モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
11月の重賞戦線を目前に控えたある日。
仕事を終えて帰宅しようと学園内を歩いていると、ばったり桐生院トレーナーに出くわした。何やら悩ましげな顔をして歩いていた桐生院トレーナーは、私に気付いて驚いたように顔を上げる。
「お疲れ様です。桐生院トレーナーもこれからお帰りですか?」
「あっ、お、お疲れ様です。は、はい、そうなんですけど……」
と、桐生院トレーナーは困ったように口ごもった。傍から見ているだけで、悩み事オーラがダダ漏れである。参ったな、と私は頭を掻いた。
「……何かお困りですか? 力になれることがあるなら」
「いっ、いえ、そんな、これは私とミークの問題ですから――」
言いかけて、桐生院トレーナーは慌てたように口を噤む。やっぱりそうか。
ハッピーミーク。桐生院トレーナーがスカウトした、世にも珍しい白毛のウマ娘だ。そういえば、私がヒクマをスカウトしたのとそう変わらない時期に桐生院トレーナーが担当に決まったと記憶しているが、もう11月になる現在もデビューの噂が聞こえてこない。
何しろあの子は希少な白毛、芦毛よりもさらに白いので、グラウンドでトレーニングしていてもよく目立つ。遠目に見ている限りでは、怪我をしているとかそういう様子もなさそうに記憶していたが……。まあ、仕上がりのペースはウマ娘次第だし、極端なゲート難などでなかなかデビュー許可が下りない場合もある。ジュニア級の間にデビューが間に合わず、クラシック級になってようやくデビューするウマ娘も決して珍しい話ではない。
とはいえ、桐生院トレーナーがどう思っているかは別の問題だ。
「……あの、すみません。やっぱり、ちょっと相談に乗っていただけませんか?」
桐生院トレーナーは、そう言って上目遣いに私を見上げた。
「はい、もちろん構いませんが、私から言い出してなんですけど、私でいいんですか?」
よく考えたら、担当ウマ娘のことで悩みがあるとしても、名門・桐生院家の出身である彼女ならば、他に相談相手がいくらでもいそうなものだが……。
「いえ! あの、是非お願いします!」
と、桐生院トレーナーはやけに力を入れて言う。
「はあ、わかりました。喜んで」
これも同期のよしみであろう。私が頷くと、桐生院トレーナーはほっと息を吐き出した。
* * *
てっきり、桐生院トレーナーのトレーナー室で話をするのかと思いきや――。
「お酒、飲まれるんですね。意外です」
なぜか私たちは、こぢんまりとしたバーのカウンターに腰を下ろしていた。桐生院トレーナーに案内された店である。
「……あ、いえ、あの、実は……こういうお店、自分で来るのは初めてで……」
と、桐生院トレーナーはみるみる縮こまってしまった。
「養成校時代にお世話になった大先輩トレーナーさんに、何度か連れてきてもらったんですけど……。いつもちょっと飲むだけですぐ頭が回らなくなってしまって……」
「下戸なんですか!」
それでなんでバーなのだ。
「あの、その先輩が、よくこのお店で同期のトレーナーさんといろいろ話し合ったって、そう伺ってまして……だから、その……」
……なるほど。それで思いついたのがこの店だったわけか。
私たちの話が聞こえていたらしいバーテンダーも、困ったように苦笑している。私はバーテンダーに手を挙げて、彼女にはノンアルコールカクテルを出してもらうよう頼んだ。
「それで、相談というのは?」
出てきたノンアルコールカクテルに、「美味しい」とびっくりしたように目を見開く桐生院トレーナーに、私は自分のカクテルを傾けながら口火を切った。
「あっ、はい!」
と、桐生院トレーナーは私に身体ごと向き直ると、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「実は、ミークのことなんですが……」
「はい」
「……あっ、そうです。あの、ええと、今さらなんですが、バイトアルヒクマさんの重賞制覇と、担当ウマ娘全員の勝ち上がり、おめでとうございます」
「え? あ、はあ、ありがとうございます」
いきなり話を変えられてしまった。私が頭を掻くと、桐生院トレーナーは「本当に、すごいですね……」とどこか遠い目をして私を見つめた。
「……私、自分が自惚れているなんて思っていませんでした。けれど、世の中には本当にすごい、ウマ娘の才能を見抜いて引き出す天性の力の持ち主がいるのだと、そう思い知らされました。私は、まだまだあまりに未熟だと、毎日突きつけられる思いです」
