モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ-   作:浅木原忍

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第82話 アネモネステークス・落としたものは

 3月10日、日曜日。

 この日は、桜花賞トライアルがふたつ行われる。阪神のGⅡフィリーズレビュー。そして、中山のリステッド競走、アネモネステークス。前週のチューリップ賞とあわせて、今日で桜花賞の優先出走権を獲得する8人が決まる。

 

「エチュードちゃん、頑張ってね!」

「……うん、頑張るよ。私も……ヒクマちゃんと一緒に、桜花賞、走りたいから。……キャクタスちゃんのぶんまで」

 

 中山レース場、控え室。ヒクマがエチュードの手を握り、エチュードが決然と顔を引き締めてその手を握り返した。――気合いの入ったいい顔だ。ミニキャクタスが怪我で休養に入ってから、エチュードは並々ならぬ気合いでこのアネモネステークスに向けて仕上げてきた。私としても、これで勝てなかったらもうどうしようもないと思うぐらい、今のエチュードは状態がいい。桜花賞に向けてまたこの仕上がりに持って行けるだろうか……という、今から心配しても仕方ないことが心配になってしまうぐらいだった。

 

「うん、キャクタスちゃんも、きっと見ててくれるよ!」

 

 頷くヒクマ。こっちは前週のチューリップ賞を勝って、きっちり優先出走権を確保している。まあ、ヒクマのファンPtなら直行でも問題なく出られたのだが、桜花賞前のひと叩きで久々のマイルを走って、優先出走権を目指して目一杯に仕上げてきた同期たちにきっちり勝ちきったのだから、我が担当ながら本当にこの子の才能は底が見えない。

 けれど、エチュードだって決して負けてはいないはずだ。ヒクマとエチュードのふたりで、同期の二強、ジャラジャラとエレガンジェネラルの鼻を明かす――そんな夢を見てしまうのは、新人の無謀な夢だろうか? いや……それを現実にするのが、トレーナーの仕事だ。桜花賞の夢を絶たれたミニキャクタスの分も。

 

「よし、じゃあ行っておいで、エチュード。みんな、ゴールで待ってるから」

「……はいっ」

 

 背筋を伸ばして、パドックへ駆けていくエチュード。その背中をヒクマとコンプと見送って、それから私はコンプを見やった。

 

「さて――じゃあ、私たちも観客席に行こうか。フィリーズレビューもあるしね」

 

 アネモネステークスの10分前に発走するGⅡフィリーズレビューには、ユイイツムニが出走する。桜花賞に出るかどうかはまだ明言していないが……。

 

「別に、あの三つ編み眼鏡のことなんてどーでもいいけど」

 

 と、コンプは拗ねたように視線を逸らした。

 

「てゆーか、どうせあいつ勝つでしょ。見なくたってわかるし」

 

 やれやれ。相変わらずユイイツムニとチョコチョコに対してはなんというか、要求が高いコンプである。ライバルと見定めた相手が強くないと張り合いがないという気持ちはわかるけれども。

 ――言いながら、コンプは少し脚元を気にするように足首を回した。

 私はその仕草を視界の端に捉えながら、――それについてしっかり話すのはこのあとだな、と改めて思う。

 今は、エチュードの戦いを見守ろう。

 

 

       * * *

 

 

『ユイイツムニ逃げる逃げる止まらない! ユイイツムニです! ユイイツムニ完勝! 涼しい顔で逃げ切りました!』

 

 中山レース場のターフビジョンに映し出された、阪神レース場。薄曇りの空の下、フィリーズレビューをユイイツムニが1番人気に応えて1馬身半差で逃げ切り完勝していた。やはり1400までなら、彼女はこの世代のトップだ。

 

「だから言ったじゃない。あいつが勝つって」

 

 腕組みしたコンプは素っ気なくそう言って、もうターフビジョンから視線を外す。私はその姿に苦笑しつつ、スターティングゲートに切り替わったターフビジョンの画面を見やった。映し出される出走ウマ娘たちの中に、エチュードの姿も見える。

 

