モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
自分が、選ばれた側にいることぐらいは理解していた。
狭き門を突破して、中央のトレセン学園に入学できた。
選抜レースを経て、トレーナーについてもらえた。
この時点でもう充分に、充分すぎるほどに選ばれた側だと、解っていた。
でも、この学園に来たウマ娘はみんな、それよりもっと大きな夢を抱いている。
自分もそうだ。そうでなければ走っていられない。
――そしてどこかで必ず、現実というものを突きつけられる。
自分は――華やかなトゥインクル・シリーズの主役にはなれない、ということを。
自分の場合、それはデビュー戦。六月の東京レース場だった。
全速力でスパートをかけているのに、はるか前でどんどん遠ざかっていくその芦毛。
こっちは必死に脚を動かしているのに、あの子はどこまでも楽しそうに。
涼しい顔で。笑いながら。先頭でゴールを駆け抜けた。
――バイトアルヒクマ。
世代の主役になるウマ娘と、そうでない自分との差を、思い知らされた。
いや、そんなのもやはり、選ばれた側の贅沢な挫折に過ぎないのだろう。
12月の4戦目で未勝利戦を勝ち抜けた。
2月の1勝クラスも勝った。5月までのこととはいえ、オープンウマ娘になった。
それだけでもう、自分が充分すぎるほど選ばれた側にいることはわかっている。
だから、これ以上を望むのは贅沢だと思っていた。
これ以上にはたぶん行けない。
この先に行けるのは、あの芦毛の子のような、本物のスター候補だけだ。
『フローラステークスに出よう』
だから、トレーナーさんからそう言われたとき。
そんなのはいくらなんでも高望みだと思った。トライアル。2着までに入ればオークスの優先出走権を獲れるGⅡ。春のクラシック、GⅠ、トリプルティアラの2冠目。そんな、選ばれたウマ娘だけが立てる舞台に行こうなんて、自分なんかには贅沢すぎると。
そう、思っていた――けれど。
4月21日、日曜日。東京レース場、第11レース、フローラステークス(GⅡ)。
『並んだ! ふたり並んでゴール! 内か外か、僅かに内が残したか!』
レースが始まったら、贅沢とか高望みとかそんな意識は吹き飛んでいた。
――勝ちたい。ここを勝って、オークスに出たい。
遠すぎると思っていた夢の舞台に――立つ権利が得られるのなら。
手に入れたい。あの子も出てくる舞台に。
あの子に負けたこの府中で。
もう一度、あの子と正面から戦いたい。
こんな自分でも――主役になれるかもしれない。
そんな夢の欠片ぐらいは、指先に引っかけておきたかったから。
『――エンコーダーは僅かに届かず2着!』
掲示板に点灯した自分の番号を見上げて――エンコーダーは、荒い息を吐き出した。
2着。負けた。重賞初挑戦。最後、届いたと思ったのに、凌ぎきられた。
悔しい。悔しいけれど――でも。
「エンコーダー!」
トレーナーが満面の笑顔で駆け寄ってきて、気が付いたら抱え上げられていた。
「おめでとう! オークスだ! オークスに出るぞ!」
「え――あ」
目をしばたたかせて、そしてエンコーダーは、現実を受け止める。
フローラステークス2着。――オークスの優先出走権。
「トレーナー、わた、し、……オークスに出ても、いい、んですか?」
「もちろんだ! 行くぞオークス!」
自分以上に喜んでいるトレーナーの顔に、どんな表情をしたらいいかわからないまま。
エンコーダーは、蒼天を見上げて、ぎゅっと拳を握りしめた。
エンコーダー。
6月18日、メイクデビュー東京、バイトアルヒクマの4着。
10月と11月の未勝利戦を2着、4着とし、12月の未勝利戦を勝ち抜け。
2月、小倉の1勝クラス、あすなろ賞を勝利。
4月、フローラステークス(GⅡ)2着で、オークス優先出走権を獲得。
* * *
いつも、ぼんやりして人よりワンテンポ遅いと、小さい頃から言われ続けてきた。
誰かと一緒に行動していると、いつも自分が他人を待たせる側になってしまう。
会話の輪の中で、何か言おうとしたときにはもう話題が別のものに変わっている。
いつもそんな調子だから、せめて相手を不愉快にさせないようにと気を使って。
でも、そんな風に気を使っていること自体が相手に伝わって苛立たせてしまう。
そんなことの繰り返しで、いつしか人付き合いそのものが苦手になっていた。
――いつも無口でぼーっとしている、名前通りの夢見心地な子。
そんな風に言われていることもわかっていた。わかっていても、だからといって自分の性格を変えることなど今さらできるはずもなかった。
レースでもそうだ。
トレセン学園に入ってからも、出遅れ、仕掛けの遅れでずっと結果が出なかった。
何度選抜レースに出ても、必ずどこかでワンテンポ遅れて負けてしまう。
そんな自分ではトレーナーがついてくるはずもなく、高等部になって、未デビューのまま学園にいられるタイムリミットも近付いてきていた。
そんな、諦め悪く学園にしがみついているだけの生徒でしかなかった。
――ねえ、貴方。スタートからどんどん行って、逃げてみたら?
