モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
雨が、降り続けている。
* * *
『さあやはり行った行った先頭はジャラジャラ! 迷うことなくハナを主張します!』
――くっそ、なんつー走りにくいバ場だよ!
ぬかるむ脚元に、ジャラジャラは心の中だけで悪態をついた。
降り続いた雨とここまでのレースとで、特に内ラチ沿いは荒れに荒れてぬかるみきっている。思った以上に踏ん張りがきかず、油断すると滑りそうになる。まるでカラカラに乾ききったダートでも走っているような気分だ。
降りしきる雨が顔を打つ。口の中に雨粒が流れ込んでくる。
先頭は問題なく取れた。最内を避けつつジャラジャラは左後ろをちらりと見る。
見慣れた顔がふたつ、思った以上に近くにあった。
芦毛を揺らしたバイトアルヒクマ。そして――大外を淡々と走るエレガンジェネラル。
『先頭はジャラジャラ、やはりこのバ場では大逃げはできないか、1バ身後ろにバイトアルヒクマ、その外並んでエレガンジェネラル、三強が先頭集団を形成します』
――やっぱり貼り付いてきやがったか、だったらもっと引き離して、
差を広げようと、ジャラジャラは右脚に力を込める。
その瞬間、ずるり、と右脚が滑った。
『おっとジャラジャラちょっと躓いたか、いや大丈夫、大丈夫だ』
バランスを崩しかけて慌てて立て直す。シューズはもう元の色がわからないほどの泥まみれだ。顔を拭ってジャラジャラは前を向く。
――無理だけは、絶対にしないでほしい。
レース前、トレーナーの懇願が、不意に頭をよぎる。
――くそっ、くそっ、無理なんざしてねえよ、不良バ場がなんだってんだ!
だが、後ろとの差は広がらない。滑る脚が、思うように前に進まない。
バイトアルヒクマとエレガンジェネラルの気配が、背中に貼り付いたまま。
あっという間に3コーナーが近付いてくる。雨にけぶる視界に、もう一度ジャラジャラは顔を拭って息を整えた。
――いいぜ、だったらこっちはこのまま粘りきるだけだ。
前に行けなかったぶん、脚は残っている。脚色が同じなら、前を行ったもん勝ちだ。
――来いよジェネ、クマ! 差し切れるもんなら差し切ってみやがれ!
* * *
――ああ、地元で走り慣れだ泥んこ道だ。
エレガンジェネラルの後ろに構えたエブリワンライクスは、ぬかるむ足元の感触に懐かしさを覚えていた。
冬は滑る雪の上、春はぬかるんだ雪解け道を、泥まみれになって走り回った日々。
――都会のもやしっ子とは、鍛えかだが違ぇんだ!
前を行くエレガンジェネラルが跳ね飛ばした泥が勝負服を汚す。晴れの衣裳が雨と泥とで見る影もなくなっていく。
――ああ、『まだどろんこさして!』って、母ちゃんに怒られるなあ。だけど、勝ったらこの泥も勲章だべさ!
『おっとエブリワンライクス! 早め早めに上がっていく!』
3コーナー前。ライクスは早めにペースを上げた。
狙いはただひとり。エレガンジェネラル。
――この泥んこバ場で逃げウマ娘は潰れる。マークするのはただひとり、エレガンジェネラルだけだ。アルテミスSではずっと先を行かれて追いつけなかった。だったら、今度は早めに並んで、相手のやりたいレースを封じる!
3コーナーの入口で、ライクスはエレガンジェネラルの真横につけた。枠なりで外を走るエレガンジェネラルのさらに外。コーナーでは大外ぶん回しで距離ロスになるが、それは覚悟の上だ。それよりも――こいつを、内に封じ込める!
これが、大雨になるという予報が出た時点で、トレーナーと立てた必勝の策だ。
大外枠を引いたエレガンジェネラルは、比較的バ場の綺麗な外を回そうとする。だったらこっちはその横にぴったりつけて、ジェネラルを内に押し込めてやる。
そうして、逃げるジャラジャラの真後ろに追いやる。内にはバイトアルヒクマがいる。ジャラジャラが力尽きたとき、エレガンジェネラルに逃げ道はない。あったとしてもそれは荒れに荒れきった内ラチ沿い。そのままジャラジャラと一緒に沈むしかない。
――どうだ! 都会のもやしっ子!
3コーナー。エレガンジェネラルにぴったり身体を併せてコーナリングするライクスは、右隣を走るエレガンジェネラルをちらりと見やった。
会心の位置取り。エレガンジェネラルは内に寄り、やや外に出たジャラジャラの真後ろを走る形になる。内にはまだバイトアルヒクマ。完璧だ。エレガンジェネラルの進路は、どこにもない。あとは直線、残り200が勝負――。
――これで勝ったらヒールだなんて承知の上だ。それでも、おめぇさ勝ちたいんだ!
エレガンジェネラルの横顔を、睨むように見つめたライクスは――。
――そんな涼しい顔してられるのも、今のうちだべ!
