ホルアドの町に戻った一行は何かをする気力を無く宿の部屋に入った。幾人かの生徒は生徒同士で話し合ったりしている様だが、殆どの者は真っ直ぐベッドへ飛び込み、そのまま深い眠りに落ちた。
そんな中、檜山大介は一人、宿を出て町の一角にある目立たない場所で膝を抱えて座り込んでいた。顔を膝に埋め微動だにしない。もし、クラスメイト達がかれの姿を見れば激しく落ち込んでいる様に見えただろう。
だが実際は……
「ヒ、ヒヒヒ。ア、アイツが悪いんだ。雑魚の癖に……ちょ、調子に乗るから……て、天罰だ。……俺は間違ってない……白崎のためだ……あんな雑魚に……もう関わらなくて良い……俺は間違ってない……ヒ、ヒヒ」
暗い笑みと濁った瞳で自己弁護しているだけだった。そう、あの時、軌道を逸れてまるで誘導される様にハジメと狩人を襲った火球は、この檜山が放った者だったのだ。
階段への脱出とハジメの救出。それらを天秤に掛けたとき、ハジメを見つめる香織が視界に入った瞬間、檜山の中の悪魔が囁いたのだ。今なら殺っても気付かれないぞ?と。そして、檜山は悪魔に魂を売り渡した。
バレないように絶妙なタイミングを狙って誘導性を持たせた火球をハジメと狩人に着弾させるつもりだったが、狩人には防がれ、ハジメにだけ着弾させた。ふと、その時の光景を思い出して檜山は「ヒッ」と声を上げる、そう、思い出した、思い出してしまったのだ。
流星の如く魔法が乱れ飛ぶあの状況で、火球を消し去り、躱した狩人が口の裂けた笑みを湛え、“得体の知れない何か恐ろしい存在の様に思える様な蒼褪めた眼で檜山を見ていた”事を、あの時の眼と表情を思い出すと、如何にも気が狂いそうになり頭を抱えた。あんなモノは知らない、あんな恐ろしい存在があってはならないと。脳がそれを認識する事を頑なに拒んで居るように、頭を灼けるような痛みが支配する。
その時、不意に背後から声を掛けられた。
「へぇ~、やっぱり君だったんだ。異世界最初の殺人がクラスメイトか……中々やるね?」
「ッ!?だ、誰だ!」
慌てて振り返る檜山。其処にいたのは見知ったクラスメイトの一人だった。
「お、お前、何で此所に……」
「そんな事はどうでも良いよ。それより……人殺しさん?今どんな気持ち?」
その人物はクスクスと笑いながら、まるで喜劇でも見るように楽しそうな表情を浮かべる。檜山自身が殺ったとは言え、クラスメイトの一人が死んだというのに、その人物はまるで堪えていない。ついさっきまで、他のクラスメイト達と同様に、酷く疲れた表情でショックを受けていた筈なのに、そんな影は微塵も無かった。
「……それが、お前の本性なのか?」
呆然と呟く檜山。
それを、その人物は馬鹿にするような見下した態度で嘲笑う。
「本性?そんな大層なものじゃないよ。誰だって猫の一匹や二匹被っているのが普通だよ。そんな事よりさ……このこと、皆に言いふらしたらどうなるかな?特に……あの子が聞いたら……」
「ッ!?そ、そんな事……信じる訳……証拠も……」
「無いって?でも、僕が話したら信じるんじゃ無いかな?あの窮地を招いた君の言葉には、既に力は無いと思うけど?」
檜山は追い詰められる。まるで弱った鼠を更に嬲る様な言葉。まさか、こんな奴だったとは誰も想像出来ないだろう。二重人格と言われた方が未だ信じられる。目の前で嗜虐的な表情で見下ろす人物に、全身が悪寒を感じ震える。
「ど、如何しろってんだ!?」
「うん?心外だね。まるで僕が脅しているようじゃ無い?ふふ、別に直ぐにどうこうしろって訳じゃ無いよ。まぁ、取り敢えず、僕の手足となって従ってくれれば良いよ」
「そ、そんなの……」
実質的な奴隷宣言のようなものだ。流石に、躊躇する檜山。当然断りたいが、そうすれば眼前の人物は容赦無くハジメを殺したのは檜山だと言いふらすだろう。
葛藤する檜山は、「いっそコイツも」と仄暗い思考に囚われ始める。しかし、その人物はそれも見越して居たのか悪魔の誘惑をする。
「白崎香織、欲しくない?」
「ッ!?な、何を言って……」
暗い考えを一瞬で吹き飛ばされ、檜山は驚愕に目を見開いてその人物を凝視する。そんな檜山の様子をニヤニヤと見下ろし、その人物は誘惑の言葉を続ける。
「僕に従うなら……何れ彼女は手に入るよ。本当はこの手の話は南雲にしようと思っていたのだけど……君が殺しちゃうから。まぁ、彼より君の方が適任だと思うし結果オーライかな?」
「……何が目的なんだ。お前は何がしたいんだ!」
余りに訳の分からない状況に檜山が声を荒げる。
「ふふ、君には関係の無いことだよ。まぁ、欲しい物があるとだけ言っておくよ。……それで?返答は?」
あくまで小馬鹿にした態度を崩さないその人物に苛立ちを覚えるものの、それ以上に、余りの変貌ぶりに恐怖を強く感じた檜山は、何方にしろ自分に選択肢など無いと諦めの表情で頷いた。
「……従う」
「アハハハハハ、それは良かった!僕もクラスメイトを告発するのは心苦しかったからねぇ。まぁ、仲良くやろうよ、人殺しさん?アハハハハハ」
楽しそうに笑いながら踵を返し宿の方へ去って行くその人物の後ろ姿を見ながら、檜山は「ちくしょう……」と小さく呟いた。
檜山の脳裏には忘れたくても、否定したくても絶対に消えてくれない光景がこびり付いている。ハジメが奈落へと転落した時の香織の姿。どんな言葉より雄弁に彼女の気持ちを物語っていた。今は疲れ果て泥のように眠っているクラスメイト達も、落ち着けばハジメの死を実感し、香織の気持ちを悟るだろう。香織が決して善意だけでハジメを構って居なかった訳では無かったと言う事を。
そして、憔悴する香織を見て、その原因に意識を向けるだろう。
不注意な行為で自分達を危険に晒した檜山の事を。
上手く立ち回らなければならない。自分の居場所を確保するために。もう檜山は一線を越えてしまったのだ。今更立ち止まれない。あの人物に従えば、消えたと思った可能性──香織をモノに出来るという可能性すら在るのだ。
「ヒヒ、だ、大丈夫だ。上手く行く。俺は間違ってない……」
再び仁座に顔を埋め、ブツブツと呟き出す檜山。
そんな様子を、ホルアドの町のとある民家、その屋根の上から全てを見聞きしていた黒尽くめの男が居た、その眼は二人の人物のの姿を明瞭に捉え、その耳は声を、会話をしっかりと聞き取っていた。そうして男は呟いた。
