遠く遠くの空から唸るような轟きが聞こえる。
それに彼はすぐさま心をざわつかせる。
しかしそれは必要のない感情だ。言い聞かせるように気を静めていく。
あれはただの雷だから。
静かに静かに言い聞かせていく。
あれはただの雷だから。雲の流れも風の湿りもそう言っている。
あれはただの雨。局所的なちょっと強いいつもの。ここにはまだ降っていないけれど、風はこちら向きだ。もう少ししたらここにも降るかもしれない。
勢いは、どうだろう。そこまで強くはないと思う。少なくともこの間のように声も届かなければ視界も不明瞭というほどではないだろう。あってちょっとずぶ濡れになってしまってとても不運、くらいではないだろうか。
だから考える必要はない。必要ないんだ。
危うく臨戦態勢に構えかける心身を宥めるように言い聞かせ続ける。
大丈夫。どこにも敵意のような気配はない。魔力のようなひりつきも感じられない。
大丈夫。だから考える必要はない。
こんな人が多い場所で戦闘なんて起きたらどうしようとか。敵の数は力はとか。何人死ぬのだろうとか。何人怪我をするのだろうとか。何人泣くことになるのだろうとか。何人それからの生活に、立ち直るためにはどれくらい……。どう立ち回ったら被害は最小限に抑えられるのだろうとか。カルデアのバックアップのないただの人間の自分に何が出来るだろうとか。沢山の厚意と尽力で許されているだけの、全盛期どころかカルデアにいた頃に比べれば半分ですらない、とりあえず生存出来ている程度の魔力しか渡せていないヘクトールとどこまで……。
必要ないとどれほど言い聞かせても戦慄いていくのが止められない。痛いほどに心臓が速打ち呼吸が浅くなっていく。
そして
「マスター」
「!」
震える手を、ヘクトールが握りしめた。
「早く帰って温かいのでも食べようぜ。うどんでいい?」
「…………へく、ヘクトール……」
「ネギ多めにして、野菜もたくさん入れようか。そうなると煮込みうどんのほうがいいかねえ。贅沢して海老天とか入れちゃう?」
「あ……、あの、手……大丈夫……だから」
「んん?」
のんびりとした声で語るヘクトールにも今の彼がどれほど青ざめているのか見えているだろう。声すらまともに出せないほど呼吸も定まっていないことも分かっているだろう。握った手がどれだけ緊張で汗ばんでいるのかも。
それでも何でもないかのようにのんびりと笑み語る。
「オジサンがマスターと手ぇ繋ぎたいだけですけど?」
「…………」
状況は何も変わっていない。
暗雲は徐々に迫ってきているし風の湿り気も強くなってきている。ゴロゴロとした音は大きくなってきている。好転していることなど何もない。
「……………………」
だけどその柔らかな笑いに手のぬくもりに。彼の中の全てが救われ浅早い呼吸も心拍も、精神の毛羽立ちが穏やかに落ち着いていき
「ふっ、ふふ、ふふふふふふふ」
間もなく訪れたいつもの日常の帰還に笑い声を上げ
「しょうがないヘクトールだ!」
大丈夫なのだという安心と暖かな心に感謝の念が伝わるといい。そう願うように強く手を握り返し、肩を並べて帰路へと急いだ。