モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
ドバイミーティングの翌日――3月24日、日曜日。
「あっ、トレーナーさーん!」
「ヒクマ、お待たせ」
学園の門の前で、私服姿のヒクマが手を振る。私は手を挙げて駆け寄った。
――昨晩、テイクオフプレーンのドバイシーマクラシックを見たあと。明日のトレーニングはお休みして、ちょっとお出かけしようか、とヒクマを誘ったのである。エチュードは怪我、コンプもふくらはぎの張りがようやく取れてきたあたりで、まだふたりとも休みなので、私も少し身体が空いたのだ。桜花賞の特別登録も既に済ませてあるし。
今日はGⅠ高松宮記念の開催日である。もともとは、来年の目標となるレースだけに、コンプと一緒に見る約束をしていたのだが――『あたしは自分で勝手に見るし、レースの検討なら後でできるでしょ。今はクマっちのこと任せた!』とコンプからも託されてしまった。あとでコンプにも埋め合わせをしないとなあ、と心の中で思う。
「ゆうべはちゃんと寝られた?」
「うん、大丈夫! えと、トレーナーさん、今日はどこ行くの?」
頷いて、ヒクマはそれから小首を傾げる。私は軽く頭を掻いた。
実のところ、それすら決めかねていた。ミニキャクタスとエチュードの怪我で心が揺れているヒクマに、いつもの笑顔を取り戻してほしい。そのために何かしてあげたいし、しなくちゃいけないと思って、とりあえず気分転換が必要だろうと思ったのだけれども。
中山レース場に今日のレースを見に行く。一度実家に帰して家族と話をさせる――いくつかプランは考えていたものの、それらは何か、解決方法とは違う気がしたのだ。
今のヒクマを縛っているのは、たぶん、ある種の後ろめたさだ。もちろんヒクマ自身は何も悪くないのだが――エチュードとミニキャクタス、親友ふたりが怪我で約束した桜花賞を諦めざるを得なくなり、コンプもファルコンステークスを回避した中で、自分だけが夢を見ることの罪悪感。一種のサバイバーズギルトだろう。
もちろんそれは、競走生活を送っていく上ではいちいち気にしていたら身が持たないものだし、ヒクマがいわれのない罪悪感に囚われることは、コンプもエチュードもミニキャクタスも望まないだろう。
だからといって、割り切れと言ってすぐ割り切れるなら苦労はないし、たぶんヒクマ自身、自分の今の気持ちを整理できずに持て余している。
何か、きっかけが必要だ。ヒクマが無心に桜花賞に向かえるきっかけが。
「ヒクマは、どこか行きたいところある?」
「ほえ? うーん……」
ヒクマは困ったように首を捻る。私はつとめて笑顔を作り、「じゃあ、とりあえずちょっとぶらぶら散歩しようか」と歩き出した。
「あっ、待ってよ、トレーナーさん!」
ヒクマがぱたぱたとついてくる。向かう先は、駅とは反対方向――多摩川の方だ。
* * *
トレセン学園から南に少し行ったところにある多摩川沿いの府中多摩川かぜのみちは、学園のウマ娘にとって絶好のランニングスポットである。今も運動広場で野球やサッカーに興じる人々の傍らで、ジャージ姿で走る学園のウマ娘の姿がちらほらある。ヒクマたちにとっても、日常のトレーニングの一環で走り慣れた道だ。
何より、今は3月の下旬。ちょうど桜の開花時期だ。多摩川沿いの桜並木も蕾がほころんで、花見に興じる人々の姿も見える。
そんな桜並木の下を、今日は私服のヒクマと肩を並べて、のんびり歩く。
「トレーナーさん、桜、綺麗だね」
「ああ――」
桜を見上げて目を細めるヒクマに、私は頷く。――そんなヒクマの横を、ジャージ姿のウマ娘がまたひとり、真剣な顔で走り抜けていった。
そのウマ娘の背中を見送って、ヒクマは何か困ったように少し唸る。
「走りたい?」
「あ、んと――」
迷うように口ごもるヒクマ。その反応それ自体が、今のヒクマの状態の深刻さを物語っている。走ることが楽しくない――なんて、ヒクマにだけは、そんな風になってほしくない。そんな気持ちでいてほしくないのに。……私は、どうすればいいのだろう?