「人面獣心の獣が、やはりあの学徒達の中に……檜山を含めて二人居たとはな……だが今は泳がせる他に手は無い……奴等が事を起こしたその時にこそ、狩りの時がやって来る。その時は、夜の帳が降りてくる頃だろう」
狩人は、二人に気取られる事無く事の次第を全て観察していた。その眼は明らかに、狩りに赴く“優秀な狩人”のそれであった。
≪≪♢♢♢≫≫
ザァーと水が流れる音がする。冷たい微風が頬を撫で、冷え切った身体が身震いした。頬に当たる硬い感触と下半身を刺す様な冷たい感触に「うっ」と呻き声を上げてハジメは目を覚ました。
ボーッとする頭、ズキズキと痛む全身に眉根を寄せながら両腕に力を入れて上体を起こす。
「痛っ~、此所は……僕は確か……」
ふらつく頭を片手で押さえながら、記憶を辿りつつ辺りを見回す。
周りは薄暗いが緑光石の発光の御陰で何も見えないほどでは無い。視線の先には幅五メートル程の川があり、ハジメの下半身が漬かっていた。上半身が、突き出た川辺の岩に引っ掛かって乗り上げた様だ。
「そうだ……確か、橋が壊れて落ちたんだ。……それで……」
霧掛かった様だった頭が回転し始める。
ハジメが奈落に落ちて居ながら助かったのは全くの幸運だった。
落下途中に崖の穴が開いており、其処から鉄砲水の如く水が噴き出していたのだ。ちょっとした滝である。その様な滝が無数にあり、ハジメは何度もその滝に吹き飛ばされながら次第に壁際へ押しやられ、最終的には壁から迫り出ていた横穴からウォータースライダーの如く流されたのである。途轍もない奇跡である。
「良く思い出せないけど、とにかく、助かったんだな。……はっくしゅん!さ、寒い」
地下水と言う低音の水にずっと浸かっていた為、すっかり身体が冷え切ってしまっている。このままでは低体温症の恐れもあると早々に川から上がるハジメ。ガクガクと震えながら服を脱ぎ、絞っていく。
そして、パンツ一丁になると錬成を使った。硬い石の地面に錬成で魔方陣を刻んで行く。
「ぐっ、寒くてしゅ、集中しづらい……」
望むのは“火種”の魔法だ。その辺の子供でも十センチ程度の魔方陣で出す事が出来る簡単な魔法。
しかし、今此所には魔法行使の効率を上げる魔石が無い上、ハジメは魔法適性ゼロ。たった一つの火種を起こすのに一メートル以上の大きさの複雑な式を書かなければならない。
ジュッぷん近く掛けて漸く完成した魔方陣に詠唱で魔力を通し起動させる。
「求めるは火、其れは力にして光、顕現せよ、“火種”……う~、何で只の火を起こすのにこんな大仰な詠唱が要るんだよぉ、恥ずかしすぎる。はぁ~」
最近癖になりつつある溜息を深々と吐き、其れでも発動した拳大の炎で暖を取りつつ傍に服を並べて乾かす。
「此所何処なんだろう。……大分落ちたんだと思うけど……帰れるかな……」
暖かな火に当たりながら気持ちが落ち着いてくると、次第に不安が胸中を満たしてゆく。無性に泣きたくなって目の端に涙が溜まり始めるが、今泣いては心が折れてしまいそうでグッと堪える。ゴシゴシと目元に溜まった涙を拭うと、ハジメは両手でパンッと頬を叩いた。
「やるしか無い、何とか地上に戻ろう。大丈夫、きっと大丈夫だ」
自分に言い聞かせる様に呟き、俯けていた顔を起こし決然とした表情でジッと炎を見つめた。
二十分ほど暖を取り、服も乾いた為出発する事にする。どの階層に居るのかは分からないが迷宮の中であるのは間違い無い以上、何処に魔物が潜んでいても可笑しく無い。ハジメは慎重に慎重を重ねて奥へと続く巨大な通路へと歩みを進めた。
ハジメが進む通路は正しく天然の洞窟といった感じだった。
低階層の四角い通路では無く岩や壁があちこちから迫り出し通路自体も複雑にうねっている。二十階層最後の部屋の様だ。
但し、大きさは比較にならない。複雑で障害物だらけであっても通路の縦横の幅は優に二十メートルはある。狭いところでも十メートルはあるのだから相当な大きさである。歩き難くはあるが、隠れる場所も豊富にあり、ハジメは物陰から物陰に隠れながら進んでいった。
そうやってどれ程歩いただろうか。
ハジメがそろそろ疲れを感じていた頃、遂に初めての分かれ道に辿り着いた。巨大な四辻である。岩陰に隠れながらどの道に進むか逡巡した。
暫く考えていると、視界の端で何かが動いた気がし、慌てて岩陰に身を潜める。そっと顔だけ出して様子を窺うと、ハジメの居る通路から直進方向の道に白い毛玉がピョンピョンと跳ねているのが分かった。長い耳もある。見た目はそのまま兎であった。但し、大きさが中型犬くらいあり、後ろ足が矢鱈と大きく発達している。そして何より赤黒い線がまるで血管のように幾本も身体に走り、ドクン、ドクンと心臓のように脈打っていた。
明らかにヤバそうな魔物なので、直進は避け、右か左の道に進もうと決める。兎の位置からして右の通路に入る方が見付かり難そうであった。
息を潜めてタイミングを見計らう。そして、兎が後ろを向き地面に鼻を付けてフンフンと嗅ぎ出したところで、今だ!と飛び出した。其の瞬間、兎がピクッと反応したかと思うとスッと背筋を伸ばして立ち上がった。警戒するように耳を忙しなくあちこちに向けている。
(ヤバい!み、見つかった?だ、大丈夫だよね?)
岩陰に張り付くように身を潜めながらバクバクと脈打つ心臓を必死に抑える。あの鋭敏であろう耳に自らの鼓動が聞かれそうな気がしてダラダラと冷や汗を流す。
だが、兎が警戒したのは別の理由だった様だ。
「グルゥア!!」
獣の唸り声と共に、此又白い毛並みの狼の様な魔物が兎目掛けて岩陰から飛び出したのだ。
その白い狼は大型犬位の大きさで尻尾が二本あり、兎と同じ様に赤黒い線が身体に走って脈打っている。一体何処から現れたのか一体目が飛び掛かった瞬間、別の岩陰から更に二体の二尾狼が飛び出す。
再び岩陰から顔を覗かせてその様子を観察するハジメ。如何見ても狼が兎を捕食する瞬間だ。ハジメは、このどさくさに紛れて移動しようと腰を浮かせた。
だがしかし……
「キュウ!」
可愛らしい鳴き声を洩らしたかと思った直後、兎がその場で跳び上がり、空中で一回転してその太く長い足で一体目の二尾狼に回し蹴りを炸裂させた。
ドパンッ!
