モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
4月7日、日曜日。阪神レース場。
桜花賞の開催されるこの日――関西地区は、昼過ぎから土砂降りの大雨になった。
「うっわー、ひっでーバ場。こりゃ桜花賞も間違いなく不良バ場だな」
第9レースのシニア級2勝クラス、鹿野山特別。雨でぐちゃぐちゃになったターフの上を、体操服を泥まみれにしたウマ娘たちが駆けていく。
レインコートを着込んでスタンドからそれを眺めていたジャラジャラは、隣の棚村トレーナーが渋い顔をしていることに気付いて、腕を組んで鼻を鳴らした。
「何だよトレーナー、景気の悪いツラしやがって。不良バ場ぐらいであたしがそー簡単に沈むとでも思ってんのか? こちとら消耗戦は望むところだぜ」
「そうじゃない。君の実力を疑ったことなんて一度もない」
角刈りの精悍な顔、その眉間に皺を寄せて、棚村は言葉を選ぶように口を開いた。
「ジャラジャラ。――俺は君の走りに注文を付ける気はない。君は君の走りたいように走るのが間違いなく一番強いと信じてる」
「おうよ」
「だが――だがな、ジャラジャラ。ひとつだけ、どうしても今日はひとつだけ言わせてくれ。……無理だけは、絶対にしないでほしい」
――それは、初めて。
ほとんど放任主義的に、ジャラジャラの気ままな振る舞いを許してきたトレーナーの、初めてのひどく真摯な――懇願だった。
一瞬むっとしかけたジャラジャラは、けれどトレーナーの真剣な視線に反論の言葉を飲みこむ。そして、フードの中のポニーテールの下をがりがりと掻いた。
その眼の色に――記憶の中の、小さな痛みが疼いたのを誤魔化すように。
「なんだよ、レース前に調子狂うようなこと言うなよ」
「……すまん」
「心配すんな、トレーナー。――あたしはつまんねー怪我で最強伝説を棒に振るようなバカじゃねーから、な」
どん、と拳でトレーナーの胸板を叩いて、ジャラジャラはにっと笑う。
少し困ったように目を細めるトレーナーから視線を逸らし、ジャラジャラはレースの終わったターフに背を向けて、自分の戦場へ向かって歩き出した。
――ごめんなさい。
いつかの謝罪の言葉。忘れかけた痛みの記憶。
――おねがい。ジャラジャラちゃんは、わたしのぶんまで、がんばって。
トレセン学園に入る前。あいつは、松葉杖をついて、それだけを言い残し、あたしの前から姿を消した。
その背中を、ばかやろう、と怒鳴りつけられなかったことは、一生の失策だった。
謝るな。あたしに勝手に、あんたの潰えた夢を背負わせるな。
あたしが走るのは、あんたのためなんかじゃない。
あたしは、他人の夢を背負って走るなんて、まっぴら御免だ。
あたしはただ――あんたより強い奴を倒し続けるためだけに、走るんだ。
1番人気、2枠4番、ジャラジャラ。
* * *
「今日の展開、想定を聞こう」
「はい。ここまでの不良バ場なら、ジャラジャラさんも普段のハイペースでは逃げられません。彼女が無理をして逃げて勝手に潰れてくれれば楽ですが――ジャラジャラさんが抑えて隊列が詰まった展開になれば、私は無理に内に入らず、バ場の比較的綺麗な外を回し、坂で差し切る。おそらく先にバイトアルヒクマさんが前に行って仕掛けるでしょうが、それに惑わされずに仕掛けどころを待つ。事前の想定通りです。阪神JFの轍は踏みません」
控え室。エレガンジェネラルの答えに、王寺トレーナーは頷いた。
「大外を引けたのは僥倖だった。このレース、勝てる」
「はい。――必ず、勝ちます」
トレーナーの、確信をもった言葉に、ジェネラルは胸の前で拳を握って頷いた。
今日へ向けて、あらゆる展開の可能性をシミュレートしてきた。その上で、ジェネラル自身、確信を持って臨める。自分のレースさえ出来れば勝てると。
けれど――少し意外に思って、ジェネラルは王寺トレーナーの顔を見つめた。
「……どうした」
「いえ。――決して油断するな、と戒められると思っていました。あるいは、決して故障するような無理だけはするな、とも」
「同じことを二度言わなければわからないほど、君は愚かではないだろう。油断せず、無理もせず、それでも君は勝てる。私はそう確信しているし、君もそうだろう」
「――はい」
「それならば、あとはそれを証明するだけだ。勝つぞ、エレガンジェネラル」
「はい」
そう、万全の準備を整えた。何の後顧の憂いもない。
ただ、勝つために。勝って証明するために。
常に完璧たることこそが、勝利への最短距離であることを。
これは、そのための戦いだ。
2番人気、8枠18番、エレガンジェネラル。
* * *
「なあ、トレーナー。あたしが勝ったら、みんなガッカリすっかな?」
「ライクス?」
最終的な確定投票数をスマホで見て、エブリワンライクスはそう呟いた。
――三強対決。この桜花賞は、事前から散々そう言われ続けてきた。
ジャラジャラ、エレガンジェネラル、バイトアルヒクマ。最終的な投票結果もこの3人がぶっちぎり。注目度でいえば、他の十五人はほとんどその他大勢に等しい。
その中で重賞未勝利の自分が四番人気に支持されたのは、その三強全てと一度以上対戦して、2着、3着、2着という結果からだろう。この大雨で展開が荒れたときに穴を開けるとすれば1番手に挙がるのが、同じ不良バ場のアルテミスSでエレガンジェネラルに食らいついたエブリワンライクス――そんな予想をあちこちで見た。
