モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
11月19日、日曜日。
『マルシュアス逃げる逃げる、しかし後続との差が詰まってきた、これは苦しい!』
リボンエチュードのルームメイト、マルシュアスが出走する第五レースのメイクデビュー京都、芝2000メートル。GⅠ3勝の名逃げウマ娘であるネレイドランデブーに憧れるという彼女は、果敢な大逃げ戦法を採ったが、直線で粘りきれずに次々とかわされていった。大逃げも意図したというより、道中明らかに掛かっていた結果なので完全なスタミナ切れであろう。結局、11人立ての6着という平凡な結果に終わった。
トレーナー室のテレビでそれを見ていた私は、ひとつ息を吐いて立ち上がった。無茶な逃げを打てば普通はああなる。やはり昨日のデュオスヴェルがおかしいのだ。だからこそ、ホープフルステークスでのデュオスヴェル対策を、改めて考えておかないといけない。トリプルティアラでのジャラジャラ対策にもなるわけだし――。
ヒクマには、今日は一日お休みだと伝えてある。昨日のレースの疲れをゆっくり癒して、明日からまたホープフルSへ向けて調整だ。私もしっかり準備しなくては。
とりあえず、作業にかかる前にお茶でも淹れよう。トレーナー室備え付けのコンロでお湯を沸かし、ティーバッグの緑茶を淹れて啜りながら資料を眺めていると、
「トレーナーさーん!」
聞き慣れた騒がしい声と足音とともに、トレーナー室のドアが開いた。部屋に飛び込んできたのは、満面の笑顔のヒクマである。
「ヒクマ? どうしたの、今日はお休みって言ったよね?」
私は目をしばたたかせ、それから現れたヒクマが私服姿であることに気付く。いや、日曜なのだから制服でないのは当たり前だが、ジャージでもないということはトレーニングしに来たというわけでもないのか。
白のワンピースにデニムのジャケットを羽織り、ポシェットを提げたヒクマの姿は、明らかにこれからどこかへ遊びに行こうという外出スタイルである。
ぱたぱたと尻尾を振って駆け寄ってきたヒクマは、私の机に手を突いて身を乗り出す。
「ね、トレーナーさん! お休みだから、遊びに行きたい!」
「……うん、どうぞ。エチュードとかコンプと一緒に行っておいで」
「ちがうのー! トレーナーさんと遊びに行きたいの!」
「え、私と?」
なんでまた。私が首を捻ると、ヒクマは私の横に回り込んできて、ぐいぐいと腕を引っぱり始めた。ウマ娘の力で腕を引っぱられると痛いというか椅子から落ちる落ちる。
「わ、わかったわかった。エチュードとコンプは外?」
「んーん、わたしとトレーナーさんだけ!」
「ええ?」
「コンプちゃんとエチュードちゃんから聞いたよ! トレーナーさん、エチュードちゃんが次のレースで勝てたら一緒に遊びに行く約束したんだよね?」
「……ああ、うん、そうだね」
「だからわたしも! トレーナーさんと遊びに行きたい!」
無邪気な笑顔でそう言われてしまい、私は頭を掻く。――なるほど、原因はたぶんコンプかエチュードのどちらかだろう。エチュードとの約束の話を聞いて、ヒクマが無邪気に『いいなー』と言って、ふたりのどちらかが『昨日勝ったんだから、クマっち(ヒクマちゃん)もトレーナーさんにお願いしてみたら?』と返したのがありありと想像できる。
やれやれ。まあ、山場の3連戦も終わって急ぎの仕事もないし、まあいいか。
「そうだね、じゃあ、改めて昨日勝ったお祝いしようか」
「やったー!」
両手を挙げてヒクマははしゃぐ。ぴょんぴょんと飛び跳ねる姿に、私は苦笑。
「じゃあ、どこ行きたい? 何か欲しいものでもあれば、まあ、常識の範囲内でなら買ってあげるよ。重賞勝利のお祝いに」
「んー、えっとね――」
ヒクマは顎に指を当て、ひとつ首を傾げた。
* * *
で、ヒクマとふたり、やって来たる場所はというと――。
「……しかし、なんで羽田空港?」
目的地を聞いたら返ってきた答えがそれである。まさか、この昼過ぎから飛行機で日帰り旅行というわけでもあるまいに。
既に何度も札幌遠征をしたから、羽田への道は慣れたものだ。車を出してご機嫌なヒクマを助手席に乗せ、府中のトレセン学園から約40分。
「トレーナーさん、こっちこっち!」
空港に着くと、ヒクマは元気よく私を引きずっていく。ヒクマにははっきり目的地があるようで、迷いのない足取りでどこかへと向かっていく。私はそのテンションに、ひいこら言いながらついていくしかない。もう若くないな、自分……。
いささか遠い目になりながら、そうしてヒクマに連れられてやって来たのは――。
「わぁーっ、すごい、飛行機いっぱい!」
国際線のある第3ターミナルビルの展望デッキである。フェンス越しに駐機場と滑走路を見渡せるその場所には、ジェットエンジンの轟音が絶え間なく響き渡っていた。
「ヒクマ、そんな飛行機好きだったっけ?」
少々意外に思いながら、フェンスへ駆け寄るヒクマを追いかける。今までも札幌遠征のときに羽田は利用してきたし、乗った飛行機内ではいつも通りはしゃいでいたけれど、特別飛行機が好き、という風には見えなかったが……。
