「ただいま」
とあるマンションの一室。首までかかる長髪をかきあげ、マスクと眼鏡を外しながら青鹿毛のウマ娘が微笑んだ。
彼女の名はフジキセキ。かつてURAファイナルズを征したウマ娘であり、その適正に合わない冠を目指し、そして勝ち取った、稀代のエンターテイナーである。
「……おかえり」
食卓についていた少年が、ぼそぼそと小声で返事をする。傍から見ると元気がなさそうに見えるが、これが彼の平常運転なのを知っている母は「遅くなってごめんね。撮影が長引いちゃって」と申し訳なさそうに言った。
「いいよ、お仕事だもんね」
フジキセキは現在、女優やタレントとして芸能界で多忙な日々を送っている。家庭のことは夫に甘えがちになってしまっているが、それでも出来ることはやるように心がけている。
「夜ご飯、どうだった?」
「……パパのやつの方が、ぼくは好きかな」
「あらら」
今日のグラタンは自信作だったんだけどな──とフジキセキは肩を落とした。週に何食かは彼女がご飯を作るようにしているのだが、夫のそれに比べて息子の評価はあまり高くない。
かつて寮長であるヒシアマゾンと料理勝負をしていたくらいなので、別にフジキセキが料理下手というわけではなく、ただ夫の料理が上手いだけなので、彼女もそこまでショックは受けていない。自覚はあるが、それでも偶には夫に楽をさせてあげたいし、我が子に何かを作ってあげたいのだ。
「なら次はもっと美味しく作れるように頑張らないとね」
「……ごめんね」
「謝ることなんてないさ! 下手に気を使われるよりも、そうやって素直な感想を伝えてくれる方が嬉しいし、やる気も出るからね」
わしゃわしゃと、フジキセキは息子の頭を撫でた。前髪が大きく揺れ、その長さで隠れていた、母に似た整った切れ長の瞳が現れる。
「はずかしいよ」
「パパに似てカッコイイんだから、恥ずかしがることないのに」
どちらかといえばママ似だよ──とツッコんでくれる夫はここにはいなかった。ただ、褒めるとすぐ照れるところは間違いなく父の血であった。
「……はあ」
「おっと、そんなに深いため息を吐いては幸せが逃げてしまうよ?」
「いいよ、不幸だから吐いてるんだし」
椅子を一歩、息子の方に寄せて、ぐいっと肩を寄せた。
「何かあったなら聞きたいな。私で力になれるかは分からないけど、少しでも楽になるかもしれないし」
「……ママにはたぶん、わからない話だと思う」
「へえ? そう言われるとむしろ気になっちゃうね」
「……いいよ、話すよ」
身を乗り出した母から目を逸らして、息子は滔々と語り始めた。
「こんどね、学校で学芸会があるんだ」
「そうなんだ。何の役をやるの?」
「……主役」
「すごいじゃないか!」
「ちっともすごくなんかないよ、すごいのはママの方だよ」
──息子の話をまとめるとこうだ。
誰がどの役をやるかは立候補制、被ればオーディションで投票して決める。息子は特にやりたい役もなかったので、誰も名乗り出なかった役をやろうと思っていた。
しかしひとつ、またひとつと役が埋まっていく度に、なんだか嫌な予感がしてきた。サブヒロインやひょうきんな脇役などの所謂『美味しい役どころ』が激戦区になるのを見て、それは確信へと変わる。が、手を挙げるにはもう遅すぎた。
「じゃあ次……主役をやりたい人!」
教室を見回す。手を挙げているのは一人もいない。そして彼らの視線はみな、息子に向かっていた。
「────くん、どうかな?」
担任の声が遠く聞こえる。
「……えっと……他の人、は」
言いかけた言葉に、みんなが目を丸くするのがわかった。何故そんなことを言うのか、と。
それは僻みでも羨みでもなんでもなく、ただただ彼が
「……やります」
少年は小さく首を縦に振った。役がすべて決まり、練習の時間が始まったが、彼の顔はいつまでも憂鬱な面持ちだった。
「──なるほどね」
話を聞き終えた母は、腕を組んで息子を見つめた。
「それが嫌だったの?」
息子は目立ちたがり屋ではない。むしろ、父に似て裏方気質、誰かを支えている方が性に合っているタイプである。故にだろうか、とフジキセキは聞いた。
「……イヤ、ではないんだけど」
喉に小骨がつっかえているような、したいことがうまく表現できないような、そんな顔をしている。母は静かに言葉を待った。
「みんな、気を使ってたんだと思う。ぼくに」
『フジキセキの息子』という肩書きは重い。競走バとしてだけでなく、現在でもメディアで活躍する彼女を知らない人はいない。その息子を差し置いて主役を張ろうという人間は、どうやら級友にはいなかったらしい。加えて、彼自信がやりたい役を主張しなかったのもよくなかったのだろう。タイミングを逃したのだ。
「でも、やっぱりヤだったな。ぼくのせいで、好きな役をやれなかった子がいるかもしれないから」
同調圧力という言葉は、子どもたちの中にも存在している。言語化されていなくとも、子どもは大人のすることを真似るものだから。
「悩むくらいなら、投げ出してしまった方がいいよ」
「……え」
「やりたい子がいるなら、その子と変わってもらえばいい。今ならまだ全然間に合うだろうし、君が本気で主張すれば通るさ」
「でも……」
「嫌々やるのは、周りのみんなにも失礼だよ?」
フジキセキは諭すように言った。言葉は少し、厳しいものだったが、その裏には確かな優しさが篭っている。
「ママもね、昔似たようなことがあったんだ」
「おばあちゃんがすごかったから?」
「そう。君みたいに、主役を譲られてね。本当は他の役がよかったんだけど、みんなに推されてその気になってしまったのさ」
とはいえ、フジキセキは元々演じることが好きなエンターテイナーだ。無論そつなく役をモノにし、周りから一目置かれるような実力を発揮した──だが。
「本番の二週間前にインフルエンザを患ってしまってね。一週間で復帰できたものの、どうにも喉の調子が優れず、代役を立てることになったんだ」
そしてその時、代役を務めたのが、台本の読み合わせの際に主役で手を挙げかけていた子であった。元々あまり目立たない静かな子で、一部の子はこれでいいのかと心配していた。
「でも、彼女は立派に役目を果たした。私が演じた時よりも、ずっと役を輝かせて魅せた。私と彼女の差が何だったのかといえば、きっと役への想いだったと思うんだ」
それ以来、フジキセキはどんな役でも深く読み込み、愛着を持って演じるようになったという。
「だから、半端にするくらいならやめておいた方がいいよ?」
「────イヤだ」
絞り出すように少年は言った。
「ほんとうは、少しうれしかったんだ。こんなぼくでも主役に選んでもらえるんだな、って」
それが、自分自身の実力を見ての物でないと、分かっていても。あるいは、揶揄するためであったとしても。
「だからこそ、ちゃんとがんばりたい。演じてみたい。やっぱりフジキセキの子はすごいな、ってみんなに思ってもらえるように」
「──ふふ、その意気だ」
母は満足したように笑う。
「よし、なら早速頑張ろう! 台本はどこ?」
「え、手伝ってくれるの?」
「二人でやった方がやる気も出るし、効率もいいでしょ? こう見えてもママは、君が生まれるずっと前からこの世界に触れてたわけだからね」
「しってる」
軽く胸を張った母に、息子が小さく笑って頷いた。
「やるからには厳しくいくよ、覚悟はいいかい?」
「うん!」
こうして、母と息子の二人三脚が始まった。