モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
10月28日、土曜日。東京は朝から雨が降り続いていた。
「今日1日止まないってよ。こんな雨の中でレースやんのか? 大変だな、ジェネも」
「雨でバ場が悪くなるのは週間予報が出たときから解ってましたから。ジャラジャラさんもいずれは体験することになりますよ」
寮の部屋で支度をしながら、エレガンジェネラルはルームメイトの言葉に応えた。実際、そのつもりで準備していたから何も問題はない。いつも通り、万全を期してレースに挑むだけのことだ。
トレセン学園に隣接する東京レース場のレースは、寮の自室でゆっくり支度できることがありがたいと思う。デビュー戦は中京、2戦目は新潟、遠征で調子を崩すほどナイーブではないつもりだが、いつも通りでいられるというのは、やはり心理的に楽だ。
「ジャラジャラさんは来るんですか?」
「ん? 来てほしいのか?」
「別にそんなことは言ってません。風邪でも引かれたら面倒だと思っただけです」
ニヤニヤと笑うジャラジャラに、ジェネラルは嘆息する。
「この雨の中、カッパ被って見るのも面倒だな。どーせお前が勝つだろ?」
「レースは何が起こるかわかりませんよ。手強そうな相手もいますしね」
「自分で言うなよ。負けることなんか考えてもないくせに」
重バ場、不良バ場のレースはジェネラルも初めてだ。ジャラジャラの言う通り、負けるつもりはないが、いつも通りの自分の走りができるか、という不安はないでもない。
私は本当に、今日のレースに向けて万全の準備ができているだろうか? 足元が不安な状況で走るトレーニングを、もっと積んでおくべきではなかったか? 雨の中でのトレーニングは王寺トレーナーに止められたけれど、やはりやっておくべきではなかったか……。
――いや、当日になって考えても仕方ない。できる限りのことはした。対戦相手全員のデータも頭に入っている。レース展開のシミュレーションも万全だ。
大丈夫。私は今日も、万全を期してレースに挑める。
「それじゃあ、行ってきます」
部屋のドアに手を掛けると、ベッドに寝転んだままのジャラジャラが声を上げる。
「ジェネ」
「なんですか」
「怪我と情けないレースだけはすんなよ」
「――言われるまでもありません」
振り返らず、ジェネラルはドアを閉め、顔を上げて歩き出した。
* * *
午後3時。雨は弱まったが、バ場は不良。メインレースまでに回復することはなさそうだった。第9レースまでのウマ娘たちも、不良バ場に苦しんでいる。
「エレガンジェネラル」
「はい」
控え室。体操服に着替えたジェネラルは、トレーナーと向き直った。
銀縁の眼鏡に切れ長の眼をした、いかにも切れ者という風貌の王寺トレーナーは、今日も無表情に近い顔でジェネラルを見下ろす。担当トレーナーが彼に決まってから1年近くになるが、未だにジェネラルは彼が笑ったところを見たことがない。デビュー戦も新潟ジュニアSも、勝って当然という顔で頷くだけだった。
別に、そのことに不満はない。王寺トレーナーの指導は論理的で的確だ。自主性の尊重なんていう甘言に囚われず、しっかり担当を管理しつつ、最新のトレーニング理論を迅速に取り入れ、効率的な指導に徹するスタイルはジェネラルの気性にも合う。
「本番は阪神JFだ。今日は足元が悪い。無理をして故障したら元も子もない。――雑音に惑わされるな」
「わかっています」
サウジアラビアロイヤルカップの圧勝で、ジャラジャラが一躍世代のトップクラスに躍り出た。今日ここで自分が負ければ、阪神JFはジャラジャラの一強ムードということになるだろう。ジャラジャラに、情けない姿は見せられない。――だからといって、今日ここで無理をして故障したら本末転倒だ。
トレーナーとしては、ここまで不良バ場になるとわかっていたら回避させるべきだった、と考えているのかもしれない。眼鏡の奥の無表情の裏で、たぶんこの人は何より怪我を心配している。――そう、彼は冷たそうに見えても冷徹ではない。
それがわかっているから、ジェネラルも安心して、彼に自分の競走生活を託せる。
「無理はしません。無理をせず、それでも勝ちます」
ジェネラルのその言葉に、トレーナーは静かに頷いた。
* * *
『阪神ジュベナイルフィリーズ前哨戦、府中1600、GⅢアルテミスステークス! 来年のティアラ路線を占う重要なこの一戦に、女王の戴きを目指す16人のウマ娘が挑みます。圧倒的1番人気はやはりこのウマ娘、新潟ジュニアステークスをレコード圧勝、来年のトリプルティアラ大本命! 14番、エレガンジェネラル』
――ふうん、あれが噂のエレガンジェネラルか。
雨の中、泥のようなターフに悠然と姿を現したエレガンジェネラルの姿を見つめて、彼女は小さく鼻を鳴らした。短く切りそろえた前髪の下、決然と前を見るその表情は、確かに〝将軍〟の名に相応しい決然とした凜々しさをたたえている。
でも、いかにも都会のお嬢様って感じだ。綺麗に舗装された道しか走ったことのなさそうな姿。こんな泥まみれのぐちゃぐちゃの足元で、まともに走れたりするものか。
その点、アタシはいつだって、ド田舎の野道を泥まみれになって駆け回ってきた。こういう道悪には、自信がある。ひ弱な都会っ子なんかに、負けてなるものか。
『2番人気は、2番エブリワンライクス。前走のメイクデビュー中京は、今日と同じ雨の重バ場の中、直線で後方から豪快な差し切り勝ち。阪神JFへ向け、主役の座に名乗りをあげる一戦となるでしょうか』
彼女はターフから観客席へ手を振る。ベリーショートにした栃栗毛の髪に当たる雨の冷たさも、今は気にならない。
将軍だか弾丸だか知らないが、トリプルティアラの主役になるのは、アタシだ。
そう意気込んで、彼女は拳を握りしめ、もう一度エレガンジェネラルの方を見やる。
――エレガンジェネラルが、彼女のことを見つめていた。
「――――ッ」
その静かな、こちらを見定めるような視線に、彼女は僅かにたじろぐ。
決して睨まれたわけではない。ただ見つめられただけだ。
それなのに――なんだ、この、圧迫感は?