何ひとつ変わらない、ただ前だけを見ているエレガンジェネラルの横顔に、奥歯を噛みしめて、4コーナーへと向かう。
『さあ4コーナーを曲がって直線、バ群は一団となって先頭はジャラジャラ――』
* * *
「まずい……!」
雨の中、双眼鏡を眼に当てて、私は呻いた。
3コーナーで、エブリワンライクスがエレガンジェネラルの外に並んできた。エレガンジェネラルの進路をふさいで、バ場の荒れた内に押し込めようとする策だ。大外枠から枠なりに外目につけたエレガンジェネラルをマークするため、その後ろから早めにさらに外に出して行く――完全に狙いをエレガンジェネラルに定めて潰しに来たエブリワンライクスの策に、私は息を飲む。
審議の対象になるような、斜行や接触による妨害ではない。あくまで位置取り争いの結果、エレガンジェネラルが仕掛ける前に進路を塞ぎに行った――。クラシック級のウマ娘とは思えない頭脳プレイだ。担当トレーナーの入れ知恵だろうか。
それでこのふたりが潰し合ってくれるだけならいい。だが――エレガンジェネラルの内にはヒクマがいるのだ。
不良バ場に脚をとられて、ジャラジャラはいつもようなハイペース逃げができずにいる。半マイル通過は平均よりやや遅い程度のペース。バ場を考えれば充分速いが、ジャラジャラのレースとは思えない、ごちゃっと固まった集団の展開になっていた。
ヒクマはその中で、好スタートからジャラジャラのすぐ後ろ、エレガンジェネラルと並んで2番手追走という絶好の位置を確保したのだが――。
エブリワンライクスがエレガンジェネラルを内に押し込めようとするのに押し出されて、その内にいたヒクマが荒れた内ラチ沿いまで押し込まれてしまっている。
「ヒクマ……!」
集団が直線に入る。ジャラジャラを先頭に、その真後ろにエレガンジェネラル、その外にエブリワンライクス、内ラチ沿いにヒクマ。上位人気4人が前――。
「クマっち、負けるなーっ!」
「ヒクマちゃん!」
雨音に負けじと、コンプとエチュードが声を張り上げる。
「ヒクマあああああああっ!」
あとはもう、私にできるのは祈ることだけだ。
がんばれ。がんばれヒクマ。あと少しだ。あと少しで――届くはずだ!
* * *
『残り200、仁川の坂を上る! 内からバイトアルヒクマ! 内からバイトアルヒクマが並んできた! ジャラジャラ苦しいか、外エブリワンライクス、エレガンジェネラルはまだ前が壁!』
先に仕掛けたのは、バイトアルヒクマだった。
仁川の急坂の手前から加速。前を行くジャラジャラに並びかける。
普段は朗らかな笑みを浮かべているその顔に、今は闘志を滾らせて、ジャラジャラを倒しに行ったその芦毛を横目に――エレガンジェネラルはひとつ息を吐いた。
――なるほど、貴方も狙いはジャラジャラさんですか。
そして、真横に貼り付いたエブリワンライクスをちらりと見やる。
ライクスはしきりにこちらを伺いながら仕掛けのタイミングを待っている。ぴったり真横に貼り付かれたまま、ジェネラルには外へ持ち出す道はない。
坂を上る。隣のエブリワンライクスの顔がゆがむ。
勝負服に何度も泥の塊を浴びながら、エレガンジェネラルはただ一点を見据えた。
『ジャラジャラ粘る、ジャラジャラ粘る、バイトアルヒクマ、外エブリワンライクス、エレガンジェネラル食らいつく、上位4人の必死の追い比べ!』
――エブリワンライクスさん。私に狙いを定めた進路ブロックは見事でした。貴方の誤算は、ジャラジャラさんのスタミナを見誤ったことです。彼女は、この不良バ場で簡単に垂れてくるような逃げウマ娘ではない。
――バイトアルヒクマさん。早めの仕掛け、長く伸びる脚を使える貴方にとってはそれがベストの戦法。それを採ってくれたこと、感謝します。
――そして、ジャラジャラさん。
エレガンジェネラルは顔を上げた。目の前に、ジャラジャラの揺れるポニーテール。
その内に並んだバイトアルヒクマとの間――ひとりぶんだけの、隙間がある。
――バ場の悪化を甘く見た、貴方の負けです。
貴方を倒す。そのためだけに、全てを想定し、計算してきた――私の、勝ちです!
坂を登り切る。
その瞬間、エレガンジェネラルの身体は、前を行くふたりの間に割って入っていた。
泥を蹴立てて。
雨を斬り裂いて。
華やかな勝負服を、泥まみれにして。
進撃の姫将軍が、立ちはだかる壁を突き破るように――身体半分、前に出た。
『間を割ってエレガンジェネラル! エレガンジェネラル来た! 並んだ! 並んだ! 外エブリワンライクス、内バイトアルヒクマ、ジャラジャラ粘る、真ん中ジェネラル! 真ん中ジェネラル! エレガンジェネラル、エレガンジェネラルだーっ!!』
歓声が、雨音を掻き消すように、阪神のターフに轟き、谺していく。