ラミアっ子とイチャラブしたかった話(跡形も残らなかった)


Twitterで企画を見て参加させて頂きました、初投稿です。
文章が稚拙だったり、独自設定独自解釈、矛盾点誤字脱字、とんでも神話解釈がございますがご笑覧いただければ幸いです。

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ラミアっ子とイチャラブしたかった話

 命がどこからきて何を為すべきなのか知る人間はいない。

 ただ、その命は精神と肉体の交合によって生まれた。だから知っていた。自分が何者で、どこから来たのかを。

 ──復讐(ふくしゅう)

 だから彼女は己の為すべき使命を余すことなく弁えていた。頭のなかに使命を象った言葉が生まれてあふれる。復讐を。憎き怨敵に裁きを。不当な扱いに苦しめられた己を慰めよ。声無き声がわんわんと言霊(ことだま)となって彼女に響いた。

 復讐や報復は怒りに似ている。怒りは原始的な感情で、誰か、という他人がいなければ成立しない。

 彼女は復讐という怒りによって他者と自己を認識し、急速に自我と成長を獲た。

 素肌をさらした背中に冷気と硬い感触が伝わるのを自覚して、のっそりと身を起こす。あたりは満々と闇が広がっていた。

 四辺には光があれば奥を見通せる几帳じみた天幕が下りていた。外との接触を阻むもの。彼女は牢にいた。

 ──復讐を果たせ。

()()()を巻いた足をほどいて這うように几帳へ近づいた。触れた几帳は見た目に反してすこしだけ弾力に富んで、けれど縦に裂くとあっけなく千切れた。

 裂けた几帳をくぐると風が赤い髪をすくった。空から伸びるきざはしが鼠径部からのびる鱗をあらわにする。

 蛇腹を這わして構わず進んだ。女妖(にょかい)であった。

 

 

 

 

序章

 

 

紅海蛇聖奇譚

 

 

「……それで、今度はこの写真の子を捜せばいいのか」

「そうだ」

 カレンダーには六月後半まで×が付き、あと一週間もすれば月が変わる頃。梅雨時だが油断すれば真夏さながらの熱波が襲う季節に、男二人がとある事務所の一室でうちわを扇いでいた。時計は10時を刻んで、エアコンの壊れたこのせまっ苦しい事務所は蒸し風呂同然だ。その上、男二人がしかめっ面を浮かべているのだから体感温度は高まるばかりであった。

 彼らを悩ますのは手元にある写真だった。中には一人の少女が映り込み、赤みがかった髪と小麦色の肌が特徴的な、笑顔の似合う少女だった。

「将来有望そうな子だろう? あと5年もすればションベン臭さも抜けてオレ好みになりそうだ」

「前々から思っていたが……最低だなアンタ」

「はン! テメェみたいな青くせぇガキには判んねぇだろうなぁ。色黒な女ってのは情が深くて、夜の方も情熱的でいいもんだぜ」

 大柄な男はいわゆるフィグ・サインと呼ばれるジェスチャーをとって、椅子の背もたれに身を預けた。Yシャツ一枚と肩までぐるりとサスペンダーをはわした大柄で粗野さを隠そうともしない男は八雲といった。

「小麦肌っていうんだよ。あとあんたの夜の事情なんて聞きたくもない。耳が腐るからな」

 対するまだ少年と言ってもいい彼は、ひどく呆れたようにため息をついた。

 出雲市にある事務所の一室で、社長椅子にふんぞり返りながら紫煙を吐いた八雲はニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべてはいるが、これでも万事屋まがいの事業を生業としている男で、小さいながらも組織の長であった。

「あんたの依頼はいつも訳が分からないが、今回はまともだな。前回はなんだったか、ひたすら穴を掘らせられたんだったか? ホントに儲けが出てるのか不思議だ」

「ははは。お前さんの評判がいいからそこそこ稼がせてもらってるぜ、"1度も目を合わせないくらい無愛想だがやる事はキッチリやってくれる"ってな」

「フン」

 煙草に火を点け、景気よく吸い込んだ八雲が彼へ息を吹きかけた。来客用のソファに座り、離れているというのに紫煙が喉を刺激して思わずふり払った。

 悪態をつきながらそっぽを向いて、明後日の方向をみた。煙もだが、上機嫌そうな八雲の笑顔など見たくない。

 紫煙がシーリングファンに掻き回される天井から、ひらひらと弄んでいた写真に視線をもどした。

「ま。金勘定は心配すんな、てめぇにもちゃあんと金は払ってるだろ」

「こっちはやることやってんだ。そうでないと困る」

「ケッ! 相変わらず可愛くねぇガキだぜ」

 彼と八雲との関係は一年もない。

 およそ半年ほど前、車で突っ込んできた八雲にはねられケガを負ったのがきっかけだった。衝撃のあと中空へ放り投げられたときに聞こえた「ゲッ!」という蝦蟇蛙が潰れたような叫び声は妙に記憶に残って、八雲の野太い声を聞く度に思い出す。

 不運なのは事故と大学受験と重なっていた事で、退院したのと高校卒業は同時期だった。あてもなく社会に放り出された彼は、紆余曲折あって彼のもとでバイトをしていた。

「それにしても……稼いでて白湯なのか」

「ああん? 文句があるなら自分で買って来いやクソガキ」

 事故当初はお互いまだ殊勝さや躊躇のあったふたりだが今では息を吐くように皮肉と悪態を投げつける仲だ。

「おら、さっさと行って稼いで来やがれ」話は終わりだというように新聞紙を広げて強引に話を打ち切った。紙面には『米大使来日ス』の文字が踊っていた。特に異論もない。

 八雲から手渡された書類に目を通す。

 彼女の失踪からすでに数か月は経っていて、警察も動いたようだ。けれど結局発見には至っておらず、ここに依頼が来たのも一抹の期待に賭けた末といってよかった。やらないよりマシといった方が正しいか。

「……最後の目撃場所は出雲大社付近か。失踪から半年は経ってるし、あらかじめ準備してたとか、変わり果てた姿で系の事案じゃないのかこれ?」

「馬鹿言うんじゃねぇ。仮にそうでもオキャクサマのご依頼だ、それなりの成果がないと報酬の半分ももらえん」

「でもこんな忽然と消えるか? 場所も場所だし神隠しにでもあったって方がまだ納得できるぞ」

「それこそバカなって話だろうが……おっと、そういや出雲のお社付近は最近"出る"って噂だぜ。お社の方に行くってんなら気ぃつけるんだな」

 初めて顔をあげて八雲をみた。八雲の印象は銭勘定しか頭にないリアリスト系守銭奴だったから彼からそんな言葉がでるのが意外だった。珍しいこともあるものだと立ち上がった。必要な情報は得たし、陽も高くなって地獄が増してきた部屋から一刻も早くおさらばしたかった。

 

()()()()

 

 ふり返った。いつもは言葉すら交わさずに別れる二人だったから、なぜ今この時だけ八雲が言葉を投げかけてきたのか不思議だった。八雲は新聞紙を広げていて顔を盗み見ることので出来なかった。疑心はいだいたものの言葉は返さず八雲をしばし眺め、やがて扉を開けた。

 外に出ると花開いた海桐花(とべら)の独特な臭気がいやに鼻についた。

 

 出雲市(いずも)は島根県でも栄えた町だが都市というには些か疑問で、それほど広いわけでもない、そこそこの町だった。道も平坦な場所が多く、自転車を走らせても特に不便さは感じない。

 外来からのアクセスは悪いが中にいる分には程よい地方都市、という言葉がしっくりくる場所だった。

 まあ地方なんてどこもそんなものだ。

 彼の向かう出雲大社は海に近い。昔は海のそばにあったらしいが地形の変化でやや内陸部に位置するようになったらしい、自転車を漕ぐたびに潮の香りを感じた。

 道すがら八雲の言っていた言葉が気にかかって調べてみたが"出る"とは物の怪の類ではなく、山中に忽然と()が生まれるらしいのだ。それも一つところに留まらず、中央アジアにあるという"さまよえる湖"のように移動を繰り返すのだという。

 水に囲まれた土地とはいえ山中に湖が"出る"とは、一体どんな連想でそんな都市伝説が生まれたのか。自転車を漕ぎながら思考をまとめていた彼は、話の内容よりもそこに至った経緯が気になった。

 期待はしていなかったが出雲大社にそれらしい人物はいなかった。街もあらかた警察が捜索済みらしく、怪しいといえる場所は出雲大社の裏手に広がる山くらいだ。

 山の方も人海戦術を使ってしらみつぶしに捜索したらしいが結局発見には至っていない。

 死体を見つけたらいやだなぁ……とため息をつきながら仕方ないと割り切って、靴と服を履き替えた彼は山へと踏み入れた。八雲に追加報酬の嘆願を誓ったのも同時だった。

 山道を進むほど木々は密度を増すわけではなく()()()になった。杉や檜などの背の高い木は姿を消し、背が低く折れ曲がった松やブナが多くあった。最初の違和感だったのだろう。

 出雲大社の裏手に伸びる山、といえどなにか希少性があって固有な植生が広がっているわけでもなく、確かに海が近いが三保の松原、虹の松原、気比の松原のように松が群生しているわけではない。これまで通ってきた山道は杉の雑木林が大半を占め、出雲で生まれ育った彼の記憶にも合致していた。だからこその違和感だった。

 足元の草花も数が減って歩きやすいのは二つ目の違和感だった。そもそも山道なのだ。斜面や茂ったけもの道が主流でなくてはならない。それなのに時折、緑がかった暗色の岩肌さえ目に付いた。蛇の皮を象ったような蛇紋岩だった。

 三つ目の違和感は暑さだった。馴染んだ暑さではないのだ。直観だが、確信だった。

 時節は梅雨が終わりをみせ、夏の気候に近づいている頃。出雲は海に面していて、うっすらと潮風すら鼻腔にとどく土地だ。多湿さは相当なはず。けれど乾燥した南風は顎をつたる汗をきれいに拭い去っていった。

 

 どうにも嫌な気分だった。

 引き返そうかとも思った。

 

 けれど方向は変わらず足並みだけが速まっただけ。木々はまばらとなって陽光をさえぎる葉は減り、周囲の光量は増えているはずだった。けれど得体の知れない妖しさは森に踏み入った当初と比べようもなかった。

 人は光を身に受けると安心を覚える生き物だ。けれどその光自体が故意に与えられたとしたらどうだろう。きっと拒絶の感情を抱くだろう。

 彼も人だった。

 光を嫌って木々を忌んで地面を拒んでいつの間にか走り出していた。あたりは無音だった。鳥や虫の鳴き声すら皆無で耳にとどろくのは血のさざめきのみ。迸る血流に押されながら疾走し、森を抜け──()()()()()にたどり着いた。

「………………。は?」

 先刻までの不吉さと不気味さはきれいさっぱりなくなっていた。代わりに場違いなほど玄妙さを漂わせるお社を認識して脳が混乱した。行き場を失った未知への恐怖心が戸惑ってしかたなかった。

 未知への恐怖がなくなったのだ。なぜならここは……

「1度、来たことがある。ここは、はじめてじゃない……?」

 記憶なんて掘り越しても出てこないのに、そんな気がしてならない。かつん、かつん、と雑草に埋もれた石畳の上を歩きながらデジャヴュを覚えた。

 分からない。

 懸命に記憶を探った。喉まで出かかっている気がするというのにその先が見えない。悶々としながら唇を噛んだ。

 いつの間に朽ち果てた鳥居の前にたっていた。

 朱の鳥居は風化し、損傷が激しい。色は剥がれ落ちていて、腐ってしまったのか中は自重で倒れないか不安なほどスカスカだった。

 見覚えがあった。

 既視感の連鎖はお社から鳥居まで歩いて、鳥居を越したあとにも続いていた。

 

「そうだ、鳥居の下で、石段を登ってくる、誰かと、出会った」

 

 既視感をなぞるように足を踏み出し、記憶の果てに誰かの影を幻視した。きっとそれが命取りになったのだろう。

 彼は石段から()()した。

 

 

 

 

 気が付いたとき怪我を負って、木にぶら下がっていた。

 足と腕に枝が貫通し負傷していたが彼には他人事に思えた。痛みがなかったのだ。上を見ると切り立った崖があって、さっきまで確かにあったはずのお社も石段もどこにもない。キツネに化かされた気分だった。

 白昼夢を見ていたらしい彼は、崖から真っ逆さまに墜ち、すぐ下に植わっていた木に突っ込んだようで、それがクッション代わりになったらしい。いやに冷静な頭が淡々と情報を処理していった。

 手足に枝が刺さって枝にぶら下がっている状態で、きっと地面叩きつけられていたら死んでいただろう。生還の代償は足と腕だった。これが頭部や内臓でなくてよかったと思うかは未来の自分が判断するだろう。

 身体を揺らすとあっけなく腕と足に刺さった枝が折れ、強かに地面に打ち付けられた。衝撃で三半規管が揺さぶられたのか抗えない自失に追い込まれた。

 あーくそ。

 投げやりな気分で意識を手放した。

 

 もう一度またたくと、誰かがいた。

 血を失ったからか霞んだ目には白と黒しか色がなくて判然としない。

 けれど一つだけ鮮烈な色があった。

 陽光を反照する"赤"だった。太陽を矮小化したようなピジョンブラッドの揺らめきは、うねりを帯びていて、彼の腰を一周、二周して絡みついた。

 浮遊感を与えられながら意識はふたたび途切れた。

 

 

 

 

わたしはあの野で往き合うた

うつくしいきわみの乙女。妖精の娘か。 

髪ふさふさと足かろく、 

眼こそ妖しく。 

 

花の冠を編んでやり 

腕輪も香ぐわしい帯もこさえた。 

乙女はわたしを恋うかに見つめ 

あえかに呻いた。 

 

 

 覚醒を促したのは耳朶をくすぐる詩だった。まぶたを開けると光が額から頬を照らしていた。嫌な光ではない。

 寝かされているのはそう広くはない部屋だった。ひとつづつある寝台と小さな机と椅子、かまどだけがすべてだ。寝台に寝かされているようで、首を傾ければ部屋の全容はすぐに見通せた。

 かまどには誰かが立っていた。腰までとどく紗々とした髪が揺れている。時折のぞく手折れそうな腕は小麦色をしていて、人のそれに相違なかった。

 ただ、彼女は()()の類であった。足は蛇のそれで、赤い髪は波打つごとに飛沫のような燐光を放った。女妖、女怪、蛇女。そんな言葉に形容され畏怖される存在だった。

 異形だ。

 だけど彼のなかに生まれた驚きは少なかった。漠然とそういう事実もあるのだ、という奇妙な納得が裡に広がっただけ。

 彼の目覚めに気が付いたのか、蛇女は首を斜めにかがめるようにして振り返った。顔の造詣は整っていて、そして見覚えのある人相だった。彼が森へ入った理由……尋ね人の人相である。

 人からかけ離れた姿であったが間違いはないだろうと直感から来る確信が、彼の警戒を幾分か薄めた。

 ただそうすると、記憶にある写真の子とは幾分か印象が違っていた。写真の子が陽光を反照する燦々とした可愛げに例えれば、眼前の蛇女は煙管からけぶる紫煙のごとき婀娜っぽい美しさがあった。

