モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
チョコチョコが彼女と初めて出会ったのは、トレセン学園に入学して、美浦寮の自室に足を踏み入れたときのことだった。
誰もいないと思って部屋に入ったら、ベッドに腰掛けて本を読んでいるウマ娘の姿があってぎょっとした。その芦毛を三つ編みにして、眼鏡を掛けたやや色黒のウマ娘は、誰かが部屋に入ってきたことにも気付かないように、本の世界に没頭していた。
――トレセン学園にも、こんな見るからに図書委員みたいなタイプいるんだなあ。
意外に思ったが、しかしこの中央のトレセン学園に入学を許されたということは、目の前で黙って文庫本のページを捲っているウマ娘も、走りでは相応の実力者ということだ。まあ、趣味は人それぞれ、読書家のウマ娘がいたって別に悪いわけじゃない。
「こんちわー」
声をかけてみる。――無反応。無視かい! と憤慨して、チョコチョコはもう一度、今度は大きめに声を上げる。
「おーい、もしもーし」
「…………」
完全シカト。本のページから目を離すそぶりすらない。よほど集中しているのか、それともルームメイトとすらまともに交流する気がないのか。後者だったらこの先どうしたもんかね、と思いつつ、溜息をついてチョコチョコは自分の荷物をもう片方のベッドに置いて、ごろんと寝転がった。
ふあああ、と欠伸が漏れる。横になったら眠くなってきた。入学当日、朝からゴタゴタしててくたびれた。夕飯の時間まで一眠りしよう。チョコチョコは隣のベッドで一心不乱に本を読み続けるルームメイト(?)を横目に見ながら目を閉じ、あっさりと睡魔に意識を手渡した。
1時間半後。
チョコチョコが目を覚ますと、そのウマ娘は全く同じ姿勢で本を読み続けていた。変わっているのは、本の残りページだけ。チョコチョコが伸びをしている間に残り僅かのページを読み切ったそのウマ娘は、ほおっと息を吐くと、ぱたんと文庫本を閉じて、
そこでようやくこちらを振り向いて、眼鏡の奥のその目をまん丸に見開いた。
「………………誰?」
「いやそれ今訊く!?」
思わず突っ込んだチョコチョコに、そのウマ娘は心底不思議そうに首を捻り、部屋のドアの方と、チョコチョコの方とを交互に見やると、顎に手を当てて考え込む。
「……これは、密室トリック? 人間消失ならぬ、密室へのウマ娘出現……」
「いや、普通に入ってきただけなんだけど」
「……私はずっとこの部屋にいた。つまりこの部屋は衆人環視の密室」
「いや衆人じゃなくてあんただけだし、だいたい声掛けたってば。そっちが本に没頭してて気付かなかっただけじゃん」
なに言ってんだこいつ、と思いながらチョコチョコが言うと、そのウマ娘は「……なるほど」と納得したように頷いた。
「私自身が信頼できない語り手になっていた……。京極夏彦的トリック」
「意味わかんないんだけど」
「……密室の謎は解決した。問題ない」
「謎なんかそもそも何もないっての!」
「謎はある。……貴方が何者か。この推理は初歩。……貴方はウマ娘。着ているのはトレセン学園の制服。ベッドの上の荷物。……つまり、貴方は私のルームメイト」
「そんなん見れば誰でもわかるっての!」
こいつ、変な奴だ。チョコチョコは確信する。そんなチョコチョコのツッコミを無表情に受け流して、そのウマ娘は居住まいを正してこちらに向き直った。
「……私は、ユイイツムニ。よろしく」
「唯一無二? そらまたご大層なお名前で……。あたしはチョコチョコ」
「……よろしく、チョコ」
いきなり名前を縮められてしまった。いやまあ、子供の頃からの愛称だから違和感はないが、このユイイツムニとかいう大層な名前のウマ娘の距離感が掴めない。
「あー、うん、よろしくぅ……ふぁぁぁ」
まだ寝足りない。欠伸を漏らしたチョコチョコに、目をしばたたかせたユイイツムニは、何を思ったのか、読み終えたその文庫本を差し出してきた。
「……え、なに?」
「眠気覚まし」
