モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
10月7日、土曜日。東京レース場、第2レース。ジュニア級未勝利戦、芝1800。
エチュードは14人立ての大外14番。東京の芝1800はスタートしてすぐ斜めに2コーナーに入るため、内枠有利とされているレースだ。だが――。
「トレーナー、エーちゃんになんて言ってきたの?」
いつもの関係者席の最前列。柵に手を掛けたコンプが、私を見上げて問うた。
「ああ――思いっきり、大外をブン回そうって」
「ええ? 前回外に弾き出されて負けたのに?」
「だからこそだよ。他のウマ娘のことなんか気にしないで、誰にも邪魔されないぐらい大外を好きに走ればいいと思ってね、エチュードは」
もちろん、大外を回るとそのぶん他のウマ娘より長い距離を走ることになり不利になる。それでも、追い込みのエチュードにとっては、少々の距離のロスよりも前を塞がれるリスクを避けた方が、おそらくエチュード本人の気性的にもいいと思ったのだ。
今日のエチュードは状態もいいし、やや入れ込み気味な感じはしたが、気合いも入っている。今日の出走メンバーの中でエチュードは2番人気だが、1番人気とはほとんど差がない。デビュー戦の末脚を誰にも邪魔されずに発揮できれば、後方からでも東京の長い直線で差し切れるはずだ。
「だから、私やヒクマやコンプの方に向かって走っておいで、って」
「あー、うん、確かにエーちゃんにはそれがいいかもね」
何かちょっと含みのありそうな言い方で、コンプはそう言いつつ。
「エチュードちゃん、がんばれー!」
「クマっち、そんなに身を乗り出したら落ちる――って、わああっ」
「はわわわっ!?」
柵から身を乗り出しすぎて落ちそうになったヒクマを、私たちは慌てて支えるのだった。
* * *
レースが始まる。エチュードは好スタートを決めて、今までの最後方よりやや前め、中団あたりの外につけた。走る距離は長くなるが、皆が有利な内を取り合うぶん、前を遮るウマ娘はいない。
『2コーナーを回って向こう正面、2番人気のリボンエチュードは随分外を回っています』
『バ群を怖がっているのでしょうかね』
開幕週の第2レースということで、バ場は綺麗なものだ。そのためレースは、先行勢がやや飛ばし気味のハイペースで流れていく。高速バ場の展開の中、エチュードは3コーナーで外を回ったぶんやや位置を下げた。
「あんな大外回ってたら流石に無理だろ」
観客からそんな声が聞こえてくる。――いや、大丈夫だ。
双眼鏡を覗く。4コーナーへかかるリボンエチュードの表情が見える。
前を向いている。他のウマ娘を気にしている様子はない。いい、それでいいんだ。
思いっきり外を回れ。誰もいないところを走れ。エチュード――君の道は、そこにある。
『さあ残り600の標識を越えて直線、1番人気フンアープが逃げる。大外リボンエチュード、14番リボンエチュードが外ラチ近くから上がってきた』
直線に入った瞬間、エチュードがぐっと加速したのが、誰の目にもわかった。
ハイペースで消耗した先行勢の脚色が鈍り、バ群がばらける中、ほとんど外ラチ沿いに近い位置を駆け抜けていく、栗毛の姿が、目の前を。
「エチュードちゃん!」
「エーちゃん、いっけええええ!」
「――エチュード!」
駆け抜ける瞬間、ちらりとエチュードが私を見た気がした。
そして――その横顔が、先頭でゴール板を駆け抜けていく。
『届くか、届くか、差し切った! どうやらリボンエチュードが差し切りました! 大外から見事な直線一気で初勝利です!』
身を乗り出して、私たちは手をたたき合う。その視線の先――ターフで足を止めたエチュードは、呆然としたように掲示板を見上げて。
そして、こちらを振り向いて――ぺこり、と頭を下げた。
東京レース場のスタンドから、あたたかい拍手が降りそそぐ。
