長くなってしまったので初投稿です。
「ようやく着いたな」
白のポルシェから二人の男女が降り立った。今や伝説のウマ娘とも呼ばれるシンボリルドルフと、そのトレーナーである。目の前にはポツポツと並ぶ灯篭と、手入れの行き届いた庭と、その先にこじんまりと存在する温泉旅館。
「何年ぶりだろうね、ここに来たのは」
「優勝して以来だから、もう三十年近いか」
チェックインを済ませ、部屋に荷物を置いて二人は一息ついた。三十年前、商店街の福引で当てた温泉旅行券で来たのがこの旅館だった。URAファイナルズの優勝祝いとして来たので、彼らとしては大変思い出深い場所になっている。
「わざわざこの旅館を選ぶ辺り、あいつも流石だな」
「ああ。私たちは本当にいい息子をもったな」
今回ここに来たのは、彼らの息子が初任給を機に、今までの感謝兼結婚二十五周年記念として温泉旅行券を渡してきたからだ。とはいえ、具体的に旅館名を教えた覚えはない。どこかのインタビューで答えていたものを探し出したのだろうな、と父は思った。自分の記憶に残っていないということは、大して目立つ記事でもないだろうに。探すのにさぞ苦労しただろう。
「そういうところはキミに似たんだろうな、俺だったらそんな作業とてもじゃないが出来やしない」
「その言葉はそのまま返そう。君だって飛耳長目、レースの度に他の選手の情報を隈無く調べていたじゃないか」
「それが仕事だし、何よりルナのためだからな」
「……うん、久方ぶりに面と向かってそう言われると、その──年甲斐もなく照れるね」
「年なんて気にせず遠慮なく照れろ、その方が可愛いから」
そう言って微笑むと、夫は部屋を見回し、「まあとりあえず、風呂にでも行くか」と浴衣を抱えた。
「そうだな。思い出に浸るのは汗を流してからとするか」
身体を洗い、のぼせない程度に温泉に浸かり、数十年前に来た時よりも遥かに気持ちいいような気がして、トレーナーは静かに老いを感じた。浴衣に着替え髪を軽く乾かし、青い暖簾を潜れば丁度、隣の暖簾から妻が姿を現した。
「ふふ、湯上りすら以心伝心というわけだな」
「伊達に四半世紀を共に過ごしてないからな」
脱衣場の目の前に設置されたウォーターサーバーで、失われただけの水分を補給し、自販機で缶ビールを一本ずつ買って部屋に戻った。普段は二人ともあまり飲まないが、たまの休日ということで、ほんの少しの贅沢である。
「乾杯」
「乾杯」
プシュ、と勢いよく泡の吹き出した缶を突き合わせ、ゴクゴクゴクと一息に流し込む。どちらからともなくふう、と息を吐き、同時にやってくる浮き足立つような心地を楽しみ始めた。
「夫婦水入らずというのも中々に久しぶりだな」
「そうだな、子どもたち含め、いつも誰かが共にいてくれたから」
「"すべてのウマ娘の幸福"、その志を共にする仲間たちも随分増えたからな」
そういってルドルフは変わらぬ笑みを浮かべた。早くも酒の力が発揮されているのか、二人ともいつもより饒舌な感があったが、本音であることに変わりはない。
「いつの間にか随分と遠くまで来てしまった」
夫も妻もすっかり歳をとってしまったが、瞳だけはあの頃と変わらぬ大志を秘めたままである。
「随分と
と、ダジャレのセンスもあの頃と少しも変わっていない。一つ違うのは、それを聞く夫の方も、なんだか楽しそうに笑っているところだった。
「君もしっかりおじさんで、私もすっかりおばさんだな」
「そんなこともないだろう。ルドルフは、今だって変わらず美しい。流石は俺の皇帝だ」
半世紀を生きたシンボリルドルフだが、未だ三十代と間違われるほどの若々しさを保っている。長年連れ添った夫の言葉に彼女は「ふふ、まあ手入れは欠かしていないからね」と笑って、綺麗に整えられた尻尾を靡かせた。
「皇帝としても、母としても、女としても。まだまだ後れを取るつもりはないからね」
「それでこそルドルフだ。俺の愛したウマ娘だ。一騎当千、才色兼備、十全十美にして尽善尽美の嫁さんだ」
似たような、それでいて何処かこそばゆくなるようなフレーズを臆面もなく言える辺り、間違いなく夫は酔い始めていたが、それを聞く妻の方は、照れたように頬を赤らめていた。髪を撫でつけるその姿は生娘のようであり、皇帝の威厳や迫力は、その魅力の影にすっかり隠れている。
「君は、その……こういう時にだけ積極的なことを言うのが、とてもずるい」
