モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
1月13日、土曜日。中山レース場。
第9レース、クラシック級1勝クラス、菜の花賞(芝1600メートル)。
「エチュード、大丈夫? 緊張してない?」
「はっ、はい! 大丈夫、です」
レース前の控え室。エチュードはぐっと拳を握りしめた。少なくとも、デイリー杯のときのような、入れ込んでいっぱいいっぱいという様子はない。落ち着いているのなら何よりだが。
今日のレースは中山の芝1600。いささか特殊なコース形態で、スタート直後に2コーナー、そこから下り坂という、位置取りとペース配分の難しいコースだ。
今日のエチュードは11人立ての3枠3番。内枠なので、後方待機で末脚勝負に持ち込みたいこちらとしては、直線で上手くバ群を捌けるような位置取りが重要になる。
まあでも、エチュードにはあれこれ考えさせるより、まずは自分の走りをすることに徹させる方がいいだろうと思う。もちろん勝てると信じて送り出すのだけれども、結果はどうあれ、まずはエチュード自身が納得できるレースをしてほしい。
「エチュード。今日はあれこれ細かいことは言わないよ。今までやってきたことを思い出して、走りたいように走っておいで」
「……はいっ」
大きくひとつ深呼吸するエチュード。そろそろ時間だ。エチュードを送り出そうと、背を向けて控え室のドアに手を掛けると――。
きゅっ、と。エチュードが、私の上着の裾を掴んで、私を見上げた。
「あ、あの……トレーナーさん」
「うん?」
「……その、えっと……約束の、その」
「ああ、うん、もちろん覚えてるよ。勝てたら、ぬいぐるみ買ってあげるから」
「はいっ、がっ、がんばります!」
今日一番気合いの入った返事をもらい、私は目をしばたたかせながら、パドックへ向かうエチュードを見送る。
――やっぱり、よっぽどぬいぐるみ好きなのかなあ。
* * *
――勝ったら、トレーナーさんとデート……。勝ったらデート……!
いや、もちろんデートだと思っているのは自分だけだと思う。トレーナーさんはそんなよこしまな考えはなくて、ただ担当ウマ娘にレースへのモチベーションを保ってほしいと思って、トレーナーさんなりにその方法を考えてみただけだと思う。
勝てたら欲しいものを買ってもらえる、なんて、小学生みたい。やっぱり、トレーナーさんからは子供だと思われてる。それはちょっと、うん、思うところはあるけれど……。
でも、それはそれとして。
――トレーナーさんと、デート……!
勝ちたい。いや、デートはともかく、トレーナーさんが喜ぶ顔が見たい。
そう思う自分は、やっぱり子供なのかもしれない。エチュードはそう思う。
『3番人気、3番リボンエチュード。どうでしょう楠藤さん』
『はい、前走のデイリー杯は明らかに落ち着きを欠いていましたが、今日は落ち着いているようですね。状態は良さそうです』
『さあ、ウマ娘たちがゲートに入ります。3ヶ月後の桜花賞へ、トリプルティアラを目指すウマ娘が揃った菜の花賞。オープン入りを果たすのは果たして誰か』
ゲートに入る。顔を上げると、すぐ先にコーナー。トレーナーさんたちの待つゴールは背後だ。振り返りかけて、エチュードはぐっと拳を握り直した。
勝ちたい。勝ちたい。デートのためじゃないけど、いやデートはしたいけど、とにかく、勝ちたい――トレーナーさんのために、勝ちたい!
