モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
トレセン学園には、深夜に学園の体育館が開放される日が年に何度かある。
普段、この時間にはもう眠りに就いているウマ娘たちが眠そうな目を擦りながら、あるいはとても寝付けそうにないという興奮した顔で、体育館に集まっている。
そのプロジェクターに映し出されているのは――遠い海外の大レースの中継だ。
『さあ今年のドバイミーティングもいよいよ残すところ2レースとなりました。第8レース、GⅠドバイシーマクラシックの発走が近付いております。日本からは3人のウマ娘が参戦します。あっ、姿が映りました。テイクオフプレーンです! 昨年の桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯の変則トリプルティアラ、芦毛の逃亡者テイクオフプレーン!』
3月23日――いや、日付が変わったからもう24日だ。アラブ首長国連邦、砂漠の都市ドバイ、メイダンレース場。そのターフを吹き抜ける風に、テイクオフプレーンの芦毛のロングヘアーが揺れている。
体育館に集まったウマ娘たちから歓声があがる。世間一般でも高い人気を誇るテイクオフプレーンは、学園内にも大勢のファンがいる。
そんな歓声を聞きながら、私は息を切らせて体育館に駆け込んだ。なんとかドバイシーマクラシックに間に合った。仕事をしながらトレーナー室のテレビでここまでのレースは見ていたが、このシーマクラシックだけはここでヒクマと一緒に見ようと思っていたのだ。
ヒクマの母親も走ったレース。ヒクマの夢の場所。あの場所に立つために、これから私たちはトリプルティアラの戦いに挑むのだ――。
しかし、思った以上に観戦に集まっているウマ娘が多い。この中からヒクマを探し出せるだろうか? と視線を彷徨わせていると――見覚えのある栗毛が見えた。集団から距離を取るように、体育館の一番後ろで腕組みしているのは、リボンスレノディだ。自身も週末には大阪杯を控えた身のはずだが、最大のライバルの大一番となれば無関心ではいられないだろう。
そして、スレノディの隣に、エチュードとコンプの姿が見える。
――だけど、肝心のヒクマの姿が見当たらなかった。
「あっ……トレーナーさん」
歩み寄ると、エチュードが私に気付いて振り返る。コンプとスレノディも振り向き、スレノディは笑顔で手を振り、コンプは困ったように眉を下げた。
「こんばんは~」
「やあ、こんばんは。なんとか間に合ったけど――コンプ、ヒクマは?」
私がルームメイトのコンプに訊ねると、コンプは眉を寄せて肩を竦める。
「外に走りに行ったまま戻ってこないの、クマっち」
「――え?」
「最初のゴドルフィンマイルからUAEダービーまでは部屋で見てたんだけど、そのあと『ちょっと外走ってくる』って言って出てっちゃって。シーマクラシックは前からノディさんと一緒にプレーンさん応援しようって言ってたし、さすがにシーマクラシックまでには戻ってくると思ってたけど……」
そこまで言って、コンプは私に軽く手招きした。私が屈み込むと、コンプは声を潜めて私に耳打ちする。
「……ぶっちゃけ、エーちゃんが怪我してから、クマっち変。トレーナーだって気付いてたでしょ?」
「――――」
「去年なんかドバイミーティングの日は一日中はしゃいでたのに、今年はなんか全然らしくない顔して、レース見てても楽しそうじゃないの、あのクマっちが。……トレーナー、探しに行った方がいいと思う」
コンプが真剣な顔でじっと私を見上げる。――その違和感は、私もここ数日ずっと感じていたことだ。ミニキャクタスが離脱した後もそういう節はあったが、エチュードがアネモネステークスで怪我をして敗れてから、ヒクマの様子が明らかに今までと違った。桜花賞へ向けたトレーニングに挑む顔つきが変わった。これまでになく真剣な様子で――それは普通のウマ娘であれば、気合いが入っている、良い兆候だと感じられるはずのものだった。コンプが同じ顔をしていたら、私はやる気の証だと受け取っただろう。
だけど、ヒクマの場合は。――何か、危ういものを感じた。
その違和感が、今のコンプの囁きで具体的な懸念に変わった。――大目標の、ヒクマの夢であるはずのドバイミーティングの日に、ヒクマがはしゃいでいない。楽しそうにしていない。――それは、たぶん深刻な警報ランプだ。
「解った。……ちょっと、ヒクマを探しに行ってくる」
「ん。――頼んだからね、トレーナー」
コンプに背中を押され、心配そうなエチュードと怪訝そうなスレノディに見送られ、私は体育館を飛び出した。
ヒクマ、どこにいる? 君の夢が、もうすぐ走り出す時間じゃないか――。
* * *
存外、ヒクマの姿はあっさり見つかった。
こんな深夜、起きているウマ娘はみんなドバイミーティングに熱中している。そんなときにウッドチップコースをぐるぐる走っているウマ娘なんて、そういるはずがなかった。
