いくら恐怖や絶望が圧倒的であったとしても逃げる場所なんてない。隠れる場所もない。黙って息を潜めてやり過ごすことなど許されない。そういうスタート地点から始まった勝負なのだ。
ならばひたすらにひたむきに、全速力で前進していくしかない。突破口はそこにしかないのだから。多少の破損など目を向けている暇などない。
ただ、そう思っているだけなのだ。
いつになく怒っているような雰囲気でドクターが腕やら腹に包帯を巻いてくれている。
忙しい人に多大な手間をかけさせている。彼もそれを大変申し訳ないと黙って受け入れている。
「藤丸君傷口塞がるまでお風呂禁止ね。あと僕が行くなって言ってる時は突撃しないこと。客観的に見てどう見てもいらない怪我するよって時に言ってるんだから。いくらかの補給のあてはあるとはいえ医療品だって有限なんだと思うこと。いいね」
「……はい」
自業自得なので反論など出来るわけなく、ただただ頷くしかなかった。
「でなんでその風呂禁止マスターが入浴セットを持っているんだい?」
「足湯ならいいと思って」
「屁理屈だねえ」
反省はもちろんしているがそれはそれ。悪びれもせず大浴場へと向かおうとする彼にやれやれとヘクトールは肩をすくめる。
それでも止めはしないのは脚には入浴を控えるべきと思えるほどの怪我は見られないからだろう。そしてなんやかんやで彼に甘いドクター兼司令官代理はそれを許す人であると知っている。だから黙認で構わないとの判断であるのだろう。
「ヘクトールも風呂の時間?」
「不便なマスターの髪くらい洗ってあげようと思いましてね」
「それはありがたい」
彼の行動を予測していたのか。既に手にはカルデアの理容室から拝借した散髪クロスが用意されていた。きっと足湯を所望していなかったら理容室に連れて行かれたのではないだろうか。確かあそこも時が経てば必要になるだろうと最近水と電気が復旧したはずだ。髪を洗うだけなら確かにそっちのが手早い。
しかしやはり風呂に入れるなら入りたい。少なくともカルデアに滞在している時はそう思ってしまうので、足まで包帯まみれにでもならない限り髪を洗いたいから理容室へ。とはならなさそうだ。
「しっかしマスターも無茶するねえ」
「そうかな」
「そうだよ」
浴場のシャワーコーナーでクロスを巻いた彼の頭に湯がかけられる。これなら跳ねた湯やシャンプーが包帯を濡らすことはない。発想に感謝だった。
「自分が皆の心配しすぎるのはおこがましいっていうのは分かってる。任せてほしいって言葉を信じないのは不誠実だ。だがそうも言ってられない状況になっていたのが自分でも分かってしまうとな、」
「……まあ確かに、あそこでマスターが突っ込まなきゃデオンか呂布は落ちたでしょうな。戦力も乏しい今じゃどっちかでもいなくなられたら困る」
「だろう?」
武骨な指が柔らかく丁寧に彼の頭を揉みほぐしていく。自分が雑に洗うよりずっと細やかに隅々まで洗ってくれるから眠たくなるほど心地よく、戸惑う心は大きい。しかしそれ以上に戦闘終わりの高揚が強くて話もそちらばかりになる。
それを聞くヘクトールは奥歯に物を詰まらせたような音を含みつつ、鷹揚に肯定する。
平穏な国で生まれ育った彼なりに戦おうと奮い立っている。そのための戦力、サーヴァントを丁重に扱おうとしている。それは悪いことではない。だからこそこちらも全力を以て応えようと思うのだ。傷だって場合によっては勲章だ。
しかし、
しかしだ。
今の彼のやり方ならばその傷は彼ひとりの自己満足な誇りにしかなれず、全員にとっての不名誉他ならないのだ。
「オジサンたちへのそういう気遣いを、もうちっと裏方さんにも向けてもいいんじゃないかい?」
「……うん?」
湯を頭を洗い落としながらヘクトールは柔らかく言葉を落とす。
「みーーーんなマスターを生かして帰そう。傷はひとつでも減らしてやろうってフル回転してくれてるんだぜ?応えてやるのもマスターの勤め」
「んん…………、むぅ」
そう言われれば、そうのような。マスターはひとりしかなく医療品も有限なのだ。大事にしなくては。理解は出来る。
でもけれどと反論したい気持ちもあるけれど、確かにそうだとヘクトールの言葉が沁み入ってくる。
「マスターが今のヤンチャなだけなままだと、世界が救われる前に世界と一緒にスタッフの胃と神経が焼き切れちまうぜ」
「ぐぅ…………」
それは確実に宜しくない。
世界の未来を世界のはずれのようなこんな場所で長く長く今までずっと心配して活動してきた、一番に守られるべき人たちが守られていないのは宜しくない。しかも原因は敵でなくぽっと出の新入りだなんて……あってはならない。自分みたいな存在にまで心を配ってくれる優しい皆の優しい心は守らなくては。
大切と思っていないものを大切にしなければならないのは大変だけれども、それが皆を守ることになるのなら……。身の振りかたをもう一度考え直さなくてはならない。
「ありがとうヘクトール」
「いいえ。これくらいのことならば」
髪の汚れと共に洗い流され落ち着いた思考に柔らかに乾いたタオルがかけられる。これまた丁寧に丁寧に水分が拭き取られ、それでも水滴が落ちないようにとタオルで髪がまとめられる。
「はい。これで一丁。後は背中だけど、向こうでやればいいかね。足だけでもじっくりあったまりながらがいいでしょう」
「流石にそこまでやらなくても……」
背中を拭くだけならひとりでもどうとでも……。そう言おうとする彼に「いいえ」とヘクトールは遮った。
「まず自分が大事にされることに自覚して慣れること。そういう訓練」
「うへぁ……」
それはある種どの訓練よりも大変だ……。背中に走るむず痒さに身震いすれば、意地悪く笑われ散髪クロスを剥ぎ取られた。これは絶対に勘弁してくれない時の顔だ……。
逃げられないのなら立ち向かうしかない。
分かっているのに、ただただ逃げたくて悲鳴のような声を洩らしてしまった。