 彼女はゆっくりと振り返った。

 人の姿をした上半身は優美な曲線を描きながら鼠径部付近で鱗がみえ、太ももまで下ると蛇体となった。身体の向きを変える時は、上半身と下半身は蛇腹ごと身体をひねるようだ。今、なにかの器をもった彼女が現にそうしたのだから間違いない。

 のそりとした挙動は完全に蛇の動きで、意外にも人が歩くより重心の移動はささやかだ。少し前かがみになるのが印象的だった。

 でもなにより印象的なのは彼女は目を瞑ったまま、迷いなく進んでいることだ。視界に頼らずとも他の宛てがあると言わんばかりにあらゆる挙動で不自然さはなかった。

 蛇は盲目の種があるとも聞く。彼女もそういった類なのだろうか、彼の思考は馴染みのない現実を前にしながらも沈着としていた。

 彼我の距離が狭まると異様さと妖しさが顕著になる。か細い小麦色のかいなを動かすのが見えてかすかに仰け反った。非力そうな腕ときゅっとし引き締まった胴、そして太ましい蛇腹は彼女のあらゆる肉体の比重が、あくまで蛇体にあるのだと示しているようであった。

 手折れそうな繊手から差し出されたもの意外にも米を蕩かしたおじやだった。蜥蜴の干物や精液を煎じた魔女謹製の薬にはみえない。

 目を白黒させる彼に何を思ったか、器を差し出したのと同じくして彼女は言葉を発した。

「……レイミア」

 遅れて彼女の名前なのだと悟った。

 彼が言葉を返す隙もなく、レイミアと名乗った蛇女は匙を取るとおじやを掬って彼に差し出した。木作りの匙と器によそわれたおじやは湯気がたち、特に変わった様子はない。毒が入っている様子もしなかった。

 差し出された匙の位置は少しだけズレていて、盲目であるのには変わりないらしい。

 森に入る前に軽食を胃に詰めたはずだが、眼前に差し出された芳しいものと、凄まじい空腹も相まってつばを嚥下した。

 ただ彼もそれなりの歳を重ねた青年だ。幼子と接するような扱いは御免だと匙を掴もうとした。けれど未だ癒えない傷が痛みを訴え、良しとしなかった。

 傷に触るような抵抗にムッとしたレイミアは穂先で口を突くように匙を持っていき、彼も渋々受け入れた。白味と黄身がほどよく蕩けたお粥は彼を満足させた。

 次々と放り込まれるので若干舌を火傷したが腹は膨れた。器を机におくと、彼女は彼の傍らによって腕をとった。

 人に触られるのがいやで何度か手を払ったが、彼女は諦めなかった。そのうち彼も諦めされるがままになった。

 腕に巻かれた血のにじむ布を取り外しているらしい。手つきは繊細で優しかった。ただ、あまり慣れていないのか時たま燐光の宿る赤髪が、彼の鼻先をかすめた。馥郁たる乙女のかおりが肺に届いて顔ごと鼻と視線を背けてしまう。

 解かれた際に垣間見えた傷跡は深くはあったが、昨日今日負ったとは思えないほど治癒されていた。完治もそう遠くないだろう。

 彼女をぼんやりと見ながら眠りこけ、彼女との出会いは終わった。

 次の日は熱が出た。手足に焼きごてを押し当てたような灼熱が彼を苛んだ。

 レイミアは傍らにいて、水に浸した冷たい布を当てて冷まし続けた。触れられるのが嫌で、嫌で、たまらなくて、鬱陶しさに何度も手を払ったがレイミアの頑固さも相当なもので最後にはなすがままになった。

 彼女の看病が効いたのか夕べには熱は引いて、窓から見える景色を茫と眺めていた。

 窓の景色は緑と青ばかりで夕焼けが少し下った場所にある湖を焦がしているのが目についた。

 人に触れられるのはいつ以来だっただろう。なんて考えが浮かんだ。

 人肌の温もりなんてとうに忘れていたから、発熱した箇所よりも彼女に触れられた場所にこそ熱を感じて仕方なかった。

 気づけばまた眠っていた。嫌な夢はみなかった。

 今日も彼女の気配で目が覚めた。

 足にも怪我を負って動けない彼に、彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 レイミアが名を名乗って以降、言葉は生まれず二人は決して会話をしなかった。

 警戒もあった。

 疑念もあった。

 けれど必要もなかったのだ。

 レイミアは多くのことを察して、彼も拒ままぬよう努力した。

 彼女との時間は楽だった。

 彼女が口を開かないように彼女はまぶたを開かない。人と目を合わせるのをなにより嫌う彼にとって瞑目をつづける彼女は好ましく、口とともに目が見開かれるのを忌み嫌った。

 とはいえ楽ではあるが、甲斐甲斐しく世話を続けられるという状況は彼の自尊心を削りに削った。

 動けないストレスと情けなさとやるせなさは澱のごとく積もるもので、時折、出かけるレイミアが羨ましかった。外から耳へとどく彼女の詩が、唯一、心を慰めた。

 心が高下を繰り返して、でも悪くない時間だった。言葉はすくなく名前を交わしただけで素性も聞かず、布を変える時だけ彼らの息は重なりあった。

 そんな日々が三日ほどつづいていた。

 

 空は晴れていた。

 雲はやや高い。

 朝焼けが湖に差し掛かっている。レイミアは湖のそばにいた。湖を染めあげる赤はレイミアと同色で彼女の赤い髪は燐光も相まって朝焼けを映した波間のようだ。

 寝台から抜け出して、立て掛けてあった杖を取る。足と腕の怪我はいっそ不可解なほどの快復をみせ杖があれば立てるくらいにはなっていた。

 とは申せ歩き回るには辛い。部屋を出たすぐに軽い斜面に行き当たって、妙に力んだから傷に障った。

 ゆっくりとだがレイミアの隣りに並ぶ。表情の変遷はささやかだったが、なんとなく咎めていると察せられる表情を浮かべた。構わうことなく、彼ははじめて言葉を彼女へ向けた。

「…………なんで何も聞かない」

「……わたくしも同じ疑問を抱いておりました」

 返答は早く、打てば響くように訪れた。きっと彼がそうであるように彼女も悶々としていたのだろう。尋ねるべきこと、語りたいことは山とあったけれど、いざ疑問ぶつけられる時になると咄嗟に言葉が見つからなかった。暫し、空白が生まれた。

「なぜ、ぼくを助けた。なぜ、傷を癒す。放っておいてもよかったはずだ」

 先に口を開いたのは彼。助けられてからずっと抱いていた疑問でもあった。

 人一人とはいえ看病するのは大変な労力だ。加えて彼女自身清貧さを絵に書いたような生活を送っている。清貧とは聞こえがいいが貧しさは変えようのない事実だ。見ず知らずの人間に身を削るような真似をなぜ、という疑問は常にあった。

 顔を伏せながら横目に見やる。彼女からの答えは先刻とは違いすぐさま返って来ず、視線を少しあげ見切れた表情は言葉を選んでいるようだった。

「血を」

 レイミアはこちらへ顔を向けた、正確には腕と足に刻まれた傷へ。今は塞がっているものの当初は止めどなく流血していた場所だった。

「血の臭いを森中に擦り付けられると迷惑なのです」

 理由は端的だった。けれど少し要領を得なかった。解を得られていない彼がふたたび問いを繰り返す前に、レイミアは小鳥が口ずさむさえずりのように語り始めた。

「わたくしは女怪です」

「血はこの身に宿る魔性を呼び起こします」

「わたくしは見ての通りあなた方"人"とは違います。ですが"人"のように在りたいと願うのです」

「人であるためには血を遠ざけ、魔性を眠らせなければならない」

「そう思えばこそ」

 あなたを助けたのだ、という。最後まで要領を得なかったが要点だけは踏まえた言葉だったように思う。疑問が解消されればまた新たなる疑問が生まれた。

 どうして人として在りたいのか、と。

「それがわたくしの使命を阻む道なれば」

 問いを投げるまでもなく答えは帰ってきた。ただ声音は突き放す性質を帯びていて余人を介在させない、させたくないという冷たさがあった。

 使命。現代社会を生きてきた彼にとって縁遠い言葉だった。気にかかったが、誰かに深入りするのを嫌がる気持ちが袖をひいた。

「でも、助かった」

 短い感謝だけを残して、足をかばいながら身体を翻した。

「……はい」

 乾いた南風にのって耳に届いたささやき声。

 立ち止まって振り向く。隠れようもない婀娜を纏う彼女だがそのつかの間だけは朝焼けに解けそうなほど儚げだった。

 

 

 彼女の時間はおよそすべてが決まっていて、生活の流れが機械じみた正確さで織りなされる。決まって夕刻に小一時間どこかへ外出するのもそうだった。

 晴耕雨読を体現した姿に彼は"人間よりもよほど清廉だ"と皮肉を思わざるを得なかった。

 傷の治りは"瞬く間"と形容詞も過言ではなく、腕の方は普段取りの動きをしても支障はなかった。ただ、彼が固辞してもレイミアは看病を譲らなかった。されるままにする他なく、日増しに急降下する自尊心を自覚して一刻も早い完治を彼は願った。

 それに距離が近い。きっと彼女は間合い、という概念を知らないだろう。男女の機微もまた。自分一人だけが勝手にやきもきしている状況に、大いに理不尽を覚えた。

 彼女の芳香は髪を起源としているようで燐光は芳香そのもののように思えた。それにまだ若い彼にとって彼女の肢体は目に毒だった。変な気持ちを抱く前のを嫌って上半身から目を反らすと、目につくのは人に在らざる蛇体だった。

 全長は6,7mほどだろうか。蛇体は胴から尾にかけて徐々に細くなっていく。1番太い場所で大の大人が手で囲んで指先がわずかに触れるほど、細いところで手首ほど。だから直立する人の部分を身体を支えるには筋力的な限界があり、背伸びすると2mを少し超したあたりが上限のようだ。

 それ以上は、人がつま先立ちするとすぐ倒れてしまうのと同じ要領で崩れてらしい。

 普段は170cmを超さない部分でとどまっており、彼と並ぶと目の位置がほぼ同じ場所にきた。しっぽは犬のしっぽのようにゆらゆらと振れていて、時折、彼女の意思とは独立しているように忙しなく動いた。

 なんとなく……いや、しげしげと尻尾を見つめた。非常に興味深い。蛇は変温動物で、人は恒温動物なのだが彼女はどうなのだろう。あくまで知的好奇心から、決してよこしまな感情からではなく、しっぽっぽに触れようとした。

 手を伸ばして。

 避けられた。

「…………」

 なるほどね。と心のなかで零し、クールに頷いた。どうやら一度のチェレンジで触させてくれるほど甘くはないらしい。

 ──フッ! 手を伸ばして、空振った。

「…………………………」

 あとは合戦だった。野生の蛇さながらの俊敏さで逃げ回るしっぽを、マタタビを追う猫の仕草で追いかけ回した。

 小一時間格闘し、観念しろっ、という念とともにむんず、と掴んだ。

「いてっ」

 握った途端に手の甲をしたたかにはたかれた。

 気付けばいつから見ていたのか、レイミアが底冷えする表情を向けていて、きっと瞑目していなければ半眼で睨みすえられていただろう。

「何をしているのです」

「いや……」

「いや、ではなく」

 手の中にあってもまだゆらゆら揺れている尻尾に合わせて彼の目線は揺れた。猫じゃらしを見つめる四足のけだものが手ぐすねを引いているようでもあった。

 レイミアは小さくため息をついて、諦めたように好きにさせた。足の布を代えてくれたらしい彼女は、ベッドにしずしずと腰掛けた。

「人とはみんなあなたのようなのですか?」

「……さあ。きっとぼくだけさ」

「ふふ。あまり人を知らないわたくしですが、やっぱりあなたは、()()()な人」

 不満は口には出さなかった。出せなかったといった方が正しいか。口を隠して笑みを隠す仕草は貴婦人のようで人より人らしい気品さを魅せて、少々魅入ってしまったのだ。

 彼女は笑みを収めるとベッドの下から何やら小箱を取り出した。中には縫い針が入っていて、何を思ったか空気を絡めとる仕草で縫い始めた。糸はどこにもないはずなのに。

 

わたしはあの野で往き合うた

うつくしいきわみの乙女。妖精の娘か。 

髪ふさふさと足かろく、 

眼こそ妖しく。 

 

花の冠を編んでやり 

腕輪も香ぐわしい帯もこさえた。 

乙女はわたしを恋うかに見つめ 

あえかに呻いた。 

 

 妖しき女は歌を唱しながら縫いものを編む仕草を続けた。糸もないのに何を? と眉をひそめた瞬間、驚愕に変わった。

 糸がどこからか現れ、彼女の縫い針が絡めとるとゆっくりと編まれはじめたのだから。これにはさすがの彼も瞠目を禁じ得なかった。

「どうかされましたか?」

「えっと、それは……?」

「ああ、申し訳ありません。拙い業をお見せしてしまいましたね」

 いつの間にか彼女の尻尾を離していた。血の通った温かみのある尾に冷たさを覚えた。彼女が妖術を手繰る埒外の存在にみえた。

「もしかすると、人のなかでは()()()()()者は珍しいのですか?」

「いや、誰もそんな芸当出来やしないな。それどころか言霊なんてもの、見えやしない」

「言霊が……見えない。なるほど。だから驚かれているのですね……あなたの心音が酷く乱れたので何事かと思いました」

「心音?」

 咄嗟に胸に手を当てた。触れた手はいつもより高なった振動を感じたが、耳には鼓動なんて聞こえやしなかった。

「どうやら私はあなた方より多くものが見えて、多くのものが聞こえるようです」

「みたいだな」

「ふふ。言霊を編むのです」

 言葉が織りなされるように。

 チクチクと留まることなく編まれていく様子に、いささか見入ってしまう。

「器用なもんだ。でも、言葉が見えるなんてな。目の見えるぼくやそこいらの人よりずっと物が見えていそうだ」

「ありがとうございます。そうですね、わたくしも生まれてこの方、あなたの目というものがなくて不自由したことはないですね」

 目を瞑ったまま小さく微笑んだ。

「へぇ……だけど君にはまぶたがあるじゃないか。まぶたは目をいれてる場所でね。君がまぶたを開いた所を見たことないけど、もし開いたなら、中にはよく見える目が入っていそうだ」

「ご期待に沿えず残念ですが、開かないのではなく、開けないのです。まぶたはぴったりとくっついていて、わたくしには瞳はないのでしょう」

 もしこじ開けたとしても空洞しかありませんよ、と睫毛と頬との間を指さしながら「きっとぽっかりと開いた」と稚気まじりに付け加えた。

 彼女の愛らしい仕草に笑みを浮かべられなかったのは、話しの内容もだが、頭に浮かんだ一つの逸話が理由だった。

 ギリシャ神話に語られる()()()と呼ばれる瞳を取り外せる女怪の話を思い出したのだ。

「取り外した、とかじゃなく?」

「まあ。……ふふ、わたくしが如何に人ではないとはいえ瞳の出し入れはできないですね。そこまで常理から離れたつもりはありませんから」

「でも君にはまぶたがある。それは目があったっていう証拠なんじゃないか」

「人がそうであるように、わたくしもまた完全な種ではないのです。ゆえに不必要な箇所もあるのでしょう」

 首を屈めるように自分の蛇の足と、彼の人の足を見つめた。レイミアが手を伸ばしてきたので避けるように足を引っ込めた。ふてくされたレイミアの機嫌をとっていたら一日が終わった。

