「ヘクトール、調子はどう?」
「 」
布団からとりあえず身を起こし、ぼんやりと意識はあるらしいヘクトールに彼は問う。声は聞こえないがかすかに唇が動いたのでまあ悪くはないだろうと判断する。
自身のひび割れかけた霊基が壊れないことに集中するため、ヘクトールは現在自我を極限まで薄めている。マスターである彼が自力で持つ魔力がそれほどないせいが9割の現状。非常に申し訳ないばかりである。
随分前に皆との契約を切り、カルデアから離れた今になってどうして。どうしてまたヘクトールが自分の前に現れたのか。どうして今にも消滅しそうな状態でいたのか。疑問は尽きない。
そもそも自分がよく知るヘクトールなのか。という問題もある。きっとその可能性は低いだろう。そういうものだと知っている。
ならばこの街か近くで新しい聖杯戦争が?
ならば本来のヘクトールのマスターは……いや、拾ってすぐさま藤丸立香と契約のパスを繋げられた時点でもういはしないだろう。
ならばどうすべきか。
ならば、
ならば…………。
今は考えるのを止めよう。思考を打ち切るように首を振る。
今はヘクトールの治癒に専念すべきだ。逃げるも生き残るもそれからだ。
たとえ自分を知らないヘクトールであったとしても、目の前にいるのなら生きていてほしいと思うから。もう一度出会えたことに心から喜びを感じているから。また話したいと、思ってしまうから。
「…………いる?」
ヘクトールがぼやりと座る布団の横に座りわずかに切った指を差し出す。
パスが繋がっている状態で渡される血にどれほど効果があるかは分からないけれど、彼自身の気休めとして。
「……」
「…………んっ、」
そのわずかに漏れる赤を、ヘクトールはぼやりと眺めてから舌を這わせる。やがてすぐに舐めるだけでは足りないとばかりに指を咥えられ、吸い付かれる。
指に這う舌のざらつきと口内の熱と。作業中に少し切ったと自分で自分の傷を舐めとるのとは全く違う、得体のしれない感触が彼の眉を困惑に歪ませる。
部屋の主の懸命な手入れだけでは拭いきれない陽の当たらない、建物全体の古びて薄暗くどこかじとついた部屋の中。わずかな水音とそれに伴うわずかな漏れ声だけが響いていた。
「……」
「もう……、いいの?」
安堵と名残惜しさを混ぜながら、ヘクトールの口が離れ唾液にまみれた指を見る。
薄くしか切らなかったために既に血は消えていた。確かにそれならばもう咥えている必要はないだろう。
……あれだけ求めているのなら、やはり血はあったほうが足しになるのだろうか。別に指の傷などいくつかあってもだれも気付くわけでもない。そもそもヘクトールが持ち直すまで大学は休まなければならないからその間に消えるであろう傷だ。構う必要はないだろう。そう思ってカッターを置いた場所を思い返す。
「もう少し必要ならべつにッん!?んんんんんん!?」
たとえ勘違いの気休めでもやれることは全部やっておこう。そう腰を上げようとした瞬間。ゆらと身を寄せられていたことに気付かぬまま唇を奪われ肩を押されて倒される。先ほどまで指にまとわりついていた舌が否応なしに口内に割り入り蹂躙される。その異物が口内を這い回る感触だけで跳ねかける身体が抑えこまれる。
抵抗など出来るわけがない。元々の力が違う。体格が違う。身体に対する理解が違う。そもそも上から覆われてしまえば重みで身動きすらままならない。おまけに呼吸もままならず、かろうじてバタつかせていた脚が部屋着に軽く纏っていただけの浴衣を乱れさせるだけで……。それも間もなく力尽きた。
「ふあッ!はあ…………は……ぁ、」
酸欠間際で唇は離されむせるほどに空気を求めて呼吸を繰り返す。ヘクトールはただそれを色なく眺めていた。
知らない。
どんな時でも悠然と笑い、過度に緊張を持たせないようにしていたヘクトールしか見ていなかったから。こんなに色のないヘクトールは知らない。
いつだって隣にいてくれても一線を重んじ無理に踏み込みはしなかったヘクトールしか知らないから。こんなに強引に事を進めるヘクトールは知らない。
優しくも厳しく、冷たいようにも振る舞える暖かなヘクトールしか自分は知らないのだ。
元々あったけど見せないようにしていたのか。あの時の召喚にはなかったけど今の召喚にはある面なのかは分からない。混乱ばかりが彼の中で急流に廻っている。
だけど
「嫌か?」
「……………………ううん」
不思議なほど恐怖はなく、静かに降る声に彼は静かに首を振る。
「ずっとこうしてほしかった」
「……そう」
真剣な時にだけ聞ける低く響く声とか。
どうしようもなくなってからあるわけがない逃げ道を伝えてくるずるいところとか。
告げられた積年の吐露に、一瞬だけ大きく目を開いてから柔和に浮かべる安堵の微笑みとか。
ヤニっぽくも落ち着いてしまう吐息とか。
生身の肌が傷つかないように優しくなぞってくれる指とか。
触れられるだけで安心するのに高鳴ってしまうぬくもりとか。
やはりどうしようもなく彼がよく知り、今なお好きでい続けたその人そのものなのだ。