凡そ蹴りが出せるとは思えない音を発生させて兎の足が二尾狼の頭部に直撃する。
すると。
ゴギャ!
と言う鳴ってはならない音と共に狼の首があらぬ方向に捻じ曲がってしまった。
ハジメは腰を浮かせたまま硬直する。
そうこうしている間にも、兎は回し蹴りの遠心力を利用して更にくるりと回転すると、逆さまの状態で“空中を踏み締めて”地上へ隕石の如く落下し、着地寸前で縦に回転。強烈な踵落としへと繋げ、着地点に居たに微狼に炸裂させた。
ベギャ!
断末魔すら上げられずに頭部を粉砕される二体目の狼。
その頃には更に二体の二尾狼が現れ、着地した瞬間の兎に飛び掛かった。
今度こそ兎の負けかと思われた瞬間、何と兎は耳で逆立ちし、ブレイクダンスの要領で某黒足の様に足を広げたまま高速で回転した。飛び掛かっていた二尾狼二体が竜巻の様な回転蹴りに弾き飛ばされ壁に叩き付けられる。グシャッと言う音と共に血が壁に飛び散り、ズルズルと滑り落ち、動かなくなった。
最後の一体が、グルルと唸りながら尻尾を逆立てる。すると、その尻尾がバチバチと放電し始めた。どうやら二尾狼の固有魔法の様だ。
「グルゥア!!」
咆哮と共に電撃が兎目掛けて乱れ飛ぶ。
しかし、高速で迫る電撃を兎は華麗なステップで左右に躱して行く。そして、電撃が途切れた瞬間、一気に踏み込み二尾狼の顎にサマーソルトキックを叩き込んだ。二尾狼は、仰け反りながら吹き飛び、グシャッと音を立てて地面に叩き付けられた。二尾狼の首は、やはり折れてしまっているようだ。
蹴り兎は。
「キュ!」
と勝利の雄叫びの様なものを上げ、耳をファサッと前足で払った。
乾いた笑みを浮かべながら今だ硬直が解けないハジメ。ヤバい等という物では無い。ハジメ達が散々苦労したトラウムソルジャーがまるで玩具に見えてしまう。もしかしたら単純で単調な攻撃しかしてこなかったベヒモスよりも余程強いかも知れない。
ハジメは、気付かれたら確実に死ぬと、表情に焦燥を浮かべながら無意識に後退る。其れが間違いであった。
カラン
その音は洞窟内に矢鱈と響いた。
下がった拍子に足下の小石を蹴ってしまったのだ。
余りにもありがちで、尚且つ痛恨のミスである。
ハジメの額から冷や汗が吹き出る。小石に向けていた顔をギギギと油の差し忘れた機械の様に回して兎を確認する。
蹴り兎は、しっかりとハジメを見ていた。
黒いルビーの様な瞳がハジメを捉えて細められている。ハジメは蛇に睨まれた蛙の如く硬直した。魂が全力で逃げろと警鐘をけたたましく鳴らしているが身体は神経が切れた様に動かない。
やがて、首だけで振り返っていた蹴り兎は身体ごとハジメに向き直り、足を撓《たわ》め、グッと力を溜める。
(来る!)
ハジメは本能と共に悟った瞬間、蹴り兎の足下が爆発した。後ろに残像を引き連れながら途轍もない速度で突撃して来る。
気が付けばハジメは無意識の内に全力で横っ飛びしていた。
直後、一瞬前迄ハジメの居た場所に砲弾の様な蹴りが突き刺さり、地面が爆発した様に抉られた。硬い地面をゴロゴロと転がりながら尻餅を付く形で停止するハジメ。陥没した地面に蒼褪めながら後退る。
蹴り兎の余裕の態度でゆらりと立ち上がり、再度、地面を爆発させながらハジメに突撃する。ハジメは咄嗟に地面を錬成して石壁を構築するも、その石壁を貫いて蹴り兎の蹴りがハジメに炸裂した。
咄嗟に左腕を掲げられたのは本能の成せる業か。顔面を粉砕される事だけは無かったが、衝撃で吹き飛び、再び地面を転がった。停止する頃には強烈な痛みが左腕を襲う。
「ぐぅっ──」
見れば左腕が可笑しな方へ曲がりプラプラとしている。完全に粉砕された様だ。痛みで蹲りながら必死に蹴り兎の方を見ると、今度はあの猛烈な踏み込みは無く、余裕の態度でゆったりと歩いて来る。ハジメの気の所為で無ければ蹴り兎の目には見下すような、或いは嘲笑うかの様な色が見える。完全に遊ばれて居る様だ。
ハジメには、尻餅を付きながら後退るという無様しか晒せない。
やがて蹴り兎はハジメの目の前で止まった。地を這いずる虫けらを見る様に見下ろす蹴り兎。そして、見せ付ける様に片脚を大きく振りかぶった。
(……此所で、終わりなのかな……)
絶望がハジメを襲う。諦めを宿した瞳で呆然と掲げられた蹴り兎の足を見遣る。その視線の先で、遂に豪風と共に致命の一蹴が振り下ろされた。
ハジメは恐怖でギュッと目を瞑る。
「……」
しかし、何時まで経っても予想していた衝撃は来なかった。
ハジメが恐る恐る目を開けると、眼前に蹴り兎の足があった。振り下ろされたまま寸止めされているのだ。まさか、この期に及んで未だ遊ぶつもりなのかと更に絶望的な気分に襲われていると、奇妙な事に気が付いた。良く見れば蹴り兎がふるふると震えて居るのだ。
(な、何?何を震えて……此じゃまるで怯えてるみたいな……)
“まるで”では無く、事実蹴り兎は怯えて居た。ハジメが逃げようとしていた右の通路から現れた新たな魔物の存在に。
その魔物は巨体であった。狩人よりも少し大きい、ニメートルはあるであろう巨躯に白い毛皮。例に漏れず赤黒い線が幾本も走っている。その姿は例えるならば熊だった。但し、足下まで伸びた太く長い腕に、三十センチはありそうな鋭い爪が三本生えているが。
その爪熊が、何時の間にか接近しており、蹴り兎とハジメを睥睨していた。辺りを静寂が包む。ハジメは元より蹴り兎も硬直したまま動かない。いや、動けないのだろう。まるで、先程のハジメだ。爪熊を凝視したまま凍り付いている。
「……グルルル」
と、此の状況に飽きたとでも言うように突然爪熊が低く唸りだした。
「ッ!?」
蹴り兎は夢から覚めた様に一瞬ビクッと震えると、踵を返し脱兎の如く逃走を開始した。今まで敵を殲滅する為に使用していた踏み込みを逃走の為に全力使用する。しかし、その試みは成功しなかった。
爪熊がその巨体に似合わぬ素早さで蹴り兎に迫り、その長い腕を以て鋭い爪を振るったからだ。蹴り兎は流石の俊敏さでその豪風を伴う強烈な一撃を体を捻って躱す。
