モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
ウマ娘に生まれたからって、みんながみんなレースの世界を目指したいわけじゃない。
少なくとも、小学生の頃のマルシュアスはそうだった。レースなんて汗臭いしんどそうな世界より、もっとキラキラしたオトナの女性の世界に憧れていた。オトナっぽいファッションに身を包んだ雑誌のモデルや、テレビの芸能人。そういう世界で活躍するウマ娘になりたかった。
トゥインクル・シリーズだって歌ったり踊ったりするじゃない、と周りは言うけれど、走って勝つ才能と、歌ったり踊ったりする才能は別だと思った。走るのが速いから歌って踊る権利が得られるなんてどう考えても変だ。それだったら純粋に、歌と踊りが上手いからステージに立てる歌手やアイドルの方が偉いに決まっているではないか。
駆けっこなんて子供の世界じゃない。自分はオトナの世界のオトナのウマ娘になるのだ。マルシュアスは、そう信じて疑わなかった。
自分が、レースの世界に足を踏み入れるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
全てがひっくり返ったのは、小学6年生の春先のことだ。
当時京都に住んでいたマルシュアスは、日曜日、両親に連れられて阪神レース場に来ていた。親戚の子がその日の何レースだかに出るとかで、その応援に駆り出されたのだ。と言っても、マルシュアスはその親戚の子のことはほとんど知らなかったし、レースになんて興味なかったので、レース場で退屈を持て余していた。
母も若い頃、中央のトレセン学園に在籍していたことがあるウマ娘なので、レースに興味を示さない娘に、なんとかレースの魅力を伝えたいと思っていたのだろうが、そういう親からの押し付けは子供にはひたすら鬱陶しいものである。親戚の子の応援はおざなりに済ませ、もう帰ろうよ、と親に訴えると、『桜花賞だけ見ていきましょう』と言われた。
そう、その日はGⅠ桜花賞の開催日だった。レース名ぐらいは知っていたけれど、どんな大レースだろうと関係ない。どうでもいい、早く帰りたい――そう思っていた。
それなのに。
僅か1分半のそのレースが、文字通りマルシュアスの人生を変えてしまった。
ずらりと並んだ選手たちの中にひとり、小学生かと思うほど小柄なウマ娘がいた。
その芦毛の小さなウマ娘は、ゲートが開くとともに、すーっと先頭に躍り出た。
そのウマ娘の姿を、ぼんやり目で追っていたマルシュアスは――ゴールが迫ってもなお、その小さな姿が先頭のまま、後ろを突き放してゴール板を駆け抜けたそのときには、その目をまん丸に見開いて息を詰めていた。
『逃げた逃げた逃げ切った! なんとなんと、ネレイドランデブーだ! 勝ったのはネレイドランデブーです! 8番人気ネレイドランデブー、鮮やかな逃げ切り勝ち! 小さな身体で大金星! 桜の女王はネレイドランデブーです!』
うっすらと桜色がかった芦毛のサイドテールを揺らす、その小さなウマ娘の姿に、マルシュアスは釘付けになっていた。
スタンドの歓声の中、立ち止まって自分の勝利を確認したそのウマ娘は、礼儀正しくスタンドに向かってぺこりと一礼し、そして控えめに手を振った。
――格好いい、と思った。
小さな姿で、一度も先頭を譲らずにゴールまで駆け抜け。大げさに喜ぶでもなく、控えめに手を振るその姿は――どんなテレビや雑誌で見たオトナのウマ娘よりも、格好よく見えた。小さな、自分と同じ小学生かと見まがう小さな姿が、大きな、とても大きなオトナに見えた。
親にせがんで、ウイニングライブまでレース場に残った。両親はそれまで退屈を持て余していた娘が突然ライブを見たがったことに困惑していたけれど、マルシュアスはとにかく、あの小さなウマ娘の姿をもう一度見たかった。
そして――ウイニングライブのセンターで、彩Phantasiaを誇らしげに踊るそのウマ娘の姿は、マルシュアスの世界を全く別の色に塗り替えてしまった。
ネレイドランデブー。
その日から、マルシュアスにとって、「オトナのウマ娘」とは、彼女のことになった。
自分が目指すべき「オトナ」とは、ネレイドランデブーのようなウマ娘だと。
そう、規定されてしまったのだ。
* * *
12月16日、土曜日。
阪神レース場、第7レース。ジュニア級未勝利戦、芝2000メートル。
――よし、今日こそ、ランデブーさんみたいに華麗に逃げ切って勝つぞ!