1着、リボンエチュード。勝ちタイム、1:49.6。上がり3ハロン、34.0。
* * *
「おめでとう、エチュード!」
「と、とととっ、トレーナーさっ、ん……っ」
地下バ道にエチュードが戻ってきた瞬間、私は矢も楯もたまらず駆け寄ると、その華奢な身体を抱きしめた。汗に濡れたベリーショートの栗毛をくしゃくしゃと掻き回してやると、腕の中でエチュードが「あうあうあう……」と何事か呻いている。
「……あ、ありがとう、ございます……。私、勝て、ました……っ。トレーナーさんの、おかげです……っ」
「ああ、おめでとう! よくやった!」
身体を離して、エチュードの手をぎゅっと握りしめる。エチュードは顔を赤くして伏せ、けれどぎゅっと、私の手を握り返してきた。
「あれ、エーちゃんが機能停止してない? おー、エーちゃんも成長したんだなあ……」
後ろでコンプが何か感慨深そうに頷き、ヒクマが「エチュードちゃーん!」と飛びかかるようにエチュードに抱きつく。
私は手を離して、喜びを分かち合うのはあとは3人に任せることにした。何はともあれ、これで3人とも無事に勝ち上がりだ。そして来月には、3週連続での重賞挑戦が確定である。ヒクマ、コンプ、エチュード。3人とも――本当に、私なんかにはもったいないウマ娘だ。改めてそう思う。
「トレーナー! ウイニングライブまで時間あるんだし、エーちゃん着替えたらお昼食べがてら、先にどこかで祝勝会やっちゃお!」
「いいね。でも、今日のメインレースまでには必ずスタンドに戻るからね」
ウイニングライブは今日の全レースが終わってからだ。第2レースが終わったばかりの今はまだ11時。メインレースまでには4時間以上あるので、レース場内でゆっくり祝杯をあげる時間もあろう。
ただ、今日のメインレースだけは絶対に見逃せない。特にヒクマにとっては。
「メインレース?」
ヒクマが首を捻り、コンプが呆れたように肩を竦める。
「クマっち、忘れたの? 今日のメインレース、サウジアラビアロイヤルカップ」
「あ、えと、たしかジュニア級のGⅢ! あれ、誰か出るんだっけ?」
やれやれ。私は苦笑しつつひとつ息を吐く。
「――ジャラジャラだよ」
* * *
同日、15時35分。
東京、第11レース、ジュニア級GⅢ、サウジアラビアロイヤルカップ。芝1600のマイル戦。本バ場入場を終えたウマ娘たちが、ゲート前に集う。
『さあ今日の1番人気、3番ジャラジャラです! 6月のメイクデビュー阪神は軽く流して5バ身差で逃げ切り勝ち。約3ヶ月ぶりのレースですが、世代トップクラスと語られるその実力は果たしてどれほどのものか?』
ターフに姿を現したジャラジャラは、余裕の表情で軽くストレッチをしている。他のウマ娘たちが、その姿を警戒心も露わに見つめていた。
今日のサウジアラビアロイヤルカップは11人立て。ジャラジャラはその中でも前評判とデビュー戦の勝ちっぷりから圧倒的1番人気だ。当然、他のウマ娘からは徹底的にマークされる立ち位置であるが、そんな他の警戒心を涼しい顔で受け流し、ジャラジャラは得意げな顔でゲートへと向かう。
「ヒクマもエチュードも、いずれ戦う相手だ。間近でしっかり見ておこう」
「はーい!」
「……は、はい」
「コンプも、同じ逃げウマ娘として参考になると思う」
「はいはい、見届けますってば」
エチュードの軽い祝勝会を終えて関係者席に戻ってくると、第2レースのときはまだまばらだった観客の姿も随分と増えている。ジュニア級の重賞は、出走ウマ娘の知名度もまだまだ低いので、例年ならそこまで注目度の高いレースではないが――観客の多くは、おそらくジャラジャラを見に来ている。
まだデビュー戦を勝っただけの2戦目のウマ娘とは思えないこの注目度は、やはりエレガンジェネラルの存在が大きい。既にこの世代でも頭ひとつ抜けたという評判のエレガンジェネラルが、ジャラジャラを最大のライバルと見なしていることは、ウマ娘ファンの間でも知られつつある。はたして重賞でも評判通りの強さなのか、はたまた前評判倒れに過ぎないのか――。皆、それを確かめに来ているはずだ。