そんな自分に、初めてそんな風に声を掛けてくれたトレーナーがいた。
――貴方、レースでも周りの顔色をうかがっているように見えたから。いっそ自分のペースで逃げてみた方がいいんじゃないかと思って。
どうして自分なんかにトレーナーが声をかけてくれるのかわからなくて。
困惑しているうちに、そのトレーナーは他の誰かに呼ばれてどこかへ行ってしまった。
ああ、まただ。せっかくアドバイスをもらったのに、お礼も言えないままで。
だけど、せめて。
その言葉に。自分に声をかけてくれた、名も知らないトレーナーの言葉に報いたかった。
そうして、選抜レース。初めて、スタートから全力でダッシュして逃げた。
周りに誰もいない逃げ。自分ひとりだけで走り抜けるターフ。
気持ち良かった。学園で走るようになって、一番気持ちいい走りだった。
そうして、気が付いたらそのまま、逃げ切って1着でゴールしていた。
――おめでとう。
ゴールしたあと、そう声をかけてきたのは、あのトレーナーだった。
――あ、あの……あり、が、と、ござ、
息があがって、上手く声が出せなかった。そんな自分を、トレーナーは優しい顔で、息が落ち着くまでずっと待ってくれていて。
――ありがとう……ござい、ました。
頭を下げた自分に、トレーナーは手を差し出して。
――貴方を、スカウトさせてもらっても、いい? ドリーミネスデイズさん。
自分の名前を、そう、呼んでくれた。
* * *
4月27日、土曜日。東京レース場、第11レース、青葉賞(GⅡ)。
『いまだ未勝利ながら弥生賞3着、初勝利をトライアルで飾りダービーの切符を手にすることができるか、3番人気、7番マルシュアス!』
――やー、とにかく、出走できて良かった……。
ターフに足を踏み入れ、マルシュアスはほっと一息つく。未勝利の自分はフルゲートを超えれば当然真っ先に除外対象だった。15人立てで滑り込むことができたこの舞台。日本ダービーに挑むには、優先出走権とファンPtを確保できる2着以内が絶対条件。
「マルシュちゃん、落ち着いてね!」
最前列から見守ってくれているネレイドランデブーに、マルシュアスはぐっと拳を握りしめて返した。そして、ゲート前で思い思いにレースに向けて構えるウマ娘たちを見回す。その中のひとり、ぼんやりとコースを見つめる、13番のゼッケンを身につけた長身の鹿毛のウマ娘を見やり、よし、と頷いた。
おそらく逃げるのは彼女、ドリーミネスデイズ。高等部らしいので学園では先輩だけど、レースは同期だ。――あのデュオスヴェルみたいな無茶なペースでは逃げないはず。前目につけて、彼女に狙いを定めて、直線でかわす。
大丈夫。いける。この日のためにトレーナーと、ランデブーさんと、全力で頑張ってきたんだ。ここで勝って重賞ウマ娘になって、胸を張れるオトナのウマ娘になる――。
決然と顔を上げて、マルシュアスはゲートへと向かう。
『体勢完了。――スタートしました!』
ゲートが開く。15人のウマ娘がどっと飛び出す。
――よし、スタート成功!
上手くダッシュがついて、バ群に埋もれる前に前方につけることができた。ちらりと外を見ると、予想通りの長身が押し気味に前に出てハナを主張していく。
『さて誰が行くか、外からやはり行きました押して押してドリーミネスデイズが先頭、内からマルシュアスが2番手か』
ドリーミネスデイズが内に切れ込んできて、マルシュアスの前につけた。風になびく長い鹿毛を見ながら、マルシュアスは手応えを感じる。よし、理想的な位置! あとは彼女を風よけにして道中の消耗を抑えて、直線で仕掛ける!