『体勢完了――スタートしました!』
* * *
ゲートが開く。前に出て内に切り込みたい外枠のウマ娘と、そうはさせたくない内枠のウマ娘が激しく先頭の位置取り争いを繰り広げ、エチュードはそれに押し出されるように中団の後方へ。9番手で内ラチ沿いを走る格好になった。
最内はバ場が荒れ気味だ。内に押し込められて消耗しないといいのだけれど――と双眼鏡を覗きこんでエチュードの姿を追った私は、思わずほっと息をついた。
大丈夫だ。エチュードは冷静に折り合っている。
「ちょっとエーちゃん、あんな前にゴチャゴチャ固まってて大丈夫なの?」
コンプが心配そうに声を上げる。私は手元のストップウォッチを見下ろした、
――ペースが速い。2コーナーの後の下り坂で、先行集団が前のめりになっている。
これはおそらく……直線で前が潰れる流れ。それなら、あとは進路さえ確保できれば。
「エチュードちゃーん!」
ヒクマが歓声に負けじと声を張り上げる。私は柵を握りしめて、祈るようにエチュードの栗毛の姿を目で追いかけ続けた。
* * *
脚元の芝が荒れていて、ぼこぼこして走りにくい。内ラチ沿いを走りながら、エチュードは結局3コーナー前で最後方まで下がってしまっていた。
前を行くウマ娘はどんどんとコーナーを曲がっていく。それを見ながら――。
――あれ?
なんだか、周りの様子がよく見える。前を走るウマ娘の背中、横を走るウマ娘の足音。自分の周囲の状況が、感覚的に手に取るようにわかる。
気付けば一番後ろ。だけど、ここからなら――全部、わかる。
前を走っている子たちは苦しそうだ。近くを走っていた子たちが距離を詰めていく。4コーナーで隊列がぎゅっと詰まり始める。
――外が開いた。
迷いなど浮かばないまま、エチュードは荒れた内を離れて外に持ち出した。そこを走ればいい、ということがなんでだか解った。見えている。ここだ。ここから――。
直線に入った。歓声が急に鼓膜を打った。気付けばエチュードは大外にいる。まだ前方には7、8人のウマ娘。だけど――みんな、伸びあぐねている。
残り300メートル。中山の急な坂が目の前に迫る。――その先に。
『――エチュード!』
トレーナーさんの声が、聞こえた気がした。
エチュードはぐっと脚に力を込めて、芝を蹴り立てる。
前だけを見て、坂を駆け上がる。風が、身体を切り裂くみたいに強くなる。
目の前には、ただ、まっすぐ、ゴールだけが見えている――。
「エチュード!」
観客席に、本物のトレーナーさんの姿があった、
柵から身を乗り出すように、こちらを見つめている――トレーナーさんの姿に。
エチュードは、ただ。
「トレーナー、さん……!」
そのひとのところへ駆け寄るように、まっすぐに走り抜けていく――。
『外からリボンエチュードがすごい脚で伸びてきた! 抜けた抜けた! リボンエチュードが突き抜けて――ゴールインッ!』
弾けた歓声が、自分の勝利を称えるものだということに。
エチュードは、ゴールしてからもしばらく、気付かないままだった。
* * *
「2勝目おめでとう、エチュード!」
「はっ、はい……っ! トレーナーさん、私、がんばり、ました……!」
レース後の控え室。まだ息を弾ませながら、ぐっとガッツポーズするエチュードの汗で湿った短い髪を、私はくしゃくしゃと撫でる。エチュードは恥ずかしそうに身を竦めながらも、私の手に身を任せるようにして目を閉じた。
ハイペースで前が潰れる、典型的な差し追い込み有利の展開だったとはいえ、最後方から直線入口で外に持ち出して直線一気。上がり3ハロン、最速の33秒7で1バ身半差をつけた差し切り勝ちである。強い、間違いなく強い勝ち方だ。
すごい。ヒクマの走りを初めて見たときの興奮が蘇るような末脚だった。冷静に自分のレースさえできれば、エチュードには充分に重賞級の力があるとは思っていたけれど、ひょっとしたら、この子の秘めた才能は私の想像を遙かに超えているのかもしれない。