「え、その本の背で頭叩いて目覚ませとかそういう?」
チョコチョコの言葉が全く理解できないという風にユイイツムニは首を捻る。
「……? 本は読むもの」
「いや、それむしろ睡眠導入剤だから。あたし活字読むと3ページで眠くなるの」
「…………?」
「ちょっと、この話の流れでなんであたしが『こいつ何言ってんだ? 正気か?』みたいな目で見られないといけないわけぇ?」
やっぱりこいつ変な奴だ。差し出された物騒なタイトルの本を丁重に受け取り拒否して、チョコチョコはもう一度ベッドに寝転がる。ちょっと起きるのが早かった。夕飯まではまだ時間が空いている。ならもう一眠り……。
と、ユイイツムニが立ち上がる気配がして、寝転がったまま視線を向ける。ユイイツムニはいきなり制服を脱いでジャージに着替えると、黙って部屋のドアの方へ向かって歩き出した。
「ふぁ……どこいくの?」
「走ってくる」
返事はそれだけ。音をたててドアが開閉され、ユイイツムニの姿が消える。それをぼんやり見送って――溜息をついて、チョコチョコも起き上がった。
もう一眠りは夕飯の後にしよう。その前に、あの変な奴の走りを見てみたかった。ただの変な奴なのか、それとも――。
チョコチョコもジャージに着替え、ユイイツムニの後を追って寮の部屋を出た。
グラウンドに出ると、ウッドチップコースの片隅でストレッチしているユイイツムニの姿が見えた。チョコチョコが駆け寄ると、ユイイツムニは不思議そうな顔で振り向く。
「……何か?」
「や、どーせなら併走お願いしていい? ルームメイトの実力、気になるからさあ」
「…………構わない」
無表情にユイイツムニは答える。何を考えてるんだか本当によくわからない奴だ。ともあれ、チョコチョコも軽くストレッチして、先に走り出したユイイツムニを追って、ウォーミングアップがてらウッドチップコースをぐるりと一周、軽く流す。
良い感じに少し身体があったまった。立ち止まったユイイツムニの背中に追いつくと、チョコチョコはコースの反対側を指さす。
「じゃ、このコース半周、反対側のあのへんまで」
「……」
こくり。無言で頷くユイイツムニ。よし、とチョコチョコはコインを一枚取り出す。
「これが地面に落ちたらスタート。いくよ」
ピン、と指で弾いたコインが、回転しながら地面に落ちていく。ぐっと体勢を構えて、コインが音をたてた瞬間、チョコチョコはウッドチップを蹴って走り出し――。
横から、同じ芦毛の影が、風のようにチョコチョコの前に出た。
「――――ッ」
チョコチョコは目を見開く。一瞬で、視界の前であの芦毛の三つ編みが揺れていた。スタートダッシュにはちょっと自信があったのに――隣のこいつは、それよりも速く。
ぐっと脚に力を込め、チョコチョコはその横に並ぶ。そして、ちらりと横目で、その横顔を見やった。
その表情は――それまでの、ぼんやりとした無表情ではない。
スピードの先にあるものを見通すような、引き締まった走者の顔。
眼鏡の奥の瞳は、ただ前だけを見て。
その脚は、風のように大地を蹴る。
――唯一無二。
その名前に恥じないスピードに、チョコチョコはついていくだけで精一杯だった。
「あーっ、負けた負けたぁ、あたしの負けぇ」
正確なゴールなんて決めていなかったけれど、勝敗は明らかだった。ペースを緩めたユイイツムニの背中をようやく追い越して、チョコチョコはそのままばったりとコースの外の芝生の上に倒れこみ、仰向けに空を見上げる。
――入学初日に、いきなりこれかあ。自分が最強だなんて自惚れていたつもりはないけれど、いきなりルームメイトがこんな強敵とは、先が思いやられる。
「……大丈夫?」
ユイイツムニが、しゃがみこんでチョコチョコを覗きこんでくる。その顔は既に、何を考えているのかよくわからない、ぼんやりした無表情に戻っていた。
「強いね、あんた」
「……チョコも強い。抜かれるかと思ったのは初めて」
「そりゃどーも。光栄だよぉ……ふぁぁ」