「ねーねートレーナーさん、あの飛行機どこ行くのかな?」
滑走路から飛び立っていく飛行機をヒクマは指さす。
「ん? あれは……フランスエアだから、パリじゃないかな? もし凱旋門賞に出るなら、乗ることもあるかもね――」
そこまで口にして、ああ、と私は理解する。そういうことか。
私は手元のスマホで検索してみて、ひとつ苦笑する。
「ヒクマ。残念だけど、今日はドバイ行きの便は飛んでないよ」
「ええー。そんなあ」
なるほど、それが目当てだったのか。私もヒクマの隣に立って、滑走路を行き交う飛行機たちを眺める。日本と世界を繋ぐ空路の発着地。
ドバイシーマクラシック。ヒクマの大目標であるその世界的大レースに向かう日が来たら、私たちもここから飛び立つことになるのだろう。遠い中東、砂漠の中の大都市にあるメイダンレース場を目指して。
デビューから3連勝。ヒクマの競走生活はここまで、予想を遥かに上回る順調ぶりだ。この調子で結果を残していければ、その大目標も決して夢物語ではない。ヒクマがここに来たがったのは、その夢が近付いているという実感が欲しかったのだろうか。
「トレーナーさん、西ってどっち?」
「あっち」
「じゃあ、ドバイもあっちだね!」
私が指さした方に、ヒクマは手をかざして目を眇める。遠く遠く、八千キロ先の砂漠の都市がここから見えるはずもないが、それでも確かに、ヒクマと出会ったあの日から、着実にそこへと近付いていっているはずだ。
また一機、滑走路から飛行機が離陸していく。世界のどこかへと旅立っていくその機影をぼんやり眺めていると、ヒクマがくいくいと私の袖を引いた。
「トレーナーさんトレーナーさん」
「うん?」
「昨日の夜ね、お母さんから電話あったの。わたしが勝ったの、すっごく喜んでくれてた」
フェンスの向こうを見つめたまま、ヒクマはそう口を開く。
ヒクマの母。かつてドバイでレース生活を送ったウマ娘で、GⅠでの最高成績はドバイシーマクラシックでの4着。引退後に結婚してヒクマを産み、間もなく夫とともに日本に移住。現在はアラビア料理店を経営しながら、合間に日本人向けのアラビア語教師や翻訳をしている――というプロフィールは、ヒクマの担当として頭に入っている。
「ホープフルステークスは、絶対中山レース場まで見に来てくれるって!」
くるりと振り返り、ヒクマは満面の笑みを浮かべて私を見上げる。
「GⅠだもんね。娘の晴れ舞台だ、お母さんも誇らしいと思うよ」
「うん!」
嬉しそうにぐっとガッツポーズして、そして両手を大きく空に向かって広げた。秋晴れの高い空に手を伸ばすみたいに、ヒクマは背伸びして、
「お母さんね、日本に来てから一度もドバイに帰ってないんだって」
「そうなの?」
「うん。わたしが小さい頃からずっとお店が忙しかったからって。だからわたしも、お父さんとお母さんの話と、飾ってある写真でしかドバイは知らないんだけど」
西の空を振り仰いで、ヒクマはぎゅっと拳を握った。
「だからね、わたしがドバイシーマクラシックに出て、お母さんをドバイに連れてってあげるの! それでね、わたしが勝ってお母さんにトロフィーをあげるの! 世界のウマ娘になって、わたしのお母さんは世界一のお母さんだよってみんなに紹介するんだ!」
キラキラと。その目を真っ直ぐに輝かせて、ヒクマはそう言った。
――そうか、それがヒクマの夢なんだ。
ドバイシーマクラシックに出る、世界のウマ娘になる――それはつまり、故郷を離れて日本でがんばって自分を育ててくれた母親の、叶わなかった夢。メイダンでのGⅠ勝利を、母親に届けてあげること。
私は目を細め、ヒクマの頭をぽんぽんと撫でた。
「ヒクマは、お母さんが大好きなんだね」
「えへへ、うん!」
「ヒクマのお母さんのお店、行ってみたいな」
「うん! じゃあ今度トレーナーさん案内してあげるね! お母さんのアラビア料理、とっても美味しいんだよ!」
ふふふぅ、と自慢げに鼻を鳴らすヒクマの頭を、私はわしわしと撫でてやる。ヒクマは気持ちよさそうに尻尾を振って、私にじゃれついていた。
――どこまでも純粋で、どこまでも真っ直ぐ。
その綺麗な銀色の芦毛のように、キラキラとしたヒクマの瞳。
ずっと、こんな笑顔でこの子を走らせ続けてあげたい。
「う~~~~っ、うずうずしてきた!」
と、ヒクマはぶるりと身を震わせて、
「トレーナーさん! ちょっと走ってくるね!」
「あっ、こら! こんなところで走ったら危ないから!」
勝手に走り出してしまうヒクマを、慌てて私は追いかける。ウマ娘の脚に追いつけるはずはないのだけれども――。
「トレーナーさーん! 見て見て! なんか変な形の飛行機いるよ!」
反対側の角まで走って行ったヒクマは、フェンス越しに滑走路を見下ろして目を見開き、ぶんぶんと私に手を振る。
――やれやれ、この落ち着きのなさはほんと、出会ったときから変わらないな。
苦笑しながら、私はその背中へ小走りに駆け寄っていった。