先週のコンプといい、本当に、私なんかには勿体ない、すごい子たちだ。3人ともGⅠウマ娘に――なんて大それた夢が、充分に現実的なものに思えてくる。
「あ、あの……トレーナーさん、その、えと……」
「あっ、ご、ごめん」
気が付いたらエチュードの頭を撫ですぎていた。慌てて手を離し、恥ずかしそうに俯いたエチュードに、こほんとひとつ咳払いする。
「すごかったよ、エチュード。最高の走りだった」
「……は、はいっ、あの、でも私、なんだかその、ただ夢中で……」
「それでいいんだよ! 今日の感覚、忘れないようにしよう!」
「は、はい……っ」
エチュードの肩を掴んで叩くと、エチュードは目を白黒させる。ああ、いかんいかん、私の方がまだ興奮してしまっている。落ち着け、落ち着け。
「……よし、今日のレースのことはまた後で改めて振り返るとして、だ」
私は手帖を取りだして、レーススケジュールを確かめる。エチュードもここまで半年で5戦。ちょっとレーススケジュールは詰まり気味だが……でも、今日の走りを見たら、夢を見たくなってしまう。
そう、今はまだ1月。桜花賞には、今からでもまだ充分間に合うのだ。
「エチュード、さっそくだけど、次のレースの話をしていいかな?」
「あ……はいっ、えと、次は、2勝クラス、ですよね。がんばり、ますっ」
答えるエチュードに、思わず私は苦笑する。ヒクマじゃないんだから……。
「エチュード。2勝クラスが始まるのは6月だよ」
「え……あ」
「そう、もう2勝したエチュードは立派なオープンウマ娘だ」
「――――」
言われて気付いたみたいに、エチュードはきょとんと大きく目を見開いた。……本当に自覚が無かったらしい。先週コンプが2勝目を挙げてオープン入りしたばかりなのに。レースに関する知識は3人の中で一番豊富なエチュードらしくないが……それだけ今日のレースのことだけに集中できていた、ということだろう。
「というわけで、エチュード。――3月の、アネモネステークスに行こう」
「はっ、はい――って、え? ……アネモネステークス、ですか……? それって」
「そう。――桜花賞トライアルだ」
アネモネステークス。3月10日、今日と同じ中山芝1600で開催されるリステッド競走。――そして、2着までに桜花賞の優先出走権が与えられるトライアル競走である。
GⅠ桜花賞。トリプルティアラ第1戦。その舞台に――エチュードも、送り出してあげたい。今日の走りを見て、そう思わないトレーナーがいるだろうか?
「桜花賞……トライアル……。私が……?」
「今日の走りを見せられたら当然の選択だよ。――優先出走権を取って、ヒクマとミニキャクタスと一緒に、桜花賞に出よう!」
「――――――」
エチュードは、ぽかんと口を開けたまま固まって――。
「あ……あの、ええと……その……、か、考えさせて、ください……っ」
口元を覆って俯き、困り切ったように私から視線を逸らした。
――ああっ、しまった、またやってしまった……。プレッシャーに弱いエチュードに、またいきなり前のめりになりすぎた……。
「……うん、わかった。スケジュールも詰まってるし、レース後の状態も見ながらになるけれど……桜花賞、エチュードにも挑む権利はある。そのことは、忘れないでね」
ぽんぽんと私はエチュードの肩を叩く。エチュードは俯いたまま「……はい」とだけ小さく答えた。私はひとつ苦笑して、
「――じゃあ、ぬいぐるみ買いに行くのは、来週でいい?」
その言葉に、エチュードは弾かれたように顔を上げる。
「あっ――え、えと」
「約束だもんね。未勝利戦のときより、大きいやつ買ってあげるから」
「――――はっ、はい……!」
また俯いてしまったエチュードだけれど、その頬が赤く、口元が緩んでいるのを見て、私は目を細める。――まあ、何にせよ、まずエチュードには、今日の勝利を喜んで、自信に変えてもらいたい。
エチュードに一番必要なのは、自分を自分として認めてあげることなのだろうから。