モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
3月16日、土曜日。中京レース場。
クラシック級GⅢ、ファルコンステークス(芝1400メートル)。
『さあ今日のメインレースです。クラシック級の短距離・マイル戦線を占う一戦、GⅢファルコンステークス! 圧倒的1番人気は京王杯ジュニアステークス2着、朝日杯フューチュリティステークス4着のチョコチョコ。満を持して重賞初勝利を狙います』
テレビの画面の中、軽くストレッチをするチョコチョコの姿。
私は――コンプと一緒に、トレーナー室でそれを見つめていた。
じっと画面を見つめるコンプの横顔に浮かんでいるのは、その場に立っていない自分に対する憤りなのか、立てなかった悔しさなのか、不満なのか――私には推し量ることしかできない。
やっぱり、出走させてあげるべきだっただろうか――?
自分の決断に、迷いが生じる。この選択で、私は、コンプとこれからも信頼関係を築いていけるのだろうか。コンプにとって……ここで回避を決断したことは、きちんと納得できているのだろうか……。
『ゲートイン完了――スタートしました!』
そんな思いを遮るように、テレビの中でゲートが開く音がした――。
* * *
5日前、月曜日。
「はぁっ、はぁ……ッ、トレーナー、タイムは!?」
立ち止まって振り返ったコンプの問いに、私は黙って首を横に振った。コンプの顔が歪み、拳を握りしめて唇を噛みしめる。
「――ッ、じゃあもう一本!」
「コンプ!」
私は思わず声を上げて、コンプを呼び止めた。コンプが振り返る。
「なに、トレーナー」
警戒心に溢れた声。それは、何を言われるのか、おそらくコンプ自身も察していたからだっただろう。私は逡巡を振り切るように首を振って、コンプへと歩み寄った。
「今日は、これで終わりにしよう」
「――っ、まだ、全然、こんなんじゃ――っ」
「ダメだよ、コンプ。……今の状態じゃ、何本走っても同じだ」
首を振った私に、コンプが顔を歪めて唸る。私はその脚元にしゃがみこんで、コンプの脚に触れる。熱をもったコンプのふくらはぎをさすり、息を吐く。そして、顔を上げて、コンプの顔を見つめて言った。
「ファルコンステークスは、回避しよう」
「――――ッ」
「……ごめん、私の判断ミスだ。コンプの状態が上がってこないのは解ってたのに、決断を先送りにしすぎた。ここで無理をしてレースに出たら、コンプが無事に走りきれるか、私は確信が持てない。……この状態で、コンプをレースに出したくない。ふくらはぎ、張ってるんでしょ?」
「…………クマっちから聞いたの?」
「見てればわかるよ。このところずっと走ってるとき、いつもの集中力がないから。ふくらはぎを気にしてるのは、わかってた。……わかってたのに、様子見と自分に言い聞かせて、ちゃんと話をするのを先送りにしすぎた。……でも、昨日のあれで――」
「…………っ」
私が何を言いたいのか、コンプはそれだけで解ったように俯いた。――エチュードの怪我。レースでは何が起こるかわからない、その怖さを、私は今さらのように思い知った。
それを思い知ってしまうと――ここでリスクを無視するなんてことは、できない。
「っ、でもっ、あいつから言われたんだから! ファルコンステークスで待ってるって、それなのにっ、怪我したわけでもないのにっ、ここであたしが尻尾巻いて逃げるなんて、そんなこと――っ」
「逃げるんじゃない!」
コンプの言葉に、私は反射的にそう大きな声で言い返していた。コンプがびくりと肩を震わせる。私は立ち上がって、コンプを見下ろした。
「コンプ。正直に答えて。――今、この状態でチョコチョコと戦ったとして……その結果に、コンプは納得できる? 勝ったとしても、負けたとしても」
「――――」
口ごもったということ、即答できないということが、即ち答えだ。
コンプ自身だってわかっているのだ。今の状態では、5日後のファルコンステークスまでに満足のいくコンディションには持って行けないと。……おそらくは、勝てないと。
そんな自己認識で勝負に挑んだら、どんな結果でも、その認識は歪んでしまう。無理を押しても勝てると思って、もっと無理をしてしまうか。あるいは、事実にかかわらず相手が手を抜いたとか、調整に失敗したとかの理由を探してしまうのではないか。――そして、負けたときには「状態が悪かったから仕方ない」という言い訳ができてしまう。……最強を目指すコンプに、そんな言い訳癖をつけたくはなかった。