『1000メートル通過、62秒1、ゆったりとしたペースで向こう正面を進みます。先頭ドリーミネスデイズ1バ身リード、マルシュアスが真後ろにつけて3コーナー、隊列が徐々に詰まって参りました』
3コーナーあたりで後ろが詰めてきて、マルシュアスはそれに押し出されるように先頭に並びかける。――どうしよう? このままもう四角で先頭に出ちゃう?
躊躇いながら、マルシュアスは横を走るドリーミネスデイズの横顔を見やった。
――その顔は、その視線は、一切こちらを振り返ることなく。
ただ真っ直ぐに、前だけを見ている。
「……っ!」
次の瞬間、ドリーミネスデイズが先に仕掛けた。
ここまでのスローペースの溜め逃げから、4コーナーで後続を放しにかかる。
――まずいっ、追わなきゃ!
咄嗟にマルシュアスもそれを追ってスパートをかけた。府中の長い直線に入る。目の前には高低差2メートルの坂。まだもどかしいほどゴールが遠い。
『さあ直線に入って先頭ドリーミネスデイズ、後続を突き放しにかかる! 内からマルシュアス、前を行く2人がそのまま抜け出した! 残り400、坂を上る!』
坂を駈け上がる。脚は軽い。スローペースで先行しても充分に脚は残ってる。あとはほんの少しだけ前を行くドリーミネスデイズをかわすだけ、
――なのに、そのほんの少しの距離が、もどかしいほどに詰まらない。
「うおおおおおあああああっ!」
自分が、叫んだつもりだった。
いや、けれどそれは、横を走るドリーミネスデイズの叫びだったのかもしれない。
マルシュアスにできることは、あとはもう、ただ必死にターフを蹴立てて前に進むことだけだった。
『粘る粘るドリーミネスデイズ、マルシュアス迫る、迫るがしかし、ドリーミネスデイズだ! ドリーミネスデイズが逃げ切って――ゴール!』
そして、ゴール板を駆け抜けたとき、届かなかった距離は、あと数十センチ。
『僅かに外、ドリーミネスデイズが逃げ切った! 鮮やかスローペース、まんまと逃げ切りました重賞初制覇!』
倒れこみそうになりながら脚を止め、マルシュアスは掲示板を見上げた。
掲示板の一番上に点灯したのは、自分の7ではなく、13。
7の数字は、クビ差で2番目に表示されている。
逃げ切ったドリーミネスデイズが、感極まったように高々と拳を掲げ。
――ああ、また負けた。勝てなかった。これで、ダービーにも、
仰向けにターフに倒れこんで、マルシュアスは悔しさに叫びだしそうになって、
『そして2着はマルシュアス! なんとなんと、未勝利のマルシュアスがこれで日本ダービー優先出走権を獲得しました! 史上初、未勝利ウマ娘の日本ダービー挑戦です!』
――えっ?
実況のそんな声が聞こえて、マルシュアスは慌てて起き上がった。
7の数字が点灯しているのは、掲示板の2番目。――2着。
ファンPtと、日本ダービー優先出走権が手に入る、2着。
「あ……」
現実に理解が追いついて、マルシュアスは茫然と口を開けて掲示板を見上げる。
「マルシュちゃん!」
観客席から駆け寄ってくるネレイドランデブーの声を聞きながら、マルシュアスは目をしばたたかせて、自分が夢の切符を掴んだことを確かめるように、拳を握り直した。
ドリーミネスデイズ。
6月18日、メイクデビュー東京、バイトアルヒクマの7着。
9月、3戦目で新潟の未勝利戦を突破。11月、1勝クラス・百日草特別を連勝。
12月、GⅠホープフルステークス、11着。
2月、すみれステークス2着。
4月、GⅡ青葉賞を勝利。日本ダービー優先出走権を獲得。
マルシュアス。
11月、メイクデビュー京都を6着。
12月、阪神の未勝利戦を11着、8着。
1月、京都の未勝利戦を2着。
3月、未勝利のままGⅡ弥生賞に出走、3着。
4月、GⅡ青葉賞2着。
史上初、未勝利のままで日本ダービー優先出走権を獲得。