「ヘクトール」
静かにしとやかに。その声は背中に突き立てられた。
どこかひりついた怒りを帯びた馴染みの声に、ヘクトールはびくりとわずかに肩を震わせてから笑顔で振り返る。
「何か用かい清姫。今日はマスターとレイシフトだろ?遅刻したらまずいんじゃないかい」
彼女に対して嘘をついた覚えはないのだが。それでも彼女はヘクトールに対しどこか殺意を滲ませた笑みを向けてくる。
心当たりは……ないとは口が裂けても言えない。言ってしまえば確実に彼女以外からも総出で殺しにかかられてしまう。
「ええ。そのあたりは抜かりなく。ですがひとつ気がかりがあって」
「へえ、それオジサンが処理出来ること?」
今現在はちょうど身体に空きがある。最初からの付き合いである彼女の頼みを聞かない理由がない。了承として話を進めれば彼女はにこりと口を開く。
「難しい話ではありません。ただ部屋で座っているだけで結構ですので貴方向きと思います。報酬は後でちゃんとますたぁとお持ちしますのでご安心を」
……はっはーん、さてはそちらが本命ですね?とは言わず、「ご要望ならば」とその嘆願を了承することにした。
そして
「たっ、確かに確かに確かに確かにぃ!最近ちょぉっっっっとサボり気味でしたよぉ!?アイディアはあるけど上手い表現方法が見付からなくて参考にと思った漫画が思った以上にツボに入りまくって〆切もそろそろヤバくなぁい?ってなってたのは確かだよぉ!?でもでもだからってまーちゃん超絶お気に入りのカルデア全サーヴァント統括副長派遣させるなんて最終手段にもほどがあるでしょうがきよひーの馬鹿ぁぁぁぁぁ!!」
「あーいや……、古参組だからえらい肩書きがついてるだけでオジサンそこまで偉くないよぉ……?」
馴染みのメンバーたちからは雑に扱われることのほうが圧倒的に多いから(それを悪くは思っていない)、こういう対応は珍しい……。
頼まれた部屋の主がドアを開けた途端に泣きながら崩れ落ちられヘクトールは頭を掻く。
数百人程度の小さな集落程度のカルデアだというのにこれほど温度差が出来るものなのか。感心すらしてしまう。
よろよろと立ち上がり恐縮極まりない低姿勢で招かれるがままに部屋に入る。モニター以外の光源はなく暗いものであったが特別問題にも思わない。ヘクトールの貰っている元物置だって薄暗さは似たようなものだ。清姫に言われた通り空いている場所に座り、何もしない。
が、部屋の主は恐縮しきったままこたつの上を片付け震える手でお茶を出してくるのでこちらも申し訳なくなってくる。
「まあ清姫も深くは考えちゃいないさ。ただ同期が暇そうだから頼みやすかったんだろうよ」
「そ、そういえば同じ日に召喚されたんでしたっけぇ?」
「そうそう。世話になりっぱなしよ」
……そう考えると、同郷モノノケ繋がりだからといって自分みたいな引きこもり端員と組んでるってすごいな。彼女も彼女で古参として請け負っている役割も多いだろうに。刑部姫の背中にひやりとした感覚と重々しい申し訳なさがのしかかる。
サボりについて大いに反省するし頑張らねばと思う心も発生してはいる。だがそれで筆の速度が上がるわけでもない。イメージが湧かぬものは湧かぬし描けぬものは描けぬのだ。
しかしだからといつも通りに投げ出すわけにもいかない。
気にしなくていいと言われたところでやはりサーヴァント統括副長はサーヴァント統括副長で暇と言いつつタブレットを開いて何か仕事はしているっぽい空気を出されているのだから。それを差し置いてただただ趣味で頓挫しているだけの自分がサボるわけにはいかないのだ。
空気が重い……。
時折啜られる湯飲みの茶の音がやけに大きく感じられる……。
「それにほら、」
何らかの繋がりのようにヘクトールは言う。
「オジサンあの子に嫌われてるし」
「そ、それはまあ………………よく存じています」
「だろ?」
合わせるように頷けば屈託のない笑顔が向けられる。ヘクトールの中でどんな会話が織り成されていたのだろう。刑部姫には察しきることは出来ない。
が、振られた清姫のヘクトール評については思い返す。何度か苦々しくぼやいていたのは覚えている。
「あの方は確かに嘘はついていません。うさんくさいですが誠実な部類に入る方でしょう。何よりますたぁが本心で選んだ方ですから。仕方ありません。ですが許しがたい「いんちき」をしている匂いがあるんです。今すぐにでも焼かねばならないほどの」
と。今にも爆ぜそうな火花を散らせながら。
言わんとしていることは分かる。
刑部姫とて人ならざる者だ。城に人がいた頃は予言者の真似事だってしていたことだってあるのだ。いくらか見えるものもある。確かにふたりに何らかの繋がりがあるのは見える。「運命」と呼べるほど確かな繋がりには見えないけれど。
清姫に「いんちき」と呼ばせるだけ複雑に絡んでいる繋がりを手繰りあうように隣り合っている状態だ。
ひとりは戸惑いながら、躊躇いながら。
ひとりは何一つ疑うことなく。まっすぐに。
非常に興味深い。いくらでも見ていられる。
しかし刑部姫はそれを口にしない。
面と向かってそれについて盛り上がれる相手もいないし。
自分が見えているなら他の力がある人にも見えているだろうし。
何より席に座る者は舞台へのおさわりは厳禁であると決まっているのだし。寄らず触れずにあるがままに踊ってくれてこそなのだ。
なのでこの話はここでおしまい。深める必要も広げる必要もない。
「あ…………、あのぉ……」
その代わりと言ったらなんだが、おそるおそると既に作業を終えてこたつのみかんを食べはじめているヘクトールに声をかける。
「大変申し訳ないのですが……、ちょぉぉぉぉっとお手伝い、してみません?」
「ただいま戻りました。差し入れのますたぁと一緒に作ったおしるこですよ~。おっきー進捗は……、まあ随分仕上がりましたね」
「は、はい……。あとは姫が描いてない白い頁だけですはい……」
数時間後のレイシフト終わり。
満面の笑みとともに帰還する清姫の表情は刑部姫のモニターを見て更に華やぐ。
しかし当の刑部姫の顔は沈痛で、「確かに古代ギリシャ時代の人は機械強いだろうって踏んで頼んだけどさあ……」と呻くばかりで
「ヘクトールおっきーの手伝いしてたの?」
「ええまあ、現代のシステムは素直でいいですね」
タブレットに送られたデータを一緒にダウンロードしたアプリで言われた通りに操作しただけのつもりのヘクトールは、マスターである彼からのんびりとおしるこを受け取った。