『それ』はいつだってどこにだって存在するもので、目があったら最後。捕らわれて引きずり込まれて戻ってこられないのが常なのだ。
「……………………」
レイシフト先の街に『それ』はいた。
路地の奥の影に潜んで揺らめくように蠢いていた。
目をあわせてはいけない。
分かっていたのにあわせてしまった。ふと気付いてしまった違和感を目で追ってしまい、その瞬間に囚われてしまった。縫いつけられたように足先ひとつ動かせなくなってしまった。
「…………ぁ、……ぅ………………」
脳が痺れて喉も震えない。助けが呼べない。音も聞こえない。こういう時に一番敏感に察知して叫んでくれるドクターが反応してくれない。視界が狭められていく。暗い。恐い。世界と、隔絶されていく。
礼装には耐魔力があったはずなのに。周りにたくさん仲間がいるはずなのに。自分だけだとやらなくてはならないことがあるのに。どうしよう。どうしたら。
「…………」
抗う力も術もなく引き寄せられる。身体が闇に向き足が向く。踏み出してしまえば終わりだというのに力が入らない。
「行くな」
腰を抱えられて視界を遮られる。多分布状の、マントか何かの。煙草の香り。
「ゆっくり。落ち着いて。息を整えることから」
「…………」
もやがかった耳にするりと入ってくる静かな声。疑わなくていい声だと当たり前に受け入れ身を委ねる。
息が出来る。思考に、感覚に降りた闇が薄らいでいく。
「見なくていいものに目を向けなくていい。行きたくない場所に行かなくていい」
「……うん」
身体に熱が戻ってくる。己の鼓動を感じる。その人の鼓動を感じる。
「聞こえるかい、マスター」
優しい声とは裏腹に腰を抱く腕の力は強い。
「マスターは、どこにいたい?」
「…………ッ!」
声が耳に響くと同時に全てがクリアになり
『しっかりするんだマスター藤丸!!!』
世界が戻ってきた。
「…………あっ、あう……、は、あ……あ、わあ、あ……」
急激に逆流しているかのような感覚にまたも脳は痺れ身体がついていけずに動けない。
けれど先ほどとは違い、音も聞こえるし目も見える。世界を感じられる。
支えてくれる人がいる。
「あ……、あの、わた、わたし……、ぁ、オレ、は、」
「いい。ゆっくり戻ってくるんだ」
酸素が戻りきらないまま話そうとする彼をヘクトールは強く抱き寄せ引き留め続ける。マントも彼と路地裏を遮ったまま。『それ』が消えたところで見せることはない。厳しいまなざしで見えぬ存在に警戒を解かない。
『頼むよ藤丸君。人理が不安定な分不確定要素が紛れやすいから変なとこ覗いちゃ駄目って何度も言ったろう?』
「ご、ごめんなさいドクター。あの、そんなつもりじゃ、なかったんだけど、」
『うん。今回は無事で良かった。帰ってきたら君の魅入られやすさも考慮した耐性をレオナルドに調整してもらおう。今は任務に切り替えて』
「……はい。よろしくお願いします」
『うん。いいよ。でも今回は戻るまではぐれないようにヘクトールと手でも繋いでて。それがペナルティ。恥ずかしくても絶対離しちゃいけないからね』
「………………はい」
終始優しく柔らかく気遣う言葉であるからこそいたたまれない。最後に意地悪っぽく添えられた言葉にもしおしおと受け取ってうなだれる。それを完全終了と判断したヘクトールは彼の拘束をほどき新たな拘束として手を繋ぐ。
「仕事中だぜマスター。ちゃんと集中してくれや」
「すまない」
そんなつもりじゃなかったんだけど。とはドクターにも言ってしまったけれど、言い訳にもならない。一瞬の油断が生んだミスだ。すんとしおれて手を払えない。
けれど嫌な気もしなかった。
十代も後半になって迷子の子供になりかけた恥ずかしさも大人に保護されて手を繋いでいる状態に恥ずかしさもあるけれど。不思議なほどに落ち着いている。嬉しさすらある。皆と合流したらまた怒られてからかわれて、申し訳なくなったり恥ずかしくなったりするのだろうけど。それが当然かのように馴染む手の感触に思ってしまう。
最初から、一番最初から。ずっとずっとヘクトールがこうして手を繋いでいてくれていたらよかったのに。と。