モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
第5話 バイトアルヒクマ登場!
いよいよ今日から、バイトアルヒクマとトゥインクル・シリーズに挑む日々が始まる。
目下のところ、まずは6月以降のジュニア級メイクデビューへ向けて、本格的なトレーニングを積んで行くことになる。トレーニングの指導はもちろんのこと、その成長具合と適性を見極めながらデビューの日程を決め、その先の目標へ向けてのスケジュールを組み立てていくのが、トレーナーである私の役目だ。
ひとくちにトゥインクル・シリーズでの活躍と言っても、その形は多種多様だ。特にクラシック級においては、皐月賞・日本ダービー・菊花賞の三冠路線を目指すのか、桜花賞・オークス・秋華賞のティアラ路線を目指すのか、どちらに進むかが非常に重大な決定になる。中長距離が適性に合わないようであれば、NHKマイルカップ、安田記念、マイルチャンピオンシップを目標にしたマイル路線や、九月のスプリンターズステークスを目指す短距離路線に進むことになる。
さらにその先、三冠路線に進んだウマ娘にとっては、シニア級では春と秋の天皇賞制覇が栄誉になるし、ティアラ路線ならヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯がそれに替わる。どちらの路線にしても海外挑戦を意識するならジャパンカップ。そしてもちろん、ファンによって選ばれる六月の宝塚記念と年末の有馬記念に出走することは、ファンあってのトゥインクル・シリーズにおいて何よりも大きな意味をもつ。
もちろんこれはGⅠ級の素質を持ったウマ娘の話であるが、バイトアルヒクマにはそれだけの素質があると私は確信している。いずれにせよ、やはり最も大きな目標を定め、それに向かってステップを踏んでいけるように逆算して目標を立てていくのが無難だろう。
そんなわけで、まずはバイトアルヒクマと、目標についてもっと具体的に話し合おうと思っていたのだが――。
「…………来ない」
トレーナー室に来るように伝えてあったはずだが、時間になってもバイトアルヒクマが現れない。何かあったのだろうか? まさか、初日からいきなりサボりでもあるまいし。そんな不真面目な子には見えなかったが……。スマートフォンに連絡も入れてみたが、電話に出る気配はない。
……ひょっとしたら、どこかで時間を忘れて走っているのかもしれない。
レースを見ているとき、レースで走っているときの彼女のあの、キラキラした銀色の瞳を思い返せば、それは充分にありそうなことに思えた。
やれやれ、仕方がない。入れ違いになったときのために、ドアに書き置きを張り紙しておいて、私はトレーナー室を出て彼女を探しに行くことにした。
まずは中等部の教室の方に向かってみたが、とうに授業は終わっており閑散としていた。グラウンドでは大勢のウマ娘がトレーニングしているが、あの特徴的な長い芦毛と褐色の肌は見当たらない。となると――。
カフェテリアへと向かってみると――いた。設置された大型テレビの前に立って、身じろぎもせずに画面を見つめている。どうやら、テレビで何かを見ていて約束の時間を忘れたらしい。しかし、今日は平日だ。ローカルシリーズのレースでも見ていたのだろうか?
『ファイフリズムとドラグーンスピア、ドバイへ向けた2人の挑戦は続く――』
ちょうど番組が終わったところらしく、画面がCMに切り替わる。直前に聞こえてきた名前には聞き覚えがあった。ファイフリズムとドラグーンスピア――。
ああ、と思い当たる。どちらも先日、3月のドバイワールドカップに招待されたダート路線のウマ娘だ。手元のスマホを見ると、ちょうどこの時間のワイドショーで、ふたりの特集が放送されていたらしい。
「ヒクマ」
背中に声を掛けると、バイトアルヒクマはきょとんとした顔で振り返り――私の顔を見て、目をまん丸に見開くと、壁に掛かった時計を見やって「あーっ!」と口元に手を当てて叫んだ。約束の時間を過ぎていることを思い出してくれたようだ。
「ごっ、ごめんなさいトレーナーさん! あうう……」
「いや、いいんだけど。――ひょっとして、君が言っていた世界一のレースって、ドバイワールドカップのことだった?」
頭を下げるヒクマに私がそう問うと、彼女は少し困ったように眉尻を下げた。
場所は変わって、トレーナー室。
「わたし、生まれたのはあの国なの。赤ん坊の頃に日本に来て、それからはずっと日本だから、向こうの記憶は全然ないし、向こうの言葉も全然話せないんだけど」
世界一のレースに出られる、世界のウマ娘。
あの選抜レースの日、彼女が語ったその夢の話を、まずはしてもらうことにした。
「でもね、お父さんとお母さんからあの国のお話はいつも聞いてたの。砂漠の中の大都市、そこで開かれる、世界で一番大きなウマ娘レースのこと。わたしのお母さんもね、そこで走ったことがあるんだって!」
ドバイミーティング。3月にアラブ首長国連邦最大の都市ドバイで開かれる、国際招待ウマ娘レースだ。開催されるレース全てがGⅡ以上、国際GⅠレースが1日に5つも開かれ、世界中から最強を自負するウマ娘が集まる、まさに世界最高のウマ娘レースである。
その中でも最後のメインレース、ダート2000メートルのドバイワールドカップは、まさに世界一のレースと呼ばれるに相応しい規模と人気を誇る。日本では芝に比べてダートの注目度はあまり高くないが、それだけにダート路線のウマ娘にとっては、ドバイワールドカップに招待されることは最大の名誉であり、そこで勝利することは日本ダート界の大目標と言ってもいい。過去、ドバイワールドカップを勝利した日本のウマ娘はただひとりしかいないのだ。
「だから、ドバイワールドカップに出たい?」
「あ、ううん、違うの違うの!」
私がそう問いかけると、ヒクマは慌てたように首を横に振る。時間を忘れるほど、ドバイワールドカップに挑むウマ娘の特集に見入っていたのだから、そういうことなのかと思ったが――。
「わたしが出たいのは、同じ日の芝のレースの方! 芝2410メートルの、ドバイシーマクラシック! お母さんが走った世界一のレースで、わたしも走りたい!」
なるほど、そういうことか。
ドバイシーマクラシックは、ドバイワールドカップのひとつ前に行われる、ドバイミーティングの第八レースだ。世界一かどうかはさておき、世界的な大レースであることに変わりはない。
バイトアルヒクマ――最初に聞いたときにはアルバイトするクマかと思ってしまったが、彼女の名前はアラビア語で「知恵の館」を意味する。アラブ生まれ日本育ち、アラビア語の名前を持つウマ娘が、母の走ったドバイの舞台に挑む――。
ドバイのメイダンレース場を走るバイトアルヒクマの姿。それは――なんて、挑み甲斐のある大きな夢だろう!