『さあ桜の舞台へ、残る優先出走権ふたつの椅子を駆けて12人のウマ娘が挑みます、桜花賞トライアル、リステッド競走、アネモネステークス! 今年の桜花賞は、近年稀に見るハイレベルな三強対決との前評判ですが、そこに割って入る新たなスター候補が現れるでしょうか。楠藤さん、本命はずばり?』

『そうですねえ、2番人気の8番、リボンエチュードですね。前走の菜の花賞は非常に強い勝ち方でしたし、同じ中山1600ですから、あの末脚を再び見せられるようなら、桜花賞が楽しみになると思います』

 

「わ、トレーナーさん、エチュードちゃん本命だって!」

「うん、今のエチュードにはそれだけの力があるよ。大丈夫」

 

 はしゃぐヒクマに頷いて、私はぎゅっと拳を握りしめる。

 ――そう、大丈夫だ。大丈夫のはずだ。不慮のアクシデントでもない限り、今日のエチュードなら、間違いなく勝ち負けになる。

 頑張れ、エチュード。君は、君自身が思ってるより、ずっと強いんだから――。

 

 そう、信じていたし、確信していた。

 アクシデントさえなければ、エチュードは桜花賞の優先出走権を獲れると。

 だが。――何が起こるか解らないのがレースだということを。

 この数分後に、私たちは思い知らされることになる。

 

 スタートはまずまずで、エチュードは中団やや後ろの外目につけた。バ群に包まれてはいないし、外を回しての末脚勝負はエチュードにとって望むところの展開。位置取りとしては理想的だし、しっかり冷静に折り合っている。流れも、速すぎも遅すぎもしないミドルペース。大丈夫だ。この展開なら――。

 手応えを感じながら見つめていた私は――けれど、4コーナーに入ったところで、僅かな違和感を覚えた。何か、何かおかしい。エチュードはしっかり折り合って外目を回りながらも中団でしっかり脚を溜めている。問題ない展開のはず――。

 

「トレーナー?」

 

 コンプが不思議そうに私を見上げた。4コーナーを過ぎて、直線に入る。エチュードの走る姿がだんだんと近付いてきて――私は違和感の正体に気付いた。

 左右のバランスがほんの少し崩れている。故障ではない。走りにそこまで大きな影響の出るほどではない、けれどおそらくエチュード自身も感じているだろう違和感。それが示す現象はひとつだ。

 

「――ダメだエチュード、無理するな!」

 

 私は思わず、そう叫んでいた。だが――。

 エチュードが外からスパートをかける。中団から一気に先頭へと迫る。中山の急坂を駆け上がって――。

 坂を上りきったところで、先頭に並びかけたエチュードの脚の伸びが、止まった。

 失速、というほどではない。だが、明らかに加速が止まった。かわしかけた先頭集団が、脚色の鈍ったエチュードを差し返して前に出る。

 ヒクマとコンプが悲鳴を上げた。そのまま、集団がひとかたまりになって、目の前のゴール板を駆け抜けていく。

 ――エチュードの姿は、その集団の中に埋もれていた。

 

 

       * * *

 

 

 6着。それがアネモネステークスの結果だった。

 だが、そんなことは今はもうどうでもよかった。

 

「エチュード!」

 

 全ウマ娘がゴールしてレースが終了した瞬間、関係者席の柵を乗り越え、ゴールして芝生の上で脚を止めたエチュードへ、私は脇目も振らずに駆け寄った。

 

「と、トレーナーさん? 待って待って」

「ちょっと、トレーナー!」

 

 ヒクマとコンプも慌てて柵を乗り越えて追いかけてくる。足を止めて掲示板を振り仰いでいたエチュードは、私の声に気付いたのか、茫然とした顔で振り返った。

 

「……トレーナー……さん」

 

 短くした髪から汗のしたたるままに、荒い息をつくエチュード。まだレースの結果を受け止め切れていない様子のエチュードに構わず、私はエチュードに駆け寄ると、その脚元にしゃがみこんで、エチュードの白いタイツに包まれた脚、そのシューズを掴んだ。

 

「脚上げて、エチュード」

「え……あ……」

 

 エチュードの左足を持ち上げる。――あの違和感の正体が、厳然とそこにあった。

 シューズの底に打ち付けてある蹄鉄が、外れてなくなっていた。

 落鉄――。それ自体はレース中にはままあるアクシデントだ。ウマ娘にとっては地面を踏みしめる脚の感覚が変わるわけだが、完全に外れきってしまえば、気にせずにそのまま走りきってしまうことは珍しくない。

