モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
先頭の4人がひとかたまりになってゴール板を駆け抜けた瞬間、雨を掻き消すような歓声が、阪神レース場のスタンドに響き渡った。
柵から転げ落ちそうなほどに身を乗り出したブリッジコンプが目を見開き。
祈るように手を組んだリボンエチュードが、口を開けて息を飲む。
そして私は――柵を掴んだまま、崩れ落ちるようにその場に膝をついていた。
『エレガンジェネラル! エレガンジェネラルです! エレガンジェネラルが最後、僅かに差し切った! 二度は負けられない姫将軍! 桜の女王はエレガンジェネラル!』
実況が叫び、掲示板の一番上に点灯するのは、18の数字。
その掲示板を振り仰ぎもせずに――勝負服を泥まみれにしたエレガンジェネラルが、ゆっくりと足取りを緩めて立ち止まり、スタンドを振り返った。
ガッツポーズもなく、大きな喜びの笑顔もない。
ただ、当然の義務を果たしたと言わんばかりの顔で。
姫将軍は、スタンドへ優雅に一礼し――そして、そこでようやく表情を綻ばせて、雨の中、歓声に手を振る。
たったひとりの勝者の、その姿を横目に見ながら――私は。
「ヒクマ……!」
茫然と立ち止まったヒクマの背中を、見つめることしかできなかった。
『2着はジャラジャラ! そして3着争いは接戦! 内バイトアルヒクマ、外エブリワンライクスは――写真判定です! 確定までお待ちください!』
* * *
理想的だった。読み通りの展開。自分の位置取りも、全て作戦通り。
間違いなく、今の自分にできるベストレースだった。
――それなのに。
事前のイメージトレーニングでは、間違いなく自分が差し切って勝つ展開だったのに。
最後の最後。残り10メートルで、あいつは。
内に封じ込めたはずのあいつは――狭いところをこじ開けて、伸びた。
そして自分は――その最後のひと伸びに、振り落とされた。
「はぁっ、はぁっ、は――っ、くっ、くっそおおおおおっ!」
泥まみれの膝に手を突いて、エブリワンライクスは地面に向かって吼えた。
近付いた。アルテミスSの、阪神JFの、あの絶望的な距離ではなかった。あと少し、あとほんの少しで手が届く距離まで、あいつに近付いた。
それなのに。
いや、それだからこそ。
最後のあのひと伸びは、あまりに絶対的な力の差。
全て完璧なレースをして、最大のターゲットを完全に封じて。
それでなお負けたなら――それはつまり、勝負付けが済んだということ。
悪役になる覚悟まで決めてきたのに――悪役にすらなれなかった。
絶望的な状況をこじ開けて勝ったあいつの、引き立て役にしかなれなかった。
「……これが、才能の差……なの、かよぉ……っ」
勝てない。自分は――エレガンジェネラルには、勝てない。
スピードが違う。パワーが違う。スタミナが違う。勝負根性が違う。
それはつまり、生まれ持った才能が違う。
これが、世代の頂点に立つウマ娘の力――。
「ちくしょう……ちくしょぉぉぉっ……!」
雨が頬を流れ落ちて、泥まみれのシューズを洗い流していく。
* * *
――負けた。
掲示板を見るまでもなかった。誰よりも、そのことはジャラジャラ自身が一番よくわかっていた。よろめくように、どろどろの芝生の上に仰向けに倒れこむ。顔を、火照った身体を、冷たい雨が打ち付けていく。
逆さまになった視界の中で、エレガンジェネラルが観客に手を振っていた。
歓声が、雨音の中、ひどく遠い。
阪神JFのとき、あれだけ熱く自分の名前を呼んでいた観客が。
今は、エレガンジェネラルだけを見て、その名を呼んでいる。
――ああ、かっこわりーなあ、あたし。
芝生のぬかるんだ土に指を食い込ませて、ジャラジャラは奥歯を噛みしめた。
そして――その唇の端を、吊り上げて、笑った。
「そうじゃ、なくっちゃよ――ジェネ!」
泥の塊を握りしめて、ジャラジャラは跳ねるように起き上がる。手にした泥を投げ捨てて、そしてもう二度とエレガンジェネラルの方を振り返ることなく、地下バ道へ向かって歩き出した。
「……ジャラジャラ」
そうして地下バ道に入ると、バスタオルを手にした棚村トレーナーが待っていた。トレーナーはゆっくりとジャラジャラに歩み寄り、びしょ濡れの勝負服の肩に無言でタオルをかける。そのタオルを無言で受け取り、ゆっくりと頭を拭いたジャラジャラは――。
「次。――オークス、行くぜ」
タオルを突き返して、トレーナーの顔をまっすぐに見上げて、それだけ言った。
それへの、トレーナーの答えも、ただ短く。
「もちろんだ」
それで充分だった。トレーナーの胸を拳で小突き、ジャラジャラはその横を通り過ぎる。
背後の雨音と歓声が遠ざかるのを聞きながら。
その顔に、獰猛な笑みを浮かべて。
* * *
ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように、ウイナーズサークルへと歩いて行く。