 

 翌日になると料理を手伝いを提案した。

 もう立てるほどだったし動いていないと身体が鈍って仕方ないのだ。1度断られてしまったが根気強く頼むと「仕方ないですね」とおかしそうに了承した。

 釜戸にはおよそ料理に必要なものはすべて揃っているように見えた。小屋は外見のみすぼらしさに見合わず、中は豊かなものだ。

 台に置かれた卵を眺めてみる。

 大きさは手のひらより小さく特徴のない卵だ。ただ、小屋のまわりは何もない場所だ。窓から見える景色に人のいる気配なく、調理器具もそうだが卵やミルクもどこから調達したのだろうと疑問を覚えた。

「なあ、もしかしてこの卵って君が……っ痛ぇ!」

 セクハラまがいの言葉を吐き出すより前に尻尾で顔面をしたたかに叩かれた。鼻頭を抑えながらうずくまる。レイミアは人と変わらない"ちせい"と"しゅうち"をもっているらしい。

 怪我人だぞこっちは……と言葉に出さずうめきながら、今度はミルクが目に入った。同じ思考がよぎって、途端に背筋が冷えた。振り向くと、レイミアの冷厳な表情があって、冗談、冗談。と半笑いしながら後ずさるとため息が聞こえた。

「卵もミルクも山菜も大地とそこに住むものたちから分けて頂いたものですよ」

「分けてもらった?」

「はい。わたくし1人では食べ物ひとつ生み出せませんから」

 そうだろうか、三角巾をかぶって盲目とは思えないほど手際よく下拵えする彼女を見るにそうは思えなかった。時折、盲目なのを思い出したように手が迷うので彼はその手伝いをしていた。

「この小屋も元々わたくしのものではないのですよ。以前は誰かに使われていたのでしょう……ですがわたくしが流れ着いたときには空き家でした。わたくしはこれ幸いと手入れをして使わせて頂いてるだけなのです」

 彼は得心したように頷いた。調理器具をみても人が作ったとしか思えない馴染みあるものばかりで彼女が作ったとは到底考えられなかったから納得がいった。とはもうせ彼女には不思議な業があったから彼女が作ってもおかしくはないとも思っていたのだが。

 それにしても……流れ着いた、か。

 ひとつ、彼女の言葉が妙に気になった。

 

 もう一眠りすると足は完全に快復していた。ベッドから抜け出して屈伸をしても異常は見受けられなかったからドアを開けて陽を浴びた。太陽は中天の位置にあってだいぶ寝過ごしてしまったが、気分はよかった。

 たまらなくなって駆けだす。走るのも久しぶりだった。走ってみると心の膿が晴れていくようで速度が上がって仕方ない。レイミアの治療は効きすぎるほど効いているようだ。

 景色の端々に見慣れた草花があった。ナツメヤシだ。レイミアが毎日採って食卓にだしていて良く無くならないものだと思っていたが甘い匂いが漂うほど群生していて、なるほどこれなら心配はない。しかし、改めて日本とは欠片も馴染みのない風景でもあった。ナツメヤシもそうだが、周囲の雑草も見覚えはなくてどこかアフリカを思わせる景色だった。

 けれど森で迷っていた頃は違和感で恐怖したのに、今は受け入れる事ができた。

 足と風に向かう先を任せると、家からすこし下った湖に着いた。大きさは隣町にある宍道湖以上で、向こう岸すら見えなかった。

 細長い葉をもった背の高い草が湖を取り囲むように茂っていて草の絨毯を歩いた。栗に似た実をつけた草は靴下やズボンに執拗に引っ付いて、鱗をもっている彼女ならと苦笑した。途中、雑草を押し倒して作られた轍を見つけて。レイミアのものだろうとそれに沿って湖へ向かった。

 草の絨毯と帷帳をぬけると、あったのは青と朱が混じり合う水面だった。青は水面に映した空で、朱は水底に広がる珊瑚礁だった。南国の島国にしかないような海の宝物がそこかしこに華開いていた。

 波打ち際の水辺によって一滴なめてみると塩辛い。真水の湖だ、と信じ切っていた水面が真逆のもので驚きが隠せない。

 呆然としていると瀬音とは違う、大きな水音がしてそちらへ目を向けた。

 朱の水面に──紅の人魚が現れた。

 浅黒い肌に輝く赤い髪を張りつけて、飛沫さながらの燐光が彼女を追った。肩や頬から朱を宿した水滴が踊るように滴り落ちる。腰から足を螺鈿細工さながらの眩いきらめきが覆って、視線を外そうにも目が拒否した。

 

すすめる馬に 姫をのせ 

ひねもす み惚れぬ あですがた 

身を はすかいに姫はただ 

仙女の歌を うたいたり 

 

 澄んだ歌声が水と大地を満たしはじめた。美しさだけではなく物悲しさを共在させた旋律は万人を魅了するに違いない。事実、彼女の歌声を求め小鳥やヤギがあらわれ、憩いの場となっていた。驚異的な光景だった……けれど彼女の唄声を聞けば当然かとも思った。

 水面にたゆたう彼女は人魚さながらだが、全く別の存在だった。人魚やニュンペといった妖精の類ではなく智慧と毒を孕んだ蛇を宿す妖魔で、彼はレイミアにセイレーンを幻視した。

 けれど妖精も妖魔も人を惑わす。すべて捉え方ひとつ、すべて心一つですり替わる存在。彼は紅の乙女に吞まれた。

 もっと近くで彼女を見たい。喉の渇きと胸をじりじりや焼き焦がすような痛みを自覚しながら足を踏み出し──パキッ。足元から妙に大きな音が響いた。正気に戻って、足元を見ればどうも枯枝を踏んづけてしまったらしい。

 不思議な魔力が虚空にとけていく気がして、動物たちも足早に去っていった。

 はっとした現実に引き戻されたのは彼のみならず紅の乙女、もといレイミアもだ。俯くようにふり返って、彼を察すると片方の手で胸元を隠して、もう片方の手で口元をおおった。そしてへなへなと頽れるように水に浸かった。

 彼はその様子を最後まで見届けることなく踵を返して、猛然と草の絨毯に頭から突っ込むと、栗に似た実が髪に絡みつくのもかまわず顔に手を当てて天を仰いだ。

 終わった、気分は裁判所で判決を待つ覗き魔だった。

 

「ごめん。きみの素肌をみるつもりはなかったんだ」

 小一時間そうしているとレイミアは素知らぬ顔で帰ってきた。ただ鼻先と上頬あたりがほんのり赤みが残っていた。男女の機微がわからないなどと、宣っていたのは誰だったか。

「いえ、気にしていません。わたくしもいささか不注意でしたから」

「本当にごめん」

 謝りたおして、いえいえと返されその動作を繰り返し、気まずい空気が流れはじめた。落ち着かなくて辺りを見渡していると、なにやら気になるものがあった。レイミアが小屋から持参したらしき布や籠と一緒に細長い棒があったのだ。

「それは?」

「小屋にあったのですが……。なにやら水辺で使うもののような気がして度々ここまでもってくるんです。でも結局……」

「わからないんだな」

「はい。あなたがた人より多く感じれど、目が見える訳ではありませんから。時折、天啓のように知識が下りてきて、なんとか生きながらえるている有様なんですよ」

「じゃあやってみるか」

「え?」

 ぽかんと小さく呆けたレイミアをバッチリ記憶に収めつつ、棒に備え付けられた糸を弛めて、糸の先に括り付けられた弧を描く針をつまんだ。棒の正体は釣竿だった。

 草を払って土を掘れば生餌はどこにでもいた。糸を垂らせばあとは簡単だった。豊かな海なのもあってか入れ食い状態で、一時間もせず二人分の腹を満たせる魚を釣り上げた。

「まあ。これほど」

 魚を入れた甕に指を指して「火を熾して焼き魚にしよう」と笑った。石を円形に並べ、枯れ枝を敷き詰めた。

 隣でその様子を眺めていたレイミアが少しさびしそうな顔で頬に手を当てていた。

「お昼を作っていたので、後から持って来て一緒にいただこうと思っていたのですが……いらなかったかもしれませんね」

「──いいえ。いります」

 女性の作った手料理は常に求められるのだ。全肯定ペンギンとなった彼は、作業していた手を止め怪我が治ったばかりだったのも忘れて小屋へ駆け出した。カンカンになったレイミアにしこたま怒られたのはお弁当の入った籠を持ってきた直後だった。

 なんとか宥めすかしてお昼の時間と相成り、といってもパンが数切れの簡単なものだ。味付けも何もあったものではない。それでも彼はさも美味しそうに頬張っていた。

「……味気ないのではありませんか? あなた方、人の食事は多彩で趣向を凝らしたものばかりのようですから」

「君が作ったパンだって旨いよ。……でも味気ないなんてどうして思ったんだ? 人の食事を食べた事があるのかい?」

「言葉から少しだけ読み取れるのです。あなたの言葉から水滴が滲むように零れた記憶や思い描いたものを追体感できるのです」

 彼女の言葉は妖怪の覚を想起させるものだった。不快感を覚えはしたもののすぐに消え去った。

「でも……そうだな。たしかに味気無さはあるしジャムくらいあってもいいかもな。棗椰子っていうと砂糖がなくてもジャムを作れたはずだし。あとはなにか果物があるのかな……」

「果物ですか? それなら少し山に入らないと行けませんが、無花果(いちじく)が実っていたはずです」

「へぇ、リハビリがてら探しに行ってみるか」

「ふふ。そんなに元気ならもうこれはいりませんね」

 レイミアは傍によって布の巻かれた箇所に手を当てた。慣れた手際でいつものように布をゆるめはじめた。

「そうか。たしかにもう要らないな」

 きっとこれが最後だろう。傷はもう完治して、さっきも走り回ったが違和感はなかった。

 最後と思うと落胆が浮かぶこころに彼は少しだけ戸惑った。落胆はきっとレイミアと1番近づける時間だったからに違いない。この時間を惜しむ気持ちが、ひとつの頼みを口にしていた。

「この巾貰えないか?」

 汚れていたけれど構わない。それに傷も癒えたならもう彼女のもとを離れなければならない。レイミアと過ごす夢幻さながらの日常が、本当に虚構なんじゃないかという不安があって共に過ごした時間が確かにあったのだという証拠が欲しかった。

 けれどレイミアは頷かなかった。

「お渡しはできません。もう血を吸って、色も褪せてしまっておりますから」

「そうか……」

 隠しきれない落胆が心に満ちた。普段なら隠し通せるはずの感情すら誤魔化せない、いつのまにか弱くなってしまった自分にさらに落胆した。

「ですから新しいものを贈らせてください」

 目を瞬かせて、一も二もなく頷きそうになった。願ってもない話だったから。

 けれど少しだけ考えて「悪いよ、ぼくは君にもらってばかりだ。これ以上は……」と尻すぼみになりながら遠慮した。ケガの手当に毎日の面倒から、そこまで世話になってしまうのは悪い気がしたのだ。

「では少し早いですが快復祝いということに。それにあなたはもらってばかりと言いますが、わたくしも多くの初めてを戴いているのですよ?」

「ぼくが君に?」

「はい。あなたははじめて出会った人です。はじめてお話をしてくださった人です。あなたはあなたが思うよりも、多くの宝をくださっているのです」

 

 

 

 

 草木を分け行って山に入った。山に近づくと景観は見覚えのある植生に変わっていった。棗椰子は姿を消し、松やブナが散見できるようになった。

 お目当ての無花果はそれほど時間をかけずに見つかった。もともと特徴的な葉っぱを持っていて、知恵を得たアダムやイヴが身体を隠すために巻いたなどという逸話さえあるのだ。見つけるのは簡単だった。

 彼女の暮らすこの土地は大人2人くらいなら食べきれないほど実り豊かで、飢え死になんて縁遠い。ちぎった無花果を小屋から引っ張りだした笊に載せ、休憩がてら小岩に腰掛けた。

 実り豊かなのは喜ばしいことだが日本とは気候がまるで違う。気を抜けば熱射病に倒れそうなほど熱波に襲われた。

「髪切っとけばよかったな……」

 散髪を嫌がって伸びるままにしておいたが髪に熱が篭って仕方ない。手櫛をしながら熱を逃がすと毛先から汗が滴り落ちるのを止められない。

「あなたは髪を編んでいるのですね」

「うん? よく分かったな」

「髪について話されたので」

「ああ、それで」

 言葉から読み取ったのかと得心した。便利だな、という気持ちと警戒を強める気持ちを禁じえなかった。

「髪切るのが面倒なんだよね。見ず知らずの誰かにお願いして、髪型決めるのも雑談するのも右往左往しなくちゃいけないし」

「はぁ、そういうものですか。分かりかねますが」

「あとは……事故したあとは手の感覚が曖昧で、指先を動かすリハビリで髪を編んでたんだ。入院してたってのもあるけど。それで髪もそんなに邪魔にならなかったし美容院からは遠ざかってな」

「事故?」

「あ、いやなんでもない」

 話題を変えようとレイミアを流し見た。年頃の少女のようだが服装は浅葱色の貫頭衣を身につけているだけで言い方は悪いが世捨て人じみていた。

「君はお洒落とは縁遠そうだな。まぁぼくも人のことは言えないけど」

「わたくしはあなた方のような視界を有していませんから、それほど外見にこだわりは……。そうですね……声を磨くくらいでしょうか?」

 彼女の声は天性のものだとばかり考えていたが、なるほど外面に目がいかないなら言葉に比重が大きいそうなるのかと目から鱗だった。

「でも君が人里に下りたら、そうも言ってられないんじゃないか?」

「人里に?」

「ああ。人ってやっぱり綺麗なものに好感を抱くんだよ、だったらちょっとはおしゃれしておいた方がいいんじゃないかって。ずっとここに居続けるつもりならそれでいいけどさ、そうじゃないなら編んでみようか……ぼくでよければだけど」

「ふふ、髪を編んでいただいてもわたくしは見ることができませんよ」

「ならぼくが見てみたいから、どうだろう?」

 声は上擦っていなかったように思う。早口にはなっていたかもしれない。

 返答はなかったが、彼女はしずかに頭を傾けてきた。手を伸ばして、髪に、触れた。避けられなかったことに少しだけ安堵しながら、掬った髪を絡めた。紗々とした髪は赤いシルクのサテンさながらで、揺らめく炎のように捉えどこがなかった。

 どうにか筋繊維に神経を張り巡らせて指が震えないよう努めた。彼女の髪が風に触れるたび馥郁たる芳香が伝わって心臓に障った。

 終わった頃には疲労困憊の体だったが満足のいく出来だった。三つ編みを片方の肩から下げた彼女は、普段の婀娜っぽさがなりを潜めていて、例えるなら本を好む女学生さながらだった。

