「マスター」
呼びかけに振り返るとちょっと試すようないじわるさもある気もする満面の笑みと共に両手を広げたヘクトールがいた。
それに彼は目をまんまるにして間を空けることふたつみっつ。それからその動作の意味を理解した彼もまた、頬を主に染め満面の笑みを浮かべ返してヘクトールの胸の中に飛び込んだ。しっかりと抱き止められた力強さもさることながら、何よりヘクトールからそんな誘いを持ちかけてくれたことが嬉しかった。
そういえば、今までヘクトールにただ抱きしめられたことはあっただろうか。
包まれた暖かさと幸福の中で彼は思う。
戦闘中に庇われてとか狭い場所でふたりで雨宿りしたとか。何かに理由があった密着はいくらかあった。けれど単にコミュニケーションとしての、ぬくもりを渡しあうための密着というのはそうなかった気がする。
そう思うとすごく嬉しい。ヘクトールの中でどんな気まぐれが発生してそんな誘いをしてくれたのかは分からない。けれどそんな風にしたいと思ってくれたことがとてつもなく嬉しかった。
ただひたすらに平穏な状態の中で感じられる煙草の香りや土の香りが落ち着く。厚い筋肉の頼もしさに身を委ねている安心感。その気になったらそのまま潰せてしまうけれど、そんな気が起きるわけがない優しさが好き。ヘクトールは守る人なのだ。
とはいえ、ヘクトールがそれを望みヘクトールの腕の中で自分の全てが終われるのなら、最期の自分の眼の中にヘクトールがいて、ヘクトールもまたそれを見てくれているのなら、それでもいいんじゃないかなあとも思ってしまうけど。ヘクトールがそういうものを望む人ではなく言ったら間違いなく怒られることは重々に知っている。なのでこれは自分だけの不謹慎な願望なのだ。
「マスターは子供体温だなあ」
耳元で響く柔らかい声がくすぐったくて背中を伝って全身が甘く痺れる。それだけで全ての力が抜けて立てなくなりそうになる。
ヘクトールが暖かいと喜ぶのなら、自分の体温がいつまで経っても高めであるのは良いことだと思う。早くヘクトールに見合う大人になりたいという願望はある。ちゃんと存在していて自分なりに頑張っているつもりだ。けれどこうしてまた暖を求めて抱きしめてくれるなら、いつまでも高いままでいいかなあとまで思ってしまう。駄目で怠惰な人間だと少しばかり後ろめたくなってしまう。
それに暑くなったら離れられるのかなあと思うと、少し、かなり、寂しいとか思ってしまい、人間として、こう……反省しかない。
さておき、ヘクトールの言葉は言葉として、自分からだとヘクトールのほうが余程暖かい。離れがたくなる魔力がある優しいぬくもり。そういうのを、ヘクトールも自分に感じてくれているなら、嬉しいなあ。そう願って彼は背に回す手に力を込める。もっとくっついていようと身を寄せる。
このまま眠ってしまえそうなくらい暖かくて安心する。けれど眠るには痛いくらい高鳴りがしている。一応それなりに鍛えているつもりではあるけれど、揃い踏みの英雄たちに比べればやはり薄い肉しか持たない自分だ。これだけくっついているのだからヘクトールにも響き渡ってしまっているのだろう。そう思うとやはり少し恥ずかしいものがある。だけどけれど、じゃあ離れるか。と言われたら絶対に嫌で
「幸せぇ」
溶けるように声を漏らし、今ある幸福を享受し続けた。