「デビューから5戦もして、思ったより疲れが溜まってたんだ。回避は情けないことでも、恥ずかしいことでもないし、まして今は無理するときじゃない。本番は9月のスプリンターズステークスなんだから。……最強のウマ娘になれるコンプに、こんなところで怪我させたり、悪い状態を言い訳にしてこれ以上黒星を増やさせるわけにはいかないよ」
務めて笑顔で、私はコンプの頭をぽんぽんと撫でる。俯いたコンプは「……撫でるなってば」と俯いたままそう言って、ぎゅっと拳を握りしめた。
「それでも、どうしても出たいというなら、コンプの意志は尊重するし、今の状態で最大限コンプがいい結果を出せるように努力する」
私の言葉にコンプは、驚いたように顔を上げた。
「最終的な登録は3日前、明後日だ。今晩一晩よく考えて、明日答えを聞かせてほしい。ファルコンステークス、出るのかどうか。――コンプの競走人生だ。私が一番いいと思う選択が、コンプにとって一番いい選択とは限らないからね……。コンプが決めたことなら、その責任は全部私が負うから。……よく考えて、明日、決めよう」
小さく頷いたコンプが、翌日出した答えは、回避だった。
* * *
――なんだ、あの生意気な栗毛のチビ、本当にいないのか。
スターティングゲートの前で出走メンバーを見渡して、チョコチョコは息を吐いた。
疲労が抜けず回避――という話は聞こえていたが、こっちが熨斗をつけて返してやった挑戦状にそっぽを向かれたというのは、いささか腹立たしい。トレーナーは「向こうの担当トレーナーが強く止めたんだろう」と言っていたけれども……。
まあいい。同じ路線の同期だ、きっちり叩き潰す機会はまたあるだろう。その前に、まずは重賞ひとつめ、きっちり勝っておかなくては。なんといっても今日はぶっちぎりの1番人気だ。先週にはムニっちがフィリーズレビューを勝ったんだし、これで負けたら情けない。あの栗毛のチビにまで笑われる。
ぐるぐると肩を回していると、「やや、チョコさん!」と背後から聞き慣れた声がした。振り向くと、学級委員長のバイタルダイナモが笑顔で片手を挙げている。
昨年末に未勝利戦を勝ち抜けたダイナモは、先月の1勝クラスをボロ負けしたにもかかわらず、抽選を通って果敢にこの重賞に出てきていた。フルゲート18人中、最低人気の18番人気である。
「やー、委員長。今日はよろしくぅ」
「はい、よろしくお願いします! いやあ、初めての重賞、緊張しますね!」
「全然緊張してるように見えないけどぉ?」
「いやいや、それほどでも! まあ今日の私は残念ですが最低人気ですからね! 皆さんの胸を借りるつもりで挑ませていただきます! チョコさんは断然の一番人気だそうで、さすがですね!」
「ま、それほどでもぉ? 褒めたって委員長に勝ちは譲らないよぉ」
「もちろんですとも! 正々堂々、悔いのない勝負をいたしましょう!」
それでは! と大きく手を振ってゲートへ向かうバイタルダイナモ。なんだか毒気を抜かれて、チョコチョコはひとつ息をつき、自分もゲートへと向かう。
さてと。それじゃあ重賞一個目、いただいちゃいますかぁ――。
『ゲートイン完了――スタートしました!』
ゲートが開くと同時、チョコチョコはダッシュをつけて飛び出した。スプリント戦は絶対的に逃げ・先行が有利。出負けした時点で7割方レースは終わりだ。両サイドのウマ娘を制するようにチョコチョコは前に出る。よし、スタート大成功!
内からも外からも、強引にチョコチョコより前に出ようとするウマ娘はいない。誰もいかないの? じゃあ――いっちゃいますか!
『さあダッシュをつけて先頭に立ったのは1番人気チョコチョコです! どうやらチョコチョコがレースを引っぱります。1バ身後ろにバイタルダイナモ、最低人気のバイタルダイナモがつけました』
――おっ、委員長?
内ラチ沿いに構えてちらりと後ろを振り返ると、バイタルダイナモがぴったり自分の後ろについてきていた。へえ、いい位置取ったじゃん――。
左回りの中京レース場のコーナーを曲がっていく。――先頭を走るのって、なんかリズムが取りにくいな。前に誰かいてくれた方がやっぱりやりやすいけど、まあ、仕方ない。
直線入口でチョコチョコはもう一度後ろを振り返る。まだダイナモはぴったり後ろで2番手につけている。外からは他のウマ娘たちもスパートをかけて追い込んできた。けどまあ――怖い相手はいない!