「いいと思う」

 頷きならが、彼女に言葉をかける。努めて平静に、だ。

 するとレイミアは小さく微笑んで。

「そういうことにしておきます」

 そういうことにしておきます、だ。

 仏頂面をつくりながら言霊というのは厄介だ。と彼は思った。こちらからは見えないものがレイミアには見えて、それでいて秘めていたい心情すら見透かされてしまう。

 どこまで伝わっているかわ分からないが上機嫌そうに揺れている尻尾見れば察せられるだろう。……納得がいかず、なんとなく前回の要領でしっぽを掴んだ。

「ひゃ!」

 可愛らしい短い声と、お下げがぴょんと跳ねた。

 意趣返しに成功したぞ! と密か満足感に浸れていたのはほんのつかの間だった。

 ニヤついて完全に油断した彼の腰にレイミアの尾がまたたく間に絡みつくと、一息に持ち上げたのだ

「──ッ!」

「うわっ! すごい! すごいけどごめん! 降ろして! ねぇちょっと!」

 これは女の子に抱き着かれてるも同然なのでは! と愉快な思考をできるわけもなく許しを乞うしか出来なかった。そのままヒューンと放り投げられて、はるか先にあった小池に投げ込まれた。割とパワフルである。

「あががが! おぼっ溺っ、ってか熱っ! この池クソ熱いぞ!?」

 這う這うの体で岸に上がり、怪我人だったんですが……と愚痴った。十割が十割、自業自得である。釣り上げられた魚さながらにパクパクしていた彼だったが、冷静さを取り戻すとふたたび小池に近づいた。

「っお、ここ温泉かぁ……?」

 小指をつけてみると入浴しても問題なさそうな温度が伝わってきた。気づかなかったが少しだけ硫黄臭くて、天然の温泉なのは間違いなさそうだ。

「さ、先程は申し訳ありません。恥ずかしながら短慮な振る舞いをして……。で、ですがっあなたも婦女子に対する行動としてはいささか軽率では……どうかなさいましたか?」

「え、あ。温泉があるなって」

「温泉……熱い水の湧き出る泉のことですね。それならいくつかありますし、わたくしも使っていますよ」

 どうやらレイミアはこの場所を知っていたらしい。よく見れば人の手が加わった形跡がある。周囲に雑草は生えていないし、岩肌も通りやすいよう手が加えてあった。

「わたくしは過度な暑さと寒さに弱いのです」

 レイミアによれば、人と蛇の合い子らしい彼女は体温管理が難しいらしく、暑すぎると体を冷やすために海に入り、寒すぎるとここを訪れて体温を高めるのだという。ここは気温の寒暖差が激しい。毎日昼には水浴びをし、夜には湯で身を温めるのだという。

「なあ。ここ、ぼくが使ってもいいかな」

 温泉に指をつけながらそんな提案をした。彼も現代人で、1週間近く風呂なしは大雑把なところがあるとはいえ堪えていた。

「でしたら丁度よかった。わたくしもご一緒してもよろしいでしょうか? 少し肌寒くなってきてしまいましたし」

「……………………………………えっ」

 男女の機微とは。

 

 まずい。

 この状況はまずい。焦燥や疑問より先に臨界点に至ったのは危機感だった。

 なにせ女性経験どころか対人経験すら希薄な男が、人ではないとはいえ年頃の少女が混浴しようと現れたのだから──! 

 いや普通の女の子より状況が悪いだろ!? とひとりでツッコんでいたが気にする余裕はなかった。これまでの人生のなかで修羅場は何度かあったが。それらとは別種の緊張感に押しつぶされそうだった。重力をともなったプレッシャーが彼を押し潰して、現にいまも脂汗が止まらず胃に痛みがはしっていた。

 それでも彼は湯船に沈んでいた。

 逃げなかったのではない。

 逃げられなかったのだ。

 有無を言わさず慣れた手つきで服を剥ぎ取られた彼は、気づけば湯船に沈められていた。逃げようとすれば足を絡めとられ、そのまま湯船に放り投げられた。

 そんな訳でおとなしく湯船に浸かっているわけだが、彼女の立てる音が、服の擦れる音が、いやに耳に届いて仕方ない。一瞬、邪な情が過ぎ去って、したたかに切り捨てた。だが興奮はそうそう収まるものでもない。

 息遣いが荒くなる。水面に映る顔は上気して赤くなり、目は血走っていた。控えめに言って変態だった。

 ちゃぷんと水音がして、小さな波紋が彼の背を叩いた。姿勢を正しながら蛇の足でどうやって水に入るのだろう、と至極学術的な疑問と興味を全面に押し出しながら邪念を遮った。

「こちらを見ても構いませんが……。あまり見ないことをおすすめします」

「お、おう」

 学術的思考は吹っ飛んだ。次いで、鋼の意思で振り向くのを阻んだ。

「……………………」

「な、なんだよ。黙り込んで」

「いえ……あなたの言葉から、その、伝わってきたので……」

 いっそ殺せ。

 レイミアは嫌がるでも忌避感を覚えるでもなく、少しだけ笑んだ気配をのぞかせると彼の背後に回った。後ろは見えないがきっと背中合わせになっているはずだ。

 手を伸ばせば触れ合える距離。身じろぎ一つでもすぐ判る距離。

 気不味くて空を見上げると月が出ていた。静かな夜だった。気づけば二人は言葉もなく、空を見上げていた。響くのはさらさらとした水の音だけだ。

「ちょっと聞いていいか」

「……なんでしょう」

「この近くに建物がなかったか?」

 口から出たのは聞きたい事ではあったが、話したい事ではなかった。

「石の階段があって、その先にふたつの柱が構えてるんだ。そこをくぐると石畳の敷地と君の住んでる小屋くらいの建物が。ぼくたちは神社とかお社とか呼んでるんだけど」

 たしかにレイミアと会う以前、お社があって気になってはいた。けれどいまはどうでもいい質問だった。本当に聞きたかった言葉は、なんだか口にするのが憚られて、言葉にならなかったのだ。

「申し訳ございませんが記憶にありません。わたくしの行動範囲もそれほど広いものではないですが、建物といえばわたくしの暮らす小屋くらいでしょう」

「そっか」

 二人の間に沈黙が下りた。レイミアは彼の胸の裡にある言葉を知っていて、それでも彼の口から出るのを待っているようであった。

 言わなきゃいけないよな。観念したように口火を切った。

「ぼくの怪我は治った。だからもう、山を下りなくちゃいけない」

 水の音が聞こえた。どちらともなく。

「君は、どうするんだ。ぼくが山を降りたあともここにいるのか」

「わたくしには使命がありますから。何百、何千、何万、幾星霜の刻をかけようとも果たさなければならない使命が……」

 そうか、と流すべきだった。深入りはしない、関わらない。それが彼の生きていく上での処世術だったから。

「使命。君は度々言っていたな。その使命って一体なんなんだ……やっぱり教えてはくれないか?」

 けれどそれを翻して彼は踏み込んだ。

 踏み込んで、はじめて自覚した。レイミアは気づかない内に心の中で、もっとも高い場所に腰を下ろしていたのだ。いままで気づかない振りをしていたのに、彼女と離れると言葉にした途端、心の中の彼女は空洞になって存在を示した。

 レイミアの迷いが水に溶けて伝わってくる。迷いが小波となり背に受けて、後悔が生まれた。でも取り消すことはしなかった。

「あなたがた人にとって……わたくしの使命は荒唐無稽に映るでしょう」

「それでも知りたいんだ。君が、人との繋がりを追い求めている君が、そうまでして遠ざける理由を」

 レイミアは人恋しさを感じている。一週間未満の時しか共にすごしていない彼らだったが彼女が寂しがっていることを見抜くくらい、彼は訳なかった。なにせ彼もまた、そうなのだから。

「気づいていたのですね。あなたは言葉を読み取れもしないのに」

「うん。だってそうじゃなかったら、ぼくが君を拒んでいたはずだ」

 どこか視線をうつろなものへ変えた。

「ぼく自身、人が好きじゃないから、同じ距離の拒否と、同じ深さの寂しさと、同じ人恋しさを持ってなかったら心を見せようなんて思わなかったはずだよ。……君といると楽なんだ、それが得難い。君をもっと知りたい、君のそばにいたい……だから君の使命がなんなのか知りたいんだ」

 彼女は少しの沈黙のあと、使命を言葉にした。

 

「わたくしの使命は──()()()()()()こと」

 

 レイミアの使命は本当に荒唐無稽だった。

 神。神とはなにを指すのか今の彼には皆目見当もつかず、無知な自分がひどく恨めしかった。

「ですからわたくしはここに残ります。あなたの言う通り、わたくしは人恋しい。でも、だからこそ人里に下りてはなりません。人の世に下りれば必ず混乱が起こるでしょう……わたくしはそのように誂えられ、そのために生まれたのですから」

 いまの無知な彼にはレイミアの言葉が寸毫も理解できなくて、黙り込む以外の選択を選べなかった。

「そしてお願いがあります。人里に戻ったら、あなたももうここには来ないでください。わたくしの存在を忘却してください……使命を阻むためにはわたくしは魔性に傾かず、人であり続けなければなりません。ですが人とともにいれば血を求めずにはいられなくなるでしょうから」

 なんだそれは。燻ぶったのは、怒りだった。

 つまり人で在りたいと願う彼女は、人のためを思うからこそ人との繋がりを否定しなければならず。

 人恋しくても、人を遠ざけ、人から遠ざかるのだといっていた。彼女をとりまく不条理に怒りが沸いた。

 

 決意とともに彼の腹は決まった。

 

 波紋が広がって……どちらともなく背中に感じた暖かい人肌のぬくもり。そして掴んだ彼女の細い指。レイミアはここにいる。彼もまだここにいた。ぬくもりが火と化したように熱かった。

 

「……。離してください」

 

「離さない。君が人恋しくなくなるまでずっと握り続けるよ」

 

 言霊というのはあるのだろう。

 言葉にすることで更なる決意と活力が、心にやどった。

 内なる声が、臍下丹田から轟く声が離しては行けないと叫んでいた。彼女の手を、()()()()()

 

 人は怖い。

 他人は嫌いだった。

 でもレイミアとなら、嫌ではなかった。どこへだって歩いていきたいと思えた。

「君がどんなに拒んでも、ぼくは必ずここに戻ってくる」

「……」

「必ず、何度だって、何万回だって君に逢いに行く。君と出会いつづける」

「どうして、そこまで……」

 すぐには応えなかった。目を瞑った。夜の暗闇ではない無明の視界で、ぼくとレイミアは向かい合わせに見つめ合っていた。奇妙な感覚だった。まるで目が背中にでもついたように死角がなく、自分と彼女を俯瞰できた。

 

「はじめてだったんだ。誰かに心を許したのは、だれかを大切だと思えたのは」

 

 右肩に触れる彼女の髪がくすぐったい。異性との間に感じる照れでも、小っ恥ずかしいことを並べている羞恥でも、湯水から伝わる熱でもなく、彼の顔は赤かった。目を瞑って見つめた、レイミアとそして彼は一糸も纏っておらず、赤裸々な心と心をさらけ出し、交感している気分だった。

 

「だから、"人"だから君のそばにいられないなら……ぼくは辞めてやる。人を辞めてやる。君に眼が欠けているなら──ぼくは君の眼になる」

 水面に映る彼は波打っていて、口元が少しだけ歪んでみえた。

「ぼくは君の眼になって、君のそばにいる。居続ける。だから君は……そうだな……ぼくの話し相手になってくれ。ぼくの言葉をきいて、君の言葉を聞かせてほしい」

 それは契約であり、ぶっ格好な宣誓だった。

 レイミアが大切だった。大切な人になった。

 これほど誰かを近くに感じた事はなくて、何があっても手放したくない……そんな存在が自分のなかで生まれるなんて思ってもみなかったから。だから彼は全力で求めた。

「ぼくは君と生きたいんだ。だから、逃げないでくれ」

「ああ、やっと…………」

 レイミアから漏れた声はどこか諦観と欣喜の入り混じったものだった。

「独りは……飽きました。独りは、もう……嫌です。あなたが望むのなら、望んでくれるのなら、わたくしはあなたの願いに応えましょう……わたくしは眼がありません。

 でも今は見えるのです。あなたの言霊から、記憶として、景色として。

 無明の世界に独りいたわたくしを見つけ、語り掛け、求めてくださったのはあなただけ。鮮やかな景色と彩をくださったのはあなただけ……──だからわたくしはあなたを受け入れます。あなただけのレイミアになりましょう」

「ありがとう」

 

 流れるこの時間が愛おしい。ずっと続けばいい。

 小さく願ったのだ。

 

 次の日はひどく穏やかだった。ジャムを作って、食卓を囲んだ。縫いものをする彼女を眺めながら、潮風を頬に受けた。言葉は少なかったが語りかければ返ってくる、そんな当たり前に彼は戸惑いながら幸福をおぼえた。

 別れは七日目の朝だった。腕時計には7月1日の数字が刻まれ、確かこの森に入った日時は6月24日だったから丁度1週間ほどレイミアと過ごしていた計算になる。

「君がいてくれてよかった。おかげで僕は野垂れ死なずに済んだんだ」

「わたくしも、あなたが傷を負っていなければ関わろうとしなかったはずです。──蛇の情は自分でも気づかず、相手を絞め殺すほど深いのですよ」

「はは。君がか」

「はい。わたくしが」

 笑い合って空を見た。雲ひとつない快晴だった。

「そう言われると怪我をしたのも悪くないって思えるから不思議だな」

「もう。また怪我をなさっていたならわたくしは放っておきますからね?」

 そうか、と笑んで問いかけた。

「なら……ぼくが怪我もせずに訪ねてきたなら、また会ってくれるか?」

「おかしな人」

 彼の問いかけにくすくすと微笑んで眦を下げた。答えは決まっていますと言うように。

 惜しいな、そう思う。 彼女の笑みは蕾だった。花開くことを楽しみにしながら、満開の咲き誇る姿を楽しむそんな笑み。もし彼女に瞳があったのなら、彼女の笑みはなんど転生をしようが魂に刻まれたはずだ。そんなifに心が踊るほど、彼はレイミアに夢中だった。

 はやく彼女のもとに舞い戻らねば。強く心に決めた。

 

「また、必ず戻ってきてください。いつでも、あなたの再訪を心待ちしています。あなたはわたくしに返しきれないほど多くのものをくださいましたから」

 

 胸元に押しいだいたスカーフを彼へ手渡した。身体の場所より少しだけ右に差し出されたスカーフを手に取ると、彼女の馥郁たる芳香が鼻先とほほとを撫ぜていった。

 

「ぼくもさ……。必ず帰ってくるよ()()()()

 

 スカーフをもらいレイミアに別れを告げて山を下りた。

 十二時の鐘がった頃、角から突進してきた車に轢かれて死んだ。

 

 

 

 