つい、とすぐにエレガンジェネラルは視線を逸らした。まるでこちらに興味などもう失ったかのように。圧迫感が消えて、彼女は思わずほっと息を吐き――それから、エレガンジェネラルの無表情に、奥歯を噛みしめて拳を握りしめる。
なんだよ、アタシが気圧されたっていうのか?
そんなはずはない。見ていろ、この泥に足をとられて直線でバテたところを、後ろから豪快に差し切ってやる。
エレガンジェネラルがゲートに入る。彼女もその後を追って、ゲートに足を進めた。
狭苦しいゲートは嫌いだ。早く、広いターフを走り抜けたい。
まだか。まだか。早く、早く――。
『全員ゲートイン、体勢完了――スタートしました!』
「――ッ、しまっ」
ゲートの中で苛々していたせいで、一瞬反応が遅れた。慌てて彼女は走り出す。
『ややばらついたスタート、2番エブリワンライクスが出遅れたか』
大丈夫、この道悪なら道中は間違いなく超スローペース、多少の出遅れはリカバリできる。冷静さを取り戻した彼女は最後尾につけて前方を伺った。
――いた。外枠スタートのエレガンジェネラルは前方、3番手から4番手あたりの外目を走っている。予想通りの先行策、泥を被らないように前がいない外を回す作戦か。いかにも都会っ子らしい。
朝からの雨、ここまでの10レースでバ場はすっかり荒れている。皆が走りたがる最内は特にぐちゃぐちゃだ。彼女の前を行くバ群の集団も、3コーナーにさしかかると荒れた内を避けて外に持ち出し始める。
だったらアタシは――誰も行かないところを行く!
じっと後方で息を潜めた甲斐があった。前が開いた。荒れた最内のコーナーがぽっかりと、彼女の前に開ける。――ここから差し切る!
『さあ4コーナー、エレガンジェネラルはいい位置につけている。おおっとバ場の荒れた最内からひとり、エブリワンライクスが上がってきた!』
ああ、慣れた感触だ。地元のぬかるんだ野道を思い出す。嫌いじゃない、こういうの。
目の前には誰もいない。あとはあの、ゼッケン14の背中まで一直線だ――。
『直線に入ってエレガンジェネラルがここでもう抜けてきた、一気に加速して後続を突き放すが、内からエブリワンライクスが迫る!』
スローペースで慣れた道悪、脚は充分すぎるほど残っている。府中の直線入口でもう先頭に立つなんて、後ろから差してくださいと言っているようなものだ。何が将軍だ、トリプルティアラ大本命だ。あの坂で差し切る!
ぐっと脚に力をこめ、彼女は先頭を走る14番のゼッケン目がけて加速する。
その背中が、徐々に迫って、
「――――――――ッ」
こない。
全力で加速しているのに、その背中に近付けない。
そんな、そんなバカな、全力でスパートしているのに、この府中の長い直線、この不良バ場の中、先行策で押し切れるほど甘くはないはずなのに、
遠い。
ゼッケン14番の背中が、あまりにも遠い。
『坂を上る、エレガンジェネラル粘る粘る、エブリワンライクスが必死に追うが、しかしエレガンジェネラルだ、エレガンジェネラルやっぱり強い! なおも突き放す!』
前をゆくその脚が跳ね飛ばした泥が、彼女の2番ゼッケンを汚した。
雨と泥が口の中に流れ込んで、溺れそうな気分になる。
脚は進んでいるのに、会心の走りができているはずなのに。
それでも、それなのに、――どうして、前をゆく背中が、遠ざかっていくのだろう。
「ちっ――くしょおおおおッ!」
強い。強すぎる。
これが、エレガンジェネラル。
世代最強と目される――力強いその走りは、戦場を駈ける勇ましき将のごとく。
『エレガンジェネラル、今ゴールッ! 2着はエブリワンライクス、上位人気ふたりの堅い決着となりましたアルテミスステークス!』
よろめくように脚を止め、膝に手をついて荒い息を吐く。火照った身体を、降りしきる雨が容赦なく冷やしていく。
口の中にまで飛び込んだ泥の苦味を噛みしめながら顔を上げると、そこには涼しい顔をして、観客席に向かって優雅に一礼する、エレガンジェネラルの横顔があった。
この不良バ場で、あの走りをして、レース後に表情ひとつ変わらないのか。
――強すぎる。あの背中は、遠すぎる。
膝に手を突いたまま、エブリワンライクスは砕けそうなほど奥歯を噛みしめた。
倒す。絶対、あのすまし顔の将軍を討ち取ってやる!
来年のトリプルティアラまでに、絶対に、絶対に――ッ。
『不良バ場もなんのその、エレガンジェネラル、力強く2バ身半差の快勝です! 阪神JFへ、そして来年のトリプルティアラへ、姫将軍の進撃が止まらない!』
エブリワンライクスの、そして敗れた他の14人の悔しさと絶望と諦観とを背中に受けて。エレガンジェネラルはただ、雨の中に静かに佇んでいた。