ハジメの目にも確かに爪熊の爪は掠りもせず、蹴り兎は躱し切った様に見えた。
しかし……
着地した蹴り兎の身体はズルリも斜めにズレると、そのまま噴水の様に血を噴き出しながら別々の方向へドサリと倒れた。
愕然とするハジメ。あれ程圧倒的な強さを誇っていた蹴り兎がまるで為す術も無くいとも容易く殺されたのだ。蹴り兎が怯えて逃げ出した理由が良く分かった。あの爪熊は別格なのだ。恐らくこの階層には敵は居ない、そう言った化け物なのだ。
爪熊は、のしのしと悠然と蹴り兎の死骸に歩み寄ると、その鋭い爪で死骸を突き刺し、バリッボリッグチャッと音を立てながら喰らって行く。
ハジメは動けなかった。余りの連続した恐怖に、そして蹴り兎だった物を咀嚼しながらも鋭い瞳でハジメを見ている爪熊の視線に射竦められて。
爪熊は三口程で蹴り兎を全て原に収めると、グルッも唸りながらハジメの方へ身体を向けた。その視線が雄弁に語る。次の食料はお前だと。
ハジメは捕食者の目を向けられ、恐慌に陥った。
「うわぁああ──!!」
意味も無く叫び声を上げながら折れた左腕の事も忘れて必死に立ち上がり爪熊とは反対方向へ逃げ出す。
しかし、あの蹴り兎ですら逃げること能わなかった相手からハジメが逃げ果せる道理など無い。ゴウッと風が唸る音が聞こえると同時に強烈な衝撃がハジメの左側面を襲った。そして、そのまま壁に叩き付けられる。
「がはっ!」
肺の空気が衝撃により抜け、咳き込みながら壁をズルズルと滑り落ちるハジメ。衝撃に揺れる視界で何とか爪熊の方を見ると、爪熊は何かを咀嚼していた。
だが、一体何を咀嚼しているのだろう。蹴り兎はさっき食べた筈である。其れに何故。食んでいるその腕は見覚えがあるのだろう。ハジメは理解不能な事態に混乱しながら、何故かスッと軽くなった左腕を見た。正確にはハジメの左腕が在った筈の場所を……
「あ、あれ?」
ハジメは顔を引き攣らせながら、何で腕が無いの?如何して血が噴き出してるの?と首を傾げる。脳が、心が、理解する事を拒んでいるのだろう。しかし、そんな現実逃避何時までも続く訳が無い。ハジメの脳が夢から覚めろとでも言うかの様に痛みを以て現実を教える。
「あ、あ、あがぁぁぁあああ───!!!」
ハジメの絶叫が迷宮無いに木霊する。ハジメの左腕は肘から先がスッパリと切断されていた。
爪熊の固有魔法が原因である。あの三本の爪は風邪の刃を纏っており最大三十センチ先まで伸長して対象を切断出来るのだ。其れを考えれば、寧ろ腕一本で済んだのは僥倖だった。爪熊が遊んだのか、単にハジメの運が良かったのかは分からないが、本来ならば蹴り兎の様に胴体ごと真っ二つにされていても可笑しくは無かったのだ。
ハジメの腕を咀嚼し終えた爪熊が悠然とハジメに歩み寄る。その眼には蹴り兎の様な見下しの色は無く、只只管《ひたすら》食料という認識しかしていないように見えた。
眼前に迫る爪熊がゆっくりとハジメに前足を伸ばす。その爪で切り裂かないと言う事は生きたまま喰うつもりなのだろう。
「あ、あ、ぐぅぅうう、れ、“錬成ぇ”!」
余りの痛みに涙と鼻水、涎で顔をベトベトに汚しながら、ハジメは右手を背後の壁に押し当てて錬成を行った。殆ど無意識の行動であった。
無能と罵られ魔法の適性も身体のスペックも低いハジメの唯一の力。通常は剣や槍、防具を加工する為だけの魔法。その天職を持つ者は例外なく鍛冶職に就く。故に戦闘に於いては役立たずと言われながら異世界人ならではの発想で騎士団員達すら驚かせる使い方を考え、クラスメイトを助ける事も出来た力。だからこそ、死の淵でハジメは無意識に頼り、それ故に活路が開けた。
空色の光が瞬いた直後、背後の壁に小さな穴が開く。ハジメは爪熊の前足が届くという間一髪の所でゴロゴロと転がりながら穴の中へと身体を潜り込ませた。
目の前で獲物を逃した事に怒りを露わにする爪熊。
「グルゥアアア!!」
咆哮を上げながら固有魔法を発動し、ハジメが潜り込んだ穴目掛けて爪を振るう。凄まじい破壊音を響かせながら壁がガリガリと削られていく。
「ぁあああ──!“錬成”!“錬成”!“錬成ぇ”!」
爪熊の咆哮と壁が削られる破壊音に半ば恐慌状態に陥りながら少しでもあの化け物から離れようと連続で錬成を行い、ドンドン奥へと進んでいく。
後ろは振り返らない。我武者羅に錬成を繰り返す。地面を匍匐前進の要領で進んでいく。既に左腕の痛みの事は頭から飛んでいた。生存本能の命ずるままに唯一の力を振るい続ける。
どれくらいそうやって進んだのか。
ハジメには分からなかったが、恐ろし音はもう聞こえなかったしかし、実際は其程進んではいないだろう。一度の錬成の効果範囲はニメートル位であるし、何より左腕の出血が酷い。そう長く動ける物では無いだろう。
事実ハジメの意識は出血多量により落ちかけていた。其れでも藻掻く様に前へ進もうとする。
しかし……
「“錬成”……“錬成”……“錬成”……“れんせぇ”……」
何度錬成した所で眼前の壁に変化は無い。意識よりも先に魔力が尽きた様だ。ズルリと壁に当てていた手が力尽きたように落ちる。
ハジメは朦朧として今にも落ちそうな意識を何とか繋ぎ止めながらゴロリと仰向けに転がった。ボーッとしながら真っ暗な天井を見つめる。この辺は緑光石が無い様で明かりも無い。
何時しかハジメは昔の事を思い出していた。走馬灯と言うやつかも知れない。保育園時代から小学生、中学生、そして高校時代。約束した時の彼女の笑顔。
その美しい光景を最後にハジメの意識は闇に飲まれていった。意識が完全に落ちる寸前、ぴたっぴたっと頬に水滴を感じた。
其れはまるで、誰かの流した涙の様だった。
≪≪♢♢♢≫≫
ぴちょん……ぴちょん……
水滴が頬に当たり、口の中に流れ込む感触にハジメは意識が徐々に覚醒していくのを感じた。
その事を不思議に思いながらゆっくりと目を開く。
(……生きてる?……助かったの?)
