モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
11月11日、土曜日。京都レース場。
GⅡ、デイリー杯ジュニアステークス、芝1600メートル。
「今日は今までより1ハロン短いマイル戦だけど、問題は3コーナーの淀の坂だ。外を回るにしても、焦ってコーナーで仕掛けると距離ロスがますます大きくなる。だからコーナーはぐっと我慢して、直線で勝負を……エチュード、聞いてる?」
「はっ、はい!」
控え室。レースを前にしたエチュードは、一目でわかるほど緊張していた。初の重賞、初のメインレース。あがり症のエチュードが入れ込むのも無理はないが……。
「落ち着いて。大丈夫、エチュードならやれる」
「……はい」
ぎゅっと胸元で拳を握りしめて、エチュードは俯く。私はぽんと、その短い髪に手のひらを載せた。エチュードが上目遣いに私を見上げる。私は笑って頷いた。
「ヒクマとコンプと、ゴールで待ってるから」
「がっ……がんばり、ます」
目を瞑り、何度も自分を奮い立たせようとするように拳を握り直すエチュード。場を和ませるジョークのひとつでも言えればいいのだろうけれど、あいにく私はそういうのは不得手だった。何度も深呼吸するエチュードの背中を、ぽんと叩く。
「行っておいで」
「――はいっ」
ぎこちなく私に一礼して、パドックへ向かって駆けていくエチュード。――どこかで開き直ってくれればいいんだけど。私にできることは、そう心配することだけだった。
* * *
『6番人気、10番リボンエチュード。前走の未勝利戦は道中から大外を回りながら上がり最速の末脚で最後方から差し切る、見た目に似合わぬ豪快なレースぶりでした。重賞初挑戦、どんなレースを見せてくれるでしょうか』
パドックから明らかに、今までと違った。人が多い。たくさんの人が自分を見ている。その視線に、エチュードの頭からはパドックでのパフォーマンスがぽっかり抜け落ちてしまった。
『緊張しているようですね。落ち着けるといいのですが』
おろおろと視線を彷徨わせていると、こちらに身を乗り出しているブリッジコンプの姿が目に入った。コンプが何か指図するように制服の上着を引っぱっているのを見て、ようやくエチュードは上着を脱ぎ捨てるパフォーマンスのことを思い出す。
脱ごうとすると、上手く袖が抜けず引っかかってしまい、悪戦苦闘していると観客席から笑い声があがった。ああ、もうこの場から、今すぐ逃げ出したい――。
永遠にも思える時間がようやく終わり、次のウマ娘と入れ替わりで逃げるようにエチュードはパドックを後にする。緊張と恥ずかしさとで泣き出しそうな気分になりながら地下バ道を歩いていると、
「エチュードちゃん」
声を掛けられ、顔を上げる。――こんな恥ずかしい姿を、一番見せたくない人がいた。
「……ノディ、姉さん」
リボンスレノディがそこにいた。どうしていいかわからず、エチュードは立ち止まってしまう。固まったエチュードに、ゆっくりとスレノディは歩み寄った。
背の低いスレノディは、心配そうにエチュードを見上げる。
「……エチュードちゃん」
そっとエチュードの手を取って、きゅっと握りしめるスレノディ。
「お願いしていいかしら。お姉ちゃんのぶんまで、がんばって」
「――――」
エチュードは小さく息を飲んだ。――4日前。スレノディは、明日のエリザベス女王杯の出走を回避していたのだ。秋華賞の疲労が抜けず、万全の状態で有馬記念に挑むため、というのが理由だった。――ネットの口さがない声に、「関西でテイクオフプレーンに3連敗じゃあなあ」と言われていたのも、目にしている。
出ようと思えば出られるんですのよ、とスレノディは苦笑していた。――でも、今の状態で出てもプレーンさんには勝てない。それがわかりますの、と。
それがどれだけ悔しいのか、エチュードの手を握るスレノディの手の小さな震えから伝わってくる。――エチュードは、その手を握り返した。
「……行ってきます、ノディ姉さん」
「はい、行ってらっしゃい」
スレノディが微笑む。その笑顔に見送られ、エチュードは顔を上げてターフへ向かう。
恥ずかしい思いは、ここまでだ。レースでは、絶対恥ずかしい走りはしない。
ノディ姉さんの分も。――自分を重賞に送り出してくれた、トレーナーさんのためにも。
光さすターフへ、エチュードは脚を踏み出す。その瞬間――。
歓声が、まるで重力のように、エチュードの身体にのしかかってきた。
振り返る。見上げた京都レース場のスタンドに、人、人、人。
今までの、昼間のメイクデビューや午前中の未勝利戦とは、明らかに数が違う。
メインレースを待ち焦がれる大観衆の歓声に――エチュードは。
「――――」
圧倒されて、そして。
――そこから先のことは、ほとんど何も、覚えていない。
* * *