抜けなかったのだから褒められても嬉しくない。このままふて腐れて寝てしまいたかった。チョコチョコが目を閉じると、不意に横にユイイツムニが腰を下ろす気配がした。
目を開けてそちらを見やると、芝生に座ったユイイツムニが、こちらを見ながらぽんぽんと自分の太ももを叩いている。
「……え、なに?」
「枕」
「……はい?」
「膝、貸してあげる」
「…………」
なんだこいつ。初対面でいきなり膝枕? 距離感が掴めないにも程がある。
けれど、眼鏡の奥からじっとその瞳に見つめられると、なんだかそうしないといけないような気がしてきて――気が付くとチョコチョコは、その膝に頭を載せていた。
……存外、その枕は、自分の後頭部にフィットしてしまった。
ユイイツムニは何を言うでもなく、じっと黙ってこちらを見下ろしている。
その視線が落ち着かなくて、チョコチョコは目を閉じたまま口を開いた。
「……ね、なんて呼べばいい? ユイイツムニ、って、呼ぶには長いっしょ」
「…………周りは、だいたい『ユイ』って呼ぶ」
「ユイかあ。……ユイねえ」
目を開けて、チョコチョコは頭上に手を伸ばし――ユイイツムニの頬に触れた。
むに、と予想以上に柔らかいその感触に、チョコチョコは小さく笑って。
「じゃあ、あたしはあんたのこと、ムニって呼ぶ」
「……ムニ?」
「そ。ムニ……んーと、ムニっち。ムニっち、むにむにー」
「…………」
頬を引っ張ると、ユイイツムニは困ったような顔で目をしばたたかせた。
その顔を見て――チョコチョコは思う。こいつ、変な奴だけど――かわいいじゃん、と。
* * *
思えばその日からずっと、チョコチョコにとってユイイツムニは、ただひとり倒すべきライバルだった。ルームメイトとか友人とか、そんなことより何より先に、あの最初の一日に見せつけられた背中こそが、追い抜くべき目標だった。
「やー、存外早く来たねえ、直接対決。許してくれたトレーナーに感謝しとくかぁ」
「…………」
11月4日、土曜日。東京レース場。
GⅡ、京王杯ジュニアステークス。芝1400メートル。
ターフに足を踏み出して、チョコチョコは秋の日射しに目を細めた。ユイイツムニはいつものように無言。相方の無口にも、もう慣れたものだ。
今日この日のために、今まで走ってきたのだ。トゥインクル・シリーズの本番、レースでこのルームメイトを、入学初日に自分の自信とかプライドとかをまとめて無表情に叩き折ってくれたこの宿敵を、なんとしても倒すために。
ムニっち以外の相手なんて、ハナから眼中にない。ムニっちに勝つ。逃げるあの背中をゴール前で差し切る。それ以外に考えるべきことなど、何もない。
トレーナーはこのレースを、来月の朝日杯FSと阪神JFへ向けた単なる叩き台と見ているのだろうけれど――チョコチョコにとっては、そっちの方がどうでもいい些事だった。まあ、そんな口実のおかげでこんなに早く直接対決の機会を貰えたのだから、GⅠなんてもっともらしい目標が存在することには感謝しておくけれども。
『さあ1番人気ユイイツムニ、2番人気チョコチョコが相次いで姿を現しました! ともに来月のジュニア級GⅠ参戦を表明している同門のこのふたり、デビュー3連勝を決めるのは果たしてどちらか? それとも別の伏兵が現れるのか?』
伏兵なんて、そんなもんいるわけじゃないじゃないか。今日は実質、あたしとムニっちのマッチレースだ。他の誰にも、邪魔はさせない。
無表情に軽いストレッチをするユイイツムニの背中を、チョコチョコは見やる。レースが近付くほど口数が減り表情が消えるこの相方の背中には、今はもうオーラが感じられるほどの気迫がみなぎっている。そうでなくっちゃ――倒しがいがない。
ぱん、とひとつ拳を打ち鳴らして、チョコチョコは気合いを入れ直し、ゲートへと視線を向けた。泣いても笑っても、あのゲートが開けば、一分ちょっとで決着がつく――。
「――ちょっと」
と、そこへ無粋な第三者の声が割り込んだ。
眉を寄せてチョコチョコが振り返ると、そこには。
小柄な栗毛のロングヘアーのウマ娘が、こちらを睨むように見つめていた。