「お疲れ様です」
と、私の隣にひと組のウマ娘とトレーナーがやってきた。声を掛けられ、横目に頷きかけて、私は思わず目を見開く。ヒクマとエチュードとコンプも、それぞれ声をあげた。
「え、エレガンジェネラルに、王寺トレーナー?」
王寺トレーナーは銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳を細めて軽く会釈をし、エレガンジェネラルは両手を前で合わせてぺこりと優雅に一礼する。
「こんにちは。リボンエチュードさん、初勝利おめでとうございます」
「あ……あっ、ありがとう、ございます……」
エチュードの未勝利戦もどこかで見ていてくれたらしい。頭を下げるエチュードにエレガンジェネラルは穏やかに微笑み、それからターフへと視線を戻す。
「ジャラジャラを見に?」
いや、訊くまでもなかったか。私が頭を掻くと、エレガンジェネラルはひとつ鼻を鳴らして、「別に、応援しに来たわけではないですけれど」とすまし顔で答えた。
「今朝、随分と大口を叩いていたので、それに見合わない走りをされても困りますから」
「……どんな、と聞いてもいい?」
「『お前の新潟でのレコードのことなんか、今日限りでみんなの記憶から消し去ってやるかんな』――だそうですよ」
その口調は、呆れているというよりは――そのぐらいはジャラジャラならやるだろう、という確信に満ちているように聞こえた。
王寺トレーナーは何も言わず、腕組みしてターフを見つめている。あまり関わる機会のない人だが、その鋭い目つきといい、やっぱりとっつきにくそうな人だと私は思う。
「始まりますね」
ともあれ、ファンファーレが鳴り響く。全てのウマ娘がゲートに収まった。
『ジュニア級GⅢ、サウジアラビアロイヤルカップ――スタートです!』
* * *
後に、このサウジアラビアロイヤルカップは、こう語られることになる。
その日、東京レース場にいた数万の観客は、ひとつの時代の始まりを目撃した――と。
スタートと同時、弾丸のように飛び出したそのウマ娘は。
競りかけてマークしようとする他のウマ娘を軽くあしらうように、はるか前方へ。
『さあやはりジャラジャラがハナを切って逃げを図ります。早くも後続に2バ身、3バ身と差をつけていきます』
後続を5バ身離しての大逃げ。――そこまでは誰もが予想した展開だった。
だが、3コーナー、4コーナーにかかるにつれ、歓声はどよめきに変わる。
後続との差は詰まらない。むしろ開いていく。開き続ける。直線に入ってなお、後ろは必死に追っているのに、ただひとりだけが軽々と先頭を駆け抜けていく。
ただただ、どこまでも一人旅。誰も鈴をつけにいくことも、勝負をかけにいくことすらできない。他のウマ娘が止まって見えるほどに、次元の違う走り。
弾丸のように飛び出し、弾丸のように突き進む、褐色の鹿毛。
『後ろからは誰も来ない! 誰も来ません! 8バ身、9バ身、強い強い、強すぎる! これはもう圧勝、大楽勝です! すごいウマ娘が現れた!』
ジュニア級のGⅢとは思えない、実況の興奮ぶりが、全てを物語っていた。
ただひとり、先頭を駆け抜けたそのウマ娘のあと。
2着のウマ娘がゴール板を駆け抜けたのは、約2秒後。
タイムはジュニア級芝1600メートルレコード、1:31.9。
トゥインクル・シリーズの歴史でも、25年ぶりとなる平地重賞での着差「大差」。
推定12バ身差の圧勝だった。
後にティアラ最強世代と呼ばれることになる、X4年クラシック世代。
ジュニア級2戦目にして、その筆頭に名乗りを上げた、そのウマ娘に。
翌日の《日刊ウマ娘》の見出しは、彼女の代名詞となるその二つ名を捧げた。
――「褐色の弾丸」と。