その喚び声に応えよう。
そう思った瞬間から歪は始まっていた。
最初はわずかな軋み。気に留めるほどでもない。ただ世界と条件が特殊だから生じた違和感。全盛期ではないゆえの不調。それくらいにしか考えていなかった。
しかしその歪は急速に無視出来ないものになっていった。
彼というマスターに出会ってから。彼というマスターに従うたびに。彼というマスターを守るたびに。言葉を交わし、笑いあい、厨房に並んで食を囲み、疲れた顔で眠る姿を見守るたびに。先の希望を信じて前へ進もうとする背の成長を見るたびに。幼く未熟な信頼を何一つも疑うことなく全面的寄せられるたびに。青く輝く瞳を輝かせてこちらを見上げてくるたびに。そんな彼に惹かれていく自分を自覚するたびに。歪は広がり精神は軋んでいく。
日に日に歪になっていく自分はどれくらい「ヘクトール」なのか。「ヘクトール」と呼ばれることが許されるのか。そのまなざしを受け取る資格はあるのか。尽きることのない迷い戸惑いを抱え、そこまで後ろめたく思っておきながら握った手は離せない。誰にも渡せないと欲ばかりが嵩んでいく。
歪と共に肥大していく後ろめたさの中でそのように振る舞い続けるも、その行いにすら歪は生じ軋み痛む。
しかし、しかし、けれど、だけど、彼が真摯に求めていたのはそんな歪な「ヘクトール」と名乗ることすら躊躇われるカルデアにいたそれだったのだと。終の世界でようやく気付く。
「どんな時も傍にいて守り抜いて見せるから。何の心配もなく眠れる場所でいてみせるから」
「うん。頑張る。だから……、会いに来て」
何年も前に世界と世界の狭間で出会い交わした約束を、世界が消えると共に記憶も消えていたというのにそれでも待ち続けていたのだ。
惑星のように輝く青の瞳ごとこぼしてしまいそうなほどの涙を浮かべて。それでも落としてしまわぬようにこらえながら、歩みを止めず会いに来た。
そしてその想いに応えるために、未来の「ヘクトール」は過去の「ヘクトール」を決めてしまったのだ。その声に喚ばれた自分を彼だけのものにしてしまおうと。いわゆる鶏が先か卵が先かという話になってしまい、歪にもなるわけだ。
分かってしまえばなんてことのない話であった。しかしカルデアにいる間では気付けるわけがない話であった。
こうしてカルデアから離れ旅に出て幼きいつかの彼と出会い約束を交わし、そして果てまでたどり着かなければ。
霊核すら燃やし尽くす一撃をもって標的は打ち砕かれそれと共に世界は消えようとしている。
ヘクトールももう動くことは出来そうにない。そもそも行ける場所もない。
彼のために徹底的に歪められた情報では座に登録されている「ヘクトール」には合わない代物と化しているだろうから、記録が引き取られることもなく消滅となるだろう。
だから終わり。これで終わり。
彼の憂いを晴らせた満足感だけであとはどこでもない虚無へと消えていこう。
それでいい。
それでいい、はずなのに。
「会いたいよ。────」
人間弱るとどうしても、未練がましくなってしまう。
自嘲も寂しさも混ざった笑みを浮かべてヘクトールは全て手放した。
はずなのに、
どうして今は日本の狭いアパートの中で腰を落ち着けているのだろう。
「霊基がなんとか安定してくれてよかったよ」とのんびりと話しながら茶を淹れている彼の声を聞きながら混乱は冷めていなかった。
心当たりがあるとすれば、足下に転がっていた大破していた聖杯くらいであるけれど。
あんな大破状態でも願いを叶える機能が残っていたのか。
あんな大破状態だからこそ消滅寸前のまま跳ばすしか出来なかったのか。
なんにせよ聖杯の力と彼の献身により願いは成就した。
もう一度彼に出会えた。平和な世界で恙無く生活出来ている姿が見れた。この上なく喜ばしいことだ。マスターのその後を見届けられるサーヴァントなどそういはしないのだから。とてつもなく幸運と言えるだろう。
しかしやはり、サーヴァントだ。長居してもマスターのためにはならないだろう。時期を見て早々に去らねばなるまい。
「ヘクトール、遠出は出来そう?電車ちょっと乗るくらいでいいんだけど」
「うん?まあマスターと一緒ならその程度なら。激しめの運動はまだ無理ですけどね」
「そういうのはないから大丈夫だよ。父さんたちのとこに行って話すだけ」
「……うん?」
そんなヘクトールの粛々とした切り替えに気付かぬまま、彼は幸福そうに茶をヘクトールに渡す。その朗らかな微笑みと言葉に背中にピリとした予感が走る。
「ヘクトール助けるのに助言貰ったりしてたからさ、無事どうにかなりましたって報告に行かないと。あと引っ越しの話とかもね。ほら、流石にこの部屋で二人暮らしは窮屈だから、ここも親名義で借りてるとこだし手続きとか色々、面倒お願いしないとだから……、ね?」
「………………」
当然のように繰り出された『親』という存在に一瞬にしてヘクトールの心身が凍りつく。
話せば長くなるが、カルデアを離れてからのヘクトールの旅というのは彼のための旅であり、去るにしても彼を一番に想っている両親にその報告はしなければならないだろう。むしろヘクトールの願いとは関係なくそのために一度ここまで跳ぶ義務があったとすら言える。
しかしその愛される彼の肌に浮かぶ一週間の痕跡を見ると………………。
「け、経緯を報告した後、速やかに腹を切る覚悟は出来ています」
「生きよ?」
突然に青ざめ引きつるヘクトールに対し「せっかく頑張って生きれてるんだから」と意味は分からないまま彼は言葉を短く返した。