「い、いやいやいや、そんな大層なものでは。運が良かっただけで……」
褒め殺しは勘弁してほしい。私が慌てて首を振ると、桐生院トレーナーは大げさに私に向かって頭を下げる。
「厚かましいお願いとは承知していますが、どうか私にも、その指導法についてご指導ご鞭撻のほどをっ」
「あの、いやその、頭を上げてください」
人に何かを教えられるような立場ではない。こっちだっていっぱいいっぱいなのだ。できるのはせいぜい、こうして一杯飲みながら相談を聞くぐらいである。
「それで、ハッピーミークの何についての相談なんですか?」
「あっ、す、すみません! ええと、その……」
「……彼女に何か問題が? レースに出たがらないとか、ゲート試験に通らないとか」
「いえ! そんな、ミークには何の問題もないんです。むしろ問題がなさすぎるのが問題といいますか……その、こんなのはトレーナー白書にも書いていなくて……」
トレーナー白書ってなんだろう。問題がなさすぎるのが問題とは、また哲学的な……。疑問に思いつつ、私は話を促す。
桐生院トレーナーは、意を決したように口を開いた。
「わからないんです」
「……何がです?」
「あの子の適性が、です。……私は、ミークにどんな路線を走らせたらいいんでしょう?」
私は、思わず目をしばたたかせた。
* * *
『ミークちゃんってすごいんだよ! 芝でもダートでも、どこ走ってもとっても速いの!』
――そういえば以前、ヒクマがそんなことを言っていた記憶がある。
しかし、ウマ娘の適性なんて、走らせてみないとわからないものだ。トゥインクル・シリーズの歴史を振り返っても、ずっと芝で走っていたがシニア級からダートに転向した途端覚醒して砂の女王に君臨したウマ娘や、逆にそれまでダートしか勝ったことのなかったウマ娘が突然芝GⅠを勝った、なんて例はいろいろあるわけで……。
ブリッジコンプのように、短距離向けの優れたスタートダッシュ能力があり、道中のペース配分が苦手でそれ以上の距離を走るには明らかにスタミナ不足――みたいなわかりやすい例にしたところで、コンプが中距離の選抜レースやマイルの模擬レースで逃げからの撃沈という実例を示してくれたからこそ、私も「短距離がいいんじゃない?」と提案できたわけである。
「それは……やっぱり走らせてみるしか」
「走らせたんです。いろいろなトレーナーさんにお願いして、ダートの1200から芝の2400まで、さすがにまだ芝の3000は走らせてないですが……」
そりゃそうだ。普通、ジュニア級で走らせるのは2000まで。クラシックディスタンスの芝2400すら、ジュニア級のウマ娘にはハードすぎると言われる距離である。
「見てください。過去六回行ったミークの模擬レースの着順とタイムです」
と、桐生院トレーナーがノートPCを取りだして画面をこちらに向けた。「いいんですか?」と一応確認しつつ、私はそのデータを見て――我が目を疑う。
「……どう思われます?」
「これは……いや、本当ですかこれ?」
「本当だから困ってるんです!」
にわかには信じがたい。が、これが事実なら、桐生院トレーナーが混乱するのも無理はなかった。私だってこんなウマ娘を前にしたら、途方に暮れるしかないだろう。
本当に、ミークはあらゆる距離を走っていた。どの模擬レースにも、シニア級の重賞クラスの名前がある。さすがに全勝ではないが――芝1600、芝2000、芝2400、ダート1600、ダート1200、そして最後は芝1200。全て、このままメイクデビューに出せばまず楽勝、クラシック級の重賞でも勝ち負けになりそうなタイムが出ていたのである。
「最初は、普通に芝1800からデビューさせて、クラシック三冠を目指すつもりでいたんです。最初の2回の模擬レースはその予行演習のつもりでした。……2回目で、2000を走ってもまだミークが平然としているので、この子はひょっとしたらステイヤー向きなんじゃないかと思って、3回目の2400を走らせてみたら、まだ平然としてるんです。それで、春の天皇賞を大目標にしよう、と思ったんですけれど……」
「次にダートを走らせたのは?」
「トレーニングの一環でダートを走らせていたら、あるトレーナーさんの目に留まって、是非うちの子と模擬レースしてほしいと言われてしまいまして……。これも経験だと思って引き受けたんですけど、勝ってしまいまして……。その模擬レースを見た他のトレーナーさんから、次はダートの1200をお願いされまして、それも勝ってしまって……」