 だが――外れかけでぶら下がったままでしばらく走っていたとすれば――。

 あの、坂を上りきったところで脚が止まったのは、おそらく。

 

「脱がすよ」

 

 エチュードの返事も待たず、シューズの紐を解いて、私はそのシューズを脱がせる。エチュードの白いタイツに包まれた脚を引き抜いた瞬間、そこにあった光景に、私はぎゅっと目を瞑った。

 ――エチュードの白いタイツの爪先が、赤く染まっていた。

 

「エチュードちゃん……!」

 

 私に追いついたヒクマとコンプが、赤く滲んだエチュードの足先に息を飲む。

 私がその爪先に触れると、茫然とした顔で私を見下ろしていたエチュードは、「痛っ」と反射的に声をあげていた。

 

「医務室、行くよ!」

 

 私は夢中でエチュードの身体を抱え上げる。呆気にとられた顔のヒクマとコンプに構わず、私はエチュードを抱っこして、医務室へ向かって駆け出していた。

 自分でも言葉にできない感情が、頭の中をぐるぐると渦巻いたままで。

 

 

       * * *

 

 

 ウマ娘のシューズに打ち付けてある蹄鉄の役目は、時速60キロ以上で走るウマ娘の脚や爪先を衝撃やコース上の異物から守ることである。

 落鉄がレースの敗因に挙げられることは多いが、落鉄がどこまでウマ娘の競走能力に影響を及ぼすかは、未だによくわからないというのが実際のところだ。

 それよりも怖いのは、外れかけた蹄鉄を自分で踏んで怪我をしてしまうこと――。

 

「……良かったよ、大きな怪我じゃなくて」

 

 医務室を出た私は、務めて明るく、俯くエチュードにそう声をかけた。

 幸い、エチュードの怪我は左足の爪が割れて出血しただけだった。爪にかなり大きな裂け目ができていて、相当痛かったはずである。とはいえ骨に異常はないので、競走生命を左右するような怪我ではない。落鉄した状態で、坂でバ場の少し荒れたところに脚を引っかけてしまったせいだろう――というのが、診察した医師の診断だった。

 

「………………」

 

 エチュードはまだ、現実を受け止め切れていないように黙って俯いている。

 

「エーちゃん」

「エチュードちゃん!」

 

 コンプとヒクマが心配顔で駆け寄ってきて、ようやくエチュードは顔を上げる。心配そうな友人ふたりの表情を見て、エチュードはそれから私の顔を見上げて――。

 

「……トレーナー、さん……わた、し……わたっ、し」

「エチュード」

 

 今頃になって、理解が現実に追いついたように、エチュードは声を震わせた。私はその短い髪にぽんと手を乗せて、くしゃくしゃとその髪をかき乱した。

 少なくとも、エチュードのせいではない。落鉄はどんなにしっかりシューズの管理をしていても、たとえば近くを走っていたウマ娘にシューズの端を踏まれたりして起こりうるアクシデントだ。……こればかりはもう、どうしようもない。

 運がなかったといえば、それまでだ。――それまででしかないということが、悔しい。

 

「エチュードのせいじゃないから」

「――――」

「痛かったでしょ。よく走りきったね。……エチュードは何も悪くないんだ」

「……っ、~~~~~~っ!」

 

 何を言いたいのか自分でもよくわからない私の言葉に、エチュードは肩を震わせる。私はその身体を抱きしめて、ぽんぽんと頭を撫でてやることしか出来なかった。

 爪が割れただけ。重傷ではない。――けれど、あれほど爪を痛めた状態で無理はさせられない。あの爪の状態では……おそらく、オークスに間に合うかどうか。

 

「出直そう。もう一回、イチから出直そう。……まだ無理する時じゃない。三女神様がきっと、そう言ってるんだ」

 

 私のシャツをぎゅっと握りしめて、エチュードは声もなく震え続ける。

 ヒクマとコンプが、その肩にそっと手を置いた。

 ――そうして、エチュードの震えが治まるまで、私たちはそうしていた。

 

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