直線に入ったところで、チョコチョコは力強く踏み込んでスパートをかける。
『さあ直線入って先頭はチョコチョコ、その後ろにバイタルダイナモ、外から――』
残り200メートル。脚は軽い。余裕余裕、このまま押し切り――。
チョコチョコが、そう思った瞬間。
――すっと、横に並んでくる影があった。
『チョコチョコ逃げる、逃げるがしかし、バイタルダイナモ! なんとバイタルダイナモがきた!』
――委員長!?
思わず、チョコチョコは我が目を疑った。すぐ後ろにいたはずのバイタルダイナモが、いつのまにかすっと外から横に並んできていた。――眼鏡の奥のその顔を、いつもの能天気な学級委員長の笑顔ではなく、闘争心に溢れたウマ娘の顔にして。
その横顔に、チョコチョコはぞくりと背筋が泡立つのを感じる。
――これが、あの委員長? お人好しで暴走がちな、あの――。
『かわした! かわした! バイタルダイナモかわして先頭!』
残り100メートル。そのまま、ダイナモの背中が前に出て行く。
そんなバカな。ちょっと道中やりにくかったけど、脚は全然残ってる。スパートのタイミングだって間違ってない。間違いなく押し切れるはず、そのはずなのに――。
バイタルダイナモの背中が――逆に、遠ざかっていく。
『なんとなんとバイタルダイナモだ! バイタルダイナモ、先頭で――ゴールッ!』
先を行ったふたりがゴール板を駆け抜けたとき、中京レース場に響き渡ったのは、歓声よりもどよめきだった。
『2着チョコチョコ! なんとなんとバイタルダイナモ! 最低人気のバイタルダイナモが2番手追走から直線鮮やかに抜け出して、1番人気チョコチョコをあっという間に差し切りました! これが最低人気ウマ娘の末脚か!? これは驚きましたファルコンステークス、大波乱の決着です!』
――ウッソでしょ?
よろめくようにターフに仰向けに倒れこんで、チョコチョコは茫然と青空を見上げた。
歓声が遠い。逆さまになった視界の向こうで、バイタルダイナモがぴょんぴょん飛び跳ねながら客席に向かって手を振っていた。
現実とは思えないまま、チョコチョコはダイナモが「チョコさん、大丈夫ですか!」と駆け寄ってくるまで、しばらくそのままターフに横たわっていた。
* * *
「ちょっと、なによそれ! なにやってんのよあのバカ――ああもうっ!」
ゴールの瞬間、テレビの前でコンプが立ち上がって、そう声を上げていた。
私も驚いた。チョコチョコが完全に押し切る流れと思った瞬間、ずっとその後ろにぴったり貼り付いていたバイタルダイナモが一瞬で並んで差し切ってしまった。逃げるチョコチョコを徹底マークして一瞬の切れ味に賭けた、まさに完璧なレース。――それをやったのが、なんと前走惨敗の最低人気のウマ娘なのだから、唖然とするしかない。
中継画面が跳びはねるようにして喜ぶダイナモと、茫然とターフに倒れこんだチョコチョコを映している。それを前にして――コンプは。
「ああ……ったく、もういい!」
リモコンを手に、勝手にテレビを消してしまった。そして、むくれた顔で私を振り返る。
「……トレーナー。マッサージして」
「え? あ、うん」
「葵ステークス、今度は絶対に間に合わせるから!」
床にマットを広げて、口を尖らせながら腹ばいになるコンプ。私はその脚元に屈み込んで、コンプのふくらはぎに手を添えた。マッサージ術はトレーナー養成校で一通り学んでいる。このあたりのケアもトレーナーの役割のひとつだ。
ぐっと指でふくらはぎを押すと、「んんっ――」とコンプがうつ伏せて呻く。まだ張っているふくらはぎの筋肉を、まずはしっかりほぐしてやらないといけない。
本当は、ゆっくり休みをとって温泉にでもつれて行ってあげたいところだけど――。
「大丈夫? コンプ」
「……ん、平気」
ぐっと指を押し込むと、「うぐぅっ」とコンプはまた呻いた。――それでも、4日前よりはだいぶほぐれてきている。次の目標まで2ヵ月ちょっと。立て直す時間は、充分ある。
ブリッジコンプ。次走、5月25日、葵ステークス(GⅢ)。