳を握りしめた。
* * *
パドックでのパフォーマンスが終わり、本バ場入場。
「コンプちゃーん、ふぁいとー!」
ヒクマとエチュードと、例によって最前列から見守る。今日のコンプは2番人気。そもそも短距離レースは逃げ・先行有利なだけに、前走の逃げ切り快勝はなかなか高く評価してもらえたようである。
今回のききょうステークスは8人立ての少人数レースだ。全員がターフに姿を現したところで、ターフビジョンが他レース場のレースを流し始める。
中山第9レース、ジュニア級オープン特別、芙蓉ステークス。
阪神の芝1400は向こう正面からのスタートなので、コンプのいる場所からはターフビジョンは見えない。映像の中、ゲートが開いて――やや出遅れた鹿毛の三つ編みが、強引にバ群を突き破るように無理矢理前に出て行く。
デュオスヴェル。相変わらずスタートが下手だが、押して押してで強引に先頭に立ったスヴェルは、そのまま明らかに飛ばしすぎのペースで後続を引き離した。先行勢はあのペースでは早晩バテるだろうと見越してか、無理に追おうとはしない。
だが、その後の1000メートルの通過タイムは、思ったほど早くはなかった。後続を充分に突き放した時点で、スヴェルはややペースを落としていたのだ。意識的な調整か、はたまた後ろを突き放して安心したのか。
いずれにせよ、3コーナーにかかって、後続がじわじわと差を詰めてくる。4コーナーで捕らえられそうになったところで、しかしスヴェルもスパートをかける。
結果、抜かせそうで抜かせない、粘りの走りでスヴェルは中山の短い直線を駆け抜けた。最後は坂で追いかけてきた先行組が力尽き、外から飛んできた差し組を振り切ってゴール。
終わってみれば、先頭で悠々と逃げて道中で息を入れ、最後に脚を残して粘り勝ちという逃げウマ娘の理想的なレース運びでの快勝である。どこまで狙ってやったのかは定かではないが、大したものだ。
「おー、スヴェルちゃんすごーい」
「やっぱり強いね……。ヒクマちゃん、次ひょっとしたら戦うんじゃないかな」
「ふえ? 東スポ杯?」
「うん、それかホープフルステークス」
「あ、そっか、スヴェルちゃん三冠路線だもんね! よーし負けないぞ!」
ヒクマとエチュードがそんなことを言い合う中――ビジョンの映像が切り替わり、引き締まった表情でゲートに向かおうとするコンプの姿が映し出され。
芦毛のウマ娘が、コンプの背中に声を掛けるのが見えた。
* * *
――ふん、ま、デカい口きくんだから、そのぐらいやってくれなきゃ困るんですけど。
場内に流れた音声で、どうやらデュオスヴェルが勝ったらしいとわかった。コンプは息を吐いてゲートに向き直る。別に応援していたわけじゃない。負けたらバカにし返してやろうと思ってたのにアテが外れただけだ。まあいいや。これであたしが負けたらまたあいつにバカにされる。そんなのは御免だ。ここはきっちり勝って、京王杯ジュニアであの三つ編み眼鏡に――。
「お~い、そこの栗毛の子。ブリッジコンプだよね?」
突然聞き覚えのない声を背後からかけられ、コンプは訝しんで振り返った。
そこには、芦毛を後ろで短いふたつのテールにした、日焼けした肌のウマ娘がいた。ゼッケン番号は5番。同じレースの出走ウマ娘だが、名前はなんだっけ。相手の名前なんていちいち覚えていない。
「……どちらさま? 学園のどこかで会ったっけ?」
「やー、すれ違うぐらいはしてると思うけど、実質初対面じゃない? あたし、チョコチョコ。よろしくぅ」
ぴっと指を顔の前で2本立てて、チョコチョコはにへらと笑う。
やっぱり覚えのない名前だった。コンプは首を捻る。
「あたしの自己紹介は必要ないみたいだけど、なに?」
「ふふ、いいねえその傲岸不遜な態度。ムニっちに宣戦布告したってゆーから、どんな子かと思ってたけど――こりゃまた」
そこで言葉を切って――チョコチョコのその締まりのない笑みが、急に変貌した。
「叩き潰し甲斐がありそうだよ」
「――――ッ」
ぞくり、とコンプは背筋に鳥肌が立つのを感じて、それを悟られまいと、きっと強くチョコチョコを睨み付けた。
「……ひょっとしてあんた、あの三つ編み眼鏡の仲間?」
「んーまあ、そんなトコかなあ。同じトレーナーの担当だしねえ。まあでもだからって、別にムニっちの差し金で嫌がらせに来たとかそんなんじゃないからさあ、安心してよ」