疑問に思いながらグッと身体を起こそうとして低い天井にガツッと額を打つけた。
自分が作った穴は縦幅が五十センチ程度しか無かった事を今更ながら思い出し、ハジメは、錬成して縦幅を広げる為に天井へ手を伸ばそうとした。しかし、視界に入る腕が一本しか無い事に気が付き動揺を露わにする。
暫く呆然とするハジメであったが、やがて自分の肘辺りから先の左腕を失った事を思い出した其の瞬間、無い筈の左腕に激痛を感じた。幻肢痛というやつだ。そして、表情を苦悶に歪めながら反射的に左腕を押さえて気が付く。切断された断面の肉が盛り上がって傷が塞がっている事に。
「な、何で?……其れに血も沢山……」
暗くて見えないが明かりさえあればハジメの周囲が血の海になっている事が分かっただろう。普通に考えれば明らかに致死量である。
ハジメが右手で周りを探れば、ヌルヌルとした感触が返ってくる。未だ辺りに流した血が乾いていないのだろう。やはり、大量出血した事は夢では無かった様だし、血が乾いていない事から、気を失って今だ其程時間は経っていない様である。
にも拘わらず傷が塞がっている事に、ハジメが疑問を感じていると再び頬や口元にぴちょんと水滴が落ちてきた。其れが口に入った瞬間ハジメは、また少し身体に活力が戻った気がした。
「……まさか……これが?」
ハジメは幻肢痛と貧血による気怠さに耐えながら右手を水滴が流れる方へ突き出し錬成を行った。
そうやってフラつきながら再び錬成し、奥へ奥へと進んで行く。不思議な事に、岩の間から滲み出るこの液体を飲むと魔力も回復する様で、幾ら錬成しても魔力が尽きない。ハジメは休まず熱に浮かされた様に水源を求めて錬成を繰り返した。
やがて、流れる謎の液体がポタポタからチョロチョロと明らかに量を増やし始めた頃、更に進んだ所で漸く水源に辿り着いた。
「こ……れは……」
其処にはバスケットボール大の青白く発光する光石が存在していた。
その鉱石は、周りの石壁に同化する様に埋まっており下方へ向けて水滴を滴らせている。神秘的で美しい美しい石だ。アクアマリンの青をより濃くして発光させた感じと言うのが一番しっくり来る表現だろう。
ハジメは一瞬幻肢痛も忘れて見蕩れてしまった。
そして縋り付く様に、或いは惹き付けられる様に、その手を伸ばし直接口を付けた。
すると身体の内に感じていた鈍痛や靄かがった様だった思考がクリアになり倦怠感も治まっていく。やはり、ハジメが生き残れたのはこの石から流れる液体が原因らしい。治癒作用がある液体の様だ。幻肢痛は治まらないし、失った血が戻る訳でも無い様だが、他の負傷や魔力などは瞬く間に回復していく。
ハジメは知らないが、実はその石は【神結晶】と呼ばれる歴史上でも最高級の秘宝で、既に遺失物と認定されている伝説の鉱物だったりする。
漸く死の淵から生還した事を実感したのか、ハジメはそのままズルズルと壁にもたれながらへたり込んだ。そして、死の恐怖に震える身体を抱え体育座りしながら膝に顔を埋めた。既に脱出しようと言う気力は無い。ハジメは心折れてしまったのだ。
敵意や悪意になら立ち向かえたかも知れない。助かったと喜んで再び立ち上がれたかも知れない。
しかし、爪熊のあの目は駄目だった。ハジメを餌としか見ていない捕食者の目。弱肉強食の頂点に立つ人間が先ず向けられる事の無い目だ。その目に、そして実際自分の腕を喰われた事に、ハジメの心は砕けてしまった。
(誰か……助けて……)
此所は奈落の底、ハジメの言葉は誰にも届かない。
≪≪♢♢♢≫≫
どれ程そうしていただろうか。
ハジメは現在、横倒しになりギュッと手足を縮めて、まるで胎児のように丸まっていた。
ハジメが崩れ落ちてから既に四日が経過している。
しかし、神水は、服用している間は余程の事が無い限り服用者を生かし続けるものの空腹感まで消してくれる訳では無かった。死なないだけで、現在ハジメは壮絶な飢餓感と幻肢痛に苦しんでいた。
(如何して僕がこんな目に)
ここ数日何度も頭を巡る疑問。
痛みと空腹で碌に眠れていない頭は神水を飲めば回復するものの、クリアになったが為により鮮明に苦痛を感じさせる。幾度も幾度も意識を失う様に眠りに就いては飢餓感と痛みに目を覚まし、苦痛から逃れる為に再び神水を飲んで又苦痛の沼に身を沈める。
最早何度、そんな微睡みと覚醒を繰り返したのか。
何時しか、ハジメは神水を飲むのを止めていた。無意識の内に苦痛を終わらせる最も手っ取り早い方法を選択してしまったのだ。
(こんな苦痛が続くなら……いっそ……)
そう内心呟きながら呟きながら意識を闇へ落とす。其れから更に三日が経過した。
ピークを過ぎたのか一度は落ち着いた飢餓感だったが、嵐の前の静けさだったかのように再び、更に激しくなって襲い来る。幻肢痛は一向に治まらずハジメの精神を苛み続ける。まるで端の方から少しづつ鑢で削られる様な耐え難き苦痛。
(まだ……死なないのか……あぁ、早く、早く……死にたくない)
死を望みながら無意識に生に縋る。矛盾した考えが交互に過る。ハジメは既に正常な思考が出来なくなっていた。支離滅裂なうわごとも呟く様になった。
其れから更に三日が過ぎた。
既に神水の効力は無く、このままでは二日と持たずに死ぬかも知れない。食料処か水分すら摂っていないのだ。
しかし、少し前、八日目辺りからハジメの精神に異常が現れ始めていた。只只管生と死を交互に願いながら、地獄の様な苦痛が過ぎ去るのを待っているだけだったハジメの心に沸々と何か暗く澱んだ物が湧き上がってきたのだ。
其れはヘドロのように恐怖と苦痛で罅割れた心の隙間にこびり付き、少しずつ、少しずつ、ハジメの奥深くを浸食していった。
(何故僕が苦しまなきゃならない……僕が何をした……)
(何故こんな目に遭っている……何が原因だ……)
(神は理不尽に誘拐した……)
(クラスメイトは僕を見下した……)
(兎は僕を見下した)
(彼奴はぼ僕を喰った……)
次第にハジメの思考が黒く染まっていく。白紙のキャンバスに黒いインクが落ちた様にジワリジワリとハジメの中の美しかった物が汚れていく。
誰が悪いのか、誰が自分に理不尽を強いているのか、誰ヵじぶんを傷つけたのか……無意識に敵を探し求める。激しい痛みと飢餓感、そして暗い密閉空間がハジメの精神を蝕み、暗い感情を加速させる。
(如何して誰も助けてくれない……)
(誰も助けてくれないなら如何すれば良い?)
(この苦痛を消すには如何すれば良い?)