「わかった! 一緒にドバイを目指そう!」
私が拳を握りしめて頷くと、ヒクマはその目を大きく見開いて、それから満面の笑顔になって頷いた。
「うん! がんばるぞー! えい、えい、おー!」
目を輝かせ、元気いっぱいに右手を突き上げるヒクマ。その天真爛漫で曇りのない瞳を見ていると、この子のトレーナーになれて良かったと、そう思うのだった。
とは言うものの。
現実的に考えて、ドバイミーティングに参加できるとすれば、早くともシニア級の2年目のことになる。それまでに、まずは国際GⅠレースに招待されるぐらい、国内で充分な実績を積まなければならない。
「で――とりあえず、クラシック級はティアラ路線を目指すってことでいいんだよね?」
ドバイシーマクラシックは大目標として、そこへ向かってどんな風にステップを踏んでいくかが重要だ。
先日の選抜レースで4着に終わったバイトアルヒクマだが、その上位2着を争ったのが、この世代の大本命と言われているふたりのウマ娘。ジャラジャラとエレガンジェネラルだ。エレガンジェネラルは既にトレーナーが決まり、ティアラ路線を目指すことを正式に表明している。ジャラジャラはまだトレーナーが決まっていないそうだが、本人はティアラ路線志望を元から公言しているそうだから、決まり次第正式表明となるだろう。
あのレースで見せた頭抜けた素質からしても、このふたりが世代を牽引することになるのはほぼ間違いない。強敵ふたりが待ち構えているティアラ路線を敢えて選ばずとも、今のところズバ抜けたウマ娘はいないと言われている三冠路線に向かうという選択肢もあるが――。
「うん! だってあのふたりともティアラ路線なんだよね?」
「ジャラジャラと、エレガンジェネラルね」
「だったらわたしもそっち! この前は負けちゃったけど、今度は勝つぞー!」
迷いなくバイトアルヒクマはそう言い切る。強い相手との勝負を避けるという考えはハナから存在しないらしい。天真爛漫に見えて、その実、この子はかなりの負けず嫌いなのか。それとも本当に無邪気に自分の才能を信じているのか――。いずれにしても、本人がそれを望むなら、応えてあげるのがトレーナーの役目だろう。
「じゃあ、ジュニア級の目標は、12月の阪神ジュベナイルフィリーズだね」
「わ、GⅠだ!」
阪神JF。年末に阪神レース場で行われる、翌年のティアラ路線に向かうウマ娘の、ジュニア女王決定戦だ。トリプルティアラ第1戦の桜花賞と全く同じ、阪神の芝1600メートル。おそらく、ジャラジャラもエレガンジェネラルもまずはそこを目指すだろう。
「トレーナーさん、いきなりGⅠって大丈夫なのかなあ?」
「いや、もちろんまずはデビューして、いくつかレースに出て実績を積むのが前提だけどね。あのふたりに追いつくなら、そのぐらいの意気込みでいこう!」
「うん、わかった! よーし、GⅠに出るぞー!」
えい、えい、おー! とまた気合いを入れるバイトアルヒクマ。何にしても、やる気があるのはいいことだ。それじゃあ、目標の共有もできたところで、今後のトレーニングメニューについて――。
「う~~~っ、走りたくなってきた! トレーナーさん、わたし走ってくるね!」
「え? あ、ちょっと、ヒクマ!?」
昨日のうちに作っておいたトレーニングメニュー表を出そうとした瞬間、バイトアルヒクマは勝手にトレーナー室を飛び出していってしまった。「GⅠに出るぞー! がんばるぞー!」という彼女の歓声がどんどん遠ざかっていく。
目標は大きく、やる気も負けん気も充分。なのだけれども……。
――やっぱり、この子のトレーナーをするのは、結構大変かもしれない。
改めてそう思いつつ、私は慌ててその背中を追いかけるのだった。