「俺だって、君が望むなら普段から言うさ。とはいえ誰かに聞かれてしまっては皇帝としての面子が立たないだろ? だからずっと我慢してたんだよ」
「まったく君は────」
コンコン、と部屋の扉がノックされた。食事の用意が出来たらしい。お願いします、と夫が言うと、静かに入口と襖が開き次々と膳が運ばれてきた。ウマ娘用のコースを選んだので、ルドルフの方だけ夫の五倍くらい量がある。三つ指をついた中居に会釈し、改めて料理と向かい合った。
「……とりあえずいただこうか」
ルドルフは、緊張が抜けた面持ちで言った。
*
「「ご馳走様でした」」
二人、同時に手を合わせた。食べる量は何倍も違うというのに、食べ終わる速さはいつもだいたい同じなのだ。特段、どちらかが意識して合わせているわけでもないはずなのに、不思議なものだと夫は思う。
「食前方丈、大変美味だった。以前来たときよりも洗練された味わいを感じたな」
「ああ。煮物とかめっちゃ美味かったな」
食事を終えて、酔いもある程度収まった。二人は部屋に置いてあったパックの緑茶を入れ、試供品の土産菓子をつまんで一息つく。どちらからともなく少し歩こうか、と提案し、甚平だけ羽織った浴衣姿のまま、旅館の外に出た。
「流石に冷えるね」
「そうだな」
ほう、と白息を吐き、シンボリルドルフは夫の腕を取った。冷え込む冬の夜なのだから、寄り添うのは合理的かつ正しい判断であり、二人の頬が少し赤いのも当然のことなのである。
ふと見上げれば、都会ではお目にかかれないような、壮大な星空が広がっている。観光地ゆえに他の旅館やホテルの光で少し輝きが損なわれているのかもしれないが、都会で暮らす身からすれば十二分に満点の星空だった。
「前も確か、こんな風に二人で歩いたよな?」
「ふふ、そうだね」
「何を話したかまでは流石に、覚えていないけれど」
「おや、それは寂しいな。私は──まあ、一言一句違わず諳んじるのは難しいが、覚えているとも」
「優勝までの道程だとか、これからのことだとか──そんなことを話したんだったか?」
「ああ。君だってちゃんと覚えてるじゃないか」
「覚えてたんじゃなくて、思い出させられたの間違いだろう」
はあ、と呆れたように、しかし楽しそうに息を吐いて、夫は言った。
「ルナが勧めるもんだから、ならお言葉に甘えてと酒を飲んでみたら、無礼講と言わんばかりに質問攻めされて、挙句の果てに好きな女の子のタイプを聞いてきたことは忘れられないぞ」
「忘れてたじゃないか」
「その次のデートでルナが俺の好みドストライクみたいな格好で現れた瞬間に秒で思い出したわ」
デートといっても競技場にレースを見に行っただけだし、ドストライクの格好と言ってもほとんど素のルドルフの延長線上のようなものだったので、彼女からすればそんなに手間はかからなかった上、意外と私のような娘が好きなんだな……と調子が上がるような思いをしたとか何とか。
「まさかあんな刺され方をするとは思わなかったから、あの時はビックリしたもんだ」
「鈍い男には鋭く刺していけ、と恋愛の指南本に書いてあったものだからな」
「……まあ、間違ってないだろうな」
バツが悪そうに、夫は頷いた。
「……以前来た時は、有形無形、事事物物、様々なことをぼんやり考えたといっただろう。だが、今日湯に浸かって考えていたのは、君と歩んだ道程ばかりだ」
私も老いたということかな、なんて溌溂に、小皺も見えないような笑顔で妻は言う。だが夫には、その裏に見える微かな陰が見えた。
「それこそ、前も言っていただろう」
「
それこそ老いかな、としんみり言う妻に対し、夫は「はははははは!!」と笑い飛ばした。腹を抱えるほどツボったらしい。
「キミが見るべきなのは未来だけだよ、自分の夢が叶ったその先だけを見据えろ。後ろは、俺が見といてやるからさ」
「ふっ……そうだな、そうさせてもらおう」
夫の腕からルドルフが離れた。振り返ってみれば、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「とはいえ、たまに立ち止まるくらいは悪くないだろう?」
「! ……ああ、まあな」
頬に冷たい感触があった。雪が降り始めたらしい。早く戻らなければ風邪をひく、そう思いながらもどうにも動く気になれない。この時間を終わらせたくない。
"すべてのウマ娘の幸福"、それに至る道はまだまだ遠く、長いだろうが、せめて目の前のウマ娘の幸福だけは、いつまでも支えようと、夫は