デビュー戦は逃げ切れず6着だったけれど、今度は負けるものか。
絶対逃げ切って勝つんだ。――そう意気込んで、マルシュアスは挑んだものの。
『直線に入る! 先頭入れ替わってマルシュアスは後退!』
――なんで、なんで、なんでよおおおおっ!
直線入口で捕まり、あとはずるずる後退。
喘ぐばかりで脚は前に進まず――結果は、15人立ての11着だった。
「ふぉっふぉっふぉっ、まあ、気を落としなさんな。次頑張るんじゃな」
ウマ娘のトレーナーに定年退職はないのだろうか、と思ってしまう担当トレーナーは、気楽に笑ってマルシュアスを出迎えた。このおじいちゃんトレーナーは、一言で言えば極端な放任主義者である。少女漫画でよくあるウマ娘とトレーナーの恋にも憧れていたマルシュアスが、こんなヨボヨボおじいちゃんのスカウトを受けた理由はただひとつ。彼がネレイドランデブーの担当トレーナーだったからだ。
スカウトは受けたものの、しかしマルシュアスはこのトレーナーからほとんどまともな指導を受けた覚えがない。トレーニングとかレースについて教えてくれたのは、専らランデブーである。
そもそも全く期待されていないのかもしれない、とちらりと思う。自分がスカウトされたのも、ランデブーさんの口添えでしかなかったのか。……そう思っても、デビューから2戦して結果が6着と11着では、口答えもできやしない。
はああ、と溜息をつきながら地下バ道を歩いていると、見慣れた小柄な姿が視線の先にあって、マルシュアスは思わず背筋を伸ばした。
ランデブーだ。恥ずかしさにマルシュアスは視線を落とす。今日もわざわざ阪神までランデブーさんが付き添ってくれたのに、11着……。合わせる顔がない。
「おつかれさまー、マルシュちゃん」
「…………すみません、また負けましたぁ…………」
「大丈夫大丈夫、そういうこともあるよ。私だってほら、オークスは12着だったし?」
「GⅠじゃないですかぁ……。未勝利戦で11着のウマ娘がGⅠ出られるわけないじゃないですかぁ」
「デビュー戦12着で日本ダービー勝ったウマ娘だっているから、ね?」
ぽんぽんと肩を叩かれ、余計に情けなくなる。ランデブーはデビュー戦をあっさり勝って、桜花賞の前にクイーンカップも勝ってるというのに。ルームメイトのリボンエチュードちゃんだって未勝利戦を勝ち抜けて重賞にも出たのに。皐月賞まであと4ヵ月しかないのに、こんなんじゃクラシックなんて夢のまた夢だ。
あたしもレースで、ランデブーさんみたいにキラキラしたオトナのウマ娘になりたい。ただそう願ってこのトレセン学園に来たのに、現実はかくも厳しい。
マルシュアスは顔を上げる。ネレイドランデブーの顔が、自分の視線の下にある。
2年前の桜花賞で憧れたオトナのウマ娘は、実際に向き合ってみると本当に小さかった。憧れのひとが自分より明らかに背が低いということに最初は戸惑いもした。でも、こんな小さな身体でGⅠを3勝しているランデブーの凄さが、レースの世界に飛び込んで改めてよくわかった。オトナというのは身体の大きさじゃないのだと、そう教えてくれたのがランデブーなのだ。
だからこそ、ランデブーのようなオトナのウマ娘になりたいのに。
どうすれば、オトナになれるんだろう――。
「ねえ、マルシュちゃん」
「は、はい」
「こんなときになんだけど、大事な話があるんだ。いい?」
「え? は、はい、なんですか?」
不意に真剣な顔でランデブーに見つめられ、マルシュアスは背筋を伸ばした。
大事な話? なんだろう、ひょっとしてランデブーさんが海外遠征するとか――。
「私ね、来年のヴィクトリアマイルで引退する」
「――――へ?」
「来年はシニア級3年目だしね。怪我もしたし、マイルCSも負けちゃったし、そろそろ引き際考えないとって思ってたんだ。勝っても負けても、来年のヴィクトリアマイルで引退。もうトレーナーにもそう伝えてあるから」
ランデブーの言葉の意味が、咄嗟に理解できなかった。
引退。いんたい? 誰が? ランデブーさんが? 引退? 引退ってつまり、トゥインクル・シリーズから? レースで走るのを――やめちゃう、ってこと?