 黒南風が髪をさらった。

 皮を突き破ってくる冷たい金属の感触。意識と肉体が分かたれ、ほどけていく浮遊感。強烈な快楽と光に包まれ自我が消え去って。

 あれは死の感覚だった。

 腕を摩った。寒い。初夏の暑さも感じ取れない寒々しい荒野の残り香に奥歯が噛み合わない。口を真一文字に引き結んで、膝から愕然と地面に倒れこんだ。汚れるのがなんだ。情けないのがなんだ。生きている、それだけで十分だった。浮遊した意識が地についてる喜びは無上そのものだった。

 地面に転がり頭がイカれて狂ったように泣きわめいた。地面を引っ搔いて爪先から血が滲んで、舌を嚙み千切って口のなかが血に染まるのを楽しんだ。皮肉にも痛みこそが彼に生を実感させた。

 まともな思考なんぞ望むべくもないが、ただ、己は死んだのだと思った。死の感覚は暴れまわろうと狂声をあげようと遠ざかることなく、彼の肩越しで息を吐いた。

 死とは人の形をしていると思っていた。その認識は打ち砕かれ、肩と喉の筋繊維が仰け反るように強ばった。

「…………レイミア」

 いまなら言霊という眉唾も信じられそうだった。彼女の名を呟いただけで死の恐怖は煙を巻いて消えてしまったのだから。

 彼は走った。杉がまばらになって景色が変わろうと、草花が消えて岩肌を踏みしめようと、森を抜けて崖を転がり落ちようと、決して止まることはしなかった。道をさえぎる草すら妨げにすらならない。肺が破けて足が断裂しようと彼は決して足を止めなかっただろう。それほど鬼気迫っていた。

 果たして、レイミアの住まう小屋は変わらずそこにあった。ドアを蹴飛ばすように開け放つ。中にいたレイミアを視界に入れて、やっと安堵の息を吐いた。

「ごめんレイミア。すぐに戻ってきたりしてしまって……」

「信じられないことが起きてさ。言っても信じてくれるかはわからないけど……何というか、ぼくは死んだみたいなんだ。おかしいだろ?」

「はは。声が震えてる、少し動転しているらしい、指だって膝だって見てよ、こんなに震えてる。情けないなぁ」

「君にもらったスカーフもこんなに汚してしまったな、洗わなくちゃ。なあ、そうだろレイミア……──」

 

「あなたは誰です?」

 

「────」

 

 絶句とは、この事だった。

 

「わたくしに人の知人はおりません」

「な、何を言ってるんだレイミア……? ば、馬鹿なこと言うなよ! きみがしらないはずがないだろ!」

 言うなり彼は腕に巻かれたスカーフをレイミアに突き出した。

「……このスカーフだって君がくれたんだ! ぼくと君はあの七日間を一緒に過ごしたじゃないか!」

「あなたがなぜわたくしの名と、わたくしがわたくしにしか編んだことのない霊布を所持しているのか知りません。

 ですが、疾く去りなさい。

 ここは人の踏み入れる場所ではない。さもなくば我が牙があなたに流れる血脈を抉り、我が魔性があなたの命を飲み干すでしょう」

 それでも梃子でも動こうとしない彼に痺れを切らしたのかレイミアは尾を彼の胴体に巻き付け持ち上げた。長い尾に足を絡め、抵抗の間もなく外へ放り投げられた。

 地面にしたたかに打ち付けられ、顔を上げればレイミアに見下ろされていた。血の通わぬ表情だった。柳眉ををひそめた彼女はひとつの質問を投げかけた。

「人とは、皆あなたのような者ばかりなのですか?」

「ち、ちがう! ぼくだけさ!」

 前回の問いとは打って変わって冷え切った声音で。けれど彼は一切頓着しなかった。違うと膝立ちになっておなじ答えを言い放った。もう一度彼女におかしな人と微笑んでほしい。彼の胸裡にはその一念しかなかった。

 彼女の返答は冷血なまでの無で、踵を返すと扉を強かに閉めた。

 あたたかな絆など、どこにもなかった。

 無念さを隠しきれず両手を地につけ項垂れた。

 その時だった。腕に嵌められたものが視界を掠めたのは。

「ぐ、ぅうぁぁあああああああ!」

 野獣じみた咆哮が喉を裂かんばかりに轟いた。腕に嵌められた時計を握り潰す。認められなかった。

 打ちひしがれた。きっとこの時、彼の精神の箍は外れたのだ。

 こんなことはあってはならない。地獄じゃないか。僕たちが紡いだはずのものは、奇跡の時間は。

 慟哭は喉が枯れるまで止むことはなかった。

 時は無情にも流れるもの。そして不可逆であるというのに、腕に嵌められた時計には酷薄にも6月24日の文字が刻まれていた。

 

 日が落ちても月が登っても彼は一歩も動かなかった。土下座の姿勢で蹲りつづけて必死にレイミアへ許しを乞た。照り付ける陽射しに身体から瞬く間に水分は消し飛んで、一日も経つと意識がかすみはじめた。いつの間にか夜になっていて、彼は気絶するように眠りについた。

 その夜、夢を見た。

 見知らぬ場所で、ただひとり蠢いている、そんな夢。彼に自由意志はなくて既視感のある映像を再生しているように一方的だった。

 彼は穴を掘っていた。あらん限りの力を込めながら全くの素手で、である。

 穴を掘るのは生き残るための手段だった。

 ここは只人が居座れる場所ではない。死と生の狭間からなるとささやかれる場所だから、少しでも長く生を繋ぐのであれば人から外れるか、命以外を捨て去らねばならなかった。

 だから穴を掘った。生への渇望と取り戻すという衝動が赴くままに地面へ指を突き立てて、荒々しく握りこんだ土を空に放った。とうの昔に爪は割れ、指の肉は削げ落ちている。指先のみが中途半端なミイラのようで裂けた皮から、命の輝きが抜け落ちていった。けれどそれでいい。

 活力が喪われ、痛みが鈍感になり、思考が消え、無へと近づいていくほど死は遠ざるのだから。生と死を等しく遠ざける行為は、陽気と陰気を和合し調和させる不老長寿たる仙人じみて。命にこびりついた穢れを払い躊躇なく自傷を繰り返す姿は殉教者に似ていた。で、あればこそ"幽世(かくりよ)"と呼ばれる異界は初めて人の存在を許容するのだ。

 掘削した穴はもう自力では抜け出せないほど深い。時が刻むほど穴は小さくなりそこから覗く空は、玄妙であった。そして灰色だった。幽世とはすべてが灰色で彩られた世界。現実と大きく乖離した色のない空間はそれだけで不快で、影ばかりの穴だけは彼が培った巌じみた真理を思い出させるよすがだった。

 穴を掘るのは生への渇望ではない、そんなもの二の次だ。

 誰かが地面の奥底で助けを待っている。

 どこから湧いてくるのかも不鮮明な確信が、頭部から足先を貫いてより深い()()へ彼をいざなった。

 

『根の国まで掘っちまうつもりか?』

 

 疲労と衝動に突き動かされていた彼も限界が訪れた、その時だった。くずおれる昏睡と覚醒のはざまで誰かの言葉が耳に届いた気がした。

 結果、彼は救われた。

 

 おかしな夢を見た。目覚めた彼は寝ぼけ眼を擦って、体を起こした。目の下にはひどい隈ができていて、夢の内容は忘れてしまった。

 目の前にはレイミアが立っていた。いつからそうしていたのか、彼女のおとがいには一雫の汗が滴っていた。

「やあ」

 にっこり笑う。正直言って、どうすればいいのか分からなかった。彼は誰かと交流した経験が少なかった。だから見知らぬ誰かへ向けるような薄っぺらいアルカイックスマイルを浮かべるしかなかった。

「ぼくの話を聞いてくれる気になったかい?」

 胸中の不安を押し殺して、どこか軽薄さを滲ませた。きっと彼女にはそんな心情など易々と見抜かれているに違いない。

 けれどレイミアも不安は同じだった。当然だ、人の知り合いなどいないというのに眼前の男は己の多くを知っているようで、言霊を読み取るとそれが嘘のようにもおもえなくて、どうするのが最良か決めあぐねていた。だからひとつの試金石を投じることにした。

「血を」

「血?」

「ええ。…………わたくしがあなたの血を吸っても良いというのなら、考えてみてもいいでしょう」

 

 口へ手首をやって躊躇いもせず嚙み千切った。

 

「これで、いいのか」

 彼が顔をあげるとレイミアは首を振って、傍に寄った。手首をとって少しだけ悲しげな表情をのぞかせた。錆びつき始めていた心が軋んだ。

 彼女は手首に長い舌を這わすとざらざらとした感触が皮膚を撫ぜ、瞬く間に傷は癒えた。怪訝そうに彼女を見遣ると、彼女もこちらを見ていた。

「血はこちらからいただきます」

 唇音は耳元まで一息に、首元から届いた。二人は抱擁する恰好となった。今までとは違う意味で心臓が止まる思いだったが鋭い痛みに思考を引き戻された。

 レイミアは首筋を食んで歯を立てていた。

 呻いた。痛みからではない。

 死の快楽と同等かそれ以上の快感がなだれ込んで自我が消えかかったのだ。暴力的な快楽に神経がちぎれそうになる。死の快楽を体験していなければ危うかったかも知れない。

 白んだ視界のなかでレイミアの横顔が見えた。口元を赤く染めて、眦から頬を伝って落ちる涙が見えた。血は命の通り道。彼女は血に繋がった先の命を飲むのだ。

 命とは精気であり、人を形造る意志そのもの。だから血を吸う彼女は彼の一生をわずかなりとも感じ取った。だから、でも、何故だろう。涙が零れて仕方なかった。

「なんで泣くんだ。泣かないでくれ」

 彼が弱々しく指を彼女の目元へもっていき、ゆっくりと拭った。ふたたび涙の雨が降った。レイミアにとって血が命の通り道ならば、言霊は意思の玉手箱。

 彼女にとって言語とはひとつしかない。何せたとえ見聞きした事のない言語であっても言葉に秘めた意味も、その裏側も、彼女にとっては詳らかに知り尽くすことが出来るのだから。だからこそ、彼女は惑った。

 なぜ。

 なぜ。

 なぜ。

 彼はなぜわたくしを慮るのか。己を知る彼は何者なのか。この心筋をちぎるような痛みは。彼の言葉は眦に触れると雫に変わるのか。

 疑問が湯水のように湧いてでて、けれどひとつとして答えは出なかった。血を吸い尽くしてでも彼を知りたい欲求と、彼を苦しめたくない悲しみは、重しを載せた天秤さながらに揺らいで傾いで。

 口元にべったりと血化粧を塗って、足は蛇の尾をもつ妖しき女。

 女怪であった。

 彼女は問うた。

「あなたは、誰ですか」

「ぼくは、ぼくだよ」

 

 レイミアと彼は小屋のなかへ入って、ふたたび向かい合った。彼女は寝台に腰かけ、彼は椅子に座った。衣擦れの音と気配が近づくのを察するのと、腹部に締め付けられる感触が生まれたのは同時だった。みれば尾が巻き付いていて、容易に身動きできないよう縛していた。尾の先にあった()()()()は見受けられず、刺突を役割とする細剣さながらの鋭さがあった。

「わたくしは人と関わるつもりは毛頭ありません」

「使命があるから、か?」

 締め付けが強さを増した。柳眉を寄せて、厳の色を濃くしてこちらを吟味していた。

 レイミアは、なぜ、とは聞かなかった。言葉ひとつで多くの事を悟るのだから必要はない。

 それでも己の胸の裡にしかない秘密を目の前の男が本当に自分を懐柔して知り得たのか、詰問したい気持ちは山々だった。

「あなたは、どうやら多くの事を知っている様子。それもわたくしの口から、わたくしには全くの覚えがないというのに」

「そうだね。君から教えてもらったことさ……否定はしないよ」

 今度は深く顎を引いて、口元に繊手をあてて思案の格好をとった。

 正念場なのだとは理解していたが考える仕草が以前の彼女を思い出させて心が詰まった。でも光明だった。自分が時間を遡った理由は知らない。けれど間違えさえしなければ彼女は取り戻せるのだという何よりの証拠だった。

 レイミアは疑いようもなくレイミアだった。

 それに彼女の思考は自分が独占しているという現実が気持ちよくもあった。

「良いでしょう……。あなたが何者かは知りませんがこれから知っていけばよいこと。それにあなたが人里に下りてわたくしの所在や使命をひけらかさないとも限りません。あなたには信を置くに値すると確信できるまで一時、この場に留まっていただきます」

「望むところだ」

 彼らの関係はまた始まった。

 

 

 

 

 夜になると彼女は決まって血を求めた。秋波を送る女人さながらに彼の袖をひいて妖しく八重歯をのぞかせるのだ。以前には見せなかった魔性の美々しさに息が詰まったが彼女の傍にいるのだと肚を固めていたから拒否することはなかった。

 痛みは最初だけであとは取って代わるように暴力的な快楽が彼を襲った。快楽の前には指先ひとつ動かせず、一度快楽の虜となれば生殺与奪権を奪われるに等しかった。一通り行為が終わると、命が吸い上げられた事による凄まじい倦怠感と眩暈から抜け出さなくてはならなかった。

 けれど体の調子と反比例して身体能力は向上した。まるで命を捧げて人から外れていく過程を見せられているようで背中に怖気が這った。

 それでも彼は怯まなかった。

 まだレイミアに認められた訳でもなく、彼女を取り戻したわけでもなかったから。

 笑いあった彼女を取り戻す。その決意と信念がなければ身を切られる痛みに耐え切れそうになかった。

 

 日中、散策に出かけた。前と違って怪我もなく、歩きにくい山道でも元気に動き回れた。

 山を登って山頂からの景色を見下ろせば、山の合間から出雲の街並みが目についた。前もここから街を見下ろして、出雲に帰ったのだ。

 きっとこのまま下りても帰れるだろう。彼は決して異界に閉じ込められた訳でも、違う時代に落ちたわけでもない。

 結局彼は下りはしなかった。ここに来たのはべつの目的からだ。

「やっぱり、ないか」

 彼が探していたのはお社だった。彼女と出会うきっかけで、確かに存在したはずのそれは深い霧に覆い隠されたように一片も姿を見せることはなかった。

「何をされているのですか」

「レイミア」

 思案していると後ろにレイミアが訝しげな表情を浮かべて立っていた。

「ちょっと探しものをさ」

「……探し物、ですか」

「知ってるかって聞きたかったけど。そういえば君は眼がないんだったな」

 半笑いを作りながらレイミアに背を向けて、あたりを見まわした。やはりそれらしきものは見当たらない。次の場所へ行こうとした時だった。彼女が口を開いたのは。

「いいえ、あります」

 最初はなんのことだか分らなかった。点と点が示されただけで、なんのことだか思い至らなかったのだ。はじめお社の事だと推測した、喜色を浮かべて──覆された。

「わたくしには瞳はあります。なによりこの瞼こそ瞳がある証拠。わたくしが瞑目し、徒に眼をさらさないのは、ただ、わたくしが真に心を許したものにしか眼を見せないと決めているだけです」