「そんな姑息な奴だったら、こっちから宣戦布告取り下げるわ」
「はは、そりゃそうかあ。ま、てなわけでこれはあたしからの宣戦布告」
と、チョコチョコは親指を立てて、自分の胸を指差す。
「ムニっちに宣戦布告するなら、まずあたしを倒してからにしてもらおっか」
「――なにそれ。ラスボス前の中ボス?」
「あはは、違う違う。あたしは、ラスボスの寝首を掻こうと虎視眈々と狙ってる裏ボス。――ムニっちを倒すのは、あんたじゃなくあたしだって話さあ」
けらけらと笑い――「じゃーねー」とチョコチョコは手を振ってゲートへと向かう。
その背中を見送って、コンプは詰めていた息を吐き出すと、小さく呟いた。
「……なに? あいつ」
* * *
不可解な宣戦布告を受けようが受けまいが、レースは始まる。
『体勢完了。ジュニア級オープン、ききょうステークス――スタートしました!』
ゲートが開くと同時、ブリッジコンプは勢い良く飛び出した。よし、今日もスタート大成功。あっという間に視界から他のウマ娘が消え、コンプは悠々と先頭に立つ。
稍重というバ場発表で足下が若干柔らかい気がするが、気のせいかもしれない。特に気にするほどのことじゃないない、とコンプは前を向いて向こう正面の直線を駆け抜けていく。身を切る風が気持ちいい。よおし、今日も絶好調――。
――ぞくり、と。
突然、背中にまた冷たいものが走って、コンプは思わず振り向いた。
自分の左手やや後方に――あの、芦毛のウマ娘がぴったりと貼り付いている。
『さあ今日も先手を取って逃げます3番ブリッジコンプ、それを5番チョコチョコがぴったりマークして追走していきます。3バ身離れて3番手――』
――ふうん、あたしをマークしようっての? だったら!
コンプは脚に力を込めてペースを上げる。中ボスだか裏ボスだか知らないが、こんなところで出てくる敵に構ってる暇なんてないのだ。コーナーまでに振り払ってやる。
そう、思っていたのに。
ぞくぞくとする背筋の感覚が消えない。
振り返ると、奴は涼しい顔をしてそこにいる。
――何なの、コイツ。
あの三つ編み眼鏡とは違う。あいつは一旦抜いてやったら、あとは死んだふりみたいに気配を消していて、直線で突然するっと抜け出してきて押し切られてしまった。
だけど、こいつは――ビシビシと、殺気のような気配をこっちにぶつけてくる。
ほらほら、あたしはここにいるよ、逃げないの? ――とでも言わんばかりに。
「くんのッ――」
息を入れよう、というトレーナーの言葉は、頭から消えてしまっていた。息なんて入れてる場合じゃない。ちょっとでもペースを緩めたら、こいつは涼しい顔であたしを抜き去って、そして二度と追いつけない――。
――何を考えてんの、あたし。
負けるって? このあたしが? こんなところで?
ナメんじゃないっての、あたしは――あたしは、最強になるんだからッ!
『先頭ブリッジコンプがかなり飛ばしていますが、チョコチョコも半バ身後ろをぴったりと追走して3コーナーから4コーナーへ』
振り切れない。
全力で逃げているのに、まるで自動追尾みたいにぴったりとついてくる。
差が開かない。開けない。なんなの、なんなのよコイツ――。
『さあ直線を向いた、ブリッジコンプ先頭で粘る、チョコチョコ食らいつく』
食らいつく? そんなんじゃない。そんなかわいいもんじゃない。
こいつは――あたしを、喰い殺そうとしている。
「っ、くあああああっ!」
コンプは雄叫びを上げて逃げた。逃げようした。
だが。だけど。
ゴールが、遠い。
まだあんな、坂の上。
1400メートルって、こんなに長かったの――?
坂にさしかかったときにはもう、脚が前にいかなくなっていた。
それを見越していたように、芦毛のふたつのテールがすっと前に抜け出して、コンプを置き去りにしていく。
その背中に、手を伸ばすだけの気力が、もうコンプには残っていない。
坂が、長い。
こんな長い坂を、登り切れる気が、しない。
『チョコチョコ抜けた抜けた、ブリッジコンプは苦しい! 後続も追い込んでくる!』
もう、雄叫びをあげる力も、コンプには残っていなかった。
――ゴール板を駆け抜けたとき、自分が何着だったのかも、コンプには解らなかった。