「起きろ」
「…………」
「おい、朝だぞ」
「んぅ……」
何度揺すろうと微かな反応を示すだけで、挙句の果てに寝返りを打った男に、女の眉がぴくりと上がる。
「だから──起きろと言っているだろう! このたわけがッ!!」
「うおおおおお!?!?」
妻の一喝に飛び起きた男は、その勢いのままベッドから転がり落ちた。
*
「おとーさん、おはよー」
「おう、おはよー」
わしゃわしゃと娘の髪、そしてピンと立った耳を撫で回して父は食卓に座った。その様子を見て妻──エアグルーヴが、小さく息を吐いた。
「まったく、貴様もこの子を見習ったらどうだ。今日も一人で起きてきたし、パンも焼いていたぞ」
「お前は偉いなあ、流石お母さんの子だ」
「お父さんに似なくてよかったな」
「う、痛いところを……」
チン、と音を立てて、トースターからパンが飛び出した。さっとバターを塗って、夫の皿に乗せてやる。
「ほら、さっさと食べろ。今日は仕事だろう?」
「ん、いただきます」
パンにサラダにスクランブルエッグというシンプルな朝食を、「美味い美味い」と食べていく夫に、「ふ、当然だ」とエアグルーヴは尻尾を靡かせて頷いた。
「毎日研鑽を欠かしていないからな」
「昔から努力家だからな、女帝は」
──女帝・エアグルーヴ。ティアラ二冠を勝ち取り、数々の華々しい成績を残したウマ娘。だが女帝と呼ばれていたのは遠い昔。彼女も今は引退し、かつてトレーナーだった男と結婚して、幸せな日々を送っている。家族の時間を作るため、夫もトレーナーを引退し、今は非常勤の講師として週二日、トレーナー学校で指導をしている。お互いに現役時代の蓄えがあり、今でも関連の仕事が舞い込むことがあるため、それで十分生きていけるのであった。
「よーし、いってきまーす!」
「ああ。気をつけて行きなさい」
玄関先で、元気よく出ていった娘の背中を見送ると、背後でコツコツと革靴の踵を叩く音が聞こえた。
「俺もそろそろ出ようかな」
「ちょっと待て、ネクタイが曲がっているぞ」
エアグルーヴは手馴れた様子で襟元を正し、「よし」と夫の胸板を叩いた。彼女は肩をすくめる。
「貴様は、昔から本当にだらしがないな」
「世話焼き女房が身近にいたからな」
「ふん、精々感謝しろ」
「ああ」
気づけば、エアグルーヴの目の前に彼の顔があった。彼が好む香水の香りが薄ら香る。柔らかな感触と、甘い感覚があった。
「いつもありがとう、エアグルーヴ」
「ッ……! いいからさっさといけ、阿呆!」
子どもみたいに笑って、行ってきますと歩いていく夫。頬を赤くしたエアグルーヴは、その後ろ姿を見送りながら、自分の唇にそっと触れた。