「……え」

 言霊やはりあるのだろう。レイミアの編んだ言霊が耳を突き刺して胸の中央で鋭利さを宿して弾けとんだのだから。その一撃は人のやわらかな部分を思うさまに蹂躙したあと木枯らしのごとくほどけて、彼を四散させた。膝からくずおれなかったのは奇跡だった。

 なんで。

 疑念は彼女が瞳の秘密を打ち明けてくれなかったという真実で、彼女が嘘をついたのかという衝撃が視界を白く染め上げた。彼女の一言一句が許容範囲をはるかに超えた暴力となって打ち据えつづけた。

 走馬灯じみたレイミアとの思い出が駆け巡って、歯の根から震えが起こった。息が荒い。スカーフを鼻先へ押し当て、目いっぱいに吸い込んだ。

 違う、違う、そんなはずはない、そうじゃなければ。

 彼は信じた。傷を負わなかったというバタフライエフェクトがレイミアに瞳を与えたのだと暗示を掛けた。そうでもしなければもう誰も信じられなくなっただろうから。

 

 目が覚めるとレイミアはいなかった。ただ寝起きは最悪だった。小屋には入れてもらえず壁に野垂れかかり眠っていて身体はギシギシと鳴り、寝不足による倦怠と吐き気が気持ち悪かった。

 瞳の是非。

 ただそれだけの真実が彼を縄にかけ引きずり回した。忘れれば忘れようとするほど記憶は焼き増しされ、考えるのを拒否するほど思考は雪崩を打った。不調の原因はそれだった。前回と今回。どちらかのレイミアが嘘をついているのか、それとも違う理由があるのか、解決の糸口のみえない難問にぶち当たってしまった。そうだろう、前回のレイミアに確かめようとも手段がないのだから。けれど止めども尽きぬ思考が彼を苛んだ。

 ならば今いるレイミアに聞くべきだろう。彼は立ち上がった。

 この時間になると海に出るのは以前から知っていた。

 

 案の定レイミアは海辺に佇んでいた。

 けれど、どうしたことだろう。彼女は海に入るでもなく岩場に腰を下ろして静かに唄を歌っていた。同じ旋律だったけれど歌詞は違った。

 

 

魔性の洞にわたしをつれゆき、

乙女はいたく咽び嘆いた 

その狂おしい眼によたびわたしは 

口づけをしてつむらせた 

 

 

 

 前回と同じく彼女の唄に惹かれ、鳥や動物たちが姿をみせた。清さだけではない艶やかさも入り混じったレイミアの歌声に中てられたのか、獣が引っ切りなしに雄叫びや鳴き声を上げていた。情と色欲の声を聴いてもなおレイミアはどこか冷ややかで、そして愉悦があった。

「レイミア、君は……」

 薄々とだが気づいていた。以前の彼女とは違う側面の発露を。昔読んだ高野聖に登場する妖しき女のような魔性を感じて仕方ない。きっと童話であったならレイミアは彼にとってのファム・ファタルに他ならない。

 レイミアがひどく遠い。いや、己の心が遠ざかっているのだ。

 血を吸い、獣の性を弄ぶ、愉悦を覚える彼女と、独りは嫌だと語った寂しげな彼女が結びつかない。人魔の交わった肢体と、正邪が両方に振り切れた性根。どちらが彼女の本質なのか見定めきれない。

 それでも。

 彼は口を食いしばりながら、離れようとする心をとどまらせた。彼女は人ではない、そんな事、とうの昔に分かっていたことだ。

 歌い終えたレイミアが尾を這わせ、こちらへ近寄った。

「聞き惚れてしまったよ」と笑顔で言い切った。

「あなたはどのように振る舞おうとわたくしに嫌悪の情を抱かないのですね」

 彼女は変わった訳では無い。

「当たり前だろ」

 なら、どんな選択を取るかなんて自分次第だ。

 目の前のレイミアは心を通わせたレイミアではなかったけれど、レイミアはレイミアだ。彼はそう思う。

 誰かをその誰かだと決定付ける要素とはなんだろうか。

 例えば肉体を捨てて、電子の世界へ思考を移したとする。しかし肉体や精神はそこで終わり、消え去った本人を良く模倣されたAIのみが残るだけではないだろうか。

 例えばあらゆる脳と肉体の情報を寸分の狂いもなく同一にしたクローンを作ったとする。しかし当人同士が自分になるわけでもなくよく似た他人が生まれるだけだ。

 翻って彼女はどうだろう。上記のふたつにも当てはまらない全くの同一人物だ。それもそのはず。時を遡ったのだから当然だ。

 なら、自分の知らなかったレイミアを知っただけ。彼女の一側面を見ているだけなのだ。魔性の側面を見せる彼女でも自分を助けてくれた彼女とまったく同じ。ボタンの掛け違いによって引き起こされた差というだけなのだ。

 彼は受け入れた。

 

「人とはみんなあなたのようなのでしょうか」

 何かを見出した様子の彼を見据えながらレイミアは静かな疑問をぶつけた。彼を通して抱いた謎……人間とは我が身の魔性を受けいれるのか、と。

 レイミアは人と会ったことがない。それどころか誰かと言葉を交わすのさえ生涯で一度もなかった。必要がなかったし、無知さゆえに欲しいとも思わなかったからだ。

 ただ一つ、使命さえ弁えていれば彼女という存在は十分だった。

 けれど、それは覆された。彼女は幸福を識ってしまった。人に受け入れられる喜びを脳裏に焼き付けられてしまった。人が一度幸福を味わうと忘れられず求め続けるように、彼女も求めはじめた。

 レイミアの幸福は、はじめて出会った人間の口と血から流れ出した。

 最初の幸福は自分の記憶ではなかったけれど、違う自分が幸福を覚えている姿を垣間見て、羨望を覚えた。

 そしてそれは自分にも資格があるのだと気づいた。

 己の名をしり、使命を記憶し、魔性すら受容する彼に知れず惹かれている自分がいるのに気づいていた。

 純粋無垢であり白痴とも言うべきレイミアにとって過去を重ねた彼は劇物だったのだ。

 そして彼はレイミアを包み込んだ。己が魔性すらかまわず。

 彼女は女怪だ。人ではない。光ではなく闇に近しい存在だ。神の創造物たる人と触れ合うにあたって彼女の魔性は枷であった。

 彼はよい試金石になると思った。彼は間違いなく己に親愛の情を持っている。なら全開の魔性を垣間見せ、拒絶されるならそこまで。一抹の願いを抱き、そして、彼は受け入れてくれた。

「あなたはわたくしを受け入れてくださいました。人ではない、求めるばかりの浅ましいわたくしを。人の善性をあなたは示してくださったのです。……でしたらわたくしも人里に下り、言葉を交わしたいと望みます」

 なるほどと得心がいった。彼はうなづき、こう言い添えた。軽やかな笑顔だった。

「違うよ。君を受け入れるのは──ぼくだけさ」

 

 レイミアは言霊からあらゆる記憶を読み取れる。

 それは誇張でもなんでもなく全くの真実だった。彼女にとって言霊は総てだった、万物総てが言霊といってもいい。

 事とは言。

 言葉はあらゆる事象を混沌の渦からすくい上げて決定づけるいわば甕だ。つまり言葉には万物を切り取る力があって、万物を内包しうる器でもある。だからこそレイミアは言葉を見ることで、そこに収められた感情や記憶を見ることができた。

 それがレイミアの常識で、不動の法則だった。

 

 彼の言葉には常に──拒絶があった。

 拒絶ともに見える光景にはいくつか種類があって、レイミアを恐れさせた。

 

 ひとつ。見える景色には炎があった。もうもうと立ち篭める黒煙が狭い部屋を飲みこみ、炎を隔てた先にいる二人の顔を黒く染め上げていた。

『こうするしかないんだ、なかったんだ……! 許してくれ許してくれ……ッ』

 橙と赤と銀。いくつかの色が舞って、広がっていく橙に片方の影が崩れ落ちた。赤と銀の閃光がふたたび舞って、黒がぬり潰した。強い力に押さえつけられていた戒めから抜け出して、逃げ出した。死は人の形をしていた。

 

 ひとつ。泥の味がした。

『食べろよ! オレたちがせっかく作ってやったんぞ』

 湿った砂利が舌を這って、喉を潜りくけていった。いくつもの小さな手が手足を雁字搦めに押さえつけていて動けない。

 叫びながら抗うと、空いた口にまた泥が詰め込まれた。大きな手は遠巻きに眺めるだけで無感動であった。手足の先には墨で塗りつぶした円があってケタケタと揺らいでいた。

 絶叫は途切れなかった。

 

 彼女の瞳は景色を映し出さない。けれど瞳は言霊を読み取った。

 先刻垣間見えた景色こそ、彼の始原なのだろう。

「いいかいレイミア。人間ってのはね、自分と違うものを恐れて嫌うんだ……。自分たちから爪弾いたのに爪弾き者をやつらは決して認めない。屈服させて弄んで、飽きたあとはもう視界に入れるのも厭うようになる糞共だ。レイミアが彼らのもとへ行けばきっと衣服を剥がれて、手足をガムテープで縛って、鱗をカッターで剥ぐだろうさ。君の肌をライターで炙るかもしれない。歯を抜かれ、珍しいからと赤い髪を引きちぎるに決まってる。

 だから馬鹿なことは言わないでぼくといよう。破れ鍋に綴じ蓋、はずれたもの同士で暮らそう」

 レイミアは俯いていた。

「あなたは何故そうまでして()()()のです」

「嫌がる? なにを」

「人と関わるのを、言葉を交わすのを」

「…………」

「あなたの言葉の中にはいつも忌避と拒絶があります。触れるな、関わるな、興味を持つな。なにものであれ刺す貫く、棘と痛みで覆われている。確かにわたくしへの嫌悪はまるでない。ですが他者を否定しつづけるあなたがより一層、奇妙に見えるのです。わたくしがあなたを完全に信じきれない理由の一端です」

「…………!」

「途切れぬ否定があなたの胸裡にはあります。ですが同時にわたくしに親愛を抱き、孤独を疎んでもいる」

「やめろ」

 

 前髪を握りつぶしながら懇願した。そうしていないと目の前のか細い頸を絞めてしまっただろう。

「やめてくれ、ぼくを好き勝手に憶測して良いように言葉を重ねて詳らかにするのは。君まであの普通の人間に見えてしまう。ぼくが嫌悪する人種にカテゴリーされてしまう。それだけは嫌なんだ」

 ともにいたいと願った君でいてほしい、と力なく零した。

「……人を見るのは嫌いだ。人に見られるのも嫌いだ。人と目を合わせるのはもっと嫌いだ。根暗、何考えてるか分からない、気持ち悪い、そう思うならもういいだろ勝手にしろ。興味が無いんだ関わるな」

「わたくしにはそうなさらないんですね」

「君といると楽なんだ。目を合わせなくてもいい。煩わしい言葉を交わさなくていい。それが何より得がたいんだ……だから、失いたくない」

 彼女は無言だった。

 あなたも人恋しいのですね、と言っているのは言葉を交わさずとも分かった。

 ぼくを理解するな。縊り殺したい欲求が手をレイミアの首元へと導いて、理解してほしい欲求が手のひらに杭となって打たれ、指を痙攣させた。

 彼女の拍動が指から伝わった。自分と同じ速度で、同じ大きさで。彼女がそっと繊手を伸ばしてまぶたに添えた。

「触れるな」

 彼が言葉を出すと咽喉から煉瓦色の珠があらわれた。思わず瞠目する。

「これ、は……?」

「あなたの言霊です。わたくしの感応をあなたに同調させわたくしの視界を共有させているのです」

「これがぼくの言霊なのか」

 茫洋とたゆたう珠は朱にも黄色にもなれない中途半端な色で、煉瓦色から代赭色になったり茜に濃くなったり、色彩を変え続けた。

 好奇心の強い猫のように指を伸ばして触れてみる。

「痛っ」

 触れた指は剃刀をなぞったようにざっくりと割れ、赤い雫が滴り落ちた。レイミアが舌を這わすとすぐさま治癒できるほどの傷だった。レイミアは語った。言霊は情念が苛烈であればあるほど心の深い部分を覗かせて、触れれば傷を負うほど強烈になると。

 呆然としてスカーフで口元を覆った。

「君はぼくの言葉を聞く度にこんな痛みを覚えていたのか……? ならぼくはずっとずっと君を傷付けていた?」

 レイミアは答えなかった。雄弁は銀、沈黙は金。何よりの言葉となって彼を苛んだ。傷も彼女にとってはかすり傷で文字通り唾をつければ治る程度なのだろう。でも彼にとっては指の一本一本の肉を削がれるに等しい痛みと苦しみがあった。

 言霊はいくつも吐き出され、折り重なって積み上がった。西洋の煉瓦積みを連想させる言霊は、結局沈殿する澱のごとく地面に沈んでそれっきり見えなくなった。

 心が両断された思いだった。大切な存在を自ら傷ついけたものの末路など言葉にしなくてもわかるだろう。自傷すら上回る痛みに、無言の絶叫をあげた。

 レイミアを傷つけていた自分と、それを認めたくない自分が拮抗していた。煩わしいものをなくして安心を獲たい。誰かに受けいれられて安心を得たい。求める結果は同じでも根源の異なる衝動が、心を分割して相食みはじめた。

 どちらが自分なのかすら判然としなくなって、いっそ二つの人格に別たれてしまった方が楽だった。

 レイミアはその間ただ隣で寄り添ってくれた。彼女の温もりの届く場所こそが底冷えした心の帰るべき場所におもえた。

 彼は目を開けて 、レイミアを本当の意味で観た気がした。

「あなたは誰ですか」

「分からない。……でも、ぼくは、ぼくだよ。ぼくのままで、君のそばに在り続ける」

 その日からぼんやりと言霊が見えるようになった。冬に吐き出される白い息のように。

 次の日は雨が降った。

 雷も風もなく。けれどとても強い雨だった。

 海は荒れていたがレイミアは海へ出た。彼は荒ぶる海を鎮めるのだといって聞かないレイミアを心配してついていき、荒れた海に呑まれて溺死した。

 七日目の正午の事だった。

 

 黒南風が髪をさらった。

 死は3度目だったが予測できていたことだった。取り乱すことはしなかった。

 スカーフを鼻先に当てながら深呼吸をした。

 彼は歩き出す。なんど繰り返し、なんど出会うことになろうが構わない。だって諦め切れるはずもない。

 彼は幸福を識ってしまった。人に受け入れられる喜びを脳裏に焼き付けてしまった。人が一度幸福を味わうと忘れられず求め続けるように、彼も求めはじめた。永劫続く道をつきすすむことになろうとも。

 ──旅はもう始まっていた。

 

『良き旅を』

 

 誰かが記憶のなかから声を掛けた気がした。

 

 

中章

 

 

死廻永続怪奇譚

 

 

 死は日常だった。死にたくはなかったが、日曜の深夜のような倦怠感と同等になるほど死の恐怖は貶められて慣れ親しんだ。

 死を日常に組み込み、何十と繰り返すうちにこの逆行の法則やルールがわかってきた。

 

 まず七日目を超えることは出来ないこと。

 

