モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
「深管骨瘤……だ、そうです…………」
診察室から先に姿を現した小坂トレーナーは、俯いたままそう言った。
トレーニング中に跛行を発症して保健室に向かったミニキャクタスは、そのままトレセン学園附属病院に直行になった。ヒクマたちもとてもトレーニングに身が入る状況ではなかったため、早めにトレーニングを切り上げて様子を見に来たのだが……。
深管骨瘤。成長期のウマ娘にはよくある、しかし症状が表に出にくい厄介な故障だ。成長期のまだ未熟な骨が靱帯付近で痛み、骨膜炎や剥離骨折を起こすものである。デビュー前のウマ娘が硬い舗装路で全速力を出そうとして痛めてしまうことが多いというが……。
――ミニキャクタスの、あの驚異的な末脚。あの爆発的な瞬発力を生み出す踏み込みに、彼女のまだ成長期の脚が耐えられなかった、ということなのかもしれない。
「…………幸い、症状はそれほど重くないそうなので…………。しっかり休養を取って、再発しないように充分なケアをしながらトレーニングを積んでいけば、半年もあれば問題なくレースに復帰できる、だろうと…………」
小坂トレーナーは、ぎゅっとジャージの裾を握りしめて、震える声でそう、絞り出すように言った。私の後ろで、ヒクマが息を飲む音が聞こえる。
全治半年。今は2月。それはつまり――どんなに順調でも、春は全休を意味する。
桜花賞とオークスに――ミニキャクタスは、出られない。
「私が…………もっと、早く、気付いて、あげられ、たら…………っ」
顔を覆って、小坂トレーナーはしゃがみこんで震える。私はかがみこんで彼女の肩に手を置くが、どんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。
小坂トレーナーが、どれだけミニキャクタスのことを気にかけ、その末脚にトレーナーとしての夢を託していたのか、痛いほどわかる。それだけに――どんな慰めの言葉も、薄っぺらく思えてしまった。
「……トレーナーの、せいじゃ、ないです……。私の……自己管理不足、です」
「…………キャクタス、ちゃん……」
診察室のドアを開けて、松葉杖をついたミニキャクタスが姿を現した。顔を上げた小坂トレーナーを、ひどく申し訳なさそうな顔でミニキャクタスは見つめ、
「キャクタスちゃんっ」
ヒクマの呼びかけに――ミニキャクタスは、目を瞑って視線を逸らした。
「…………ごめんなさい」
「――――っ」
唇を噛んで震えるミニキャクタスの肩を、立ち上がった小坂トレーナーが抱き、看護師がふたりに何か声を掛ける。そして、私たちに小さく会釈すると、ふたりはそれ以上何も言わず、看護師に促されてその場を立ち去った。
私たちは、それをただ、見送ることしか出来なかった。
* * *
ホープフルステークス勝者ミニキャクタス、深管骨瘤で桜花賞とオークスを回避――。
翌日には学園を通じてそのことがマスコミにも発表され、報道された。ほとんど無名の存在からホープフルステークスで見せた驚愕の末脚で一躍、今年のトリプルティアラの主役のひとりと見られるようになった〝四強〟の一角の戦線離脱に、SNSなどでは惜しむ声と復帰を待つという激励が溢れた。
ミニキャクタスも小坂トレーナーもウマッターやウマスタグラムはやっていないので、それらの声が彼女たちに届いていたのかはわからない。
いずれにしても――ミニキャクタスが離脱しても、私たちのやることに変わりはなかった。トレーニングからまたミニキャクタスの姿が消えた。それだけと言えば……残酷ではあるが、それだけのことである。ライバルが消えたことを喜ぶ気分には到底なれないとしても――クラシックは、ミニキャクタスの復帰を待ってはくれないのだ。
ただ、そうは言っても、ヒクマ自身のメンタルはまた別問題である。
「――ヒクマ」
ウッドチップコースを軽く流していたヒクマを、私は呼び止める。ゆっくりと脚を止めたヒクマは、「なあに? トレーナーさん」と振り返った。――そのぎこちない笑顔に、私は目を伏せる。……気にせず切り替えろ、というのはやはり酷だ。だが……チューリップ賞を前に、明らかに身の入っていないトレーニングを続けるわけにはいかない。
「ミニキャクタスのことが気になる?」
「――――」
虚を突かれたようにヒクマは目を見開いて、それから俯いて「……うん」と頷いた。
怪我をした友達のことが心配。当たり前の気持ちだ。それ自体を否定はできない。だけど――私は顔を引き締めて、ヒクマに向き直る。
「深管骨瘤は、繋靱帯炎まで悪化しなければ選手生命に関わるような怪我じゃない。治療は第一にゆっくり休養を取ることだし、きちんとケアをすれば再発だって防げる」
「…………ん」