九日目には、ハジメの思考は現状の打開を無意識に考え始めていた。激しい苦痛からの開放を望む心が、湧き上がってきた怒りや憎しみと言った感情すら不要な物と切り捨て始める。
憤怒と憎悪に心を染め上げている時では無い。どれ程心を黒く染めても苦痛は少しも和らがない。この理不尽に過ぎる状況を打開するには、生き残る為には余計な物は削ぎ落とさねばならない。
(“俺は”何を望んでいる?)
(俺は“生”を望んでいる)
(其れを邪魔するのは誰だ?)
(邪魔するのは敵だ)
(敵とは何だ?)
(俺の邪魔をするもの、理不尽を強いる全て)
(では俺は何をすべきだ?)
(俺は、俺は……)
十日目ハジメの心から憤怒も憎悪も無くなった。神の強いた理不尽も、クラスメイトの裏切りも、魔物の敵意も、付いて来いと言った男の大きく頼もしい背中も……自分を守ると言った誰かの笑顔も……全てはどうでも良い事。
生きる為に、生存の権利を獲得する為に、その様な事は全て些事だ。ハジメの意思は唯一つに固められる。鍛錬を経た刀の様に。鋭く強く、万物の悉くを切り裂くが如く。
即ち……
(殺す)
悪意も敵意も憎しみもしない。
唯生きる為に必要だから滅殺するという純粋なまでの殺意。
自分の生存を脅かす者は全て敵。そして敵は。
(殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す)
この飢餓感から逃れる為には。
(殺して喰らってやる)
今この瞬間、優しく穏やかで、対立して面倒を起こすより苦笑いと謝罪でやり過ごす香織が強いと称した南雲ハジメは完膚無きまでに崩壊した。
そして、生きる為に邪魔な存在は全て容赦無く排除する新しい南雲ハジメが誕生した。
砕けた心は再び一つとなった。但し、継ぎ接ぎだらけの修繕された心では無い。奈落の底の闇と絶望、苦痛と本能で焼き直され鍛え直された新しく強靱な心だ。
ハジメはすっかり弱った身体を必死に動かし、この数日で地面の窪みに溜まった神水を犬の様に直接口を付けて啜る。飢餓感も幻肢痛も治まらないが、身体に活力が戻る。そうしてハジメは、目をギラギラと光らせ、濡れた口元を乱暴に拭い、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。歪んだ口元からは犬歯がギラリと覗く、正に豹変と言う表現がピッタリ当て嵌まる程の変わり様だ。
ハジメは起き上がり錬成を始めながら宣言する様に呟いた。
「殺してやる」
≪≪♢♢♢≫≫
時は少し遡る。
ハイリヒ王国王宮内、召喚者達に与えられた部屋の一室で、八重樫雫は暗く沈んだ表情で未だに眠る親友を見つめていた。
あの日、迷宮で死闘と喪失を味わった日から既に五日が過ぎている。
あの後、宿場町ホルアドで一泊し、早朝には高速馬車に乗って一行は王国へと戻った。
とても迷宮内で実戦訓練を続行出来る雰囲気では無かったし無能扱いだったとは言え勇者の同胞が死んだ以上、国王にも教会にも報告は必要だった。
其れに、厳しくはあるがこんな所で折れてしまっては困ると言う騎士団側の意図もあった。致命的な障害が発生する前に発生する前に勇者一行のケアが必要だと判断されたのだ、尤も、狩人は何時も通りだった為、ケアは不要とされていたが。
雫は、王国に帰って来てからの事を思い出し、香織に早く目覚めて欲しいと思いながらも、同時に眠ったままで良かったのかも知れないと思っていた。
帰還を果たし、生徒の死亡が伝えられた時、王国側の人間は誰も彼もが愕然としたものの、其れが“無能”のハジメと知ると安堵の吐息を漏らしたのだ。
国王やイシュタルは未だ分別のある方だっただろう。中には悪し様にハジメを罵る者まで居たのだ。
勿論公の場で発言したのでは無く物陰でこそこそと貴族同士の世間話という感じではあるが。やれ死んだのが無能で良かっただの、やれ神の使徒でありながら役立たずなど死んで当然だの、其れはもう好き放題に貶していた。正に死人に鞭打つ行為に雫は憤激に駆られて何度も手が出そうになった。
実際正義感の強い光輝が真っ先に怒らなかったら飛び掛かっていても可笑しくは無かった。
光輝が激しく抗議した事で国王や教会も悪い印象を持たれては不味いと判断したのか、ハジメを罵った人物達は処分を受けた様だが……
逆に、光輝は無能にも心を砕く優しい勇者であると噂が広まり、結局、光輝の株が上がっただけで、ハジメは勇者の手を煩わせただけの無能であると言う評価は覆らなかった。
あの時、自分達を救ったのは紛れもなく、勇者も歯が立たなかった化け物を狩人と共に二人だけで食い止めたハジメだと言うのに。そんな彼を死に追いやったのはクラスメイトの誰かが放った“流れ弾”だと言うのに。
クラスメイト達は図ったようにあの時の“誤爆”の話をしない。自分の魔法は把握していた筈だが、あの時は無数の魔法が嵐の如く吹き荒れており、“万一自分の魔法だったら”と思うと如何しても話題に出せないのだ。其れは、自分が人殺しである事を示してしまうから。
結果、現実逃避する様に、アレはハジメが“自分で”何かしてドジった所為だと思う様にしているようだ。死人に口なし。無闇に犯人捜しをするより、ハジメの自業自得にしておけば誰も悩まなくて済む。クラスメイト達の意見は意思の疎通を図る事も無く一致していた。
メルドはあの時の経緯を明らかにする為、生徒達に事情聴取する必要が在ると考えていた。生徒達のように現実逃避して単純な誤爆であるとは考え難かった事もあるし、仮に過失だったのだとしても、白黒はっきりさせた上で心理的ケアをした方が生徒達の為になると確信していたからだ。
こう言う事は有耶無耶にした方が後で問題になるものなのである。何より、メルド自身はっきりさせたかった。“助ける”と口にしておいてハジメを救えなかった事に心を痛めているのはメルドも同様だったからだ。
しかし、メルドが行動する事は敵わなかった。イシュタルが生徒達への詮索を禁止したからだ。メルドは食い下がったが、国王にまで禁じられては堪えるしか無かった。
「あなたが知ったら……怒るのでしょうね?」
あの日から一度も目を覚ましていない香織の手を取り、そう呟く雫。
医者の診断では身体に以上は無く、恐らく精神的ショックから心を守る為の防衛措置として深い眠りに就いているのだろうとの事だった。故に時が経てば自然と目を覚ますと。
雫は香織の手を握りながら、「どうかこれ以上、私の優しい親友を傷付けないで下さい」と、誰とも無しに祈った。
その時、不意に握り締めた香織の手がピクッと動いた。
「!?香織!聞こえる!?香織!」