 また七日目以外でも普通に死ぬこと。

 

 そして死ぬと山の中で復活すること。

 

 最後にこの逆行は永劫続くだろうということ。

 

「何時まで、続ければいい」

 出口が分からないのだ。もう何十回と繰り返しているはずだが状況に一切の変化はなく、ただ繰り返しを強いられているだけ。7日の正午を超えることはできず8日が酷く遠かった。

 それに死の快楽は厄介だった。死の快楽とはそのまま死の間際にもたらされる快楽だ。

 快楽という緩衝材があるから死という忌避すべきものへの忌避が薄くなり、たまに死を受け入れそうになる。気づけば首を絞めていたり、手首を切っていたなんてことはしょっちゅうだった。

 死にたくはなかった。

 死は苦しみだ。受け入れたくなどない。死の直前には必ず苦しみが立ちはだかって、彼を満足できるくらい嬲ったあとは無慈悲に奈落へ追いやった。

 転んで頭を打った、食べたナツメヤシに中った。レイミアに血を吸われすぎた。崖から落下して枝が心臓を貫いた。

 不運。

 事故。

 怪我。

 死因は数え切れないほどあって安楽死はひとつとしてなかった。だから苦痛からの解放と死の快楽は致死量の麻薬じみて襲いかかった。

 膨大な恐怖と快楽の記憶を思い出すだけで短い狂気が彼をひしゃげさせた。彼女の前でさえ記憶が蘇り、暴れまわって叫声をあげたこともあった。抜け出せない逆行の波涛に数日休みなく呻吟したこともあった。

 どれだけ嫌がっても死は訪れて、新たな生と死を与えた。彼だけ多くの生命の埒外にいた。彼は永劫の死に囚われていたのだ。

 時の逆行は生死の循環さえも逆行させる。死から蘇り、生を受け取り、死へ還る。かつてケルト人と呼ばれた民が持っていた思想の体現だった。

 彼は決して破格の精神を持っているわけではない。歪んではいるものの、普通の人間の範疇に収まる位だ。

 日常へ戻ることも解脱することも許されず絶望した。

 時は人の事情に頓着しない。酷く無情なもののはずだった。

 両親が心中したときも、事故に遭ったときも、受験に落ちたときも、離れから追い出されたときも、変わらず彼を翻弄した。人は人生で一度はこれ以上ないという敗北を味わう。けれど敗北してもなおあっけないほど人生は続いていくものだ。

 地続きで不可逆なはずの人生。けれど今の彼はその限りではなかった。敗北すればやり直せる。死ねば遡れる。でも成功はどこにもない。

 過去に戻ることによって"未来"が奪われる。付いてくるはずの結果は消えさった。

 過去の喪失はそのまま自己の喪失と同義で、形のない己が毟り取られる気分だった。

「ぼくはここにいる! ここにいるんだ!」

 なんど叫びをあげ、なんど蛇紋岩に書き連ねたか分からない。

 強烈な非日常のなかで狂わずにいられたのは偏にレイミアの存在ゆえだった。死の快楽を吸血の絶頂が塗り潰す。黒を黒で塗りつぶすのと同じだったが彼は狂わずに済んだ。

 やり直せるけれど、彼の足跡を覚えているものはいない。彼の努力を本当に理解してくれるものはいなかった。

 ただ1人、レイミアだけがその一端を知ることができた。逆行とともに失われた自分を知ってくれている存在がいる、それだけで心は軽くなった。果てなく逆行のなかで、自分を知り知ってくれるレイミアだけが支えだったのだ。

 今日もまたレイミアの元へ向かった。

「レイミア」

 言葉が彼女の耳に届いた途端、彼女の耳腔を傷つけ鼓膜を破いた。眦から雫が落ちた。透明ではなく赤に染まった雫を。

 法則と言っていいのか疑問だが世界は変わらない。けれど彼は変わっていく。世界が逆行しようと彼のみ時間は流れ、記憶は蓄積されていく。想いは重みを増していった。

 ならば血に通う彼の歴史は膨大となって、言霊は鉄塊じみていった。

 それを読み上げるレイミアにも多大な負荷となってあらわれ蝕むのだ。あの時、レイミアとともに触れた言霊は指をきった。なら今は? 

 人の記憶は150年ほどしか蓄えられないという。人と外れているが人に似て、そして生きているレイミアにも限界はあるのだ。

 これまで変わらず接して居たのは彼女が受け止め、受け入れてくれたから。そして限界が来た。受容の堰が切れて、留めていた肉体への負荷が生まれたのだ。

 彼女は言霊を読み取るが翻弄されすぎる。

『人はわたくしを受け入れるでしょうか』

 あの問いかけは疑問ではなく懇願だったのだ、と彼は初めて気づいた。

 人とかけ離れた姿をもつ彼女は、人里に下りたことはないといっていた。彼女は聡明だ。人が受け入れないとわかっていのだろう。

 そして拒絶されれば傷つくのも知っていた。

 そこまで思い至って、彼は──逃げ出した。

 一目散に彼女から離れて声の届かない場所へ走った。走った先で嘔吐を繰り返した。敗北を味わされて打ちひしがれた。

 敗北を得てなお彼の人生は続いた。これまでと同じように。辛酸を舐めきって苦渋を飲み干した彼ははじめて山を下りた。彼女へ縋っていた自分を消すために。

「レイミア……ぼくは君に辿り着く……」

 もうここにはいられなかった。

 

 

 

 

 山を降りていの一番に向かった先は八雲の事務所だった。曲がりなりにも彼女と出会ったきっかけは八雲で、あの男に会えば彼女のことを少しでも知れるかもしれないという期待があった。

「嘘だろ?」

 八雲の事務所は出雲駅の近くにあった……はずだった。けれどふたたび訪れた場所は更地のみがあって、退院して以来、何度も通ったはずの事務所は跡形もなかった。

 辺りを見渡しても花びらの落ちきった海桐花があるのみだった。

 目を擦って瞬きを繰り返したが白昼夢を見ているわけではない。本当に何もなかった。古びた看板と「好評分譲中」という文字が、長い間誰も手をつけていないという証明を言葉なく伝えているようだった。

 看板に書かれた不動産に確かめたが「この土地は10年以上買い手がついていない」と言われてイタズラに思われたのか一方的に切られた。

「どうなってるんだ……」

 彼のなかでループ中の世界に変化はなくすべて固定された舞台装置だと思っていた。少し寒気を呼んだ。

 

「おぉ、時彦の倅じゃないか」

 途方に暮れていると声をかけられた。すぐには誰なのかわからず頭のなかを浚ってようやく思い出した。時たま顔を合わせる壮年の男で、何かと目をかけてもらっていた。

「えっと…………荒木さん、でしたっけ」

「なんやぁ、忘れとったんかい?」

「人の顔となまえ、覚えるの苦手で」

 目を逸らしながら呟いた。

「あ、あの、ここに事務所があったんですけど……知らないですか?」

 なんとなく気まづくなってこの土地のことを訪ねた。荒木は現場作業者で、毎日出雲をかけずり回っているらしく地理に詳しかった。

「事務所だぁ? ここはのぉ、おれが出雲に移って来てからいっちばん最初に崩した家屋だぞ?」

「崩した……って何時?」

「もう15年は昔か。おまえがまだ指をしゃぶってる時代じゃなかったか」

 話を聞けば聞くほどおかしな話だった。彼の記憶では確かに八雲という男が事務所を経営していた、それも数日なんて話ではない。時系列を改めれば逆行の出発点は山にはじめて踏み入った時点……つまり八雲から依頼を受け取った直後なのだ。

 だのにまるで幻かたぬきにでも化かされたように、事務所はどこに見当たらなかった。

 驚く彼だったが困惑は少なかった。

 なぜならよく似た現象に心当たりがあったから。白昼夢さながらに姿を消したお社。あの出来事に妙に似ていたのだ。

「んで、おまえ今なにしてるんだ。働いてるのか、それと学生か?」

 思案していた彼だったがこちらに頓着せず荒木が声をかけてきた。

 答えにくい質問だった。なにせ成人するまでは、という約束で居候していた親戚の家はとっくに追い出されていたし、何とか食いつなげていた職もついさっき失ったのだから。

 気づけば住所不定無職が爆誕していた。

「あ、いや……なんもしてないッス」

「なんやプー太郎か。…………でもいいのか? そろそろあの人も出てくるやろ」

「あの人? 出てくる?」

「時彦。……おまえの親父さんやろうが」

「────」

 ああ、あのまま山に閉じこもっておけばよかった。山を下りると波濤さながらの繋がりが彼をさらった。

 

 

 

 

 父は十年以上牢の中にいる。妻を殺し、息子を殺そうとした罪を背負って。

 いわゆる嘱託殺人というやつだ。彼の両親は貧しかった。理由はただそれだけで、にっちもさっちも行かなくなった彼の両親は一家心中を計って、失敗した。

 幼い彼は死を予見し、必死に抵抗したのだ。火の手の上がる部屋から父を振りほどいて逃げた。

 その時だったのだろう。

 噎せかえる焼けていく母の臭いと、父の諦観の混じった殺意が彼を壊したのは。

 当時の記憶を呼び覚ますだけで、震えがはしった。これまでの死は事故や怪我が主で、彼に言わせれば無機質なものばかりだった。けれどあの時感じた、親しいものから受け取る粘着いた殺意は時の流れた今でも怖気を生む。

「行く宛てないなら、おれんとこに来るか?」

「荒木さんの?」

「人手不足で日雇いバイト集めててなぁ、若いやつなら尚更いい。どうやプーなら来てみんや?」

 聞けば荒木は解体業の班長とのことだった。小さい会社でそれなりの地位にいる荒木は、バイトひとりをねじ込むくらい訳ないという。

 特に考えもせず、当てもなかった彼は頷いた。

 タバコ臭い2トン車に乗せられ、すぐさま窓を開けた。全開の窓から風が入って、髪をすくった。

「ムショから出てくる前に、親父さんにも一度は会っとけよ」

 風でなにも聞こえなかった。

 

 解体のバイトはどこの現場も地獄だった。基本力仕事で力がないともっと地獄になった。住む場所もなかった彼は荒木に頼んで会社の一室で寝泊まりした。狭い個室には同じような境遇の男が数人いて、ただでさえ蒸し暑いなか密集して雑魚寝するはめになった。

 気が休まる暇もなく寝ている間に薬を打たれかけたりして、別の意味でも気が休まらなかった。

 この世の地獄を煮詰めた場所に思えて仕方なかったが、結局そのまま居座った。

 現場へは少なく2人、多くて5人の班で向かった。休憩のときは人と関わりたくなくていつも離れた場所にいた。

 木陰で座り込んでいると、何かが飛んできた。痛い。取るのに失敗して顔にぶち当たった。

 見ると荒木が「取れよ」という文字を顔に書いて、近寄ってきた。憮然としていても構わず隣に腰掛けてきたので端によった。

「お前、暗いのぉ。もちょっと人の居るとこにいけよ」

「はぁ……」

「ま、お前の境遇は分かるけどな」

 目を伏せた。荒木は父をよく知る人物で、たまに面会に行ったりもしているらしい。荒木が気にかけてくれるのは父のおかげ。気に食わなくて仕方なかった。

「おい、見てみろ」

 荒木はこちらの考え事などまるで気がついていないという風に、どこかを指さしていた。その先には班員たちがいた

「あそこでニヤついとる安田はヤクザの女に手ぇ出して地元に居られなくなったやつでなぁ、ケータイをなんど替えても知らん番号から電話の掛かってくる言うてもうケータイを持ってない。

 隣の高知は関東あたりのそこそこ良い大学に通ってらしい。でも、就活に失敗してFxに手を出して失敗、借金こさえて親にも顔見せできなくなって出雲くんだりまで流れてきたやつだ。

 おいもぞ。昔は薬のバイヤーやっとって、下手やって九州におられんごとなった」

「クズの集まりッスね」

「はっきり言うなバカタレ」

 頭をはたかれた。

「まあ……やらかしすぎて表に出られなくなっやつらだがそんな悪いやつらじゃない。ちょっとは心開いてみろ」

 答えなかった。ただ、言霊の色は柔らかくて不器用な優しさは伝わって、彼の言霊は少しだけ信じてみようとおもった。

「明日は晴れだったか」

 明日はたしか逆行から七日目で、その日は決まって雨が降った。

「土砂降りの雨ですよ」

 人と目を合わせて話をしたのは本当に久しぶりだった。

 ──その夜、金縛りにあった。

 意識の覚醒は、人の気配によって起こった。異常を察したのは直後だった。誰かが忍び寄る気配に飛び退こうとして、身体が脳の司令を無視したのだ。いや、正確には身体は司令を受諾していた。けれど指の1本1本から鼻先に到るまで、見えない透明な力の塊に覆いかぶされ身動きが取れなかった印象を覚えた。

 薬物や、機械によるものでは決してない何かが彼に作用していた。

「効いているな」

 判然としないくぐもった声が聞こえて、腕に痛みが走った。注射を打たれたのだと、あとから悟った。死や吸血の快楽とも違う、人工的な快感にさらされ気づけば死んでいた。

 

 黒南風が髪をさらった。

 呆然と虚空を眺めていた。初めてだった、殺人による死は。スカーフを鼻先にあてた。

 だけど衝撃は予想より少なくて、納得があった。死のイメージは人の形をしているとばかり印象づけられていたからだろう。

 それに、驚愕や絶望よりもすべきことがあった。あの金縛りだ。あれは人の為せる技じゃない。薬物とも機械とも根本から違う、異様な体験だった。

 だからこそ彼が光明を見出した。もしや言霊に近い力なのでは、と。言霊なんていう出鱈目で奇天烈なものがあるなら、きっとほかにも似た何かがあるはずだ。直感だが確信があった。

 以降、何度も荒木の元へ出向いた。金縛りに合う日は決まって、7日目の夜だった。7日目は必ず土砂降りになる。少しの雑音ならかき消してくれるから犯人も、実行しやすいのだろう。

 