「ヒクマ!」
私が駆け寄ってその名を呼ぶと、ヒクマはゆっくりと脚を緩め、息を弾ませながらこちらをぼんやりと振り返った。
「……トレーナー、さん」
その顔に、いつもの天真爛漫な笑顔はない。私はどんな態度を取るべきか少し迷って、それから敢えて、顔を引き締めてヒクマに歩み寄った。
「あ、えと……んっ」
ハンカチを取りだして、ヒクマの顔の汗を拭ってやる。まだ3月、夜風は冷える。タオルでも持ってきていれば良かったのだが、仕方ない。
「ヒクマ。――もうすぐドバイシーマクラシックだよ。見ないの?」
私がそう問いかけると、ヒクマははっと顔を上げ――。
「あっ、もうそんな時間なんだ! うん、行こ行こっ、トレーナーさん!」
無理に作ったような笑顔で、私の横を通り抜けて走り出そうとする。
――たまらなくなって、私はヒクマの手を掴んで止めた。
「トレーナー……さん?」
振り返ったヒクマの顔に浮かんだ困惑に、私はゆるゆると首を横に振る。
違う。そうじゃない。ヒクマ、走っているときの君は、決してそんな顔はしなかった。
「……ヒクマ。今、走るの、楽しい?」
私のその問いに、ヒクマはその目を大きく見開いて――。
そして、叱られた犬のように、目を伏せてうなだれる。
「…………なんで、かな? トレーナーさん。……このごろ、レース見てても、走ってても、なんだか……今までみたいに、楽しく、ないの」
「――――」
「今日も……ドバイのレース見てたら、なんだか……なんだか、こんなことしてちゃいけない気がして、走らなきゃって思って、でもっ、走っても走っても、全然もやもやしたのが消えなくて――」
訥々と語るヒクマは、私の手をぎゅっと強く握りしめた。
その手を握り返して――どうすればいいのだろう、と私は思う。
今のヒクマを追い込んでいるもの――それはたぶん、親友ふたりの怪我だ。ミニキャクタスもエチュードも、怪我で桜花賞の夢を絶たれた。一緒に桜花賞を走ろうと約束した友達ふたりのぶんまで、自分が頑張らないといけない――という無意識の重圧が、ヒクマの背中に呪いのように貼り付いているのだとすれば。
ミニキャクタスのときには、まだそれをエネルギーに変えてチューリップ賞に挑めた。だけど、そこにエチュードの怪我まで重なって、ヒクマの許容量を超えてしまったのか。
思えばヒクマには、前からそういうところがあった。ビウエラリズムから重賞制覇を祝福されたときも。ミニキャクタスが怪我で離脱したときも。ただ楽しいから走っている最中、不意に自分が誰かよりも恵まれた位置で走っていることに気付いてしまうと、「あれ?」と戸惑って立ち止まってしまうところが。
ヒクマは真っ直ぐで優しい子だ。他人を思いやれる子だ。だけどそのことが、ある種の罪悪感としてヒクマにのしかかっているのであれば――。
どうすればいい? どうすれば、ヒクマのその重圧を取り除いてあげられる?
桜花賞まであと3週間もない。今の精神状態で、ヒクマを桜花賞に送り出すのは――。
「ヒク――」
どんな言葉をかけるべきか決められないまま、私がその名前を呼ぼうとしたとき。
――体育館の方から、大きな歓声が聞こえてきた。
思わず私は腕時計を見る。――ドバイシーマクラシックの発走時刻だった。
「ヒクマ。――ここで一緒に見よう」
私はポケットからスマホを取りだして、URAの配信チャンネルを起動した。スマホの小さな画面に、メイダンのターフを走るウマ娘の姿が映し出される。
ヒクマが、私の横から画面を覗きこんだ。――その画面で、先頭を走っているのは、見慣れたあの芦毛。テイクオフプレーンだ。
『6番テイクオフプレーンが逃げています、リードは1バ身半、手応え充分で直線へ』
夜のドバイ。ターフの上を駆け抜けていく、芦毛の逃亡者。
『テイクオフプレーン粘る、テイクオフプレーン粘る、外からエナジェティック! 最後方からエナジェティックが追い込んできた! テイクオフプレーン、エナジェティック、エナジェティックかわすか、テイクオフプレーン、エナジェティックー!』
体育館の方から、ああああああっ、という悲鳴が聞こえた。
スマホを覗きこんでいた私も、思わず天を仰いだ。
あと少し、あと一歩で逃げ切りというところで、テイクオフプレーンをアタマ差、イギリス代表エナジェティックが差し切った。テイクオフプレーンは2着――。
勝ったエナジェティックが力強くガッツポーズし、観客へ手を振る。脚を止めたテイクオフプレーンは膝に手を突いて荒く息を吐き、掲示板を振り仰いで、そのままばったりとターフの上に倒れこんだ。
そして――画面の中のその姿を。
ヒクマは、その大きな目をいっぱいに見開いて、ただ見つめていた。
私はその芦毛の髪を、ぽんぽんと撫でる。
ヒクマはそれにも気付かないように、ただ、画面の中のドバイの光景に、じっと見入っていた。