「え? え、ええ、ええええっ!? ちょっ、ちょっと待ってくださいよランデブーさん、なんでっ、なんで、引退なんてそんな!」
「普通だよ? 私ぐらいの実績積んでれば、むしろ今年いっぱいですっぱり引退する方が普通。それがヴィクトリアマイルまで粘ろうっていうのは、私のわがまま。かわいい後輩がデビューしたし、もうちょっとだけ現役にしがみつきたくなったんだけどね」
「――――」
「でも、来年いっぱいは長すぎかなって。だから、ヴィクトリアマイルまで」
「そ、そんな、来年の5月じゃ、あたし、ランデブーさんと一緒のレースには」
「うん、出られないね」
――そんな。
なんでそんな、あっさり、笑って言うんですか。
あたしは、ランデブーさんみたいになりたくて。
あなたに憧れて、この学園にきて。あなたと同じトレーナーに師事して。
来年の6月以降なら、シニア級のウマ娘と戦えるようになれば、ランデブーさんと同じレースで戦うことだってできるって――。
漠然とだけど、きっとそうなると、そうなれると思っていたのに。
あの日憧れた、オトナのウマ娘と同じ舞台に立てば、あたしもきっと、ランデブーさんみたいなキラキラしたオトナのウマ娘になれると、そう思って――。
がらがらと足元が崩れるような感覚に襲われて、マルシュアスは気を失いそうになる。
理想が。目標が。目の前にあるはずの、走る理由そのものが――どこかへ消えてしまう。
「……もう、そんな世界が終わるみたいな顔しないの」
「あ痛っ」
デコピンされた。痛い。額を押さえて視線を戻すと、ランデブーは。
――今まで見たことがないほど厳しい顔をして、マルシュアスを見上げていた。
「今日のレース見て確信した。私、マルシュちゃんを甘やかしすぎたなって」
「え――――」
「嬉しかったよ。私のレース見てトゥインクル・シリーズに出たいって思ってくれたこと。私みたいになりたいって言ってくれたこと。私は少なくとも、ひとりのウマ娘に夢を与えられたんだって、そのことはすごく誇らしかった」
「――――」
「でもね、マルシュちゃん。――前にも言ったけど、私は私で、マルシュちゃんはマルシュちゃん。――マルシュちゃんは、どんなに頑張ったって、私にはなれないんだよ」
ランデブーの手が、マルシュアスの短いサイドテールに触れた。
ランデブーの長いサイドテールに憧れて、でも髪の毛の長さが足りなくて、こんなぴょこんとしたサイドテールにしかならない髪型。
そもそも自分は栗毛で、ランデブーは芦毛だから、形だけでしかないのだけれど。
せめて、せめて少しでも、憧れの人みたいになりたかったのに。
「だから、明日からマルシュちゃんが勝つまで、私はしばらく個人で調整する。マルシュちゃんのことはトレーナーに任せるから」
「え、え、え――――」
「私がいたら、マルシュちゃんはいつまで経ってもキラキラした夢の世界から抜け出せないだろうからね。――マルシュちゃんが戦う相手は、憧れじゃなく、現実なんだよ」
そして、突き放すようにマルシュアスの肩を押して。ランデブーは、くるりと踵を返した。その背中はマルシュアスの全てを拒絶していて、マルシュアスはただ、金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。
「まあ、そういうことじゃ。明日からはビシバシいくぞい」
いつの間にか背後に来ていたトレーナーが、地下バ道を杖で打ち鳴らしてそう言った。
でも、その言葉はマルシュアスの耳にはほとんど届いていなかった。