「トレーナー、エーちゃんホントに大丈夫?」
「心配だけど、信じよう」
私は双眼鏡を手に、スタンドからターフを見つめた。2コーナーのポケットにあるゲートに、ウマ娘たちが入っていく。エチュードは12人立ての外枠10番。この前の未勝利戦同様、バ群を避けて外を回りやすいのは利点だけれど……。
「大丈夫だよ、エチュードちゃん強いもん!」
ぐっと拳を握りしめてヒクマは言う。ああ、確かにそうだ。エチュードの実力は決して低くない。本人の自己評価が低すぎるだけで、本来の力を発揮できればこのレースでも勝ち負けになるはずだ。
問題はメンタル。――いっそ、スタートは思い切り出遅れるぐらいでいい、と私は思う。あの緊張をほぐすには、もう本人が開き直るしかない。定位置の最後方につけて、自分の走り以外の雑念から自由になってくれれば――。
『全員ゲートイン完了。GⅡデイリー杯ジュニアステークス――スタートしました!』
ゲートが開く。ウマ娘たちが一斉にターフへ飛び出す。エチュードは――。
『綺麗に揃ったスタートになりました。さあハナを切るのは誰か』
好スタートを決めたウマ娘たちが先行争いを始める。――その中に見慣れたベリーショートの栗毛があるのを見て、私は思わず「ダメだ」と叫びそうになった。
『4番手にリボンエチュード、今日は前目につけました』
「え、トレーナー、先行策指示したの?」
きょとんと私を見上げるコンプに、答えることもできずに私は奥歯を噛みしめた。
後ろから上がって来たウマ娘に押されるように、エチュードが内に押し込められていく。その姿が完全に中団のバ群に包まれて見えなくなり、そのまま3コーナー。
『おおっとリボンエチュードが早くも上がって先頭に立とうかという勢い』
バ群に揉まれる中から、あがくようにエチュードが3コーナーの下り坂でもう抜け出してきてしまう。ダメだ、仕掛けるにはいくらなんでも早すぎる。先頭にとりついたエチュードは、そのまま直線入口で外に膨らんで、
――その脚は、誰が見ても明らかなほど、残り300メートルでぴたりと止まった。
そうなればもう、あとはずるずると沈んでいくだけ。あっという間に、エチュードの姿はバ群の中に飲みこまれていく。
あああああ、と隣でコンプとヒクマが悲鳴をあげるのを聞きながら、私はぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛みしめるしかなかった。
12人立ての11着。
リボンエチュードの初重賞は、苦い挫折の味しかしないレースだった。
* * *
地下バ道に戻って来たエチュードの顔は、ただただ蒼白だった。
茫然自失した様子で、ふらふらと歩いてくるエチュードを、私は出迎える。ヒクマとコンプには遠慮してもらった。今のこの状況で、結果を出している同期の友人に慰められるのは、エチュードにとって一番辛いだろうから。
「おつかれさま、エチュード」
私が声を掛けると、エチュードは、はっと我に返ったように私を見上げて。
そして、自分自身をかき抱くようにして、小さく震えた。惨敗という現実を、ようやくその頭で認識したように、その脚ががくがくと震えて、崩れ落ちそうになる。
「エチュード!」
私はその華奢な身体を支えた。私の胸元に顔を押しつけたまま、エチュードは言葉もなく、私のシャツを掴んで、ただ泣くでもなく震え続ける。
――私の責任だ。エチュードのあがり症のことはずっと把握していたのに、ここまでのレースでそれなりに対応できていたせいで対策を怠っていた。同期の最強格から名前を覚えられ、私が阪神JFへ行こうと発破をかけたことも。切磋琢磨する親友ふたりが結果を残していることも。最初から背負っているリボン家の名前も。――エチュードに自信にしてほしかった全てが、逆に重圧になって、エチュードを押しつぶしてしまった。
その結果がこれだ。道中、完全に自分を見失って掛かりっぱなし、見本のような直線で力尽きての失速。後悔してももう遅い。
「トレー、ナー、さ、わた、し」
ひっく、ひっくと喘ぐように、エチュードは何か声を絞り出そうとする。
私は――その身体を抱きしめて、背中をさすってやることしかできない。
「……これで終わりじゃないんだ。また、いちから出直そう」
「ごっ……めん、なさ」
「謝らなくていい。――謝らないで、エチュード。君が弱いんじゃないんだから。私のせいだ。全部、私の責任だから」
「そっ、んな、こと、な――っ、うっ、うううううう~~~っ」
ようやく、感情の行き場を見つけたように、エチュードの口から嗚咽が漏れる。
その背中をさすり続けながら、大丈夫、大丈夫だと、私はエチュードの耳元で囁く。
――大丈夫。悔しくて情けなくて泣けるなら、君は大丈夫だよ、エチュード。
強くなろう。心も体も、今よりももっと強くなろう。
この負けを、そのバネにするために。