雫が必死に呼び掛ける。すると、閉じられた香織の瞼がふるふると震え始めた。雫は更に呼び掛けた。その声に反応してか香織の手がギュッと雫の手を握り返す。
そして、香織はゆっくりと目を覚ました。
「香織!」
ベッドに身を乗り出し、目の端に涙を浮かべながら香織を見下ろす雫。香織は、暫くボーッと焦点の合わない瞳で周囲を見渡していたのだが、やがて頭が活動し始めたのか見下ろす雫に焦点を合わせ、名前を呼んだ。
「……雫ちゃん?」
「ええ、そうよ。私よ。香織、身体は如何?違和感は無い?」
「う、うん。平気だよ。ちょっと怠いけど……寝てたからだろうし……」
「そうね、もう五日も眠っていたのだもの……怠くもなるわ」
身体を起こそうとする香織を補助しつつ、苦笑いしながらどれ程寝ていたのかを伝える雫。香織は其れに反応する。
「五日?そんなに……如何して……私、確か迷宮に行って……其れで……」
徐々に焦点が合わなくなっていく瞳を見て、不味いと感じた雫が咄嗟に話題を逸らそうとする。しかし、香織が記憶を取り戻す方が早かった。
「それで……あ……………………南雲君は?」
「ッ……それは」
雫は、苦しげな表情でどう伝えるべきか悩む。そんな雫の様子で、香織は自分の記憶にある悲劇が現実であった事を悟る。だが、そんな現実を容易に受け入れられる程香織は出来ていない。
「……嘘だよ、ね。そうでしょ?雫ちゃん。私が気絶した後、南雲君も助かったんだよね?ね、ね?そうでしょ?此所、お城の部屋だよね?皆で帰って来たんだよね?南雲君は……訓練かな?訓練所に居るよね?うん……私、ちょっと行ってくるね。南雲君にお礼言わなきゃ……だから、放して?雫ちゃん」
現実逃避する様に次から次へと言葉を零しハジメを捜しに行こうとする香織。そんな香織の腕を、雫は摑んで放そうとしない。
雫は悲痛な表情を浮かべながら、其れでも決然と香織を見つめる。
「……香織。分かっているでしょう?……此所に彼はいないわ」
「止めて……」
「香織の覚えている通りよ」
「止めてよ……」
「彼は、南雲君は……」
「いや、止めてよ……止めてったら!」
「香織!彼は死んだのよ!」
「違う!死んでなんか無い!絶対、そんな事無い!如何して、そんな酷い事言うの!幾ら雫ちゃんでも許さないよ!」
イヤイヤと首を振りながら何とか雫の拘束から逃れようと暴れる香織。雫は絶対開放してなるものかとキツく抱き締める。ギュッと抱き締め、凍える香織の心を温めようとする。
「放して!放してよぉ!南雲君を捜しに行かなきゃ!お願いだからぁ……絶対、生きてるんだからぁ……放してよぉ」
何時しか香織は“放して”と叫びながら雫の胸に顔を埋め泣きじゃくっていた。
縋り付く様にしがみ付き、喉を嗄さんばかりに大声を上げて泣く。雫は、只只管に己の親友を抱き締め続けた。そうする事で、少しでも傷付いた心の痛みが和らぐようにと願って。
どれ程そうしていたのか、窓から見える明るかった空は夕日に照らされ赤く染まっていた。香織はスンスンと鼻を鳴らしながら雫の腕の中で身動ぎした。雫が心配そうに香織を窺う。
「香織……」
「……雫ちゃん……南雲君は……落ちたんだね……此所には居ないんだね……」
囁くような、今にも消え入りそうな声で香織が呟く。雫は誤魔化さない。誤魔化して甘い言葉を囁けば一時的な慰めにはなるだろう。しかし、結局其れは、後で取り返しが付かない程の傷となって返ってくるのだ。これ以上、親友が傷付くのは見ていられない。
「そうよ」
「あの時、南雲君と狩人さんは私達の魔法が当たりそうになってた……誰なの?」
「分からないわ。誰も、あの時の事には触れない様にしてる。怖いのね。もし、自分だったらって……」
「そっか」
「恨んでる?」
「……分からないよ。もし誰か分かったら……きっと恨むと思う。でも……分からないなら……その方が良いと思う。きっと、私、我慢出来ないと思うから……」
「そう……」
香織は、俯いたままポツリと会話をする。そうして真っ赤になった目をゴシゴシと拭いながら顔を上げ、雫を見つめると決然と宣言した。
「雫ちゃん、私、信じないよ。南雲君は生きてる。死んだなんて信じない」
「香織、其れは……」
「確かに、彼は死んでいないのかも知れない、だがな、生きていると言う保証も無いのだよ、香織嬢。正直に言えばハジメが生きている可能性など最早万に一つも無い、精々億に一つ程度でしか無いだろう。目覚めて早々に聞くのは酷な質問だろうが、其れでも尚、貴公は彼を探し求めるかね?」
「狩人さん!?」
「貴方、何時から其処に!?」
「今だ。だが今はそんな事は些事であろう、香織嬢も起きているのならば話が早い、大切な話も在るのでな」
香織の言葉に再び悲痛そうな表情で諭そうとする雫、しかし、香織は両手で雫の両頬を包むと狩人の声が聞こえ、二人揃って驚愕と共に声のした方へ向くと、壁に背をもたれさせ、腕を組んだ狩人が居た。そして、狩人の言葉を聞き、微笑みながら言葉を紡ぐ。
「分かってる。彼処に落ちて生きてる方が可笑しいって。……でもね、確認したわけじゃ無い。可能性は1パーセントよりも低いけど、確認してないならゼロじゃ無い。……私、信じたいの」
「香織……」
「そうか……貴公の意思は変わらん様だな」
「私、もっと強くなるよ。それで、あんな状況でも今度は守れるくらい強くなって、自分の目で確かめる。南雲君の事。……雫ちゃん、狩人さん」
「なに?」
「何だね?」
「力を貸して下さい」
「……」
「ふむ……」
雫はじっと自分を見つめる香織に目を合わせ見つめ返した。香織の目には狂気や現実逃避の色は見えない。只純粋に己が納得するまで諦めないという意思が宿っている。こうなった香織は梃子でも動かない。雫どころか香織の家族ですら手を焼く程の頑固者になるのだ。
普通に考えれば、香織の言っている可能性などゼロパーセントであると切って捨てて良い話だ。あの奈落に落ちて生存を信じるなど現実逃避と断じられるのが当たり前だ。
恐らく、幼馴染みである光輝や龍太郎も含めて殆どの人間が香織の考えを正そうとするだろう。
だからこそ……
「断る」
そう言う言葉に二人共硬直し、次の瞬間に狩人に向けて音が鳴ったと錯覚する程の勢いで狩人を見た。
「今なんて言ったのかしら!?」
「今なんて言ったのかな?かな!?」
「断ると言ったのだ。」
「何でよ!?今のは引き受ける流れでしょ!?」
「ならば貴公は引き受けるのだな、其れで十分ではないか」
「十分って何よ十分って!貴方がいた方が良いに決まってるじゃない!!」
「貴公一人が協力すれば私が協力する必要も無くなる、元より、私は貴公等には協力するつもりは無かったのだ」
「何よ!香織の言うことが世迷い言だとでも言う訳!?」
