モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ-   作:浅木原忍

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第86話 夢は夢でなく

「一応登録はしておいたが――本当にいいのか? 一生に一度のクラシックだぞ?」

 

 トレーナーの須永の言葉に、ユイイツムニは静かに頷いた。

 

「……フィリーズレビューで、自分でもわかりました。今、桜花賞に挑んでも――阪神JFのあの差は、逆転できない。……今の私には、まだ」

 

 ぎゅっと胸の前で拳を握りしめるユイイツムニ。その拳の震えに目を眇め、須永は息を吐く。――距離的に厳しいと解っていても、せっかくトライアルを勝ったのだ。一生に一度の機会。レースでは何が起こるかわからない。挑まなければチャンスもない。クラシックの栄冠――夢見ていないと言えば嘘になる。

 

「だから、来年。マイルへの挑戦は、ヴィクトリアマイルで。――まずは、スプリンターズステークスで、スプリントを極めます」

 

 顔を上げたユイイツムニの、眼鏡越しの視線が、その逡巡を断ち切った。

 その顔は、勝負から逃げる者の顔ではない。自分の今の力を冷静に受け止めて、今進むべき道を見定めた者の顔だった。

 その顔を、トレーナーの未練で曇らせるわけにはいかない。須永も腹を括る。

 

「解った。んじゃ、桜花賞は回避だな。マスコミにも明日正式に情報を流すとして――次はどうする?」

「葵ステークスに行きます」

 

 即答だった。まあ、桜花賞を回避してスプリントに向かうなら、確かにそれが無難な選択だろうが――。

 

「ブリッジコンプか」

 

 ユイイツムニは無言で頷く。――ブリッジコンプ。京王杯ジュニアステークスでユイイツムニとチョコチョコに最後まで食らいついた、尾花栗毛の小柄なウマ娘。先日のファルコンステークスを回避したが、怪我などではなく、葵ステークスに向かうと聞いている。

 

「気に入ったのか?」

「……チョコが袖にされたので、そのお返しです」

 

 なるほど。須永は後から小耳に挟んだだけだが、京王杯ジュニアのあと、チョコチョコはブリッジコンプに「ファルコンステークスで再戦だ」と挑戦状を投げつけたらしい。それが向こうに回避されてしまい、チョコチョコはだいぶご立腹だった。まあ、バイタルダイナモに負けたのはそれが原因というわけでもないだろうけども――。

 

「親友の仇討ちか。まあ、なんでもいいさ。お前が納得して走れるならな」

 

 腕を組んだ須永の苦笑に、ユイイツムニはただ、真面目な顔で静かに頷いた。

 

 

 フィリーズレビュー勝者ユイイツムニ、桜花賞を回避して葵ステークスへ。

 その一報が正式に流れたのは、桜花賞10日前のことだった。

 

 

       * * *

 

 

 ユイイツムニの桜花賞回避が発表された、その翌日。

 

「――ねえ、ちょっと」

 

 学園の廊下。授業が終わり、トレーニングに向かおうとしていたユイイツムニの前に、見慣れない顔のウマ娘が立ちはだかった。ムニは眼鏡の奥で目を眇める。立ちはだかったウマ娘は、ひどく険しい表情でこちらを睨み付けてきた。

 

「桜花賞、出ないって――本当?」

 

 詰問の口調。見知らぬウマ娘に問い詰められる覚えは無い。ムニが軽く頷いてその横を通り過ぎようとすると、「待ちなさいよ!」とそのウマ娘はこちらの腕を掴んだ。

 

「バカにしてるの!? 怪我でもないのに、クラシックの優先出走権投げ捨ててGⅢに出るなんて――最初から桜花賞出るつもりないのにトライアルに出るなんて、バカにしてるんでしょう!」

 

 廊下の壁にムニを押さえつけるようにして、そのウマ娘は唾を飛ばして叫ぶ。

 

「――あんたがいなければ、私が桜花賞に出られたのに……!」

 

 絞り出すようなその声に――ああ、とムニはようやく、彼女が何に怒っているのかを理解した。彼女は――そうだ、フィリーズレビューのときに見かけた。4着だった子だ。名前は……なんだっけ。思い出せない。

 フィリーズレビューの桜花賞優先出走権は3着まで。その1着の自分が桜花賞に出ないと聞いて、文句を言いにきたということか。どうして自分の邪魔をするのか、と。

 でも、お門違いだ、とムニは思う。自分だって桜花賞に出るべきか迷っていた。迷って、それを決断するためにフィリーズレビューに出て、そして出ないという決断をした。それは自分の問題であって、別にフィリーズレビューに出る他のウマ娘の桜花賞出走を妨害しようとしたわけではない。優先出走権は義務ではないのだ。

 

「ちょっと、なんとか言いなさいよ!」

 

