閑静な高級住宅街の一角。その静寂を切り裂くように、赤子の泣き声が響いていた。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
幸い家の防音性が高いため、ほとんどご近所に音は漏れていないが、室内で必死に娘をあやすキングヘイローにはあまり関係がなかった。
「よ、よーしよし! どうしたのかしら!? ミルクはさっきあげたし、おしめも今変えたし、うーん……!」
抱っこしながら優しく背中を摩って、ゆらゆらと娘を揺らす。考えても答えは出ないし、赤子は泣き止まない。泣くのが仕事などとよく言われるが、それにしても働きすぎである。
「貴方はどうしたいの……?」
胸の中で泣き喚く、鹿毛の娘を抱き締める。育児ノイローゼなどにはならないと思うが、やはり、まだ言葉も意思も通じない我が子とのコミュニケーションはとても難しくて、頭を抱えることが多い。生憎今は平日の昼間、夫は仕事中で相談できない。インターネットで調べて出るような寝かしつけ方は軒並み試したが、効果なし。八方塞がりである。キングヘイローは泣き声とともに数秒、頭を抱えた。立派な母になりたいと、産まれた我が子を抱いた時は強く思ったものだが、初めての経験の連続に、途方に暮れる日々である。
「…………」
思わず自分も泣きそうになってしまうが、この子だって泣きたくて泣いているわけではない。何かあるか、もしくは何かあったから泣き続けてしまっているのである。何も異常がないというなら、あとは落ち着かせてあげればいいだけなのだが──
「……どうすればいいのかしら」
やれることは大体やった、はずだ。今の自分にはこれ以上、悲痛な叫びを上げ続ける娘にしてやれることはわからない。もっと経験があれば──
「経験……」
一つだけアテがあることを、彼女は思い出した。少しだけ指が重いが、スマホの連絡帳からある人物にダイヤルする。スリーコールの後、電話が繋がった。
『はい』
「もしもし、お母さま? 今お時間よろしいかしら?」
『まったく、この時期は忙しいと何度言ったら──いえ、なるほど』
何かを理解した様子の母は、「今すぐビデオを点けなさい」とキングヘイローに促す。言われるがままに起動すると、「レースの映像、残ってるでしょう? 何でもいいからそれを流しなさい」と指示された。
「わかったわ」
困惑しつつも、録画された中から適当なビデオを再生する。それは数年前のURAファイナルズの物だった。栄えある舞台に立った名バたちの中には、自身の姿もあった。
《晴れ渡る空の下、十六人の名バたちがここ中山競馬場に集いました。一番人気は、三番キングヘイロー。これ以上ない仕上がりですね》
勝負服に身を包み、自信に満ちた表情の自分の姿。数々の敗走や、周囲の人々との関わりを経て、面倒な柵から解き放たれて真の“一流”となった、その時の。
《今、ゲートが開きました────》
前方を睨み、後ろからバ群に追随するキングヘイロー。差すその時を虎視眈々と疑っている。懐かしいわ、と遠い目をしたところで、気づけば娘が静かになっていることに気づく。つぶらな瞳はテレビの向こうの自分に向かっているようだった。
レースも終盤を迎え、バ群は最終コーナーを過ぎる。そこでキングヘイローは後方から大きく抜け出した。溜めていた末脚を開放し、前へ前へ、怒涛の勢いで先頭に立った。一バ身二バ身と差を広げていき、キングヘイローは余裕の一着でゴール。正に超一流の、完璧な走りであった。歓声を受け、高笑いと共に客席に手を振るキングヘイロー。その姿を見て、娘はきゃっきゃっと楽しそうに笑っていた。手を振るように大きく身をよじらせ、画面に釘付けになっていた。その姿を見てほっと一息つくと同時に、繋がったままになっていた通話を思い出した。
『どうやら泣き止んでくれたようね』
「ごめんなさい、お母さま! 時間を取らせてしまって、私、動揺していて──」
はっとした様子で、キングヘイローがぺこぺこと謝る。一時期は確執があったとはいえ、今のは完全に自分が悪い。母は『ふん、まあいいわ』と案外怒った様子もなく続ける。
『孫娘の泣いているところなんて、あまり聞きたくないもの。笑顔になってくれたならよかったわ』
「ええ。とっても嬉しそう────それにしても、一発で泣き止ませられるなんてすごいわね」
『アナタもそういう子だったようだもの』
ご多分に漏れず、原因も分からずに泣き喚いていた赤子のキングヘイロー。その際に共にいたベビーシッターが、母が恋しいのかと思いレースの映像を見せたところ、ピタリと泣き止んだそうな。その話を覚えていたお陰らしい。
「そうだったのね……」
『血は争えないってことかしら』
今度、顔を見せに来なさい。それだけ言って母は、通話を切った。すっかり落ち着いた様子の娘は、小さな手をキングヘイローへと伸ばす。
「アナタも、いつかはターフに駆け出すのかしら?」
よちよちとたどたどしく、娘はキングヘイローの膝上に乗った。今は小さなこの歩みが、徐々に大きくなっていく日々を想い、彼女は娘を抱き締めた。
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