だからといって、皆がそんな展開を望んでいるとは思えない。この大雨の中で阪神レース場に集まった観衆のほとんどが見たいのは、逃げるジャラジャラと追うエレガンジェネラル、バイトアルヒクマの三強による決着。穴ウマ娘などお呼びじゃない。
「ガッカリすっぺなあ。そりゃみんな、強いウマ娘が強いレースで勝つのが見だいんだもんな。あだしだってテレビで観るならそうだ。不良バ場で強いウマ娘が沈む姿なんて見だぐねえもん。ヒーローはいつだって強いヒーローであってほしいもんなあ」
「……ライクス」
「エブリワンライクスなんて名前で、勝ったら悪役かあ。お母ちゃんに悪ぃなあ」
スマホを仕舞って、ライクスは後頭部で腕を組んで、上を向いてひとつ息を吐き。
「――いいさ。だったらあだしは、ヒールさなってやる」
トレーナーを振り向いて、にっと笑った。
「それでオークスと秋華賞で、あだしが一番強えんだって、みんなさ認めさせてやるんだ。トレーナー、見てでけろ」
拳を突き出して言ったライクスに、トレーナーは泣き笑いのような顔で目を細める。
「――ライクス、訛ってるわよ」
「え? あっ、あっちゃー……いや、大丈夫、大丈夫。レース後のインタビューまでには標準語さ戻すがら! いや、標準語に戻す、戻れー!」
わたわたと慌てたライクスに、トレーナーは笑って、その肩を抱いた。
「地元の訛りでインタビュー受けたって、いいと思うけれどね」
「いや、それはさすがにちょっとなあ……」
恥ずかしがるライクスの肩を叩いて、トレーナーはその瞳を覗きこんだ。
「誰がなんと言ったって、勝てばあなたが勝者よ、ライクス」
「――おう!」
4番人気、7枠13番、エブリワンライクス。
* * *
桜を散らす雨の音が、地下バ道まで響いている。
綺麗な勝負服に身を包み、緊張した面持ちのウマ娘たちが通り過ぎていく中で、私は冷たい壁にもたれて、ヒクマが来るのを待っていた。
いつもなら、控え室からパドックに送り出したあとは観客席に向かうのだけれど――今日だけはどうしても、最後に一目、ヒクマの様子を間近で確かめておきたかった。
たぶん、これは単なる心配性なのだろうけれど。
ヒクマにとっても、私にとっても、初めてのクラシック。
――たぶん、私が一番緊張している。震える拳を握り直して、深呼吸をひとつすると、雨の匂いが鼻についた。
「あれ? トレーナーさん!」
聞き慣れた声に顔を上げる。勝負服姿のヒクマが、その大きな瞳を見開いて私に駆け寄ってくるところだった。
「どうしたの? わたし、なにか忘れ物したかな?」
不思議そうに首を傾げるヒクマ。その顔に、緊張や先日までの憂いはない。ヒクマの内心はわからないけれど――とりあえず、迷いは消えているはずだ。
そのきょとんとした顔を見つめていると、不意に私は泣きたくなって、ヒクマの長い芦毛をくしゃくしゃと撫で回していた。
「んっ、トレーナーさん、急になに……んー、えへへ」
驚いたように身を竦めたヒクマは、けれどすぐに心地よさそうに目を細める。あどけないその笑顔。雨の中でも曇らない光のような笑顔。
「元気、出た?」
「――うんっ」
私が手を離すと、ヒクマはぐっと拳を握りしめて私を見上げる。
「トレーナーさん、わたしね、今日までいろいろ考えたし、いっぱい考えたけど――今日ね、ここに来てわかったんだ」
「うん」
「わたし、いま、すっごく楽しみ! ジャラジャラちゃんと、ジェネラルちゃんと、あのすっごく強いふたりと、やっと一緒に全力で走れるんだって!」
「――うん」
「そのためにトレーナーさんと、今日までいっぱい頑張ってきたから――だから、見ててね、トレーナーさん! わたし、絶対勝ってくるから!」
「――――ああ、行っておいで、ヒクマ! 楽しんで――そして、勝っておいで!」
「うんっ! 行ってきます!」
ぱん、とひとつハイタッチを交わして、ヒクマは雨の降りしきるターフへ駆けていく。
薄暗い雨のターフに消えていくその背中が眩しくて、私はただ、目を眇めた。
3番人気、5枠9番、バイトアルヒクマ。
* * *
『大雨の阪神レース場、降りしきる雨に桜は散っても、ターフに花開く桜の女王の誕生はこれからです。トリプルティアラ第1戦、桜花賞!』
大雨の阪神レース場に詰めかけた、十万近い歓声が、雨を裂くようにターフに轟く。
ジャラジャラは、いつも通り不敵な笑みを浮かべて。
エレガンジェネラルは、静かに表情を引き締めて。
エブリワンライクスは、三強への闘志を燃やして。
バイトアルヒクマは、雨のターフに跳ねるようにして。
その姿を、何百万、何千万という人々が見守っている。
リボンエチュードとブリッジコンプは、カッパを着込んで関係者席最前列から。
ヒクマの両親は、招待されたスタンドの観客席から。
リードサスペンス会長とドカドカは、上階のVIPルームから。
オータムマウンテンとデュオスヴェルは、学園のカフェテリアから。
テイクオフプレーンは、遠征先の香港のホテルから。
リボンスレノディは、寮の自室のテレビから。
――そして、ミニキャクタスは、病院からの帰り道、ショーウインドウのテレビで。
『全員ゲートイン、体勢完了。――桜の栄冠はただひとつ、桜花賞、スタートしました!』