「十分そう言えるだろう、だが私も彼が生きていると言う可能性には賛同している、そして此所からが本題だ、私の言葉を最後まで聞き給え」
「わ、分かったわ……最後まで冷静に突っ込むのは止めて頂戴、貴方の平坦な声での返答は私でも怖いのだから」
狩人の返事に物凄い剣幕で喰って掛かった雫であったが、終始冷静な狩人の返しと“本題”と言う言葉に頭を冷やし、狩人の言葉に耳を傾ける。
「私は私のやり方で彼を探そうと思っていると言う事だ」
「其れはつまりどう言う事?」
「狩人さんのやり方って?」
「貴公等の戦力では大迷宮を下るのに相当な時間が掛かるであろう。それ故に私は一人で大迷宮を強行突破しようと思っている。」
「なら私も行きます!その方が人数も増えて効率が良いと思うんですけど」
「香織と同意見よ、貴方が居れば大迷宮の下層でも十分戦えるでしょう?」
「そうなのだが、最短で大迷宮を下る故、私は貴公等を守るつもりは無い、つまりは貴公等は私にとって足手纏いとなってしまうのだ、私も二人では無い、一人なのだから」
「そうですか……」
「確かに……一理あるわ……」
「何よりも大迷宮内は食料が無いと言っても過言では無い、そんな状況で長く時間を掛けてハジメを捜索するのでは我々が百層に到達する頃には確実に死んでいるだろう。其れに引き換え私だけならば恐らく数日で彼の下へと辿り着けると言う訳だ」
狩人の言葉を聞き、二人は思案する、確かに今の戦力では大迷宮の深層に潜るのは不可能だろう、其れこそ多大な時間を掛けてゆっくりと下るしか無いのだ。だが狩人だけならば、魔物の強さに拘わらず、彼の技術だけで魔物を制する事は可能だろう。ならば、彼には一人で動いて貰った方が良い、そう結論付けた二人は狩人に向き直る。
「分かりました、私達は私達の身の丈に合った方法で南雲君を捜します。狩人さんには迷惑を掛けちゃうんですけど……貴方のやり方でも捜索をお願いできませんか?」
「私からもお願いするわ……」
「良いだろう、元より私もそのつもりであったからな、貴公等も気を付けて、私は準備が整い次第行動に行動に移るとしよう。尤も、明日には大迷宮に潜るつもりで居るのだがな」
「そうですか……もし見付けたら、南雲君の事、お願いします」
「心得た」
そう言って狩人が退室しようとすると、不意に部屋の扉が開けられる。
「雫!香織はめざ……め……」
「応、香織は如何……だ……」
光輝と龍太郎だ。香織の様子を見に来たのだろう。訓練着のまま来た様で、あちこち薄汚れている。
あの日以来、二人の訓練もより身が入った物になった。二人もハジメの死に思うところがあったのだろう。何せ、撤退を渋った挙げ句返り討ちに遭い、あわや殺されるという危機を救ったのはハジメなのだ。もう二度とあんな無様は晒さないと相当気合いが入っている様である。
そんな二人だが、現在、何故か部屋の入口で硬直していた。訝しげに雫が尋ねる。
「あんた達、どうし……」
「す、すまん!」
「じゃ、邪魔したな!」
「貴公等、話ながら思っていたのだが、真面目な話の時くらい体勢を変えてはくれないだろうか、遂には話が終わった途端に再び見つめ合うなど、勘違いされても可笑しくは無いだろうに」
雫の疑問に対して喰い気味に言葉を被せ、見てはいけない物を見てしまったと言う感じで大慌てで部屋を出て行く、そんな二人を見て香織もキョトンとしている。更にはそんな香織と、原因に気が付いた雫を見て狩人は呆れた様な視線を雫達に向けて冷静に見たままの状況を伝える。
現在、香織は雫の両頬を両手で包みながら、今にもキス出来そうな位置まで顔を近付けているのだ。雫の方も香織を支える様にその細い腰と肩に手を置き、抱き締めている様に見える。
つまりは激しく百合百合しい光景が出来上がっているのだ。此所が漫画の世界ならば背景に百合の花が咲き乱れている事だろう。
雫は深々と溜息を吐くと、狩人の言葉から漸く事態を飲み込み顔を赤くする香織を尻目に声を張り上げた。
「さっさと戻ってきなさい!この大馬鹿者共!」
「では、私は準備があるのでな、この辺りで失礼するとしよう」
「あっ、はい。さっきはありがとうございました!」
「礼には及ばんよ、ではな」
その言葉を最後に、狩人は部屋を後にする。狩人は部屋を出ると、真っ先にメルドの下へと向かった。
訓練所でメルドを見付けた狩人は直ぐに彼の下へと向かい、用件声を掛けた。
「メルド殿、少し時間を貰っても構わないか?」
「ん?ああ、狩人か、何か話でも在るのか?」
「そう言う事だ」
そう言った狩人は、直ぐに用件を口にした。
「実はな、ハジメが生きているかも知れないと言う一縷の望みを賭けて大迷宮を全速力で下ろうと思っているのだ」
「一人で行くつもりか?」
「一人で行かねば大迷宮の強行軍など敵う筈も在るまい、彼等が居ては反って足手纏いとなる」
「そうか……其れは、止めれば思い止まるか?」
「いや、止めるだけ無駄だ」
「そうか……なら止める必要な無いな、但し、死ぬなよ」
「心得た、死ななければ良いだけならば容易い事だ」
「あの時もそう言って帰って来たんだったな」
「あの時はハジメを救えなかったがな、救える可能性が在るのならば、その者の夜を払うのは狩人の務めだ」
「そうか、ならば行け、上には俺の方から伝えておく」
「感謝する」
「礼には及ばん、坊主が生きてるに越した事は無いならな、彼奴には未だ謝罪も出来てない」
「そうだな、では、又何れ」
そう言って狩人は宿場町ホルアドへと全速力で走り出した、メルドから見れば夜の帳をを纏う風の様に見え、その姿は瞬く間に小さくなっていった。
ハジメの覚醒迄はお届けしましたが、ハジメが魔物を喰うシーンはカットさせて頂きました、そうしないとほぼ原作のハジメ完全メイン回になるので。そして檜山を見ていた時の狩人の眼は完全な狩人の無意識です、やっぱり月の魔物を喰らい上位者になったって所を強調したかったのもあります。所で前回、狩人の筋力が92に上がりましたが、狩人に時間があった時にしっかりと狩人としてのレベルを上げて頂くのでその辺はね、気長にお願いします。そして次回には狩人を合流させていきたいですね。
狩人の能力値、99のカンストを越えさせる?
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越えさせる
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越えさせない
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任せる