ヘクトールとぐだ男の短編まとめ2   作:なまきいろ

37 / 44
人知れず消える人

 ヘクトールがそのずぶ濡れの少年を見付けたのは深夜の見回り当番の時だった。

 まるでどこかで頭から爪先まで丸ごと水に浸けられ廊下に放り出されたような。そんなずぶ濡れっぷりであり周囲の水気のなさだった。

 「マスター?」

 滴る水の音だけが聞こえる省エネで薄暗い廊下で声をかければ、ゆらりと彼はこちらを見上げる。

 その瞳に生気はなく、まるで亡霊のようだった。

 「……へくとーる?」

 呆然としながらもわずかに意識に焦点があっていっているようだ。何かを伝えようと唇がわずかに揺れている。が、上手く言葉に変換出来ずに空回っていた。

 「……あ、あの…………湖、湖の中に転移の陣があって、少しでもずれると違うとこ……、だが鐘が……鐘は、なってて……だから、わたし、」

 「いいから。まずは風呂」

 遮らせるために黒のマントを彼に被せる。

 それでもまだ何か言いたげにハクハクと口を動かしている彼に構わず抱き上げる。なおも何か喋ろうとしていたが、無視を決め込み酷く冷えていた身体を大浴場に入れてしまう。

 湯船の中で温められながらもなお心ここに戻らずという風な彼はさておき、脱衣場でドクター、現在の総司令官に通信を繋ぐ。

 『……分かった。検査の準備はしておく。今は藤丸君をのぼせない程度に温めてから医務室に連れてきてくれ。事情はそれから聞く』

 「了解」

 淀みない簡素なやり取りであったが、だからこそ分かる。この男は彼に何かあったのかを理解している。と。

 上のほうで話が通っているのならまあいいだろう。作戦に支障がないのならこちらが知らないままでも構わないだろうが、それでも説明はあったほうがありがたいと思う。が、今の状態では無理だろうと通信での様子で思う。何というか、説明しようにも説明のための情報が足りていない。という風に見えたから。

 そういえば以前、レイシフト中に休憩してそのまま寝こけて起きなくなった彼を運んだ記憶もある。その時も特別狼狽えることなく『契約に問題ないならそのままで』と指示を受けた。

 もしやあれも何か関係が……いや、今は安易に全てを繋げるのは良くないか。勝手に走り出そうとする思考を振り払って浴場へ戻る。

 「少しは落ち着いたかい?」

 「…………ああ、感謝する」

 努めて穏やかに声をかけるヘクトールに静かに言葉は返ってくる。

 やはりどこか心ここに戻らずという風の空虚さがあったし妙な固さもあった。しかし湯で温まった分の温度は戻ってきているように見えた。

 「鐘の音は聞こえていたから迷わなくていいとは分かっていたんだ。だがあたりが暗くて誰もいなくて、もう全部が終わってしまった後なのかと思ってしまった。すぐにヘクトールが声をかけてくれて助かった。心から感謝している」

 「お役に立てて何より」

 「ああ。本当に、ヘクトールがいてくれて良かった」

 髪から滴る水がぽたぽたと湯船に落ちていくように溢される感謝の言葉をヘクトールはただその通りに受け取った。

 

 そんな思い出もあったなと、言われなければ思い出せないほどの時間が経過した頃。ヘクトールの部屋の扉が控え目に叩かれた。

 気配からして以前合鍵を渡したマスターである彼だと思うのだが……。わずかに首を傾げながら開けば、いつかの思い出が一瞬で甦るような、亡霊のように生気のない彼がいた。

 「マス、」

 濡れていないにしても一体何が。

 訊ねようと口を開いた時には既に彼はヘクトールの背に両手を回していた。

 ぬくもりを得ようとするように。実体を確かめようとするように。

 「ただいま」

 「…………」

 「ただいま、ヘクトール」

 胸に埋まった状態で届く鳴き声にわずかに震えている身体に、発するつもりだった言葉は全て消え去り

 「おかえり」

 沈痛な想いに苛まれながら言葉と共に酷く冷えた彼の身体に熱を渡すように抱き締めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。