立ち止まったヒクマに、なんと声をかけるべきか逡巡していると、
「――おん? よ、クマじゃねーか」
聞き覚えのある声が、ヒクマの背後からかかった。ヒクマが振り返る。
「ほえ? ――あ、ジャラジャラちゃん」
「なんだなんだ、桜花賞前に呑気にトレーナーとデートか? 随分と余裕こいてんな」
ジャージ姿でランニングしながらこちらに声を掛けてきたのは、ジャラジャラだった。足踏みしたままで、ジャラジャラはヒクマと私とを見やり、――そして、眉を寄せる。
「なんだよ、そのシケたツラ」
「――――」
「桜花賞前になに腑抜けたツラしてんだ。あのミニキャンディ――じゃねーや、ミニキャクタスの奴がいなくなってこちとらガッカリしてんのに、まさかお前まで桜花賞出ないとか言い出すんじゃねーだろーな?」
じろりとヒクマを睨むジャラジャラ。ヒクマは大きく目を見開いて、慌てたように首を横に振った。
「出る! 出るよ、わたしも――キャクタスちゃんのぶんも、エチュードちゃんのぶんも、わたしが、」
ぐっと拳を握りしめたヒクマに、ジャラジャラは。
――腰に手を当てて、呆れたように溜息をついた。
「なにシケたツラしてんのかと思ったら――お前、ひょっとしなくてもアホだな?」
「ふえ!?」
突然の罵倒に、ヒクマはぎょっとしたようにのけぞる。
そのヒクマの胸元に、ジャラジャラは拳を突き出して、少し背の高いヒクマをじっと睨むように見つめた。
「お前があのミニキャンドル――じゃなくてミニキャクタスのことどー思ってんのかは知らんけどな。敵のためにレース走るバカがどこにいるんだよ」
「――――」
息を飲んだヒクマは、突きつけられたジャラジャラの拳を見つめるように視線を落とす。
「お前はなにしに桜花賞に出てくんだよ。本番前に怪我するよーなバカの代わりに走るためか? お前はどこの誰だよ、アルバイタークマ」
「……クマじゃないし、アルバイトもしてないよ、わたしは、」
ジャラジャラの言葉に、ヒクマは――。
「わたしは――バイトアルヒクマ!」
ぎゅっと口元を引き結んで、決然と顔を上げ、ジャラジャラを見つめた。
その表情に、ジャラジャラは――にっ、と口の端を吊り上げて笑う。
「なんだ、いい顔できんじゃねーか。よっしゃ、ちょっと今から併走付き合えよ、クマ」
「クマじゃないよー! って、え、併走? ここで?」
「おう。こっから親水公園まで、だいたい1600メートルってとこか。ストレッチする間ぐらい待っててやっから。桜花賞、あたしに勝とうってんなら、あたしに追いついてみせろよ、クマ」
目をしばたたかせたヒクマは、私の方を振り返る。
私は――黙って、肩から提げていた鞄から、ヒクマのトレーニング用シューズを取りだした。ヒクマがいつ走りたいと言い出してもいいように持ってきていたのだが――。
参ったな。本来私が言うべきことを、全部ライバルに言われてしまった。
けれど今の言葉は、たぶん私が言っても仕方ないことだっただろう。
同じレースを走る、同期のライバルの言葉でなければ、たぶん意味がなかった。
「トレーナーさん」
ヒクマが私の顔とシューズとを見比べる。私は路上にヒクマのシューズを置いて、頷く。
「好きなように走っておいで、ヒクマ。――じゃあ、私は向こうで待ってるから」
私の言葉に、ヒクマは。
「――――うんっ」
力強く、頷いた。
* * *
1600メートルほど先にある、小川の流れる多摩川親水公園。
そこに先回りした私は、ゴール板代わりに立って手を挙げた。
ほどなく、ランニングコースの向こうから、こちらに走ってくるふたつの影。
先を行くのは、ジャラジャラ。
それを追うのは、バイトアルヒクマ。
本番のレースのように、全力で逃げるジャラジャラと、それに食らいつくヒクマ。
ゴールの位置に立ちながら、私はそのふたりの姿に――見とれていた。
獰猛な笑みを浮かべて、まっすぐに走るジャラジャラの、その後ろで。
その背中に追いつこうとして走る、ヒクマの顔は――。
初めて出会ったときのような、走ることを心底楽しんでいる、笑顔が浮かんでいた。
「うううう~~~~っ、負けたぁ~~~っ」
親水公園の芝生に倒れこんで、ヒクマはだだをこねるようにじたばたする。
「ふいーっ、あぶねえあぶねえ。――あー、疲れた。ランニングでこんな全力出したってトレーナーに気付かれたら怒られんな、きっと」
逃げ切ったジャラジャラも、その近くに倒れこんで、蒼天を見上げて満足げな息を吐く。
――そして、そんなふたりの姿に。
「おん? なんだなんだ」
「ほえ?」
近くでふたりの併走を見ていたギャラリーから、自然発生的に拍手と歓声が湧き上がっていた。
「あれ、ジャラジャラとバイトアルヒクマじゃん」
「うおっ、桜花賞の本命ふたりの併走だったのかよ! 撮影しとけば良かった」
そんな声が周辺からあがる。「あっちゃー、またやっちまった」とジャラジャラが身体を起こして頭を掻いた。
「めんどくせーことになる前にあたしは帰るわ! じゃーなクマ、桜花賞に今日みたいな腑抜けたツラで来やがったらただじゃおかねーぞ!」
と、ジャラジャラは慌ただしくその場を走り去っていく。残されたヒクマに、私はゆっくりと歩み寄ると、芝生に仰向けになったヒクマに手を差し伸べた。
「ヒクマ。――どうだった?」
私のその手を取って、身体を起こしたヒクマは――。
「――トレーナーさんっ! わたし、桜花賞勝ちたい! ジャラジャラちゃんに今度こそ勝ちたいっ!」
ぐっと私への距離を詰めるようにして、迷いの無い瞳で、私を見つめた。
その目の輝きは、私が惚れ込んだ、あのヒクマの瞳だった。
「――よしっ、学園に戻ってトレーニングだ!」
「うんっ!」
立ち上がって草を払い、ヒクマは「う~~~~っ、がんばるぞーっ!」と蒼天に拳を突き上げて吼える。
――そう、それでいいんだ、ヒクマ。
君は、君自身のために走れ。ミニキャクタスのことも、リボンエチュードのことも、大切に思う気持ちとは別に――レースに対しては、いくらでも我が儘になっていいんだ。
……あとで、ジャラジャラにありがとうって伝えないと。
私が言っても単なる言葉でしかないものを、取り戻させてくれた同期のライバルに、私はただ、祈るような気持ちで、ありがとう、と呟いた。
* * *
その日、桜花賞の特別登録が締め切られた。
ジャラジャラ。エレガンジェネラル。ユイイツムニ。エブリワンライクス。
そして、バイトアルヒクマ。――フルゲート18人に、21人が登録した。