「じゃあ、あとはたのまあ」
気だるい言葉を残してこんこんと眠る彼らがマスターと呼ぶ少年を置いてプロトクー・フーリンは元物置のドアを開け立ち去った。部屋の主であるヘクトールは少年を抱えて見送るしかなかった。その表情はなんというか、死んでいる。
しかしいつまでもこのままというわけにもいかない。早急にこの体力配分を盛大にミスって昏倒している少年を休ませなくてはならないのだから。
とはいえ
「皆オジサンのことぜんりょーなニンゲンだと思いすぎじゃなぁい?」
呆れと疲労を色濃く混ぜたため息と共にベッドの上に倒れこむ。その勢いで背中にぎちりとスプリングが大きめに軋む音が聞こえた。だが壊れる音でもなかったので気にしない。胸の上で眠る少年も変わらず眠り続けているから問題ない。
「プライベートに口出しする気はねえけどもう少し上手くやれ」とか「おふたりの関係を完全に認めたわけではありませんが、あまり先輩を寂しがらせるのはちょっと」とか、好きに言ってはくれるけど。こちらがどれだけ心を砕きながら配慮していると思っているのか……。まあこちらが瓦解したらそのままどのような雪崩やドミノになるのかなど火を見るより明らかなわけなので、結局のところ生死問わず「今まで通り」に徹するしかないのだけど。
深い深いため息をつく。
まあ、たまにはこういう日があってもいいだろう。役得であるわけだし。面倒な反省会と報告書はこうしている間に皆が済ませてくれるわけだし。
クセ毛で跳ねる少年の頭を撫でながら、ようやく戦闘後の少々高揚したままの精神が落ち着きを取り戻しつつあった。そうなってくると重みもぬくもりも心地のいいものだった。
眠り方も……まあ大丈夫だろう。極めて安らかでどこかに引っ張られているという風ではない。プロトクー・フーリンとレイシフト用スーツを脱がせて汗を拭いた時も、ほぼ意識はなかったとはいえここにいるにはいるようであったし。指で頬をくすぐればうにゃむにゃと反応が返ってくるし。背中を撫でれば
「……ふ、んん、ぅ、」
どこかくぐもった声も漏れてくるわけだし。
心配する必要はないだろう。
少年の背を撫で回しながら薄暗い部屋の天井を眺めていた。
厚手のガウン越しの撫でられる感覚にふんふんと鼻息を鳴らす音と建物全体に響いている何らかのシステムの駆動音、隣の穏やかなスタッフたちの後処理の気配。全てがゆるやかに流れていた。
今日は本当に全員がはしゃいでいた。張り切っていたというかはしゃいでいた。マスターに限らず全員がはしゃいでいた。おそらく今頃行われているであろう反省会でもそのような話になっているだろう。
何せメンバーがほぼ最古参で固まっていたのだから。無論、ただの偶然である。
現在に至るまでのカルデアの基盤を整え、一番苦労の多い時期からずっと一緒にいた仲なのだ。性格も戦闘も勝手知ったる互いの呼吸。ハイスピードで話をまとめ進められるからこそ自然と上がっていくテンション。故にスタッフたちのサポートも手慣れたものと連携に滞りがなく、当然マスターも巻き込まれて誰もオーバーワークに気付けずこの通りである。
なんと恥ずべき事態であろうか。
なんとらしくない若手じみたミスであろうか。
申し訳なさで現在マスターの役割が抜け落ちている少年の背をさする回数もどんどん増えていく。くぷくぷと鳴る鼻は心地良さそうだからよしとした。
この心地良さそうな反応も、今の厚手のガウンではなく少年が愛用している薄手の浴衣ならばまた反応が違っていたかもしれない。撫で回しながらヘクトールは思う。
ガウンのふわふわの手触りも悪くはないが、浴衣のするすると身体のラインそのままを触れられるのも良かったろうに。しかし取りに行くのは手間だったので仕方ない。次は…………次は、あってはならないだろう。こういうのは。
些末な仕事で主を過重労働で倒すなど。
許可なくみだりに触れるなど。
以前ちょっとしたいたずらのつもりで首には触れたけれど、あれは良くなかった。楽しくはあったけれど。背を丸めて、身体を縮めて生じる感覚を必死に堪えている姿は大変可愛らしく楽しくはあったけれど。よろしくはなかった。楽しくはあったけれども。あれは歯止めが効かなくなる麻薬的高揚があって、きっとあそこが誰が入ってきてもおかしくない脱衣場でなければ、彼が少しでも声を抑えられなくなっていたら、こちらに目を向けたりしていたら、徐々に脚が震えてきていた彼が立てなくなっていたなら、いたずらにしては過ぎていると気付けなかったら、もしかしたら、
「ャッ!」
「……っと、」
ぼんやりと思考の渦が加速していく中で突然手を弾かれて我に帰る。いつの間にか背を越えて首を撫でていたらしい。
眠っていてもなおイヤイヤと自分ではない触感を消そうと首を払い続けている。余程苦手なのだろう。悪いことをした。
「………………ぅぅ、んんぅ、むぅ」
眉を寄せてむずがり身体を揺らす。
これはもしかして起きてしまうか……?
自然と顔が引き吊っていく。
「……………………………………んん、」
「おはようマスター」
少しばかりの意識の上昇動作の末に少年の瞳がうっすらと開く。まだその下に人がいることは認識していない。
うにゃむにゃと、ゆっくりと混濁した瞳が明瞭になりはじめ
「……ヘクトールだあ」
ぼやけた声で歓喜を上げ、そしてまた眠る。
「……………………」
再び訪れる静寂にヘクトールは少年の頭に肘が当たらぬように両手で顔を覆う。
「あかん」
何がどうあかんのかと言われれば困るがとにかくあかんとヘクトールの中で多重な警報が鳴り響く。
これはあかん。
どう頑張ってもあかん。
どうであろうと頑張らなくてはならないからあかん。
あかん。
安らかな寝息。静かな駆動音。穏やかな隣室。薄暗い部屋に特筆することもない薄汚れた天井。
平穏に流れていく世界の中、陽を跳ねて揺らめく水面のような瞳に沈められた男がひとり、その輝きに囚われ溺れていくばかりであった。