 詰め寄ってくるそのウマ娘に、ムニはもう、その瞬間には興味を失っていた。

 勝とうという気持ちで向かってくる相手なら受けて立つ。だけど――。

 

「……話はそれだけ?」

「え?」

「悪いけど、私は自分の力不足を他人に責任転嫁するほど暇じゃない」

 

 そのウマ娘を押しのけるように、ムニは前に出る。沸騰したようにそのウマ娘の顔が紅潮し、怒りにゆがみ、その右手が振り上げられ、

 

「――はいはい、そこまで」

 

 ムニの頬へ向けて振り下ろされようとした平手は、背後から誰かに掴まれていた。

 

「……チョコ? ……委員長?」

「いけませんいけません! 喧嘩はいけませんよ! まずはこの学級委員長に事情をお話しあれ! トラブルでしたらこのバイタルダイナモが相談、判断、一刀両断です!」

 

 腕を掴んでいるのはチョコチョコ。そしてその後ろから、バイタルダイナモが姿を現す。委員長の登場に毒気を抜かれたような顔になったそのウマ娘は、チョコチョコに掴まれた手を振り払って俯き――そして、その場から逃げ出すように駆けだした。

 

「あっ――委員長、あの子のことお願いしていい? ムニっちとはあたしが話すから」

「了解いたしました! お待ちなさーい! ダイナモ相談室はこっちですよー!」

 

 チョコチョコの指示に、バイタルダイナモが敬礼して駆けだしていく。それを見送ったチョコチョコは、呆れたような顔でムニに振り返った。

 

「――ムニっちがコミュ障なのは今に始まったことじゃないけどさあ。せめてもーちょっとこう、手心っていうかさあ、言葉を選びなよぉ。あんだけ本読んでるんだからあたしなんかより語彙あるでしょーに」

「……あの子の優先出走権を私が阻んだのは事実。なら、下手に出る方が嫌味。だいたい、私が何を言ったところであの子が桜花賞に出られるわけじゃない」

「いやまあ、そりゃその通りだけどさあ。ムニっち、ただでさえコミュ障で友達少ないのに、わざわざ自分から敵作りに行ってどーすんの」

「……先に敵意を向けてきたのは向こう」

「そーゆー問題じゃなくてさあ。読書って共感能力を養うもんじゃないのぉ?」

 

 嘆息するチョコチョコに、ムニは口を尖らせる。人をサイコパスみたいに言わないでもらいたい。

 

「……クラシック出走を夢と目標にしてる子が、優先出走権を投げ捨てた私に反感を持つことぐらい理解してる。最上の価値を踏みにじられた気持ちなんだろうって」

「わかってんじゃん! だったらもーちょっと言い方ってもんがあるでしょーに」

「負けた子に優しい言葉をかけるのは、私の役目じゃない」

「――はいはい、そーでしょーとも。ったく、もーわかった、わかりました。アスリートとしてはムニっちが正しい。さっきの子への対処としても、たぶん今のムニっちぐらい全力で冷たく突き放した方が、たぶんあの子のためでしょーとも」

「……だったら、チョコは何を問題視してるの」

「そーゆー態度は正しくても友達できないよ、ってことだってば!」

 

 あーもう、と頭を掻くチョコチョコに、ムニは小首を傾げ、チョコチョコを指さした。

 

「え? なに?」

「……チョコがいる」

「はい? ……あ、なに、え? あたしがいるからそれでいい、ってこと?」

 

 ムニは頷く。ルームメイトでクラスメイトでチームメイト。チョコチョコがいてくれれば、ムニの生活に不便はないし、それで充分だと思う。

 

「いや、あのさあ……んなこと言われてあたしにどー反応しろと……」

 

 頭を抱えるチョコチョコに首を傾げ、それからムニはその脇を通り抜けて歩き出す。

 

「ちょっとムニっち、どこ行くの!」

「トレーニング。急がないとチョコも遅れる」

「誰のせいだと――ああもう、ホントこのコミュ障は!」

 

 呆れ顔で追いかけてくるチョコチョコの声を聞きながら、ユイイツムニは小走りにグラウンドへ向かう。隣に並んできたチョコチョコは、一緒に走りながらムニを見やった。

 

「で、ムニっち。次、葵ステークスってなに? あの栗毛のチビに引導渡しに行くわけ?」

「……別に、そういうわけじゃない」

「ほんとぉ? ま、別にいーけど。ムニっちが桜花賞行かないなら、あたしが先にNHKマイルカップ勝ってGⅠウマ娘になっとくから」

「……委員長もNHKマイルカップ出るんだっけ?」

「二度はないよ二度は! ファルコンステークスで不覚取ったことの言い訳はしないけどさ! 朝日杯で負けたあのツインテとかにも!」

 

 吼えるチョコチョコに、ムニは小さく微笑んだ。

 

 

 桜花賞まで、あと9日。

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