「まさかと思って芝の1200も走らせてみたら……?」
「はい、そこでもこのタイムです」
無茶苦茶だ。どんなウマ娘にもバ場適性、距離適性というものがある。ダートを芝の二軍扱いするような風潮が全くないとは言わないが、芝で強いウマ娘がダートでも強いとは限らないし、スプリンターの才能とステイヤーの才能は全くの別物だ。人間だってマラソンランナーに100メートル走を走らせはしない。
普通に考えれば、やはりどれかのバ場・距離に真の適性があって、他はどこかで頭打ちになってしまうのだろうが……。しかし、このタイムを見る限りでは、なるほどいったいどれが適性なのか全くわからない。少なくとも、このタイムを見てこの子の適性を答えよと言われたら私もお手上げである。
なるほど、11月になってもデビューが決まらないわけだ。桐生院トレーナーは、ミークにとって最良のローテーションを組むために、デビュー前になんとしても彼女の適性を見極めようとしているのだろう。
しかし、それで才能を発揮できるレースに出られなくなっては本末転倒だ。既にデビューできるだけの力があるなら、デビューさせてあげるべきだと私は思うが……。
「ハッピーミーク自身は、なんと言っているんですか?」
こうなれば、あとは本人の希望次第ではないだろうか。私がそう思って問いかけると、桐生院トレーナーは「え?」と顔を上げ、きょとんと私を見つめた。
「彼女の希望ですよ。どの路線を走りたい、どのタイトルを獲りたい、あるいは誰かと戦いたいとか――ここまで何でも走れるなら、あとはもう本人が最もモチベーションを保てる路線で走らせてあげるべきだと思いますが、ハッピーミークはなんと?」
結局、一番大事なのはそこではないかと私は思う。コンプを短距離路線に向かわせるのに、「短距離歴代最強」という目標が必要だったように――どんなに適性に合致していても、本人が納得してモチベーションを保てなければ、せっかくの実力も発揮できまい。
けれど――桐生院トレーナーは、全く予想外の言葉を聞いたかのようにぽかんとしていた。……まさか。
「ひょっとして……本人と話し合い、してないんですか?」
「い、いえ、だってあの子、本当に素直で、なんでも私の指示通りに――。それに、トレーナー白書にも、ウマ娘はまだ精神的に未熟だからトレーナーがしっかり導いてやらねばと……だから、私が」
そういえば、一度だけ水族館で会ったハッピーミークは、なんだかつかみどころのないぼんやりしたウマ娘だった。……それは単に、本人の気性的に、強い自己主張が苦手なだけなのでは?
ミーク自身の希望を聞かずに、桐生院トレーナーが勝手に悩んでいるのだとしたら……。ミークは、桐生院トレーナーが自分に向き合ってくれるのを待っているのではないか?
「話し合うべきだと、思います」
「――――」
「ハッピーミークが何を目指したいのか、ちゃんと本人の話を聞いてあげるべきかと。こんなところで私に相談するより、桐生院さんが相談すべきは、自分の担当ウマ娘ですよ」
大きく目を見開いた桐生院トレーナーは、スマホを取りだして画面をじっと見つめ、そして急に立ち上がった。
「すみません、学園に戻ります! 今日はありがとうございました!」
「はい」
もう寮の門限は過ぎているが、まだ消灯時間ではないはずだ。慌てて店を飛び出していく桐生院トレーナーの背中を見送りながら、カクテルを傾け――。
……あれ、この店の値段そういえばあまりちゃんと見てなかったけど、財布の中身大丈夫だっけ……?
* * *
翌日。ハッピーミークが今月下旬の京都でデビューし、勝てたらそのまま朝日杯FSを目指すと、桐生院トレーナーから連絡があった。
三冠路線とマイル路線、まずは両にらみと見えるが……とりあえず、ヒクマやエチュードとぶつかるのは当分先になりそうである。
しかし、そろそろ他人のことにも構ってはいられない。
11月。私にとって、そして担当の3人にとって、いよいよこのジュニア戦線の行方、そしてクラシック級での目標を左右する正念場の3連戦がやってくる。
11月4日、ブリッジコンプのGⅡ京王杯ジュニアステークス。
11月11日、リボンエチュードのGⅡデイリー杯ジュニアステークス。
そして――11月18日、バイトアルヒクマのGⅡ東スポ杯ジュニアステークスだ。