その一歩ごとに、自分が勝ったのだという実感がじわじわと湧き上がってくるのを、エレガンジェネラルは感じていた。
この瞬間のために、王寺トレーナーと万全の準備をしてきた。そう、完璧に。万全に。それは、レースに挑む者の義務。万全を尽くさねば、勝負に臨む資格はない。
それが正しかったのだと、自分の力で、証明することができたのだと。
心臓が高鳴る胸に手を当てて、ジェネラルはひとつ息を吐く。
そして顔を上げると――ウイナーズサークルに、傘を差した王寺トレーナーの姿があった。いつもの冷静な表情。こんなときですら表情筋ひとつ動かない、眼鏡の奥の冷たく眇められた瞳。それを見つめて、ジェネラルはゆっくりと歩み寄る。
手の届く距離まで近付いたとき。トレーナーは、手にした傘をジェネラルに差し出した。
「エレガンジェネラル」
そして――今まで、決して揺らがなかった彼の表情が。
鉄面皮と渾名されるほど、いつも鋭く引き締められた彼の口元が、ほころんだ。
「おめでとう。――そして、ここまで私を信じて、ついてきてくれて、ありがとう」
スカウトを受けて1年半。デビューして1年弱。4度目の勝利で。
ジェネラルは――初めて、トレーナーが喜ぶところを、笑うところを、見た。
「……っ、こちらこそ、ありがとう、ございます……!」
胸に手を当てて最敬礼したジェネラルの肩に、王寺トレーナーは手を置く。
「君にGⅠを勝たせられなかったら、トレーナーを辞めようと思っていた」
「――――」
ジェネラルは息を飲む。
彼が、自分の内心を語るのも、これが初めてだった。
「やっと義務を果たした。……だからこれからは、夢を語りたい」
「……夢、ですか」
顔を上げたジェネラルに、王寺トレーナーはいつもの無表情に戻って。
「トリプルティアラ、エリザベス女王杯、有馬記念。クラシック級五冠、全部勝つ」
「――――」
「君と一緒に、君こそが最強であることを、証明したい」
ぞくり、と。
背筋が泡立つのを感じて、ジェネラルは痺れたように息を飲んだ。
常に万全に。常に合理的に。完璧たることを目指し、果たした。
ならばその次は、その先を見たい。
より強く。より高みへ。
昂ぶる鼓動に、エレガンジェネラルは戸惑いながら、胸を押さえる。
――この人のために、もっと、勝ちたい。
この高鳴りを――もっと、もっと、味わいたい。
「勝ちます」
だから、エレガンジェネラルは答える。自分の意志を。――夢を。
「次も。これからも。――勝ち続けます。必ず」
* * *
写真判定は長引いていた。
地下バ道。出走ウマ娘の中で最後に戻ってきたヒクマを、私はバスタオルを抱えて迎えた。エチュードとコンプはいない。遠慮してもらった。特にエチュードは、その顔を見たら、今はお互い辛くなるだけだろうから。
「……おつかれさま、ヒクマ」
顔を伏せていたヒクマは、私の声に顔を上げ――そして、泣き出しそうに笑った。
「トレーナーさん。……また、負けちゃった」
その笑顔が痛々しくて、私はたまらず、その顔を隠すようにバスタオルで包みこんだ。濡れそぼった芦毛をごしごしと強く拭いてやると、ヒクマは「わぷ、ううっ」と揉みくちゃにされて呻く。
――敗因を、バ場と位置取りと分析するのは簡単だった。エレガンジェネラルと並んでジャラジャラについていき、ふたりより早めに仕掛ける。ヒクマの武器は長く伸びる脚でのロングスパート。ジャラジャラをかわせさえすれば勝てる。
実際、その理想通りの展開だった。――エブリワンライクスのエレガンジェネラルに対するブロックで、一番荒れた内ラチ沿いを走らされることになったのを除けば。
結局ジャラジャラをかわしきれず、ゴール手前でエレガンジェネラルにかわされ、ジャラジャラにも振り切られた。
敗因は明確だ。絶対的な実力差ではない。選抜レースの絶対的な5バ身差から、ヒクマはここまであのふたりに詰め寄った。今のヒクマの力は間違いなく、ジャラジャラとエレガンジェネラルに並んだ。世代最強のふたりに、間違いなく肩を並べた。
――だけどそれを、今のヒクマに言って、何になるだろう。
届いただけではダメだった。勝たなければいけなかった。
勝ちたかった。勝たせてあげたかった。
ヒクマの喜ぶ顔を――見たかったのに。
「トレーナー、さん」
バスタオル越しの、ヒクマの声。
私はたまらず、濡れたその身体を抱きしめた。
「っ、~~~~~~っ」
バスタオルに顔を埋めたまま、ヒクマは私の背中に手を回して、私の胸に顔を擦りつけるようにして震えた。
いつも、私に飛びついてくるときよりも、その肩はずっと小さかった。
『確定、出ました! 3着はハナ差でエブリワンライクス! エブリワンライクスが最後、バイトアルヒクマを僅かにかわして3着! バイトアルヒクマは4着!』
雨音と歓声が、どこまでも遠くで響いている。