「だから――厳しいことを言うけれど、ヒクマ。ミニキャクタスの治療やリハビリに、ヒクマがしてあげられることは何もないよ。それは小坂トレーナーの役目だ」
「――っ、でも」
顔を上げたヒクマに、私は人差し指を立てて、その先の言葉を遮る。
「ヒクマ。ミニキャクタスの立場で考えてごらん。――怪我で桜花賞とオークスに出られなくなった。そうなったとき、一緒に走るはずだった友達に、ヒクマだったらどうしてほしい? レースそっちのけで自分を心配してほしい?」
私の言葉に、ヒクマは目をしばたたかせ――そして、首を横に振った。
「……ううん。わたしのぶんまで、レース、がんばってほしい」
「うん。じゃあ、今ヒクマが、ミニキャクタスのためにできることは?」
「――桜花賞とオークス、キャクタスちゃんのぶんまで、がんばる」
ぐっと拳を握りしめたヒクマの頭を、「よくできました」と私は撫でてやる。ヒクマはくすぐったそうに目を細めて、私を見上げた。
「トレーナーさん。わたし、勝ちたい! 桜花賞とオークス、絶対勝ちたい!」
「――ああ。勝とう、ヒクマ。ミニキャクタスは、秋には戻って来る。トリプルティアラの最後、秋華賞には必ず間に合うはずだ。そのとき――二冠ウマ娘として、ミニキャクタスを迎えよう!」
「うんっ! よーしっ、キャクタスちゃんのぶんまで、絶対勝つぞー!」
おーっ、と拳を突き上げてヒクマは叫び、走り出す。まだどこか空元気ではあったけれど、空元気でも感情のエネルギーのぶつけどころを見つけられたなら、それは必ずレースへ向けた力になってくれるはずだ。ヒクマの芦毛を見送りながら、私はそう思う。
楽しい、だけじゃなく――絶対に勝ちたい、という気持ち。
ミニキャクタスへの思いが、ヒクマにとって、勝利への渇望というエネルギーになってくれればいい――と、そんな風に思う私は、薄情なのかもしれないけれど。
泣いても笑っても、チューリップ賞は2週間後。そして、桜花賞は2ヵ月後なのだ。
* * *
3月2日、土曜日。阪神レース場、第11レース。
桜花賞トライアル、GⅡチューリップ賞(芝1600メートル)。
『桜の女王を目指す乙女が集う、桜花賞トライアル、GⅡチューリップ賞! 1番人気は4戦3勝、ホープフルステークス4着、6番バイトアルヒクマ。楠藤さん、やはり前走が中山2000メートル、1600はデビュー戦以来ですから、本番前に阪神1600のペースを経験させておきたいということでしょうか』
『そういうことでしょうね。近年はファンPtが充分ならトライアルを挟まず直行が多くなりましたが、ここはしっかり叩いて本番に備えるというところでしょう。ミニキャクタスが離脱した今、残る四強の一角として、ジャラジャラとエレガンジェネラルに対抗できるか、実力を見せてほしいですね』
『昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ、ジャラジャラとエレガンジェネラルのあの死闘は記憶に新しいですが――2番人気はその阪神JF3着、3番エブリワンライクスです』
『前走、最後方からのすさまじい追い込みは、相手があのふたりで無ければ圧勝でしたからね。こちらはファンPtが現状では当落線上になりそうですから、ここでしっかり優先出走権を確保しておきたいところです』
『さあ、続々とゲートインしていきます。桜の舞台を目指して、GⅡチューリップ賞、ゲートイン完了、――スタートしました!』
ミニキャクタスはそのレースを、トレーナー室のテレビで観戦していた。
画面の中で、バイトアルヒクマが走っている。いつも通りの先行策。3番手の外目。4コーナーで早めに仕掛けたヒクマが、抜け出して先頭に立つ。
大外を回して、後方から追い上げてくるのは2番人気のエブリワンライクス。もうひとり、最内を突いて突っ込んでくるウマ娘がいる。しかし、ヒクマはそのふたりを引き連れるようにして、悠然と脚を伸ばしていく。
長く伸びるヒクマのスパート。追いかけるふたりとの差は、詰まりそうで詰まらない。
『外からエブリワンライクス、ライクス迫るが、しかしバイトアルヒクマだ、やはりバイトアルヒクマだゴールインッ! バイトアルヒクマです! デビュー戦以来のマイル戦もなんのその、見事に押し切りました! 重賞3勝目、桜花賞へ視界良好!』
歓声の中、ヒクマがスタンドに向かって手を振る。半バ身届かなかった2着と3着のふたりは、大外を回って追い込んだ方は悔しそうに地団駄を踏み、内を突いたもうひとりは優先出走権を確保できたことに安堵したように息を吐いていた。
画面の中の、遠い歓声。遠いターフ。
膝の上で握りしめた拳に――小坂トレーナーの手が重なって、ミニキャクタスは無言でぎゅっと目を瞑った。
トレーナー室の静寂に、テレビの中の歓声だけが響き渡っている。