 男は気に食わなかった。ぽっと出の新人が目を掛けられているのに。

 仕事ができるわでも力がある訳でもなく、ただ親が知り合いというだけで数年組んできた荒木は新人に見せたことない顔を向けていた。

 荒木は糞みたいな上司だったが恩もあった。だから複雑な胸中のなか痛い目を見せてやろう、そんな考えだった。

 手にあるのは箱だった。不吉な文様の描かれた品物で、怪しげな雑貨商から手に入れたものだ。

「呪われよ」

 毛布をめくると人の形に整えられたバッグがあるだけだった。

 下手を打った。思い至った時には遅く、口元を布で覆われ、強い力で外へ連れ出された。

「あんた、ぼくを殺すつもりだったろ」

 やはり新人だった。不健康そうでやつれた雰囲気があって、でも目だけは爛々としていた。それが気に食わなくて仕方なかった。

「ンだよ……こっちは親切でやってんだぜ」

 襟首を掴まれ締め上げられながら、男……高知はニヤニヤと笑みを浮かべた。

「親切? 人殺しがか?」

「あ? 何言ってんだ。クスリだよクスリ、荒木さんからみんな買ってるんだよ。あの人はまだバイヤーをやめちゃいねぇ」

「荒木が……」

「さんを付けやがれ! ここにはクズしかいねぇ、てめえもそうだろ! 昔馴染みの子供だか知らねーけど、てめぇもさっさと買えよ。クズはクズとしか慣れあえねぇんだよ」

「いらねぇな。ヤク打つより気持ちいいの知ってるんでね、必要ないね」

 そこからは取っ組み合いになった。土砂降りのなか、頬に泥をかぶろうがかわなかった。転げるようにマウントをとった。

「ヤクなんてどうでもいい! それよりも……ぼくは見てたぞ! さっきあんた怪しげなものを使ってたな! あれはなんだ! どこで手に入れた」

「分かった言う! 言うから殺すな!」

「嘘をつけ!」

 言霊は鮮明に映った。針のような棘があってすぐに嘘だと見抜いた。だから高知を締め上げて、言霊が丸くなるまで吐かせた。

 箱は彼がアクションを起こしてもなんの反応も示さなかった。

 頸は締め上げたままどこで手に入れたのか聞き出した。結局、手を離したところで後ろから鉄パイプで殴られ、その回は終わった。

 

 出雲は日本有数の霊地である。そのため魔道を生業とするものたちも数多くいて、高知に呪具を売りつけた人物もその一人だった。人目のない裏路地の、傍目には気づけない店舗に居をかまえていた。

「お客人かな」

 扉越しに声が聞こえた。年若い声でそれほど威はなく大きくもなかった。けれど不思議なことに扉越しだというのに鮮明な声だった。手汗で湿った手で扉を開け、中へ入る。中は雑貨屋じみた内装で、やはり予想を外さない線の細い青年がいた。

「おや。どうやらただ買い物をしに来たわけじゃなさそうだ」

「ぼくに呪術を教えてください」

「不躾だね、それに余裕もないね。残念だけど僕は弟子を取る気はなくってね、他を当たってくれ」

「でも……」

「でも、何かな。そうだなぁ……君の腕に巻かれている霊符。どこで手に入れたか知らないが相当高位の代物みたいだ。それを僕にくれるって言うなら考えていいよ」

 一息、間ができた。

 霊符とはつまりレイミアからもらったスカーフのことだった。

「これは、ダメです」

 繋がった途端、拒否の言葉を吐いていた。このスカーフが一時でも人の手に渡るなど気が狂いそうな嫌悪が湧き上がった。

「君、舐めてる? 教えて欲しいけど対価は払わないなんて虫のいい話がある訳ないじゃないか」

「それでも、ダメです」

「僕も暇じゃない。これ持って帰んな。ここまで辿り着いたお駄賃だ。運が良かったら動くんじゃないか?」

 高知が使っていた箱を持たされて追い出された。振り返っても扉はなかった。持たされた品物は高知のときと同じように動かそうとしたが、反応を示さなかった。

 

 次の回は徹底的に客を装って情報収集に務めた。

 日本の魔術師はおおよそ二種類いて、官と民に分かれていて国が直轄する呪術組織があるという。陰陽院のあった平安時代から気質はあった。

 土羽と名乗ったこの魔術師はどうやら民と呼ばれる魔術師らしく、小金稼ぎに呪具を売りさばいているらしい。

 通いつめやっとさわりを師事してもらえるようになった。

「君、辞めときな。才能ないから」

 開口一番そう言い放った。呪具がまるで反応しない彼に向けて土羽は頬杖をつき、諦めろとb

「才能が……ない?」

「そ。呪力なんて大抵誰でも持ってるもんなんだけどねー、たまに居るんだよ。呪力を溜めれない体質のやつがさ。それが君だよ」

「呪力を溜めれないって」

「車動かすにもガソリンがいるんだろー? でも君にはタンクがないの、穴が空いちゃってるの。僕たちの世界じゃ忌むべき嫌われ者だね」

「じゃあぼくはどうやってレイミアと……!」

「誰それ? 僕は知らないし僕のせいじゃない。ささ、出てってくれ。お帰りはあっちだ」

「ちょっと待っ…………!」

 認められずにすがりつくと腹部を蹴られて追い出された。例のごとく扉はもうなかった。すぐさまビルから飛び降りて、また土羽の元へ向かった。

 

「呪力がない? 君、ただでさえ幸薄そうな顔してんのに大変だね」

「うるさい。で、呪力がないのはわかったけど呪力がなくても使える技はあるのか」

「さあねえ……」

 土羽は億劫そうな態度で何やらメモを取ると、投げて寄越した。

「『胡月堂』?」

「君めんどくさいからさ、知り合いのとこ行ってよ。そこ、結構ゆるいんだ。頭がね。だから君みたいなシロウトにも零してくれるんじゃなーい? じょーほーってやつをさ」

 次の目的地が見つかった。関東の胡月堂。

 

 関東に行くにも金がいる。そして彼に金はなかった。

 日雇いのバイトのいいところはその日に金が貰える事だ。逆行のいいところはどんなに関係が拗れてもなかったことにされる事だ。

 そんな訳で一日目に逆行した彼は数日間、荒木のもとで精を出し、金をためはじめた。

 筋肉は彼を裏切るのだが経験と記憶は彼を裏切らない。現場での要領も良くなって、車の免許をもっていない彼だったがいつの間にか乗り回せるようになっていた。おそらく普通車より2t車の方が乗りまわしてる。班長荒木の「ちょっと動かすだけ」は時と回を経るごとに長くなった。

「おぉい、ちょっと運転して次の現場に行ってくれ。おいは寝る!」

「またか? それでいいのかあんた?」

 聞き返した時には隣の座席からいびきが聞こえて、仕方なしに走り出した。車にナビなんてものは付いていないので、地図と記憶だけが頼りだ。

 見慣れた風景が過ぎ去っていく。のどかで、自分が非日常に巻き込まれているなど嘘みたいだ。目的はそれほど離れていなかった。

「え、ここって……」

 目的地は施設だった。

 昔、幼いころに入れられていた孤児を集めた施設だった。奥歯を噛み締めた。ずいぶんと古びていて人の気配はしなかったが、目を閉じれば過去の記憶がよみがえった。

 孤児の境遇なんて様々だ。でも、決定的な違いがあって、それは親を知っている子と親を知らない子だ。そしてその差は施設でも如実に現れる。

 親を知っている子供はどうしてもあとから入ってくる。子供たちは既にグループを形成していて、後から来たものの扱いなど酷いものだ。

 頭から水を、泥団子を無理やり、罵詈雑言etc……なんてことは日常茶飯事だった。

 彼も最初は抵抗もしたがだんだんされるがままになった。トドメだったのは施設から逃げ出したとき、家があった場所に戻ると灰の残った空き地があるだけだったことだろう。心が折れてしまった。

 隠れて猫を飼っていたのがバレて蹴飛ばされる猫を諦めたように眺めていたのは不気味だったのか、それ以来影かなにかのように彼を扱った。

「着いたなら起こさんかい」

 荒木に頭を小突かれた。

「ここ、なくなるんですか?」

「あん? ……ああ、おまえはここに預けられてたな」

 得心したようにうなづいて、経営不振で数年前に閉鎖。元々古かったこともあって崩すことになったらしい。

「そっか」

 感慨はなかった。

「……お前は、やっぱ会ってこい」

「は? 誰に」

「親父さんに決まってるだろう」

 運転座席を追いやられ助手席に座ると、荒木は車を動かした。

 

 

「面会時間はあと五分です」

 無機質な言葉が狭い空間に響いた。それからまた沈黙の時間だった。

 彼は与えられた時間を無為に過ごしていた。考え事をしていただとか、言葉が見つからなかったとかじゃなく、時間が過ぎ去るのをジッと堪えていた。逃避している心が身体から離れて、椅子に座って俯いている自分を幻視した。

 言葉を交わしたくない。

 彼の不幸の濫觴こそ後ろ向きな父の決断にあったのだから当然だ。

 殺風景な部屋に分厚いアクリル板があるだけ。だのにこの場所が穢れた澱と汚泥にまみれた空間に思えた。澱みの源泉はアクリル板の向こう側にいる黒で。あの男は黒いままだった。

 スカーフを握りしめる。この場にいればスカーフが染め上げられる危機感を覚えた。

 

 帰ろう。椅子から立ち上がって、立ち会いの警察官に合図した。

「…………あんた、何がしたかったんだよ」

 最後に一つだけ質問した。心に動きがなくなると、思いのほか冷たい言葉が出るのだなと他人事のように思った。

「母さんを殺して、ぼくを殺そうとして、自分だけ生き残って………………本当に、何が」

 言霊にすべきではなかった。過去の記憶がより一層の色を旬烈にして彼の前頭葉から海馬を抉ったのだから。

 

「おまえたちが大切だった」

 

 父の言葉だった。最初、誰の言葉だったのかわからなくて、キョトンと虚空見つめていた。

 微かに見れた言霊は、以前荒木と高知が真実を話していたときと似たような色をしていて、父の言葉が全くもって嘘偽りのない言葉なのだと示していた。

「ふ、ふふ………………」

 気づけば口元をおさえて、肩を震わせながら笑っていた。

「………………ふざけんなよッ!!!」

 警察官の静止の言葉も聞かず、全力で椅子をなげつけて吠えかかった。拳を使おうとしたが後ろから羽交い締めにされた。

「お前のせいでぼくが……オレがどんな生活を送ってきたと思ってやがる!」

「"人殺しの息子だ"って後ろ指指されて! 人の顔を見るのが怖くなって……親戚も見捨てて、引き取り先もずっと見つからなくて、人を人だって思えなくなって……」

「くそっ! オレだってあんたに殺され掛けたのにッ」

 警察官を振りほどいて走り去り、拘置所を抜け出した。途中、荒木の顔が見えたがどうでも良かった。

 ちくしょう、ちくしょう。

 会うんじゃなかった会うんじゃなかった。

 心に後悔と怒りが巣食って、走り出した足でそのまま関東へ向かった。親父の言葉が泥濘のように絡みついて前に進むのが酷く辛かった。

 

 

 

 

 胡月堂は東京、表参道の青山通りの一角にあった。

 

「はいはーい、いらっしょいませ〜。今日はなにをお探しでしょうか?」

 頭が緩いとは聞いてたが、その通りのようだ。ひと目でわかった。

 眼鏡をかけた和服姿の女性で、他に店員がいる様子もない。彼女がこの店の主のようだ。

「客じゃないんだ。土羽って男からの紹介で尋ねてきたんだ」

 一言断り、土羽の名前を出すと少しだけ記憶を探るように目を上にあげた。

「はあはあ、土羽さん土羽さん……懐かしいお名前ですね〜。承りました、改めまして〜どんな御用でしょう?」

「ちょっと聞きたいことがあって」

「はい〜? 聞きたいことですか?」

「呪力がなくても扱える魔術に心当たりはないか。ぼくには呪力がないらしくて、それでも力を付けなくちゃいけないんだ」

「うぅ〜ん、なんだかめんどくさいお話ですねぇ」

 おとがいに手を当てながら、彼女はひとつの案を提示した。

「そうですねぇ。でしたら剣術はどうでしょう?」

「剣?」

「武術も長じてみれば魔術みたいなものですから。まあ剣を振るくらいなら話を通せば誰でもやらせてくださいますし〜」

 

 あれよあれよという間に女店主から紹介された撃剣会という流派の門を叩いた。

 静謐な雰囲気の漂う道場で、巌さながらの逞しい男たちと軽い修行にはげんだ。

 その日の夜に道場の一角で、刀を手渡された。刀は真剣だった。剣を振って、即死した。

 

「いや、なんで?」

 出雲の山奥で復活しながら頭を抱えていた。嫌な予感はしていたのだ。手に持った瞬間、身体が拒絶を叫び、それをねじ伏せ構えたときには息も絶え絶えだった。

 もしや剣がダメなのか? と他の武具を試してみたが剣を使わなくても同様だった。徒手空拳は1番拒絶が小さなものだったが、それでも拳を振るうほど動悸が激しくなり結局数十回も重ねれば必ず死に至った。まるで武そのものに身体が拒絶反応を示しているかのようだった。

 武術は死を意味した。

 魔術が使えないからこそ呪力に依存しない武術を試みたのだ。それも不可能というのならどうすればいいのだ。彼は打ちひしがれた。

 振り出しに戻った。もうなりふり構わっていられなかった。魔術を知ってもう幾年月がすぎてしまったか、それでも一芸さえ身につけられない自分が歯痒かった。

 行使できる魔術を求めて関東と湖月堂に入り浸った。時間の許す限り、関東の方々を駆け巡る。東に神道の大家ありと聞けば門扉をたたき、西に密教の神山ありと聞けば三日三晩をさまよった。

 中には口先だけの詐術師もあって、辟易することも少なくなかった。

 

「うーん。あなたも散々しつこい人ですねぇ、どれだけ紹介してもダメと言われれば私の人脈にも限りはありますし……」

 女店主が困ったように眉をひそめた。どうやら彼女の人脈を掘り尽くしたらしい。それでも光明は見なくて、気分は最悪だった。そこに二十代後半の青年が来店してきた。

「おや? なにやらお取り込み中でしたか」

「甘粕さん。いいところに〜」

 どうやら甘粕という青年は女店主の知己のようで、彼にも事情を話した。

「するとあなたは呪力が溜められない体質で、それでも呪術を使いたい。そういうのですね?」

「ああ」

「ふぅむ。普段なら残念ながらそんなものはありませんと断るところなんですがねェ、実は現在日本には高名な言霊使いの方がいらっしゃってまして」

「言霊使い?」

「ええ。なんでも見識を深めるため魔術の本場であるヨーロッパからはるばる訪れて、今は山籠もりをしているのですよ。興味がおありならご紹介しましょうか」

「ああ、ぜひ頼む」

 わたりに船とはこの事だった。言霊使いとやらが籠もっている山の場所を聞くと、店から飛び出した。

「あの〜よろしかったんですか? あんなこと。日本におられる言霊使い、ってあの方なのでしょう?」

「ええまあ……実はさる御方から引き合わせるようご依頼がありまして。今現在世界は滅亡へ向けてRTA中ですからねェ。それを止めるためにどなたも必死なんですよ」

「はぁ……?」

「さてさて、かの若人は勇者になるのか、愚者になるのか、行く末が楽しみです」

 

 

 関東北部に位置する栃木県。

 教えられた山に入り半日ほどさまよった頃。やっと件の人物をみつけることができた。

 その人物は岩場に腰掛けた、枯木じみた老人だった。老人はもう夏だというのに丈の長い布を密着させるように身体に重ね、体の線も肌も見通せなかった。

 "座りなさい"

 嗄れてはいる。けれど明瞭な声に鼓膜が震えさせ、言いしれない圧を受けた彼は小岩に腰かけた。途中、視線を巡らせたが眼前の老人が口を開いたようには見えなかった。

 おそるおそる岩場に腰かけ対面のになった。老人は頷き、また声らしきものが耳を伝った。

 "声を見れるか"

 要領を得ない問いだった。だが言わんとするところはわかった。

 見れる。そう伝えると老人は素っ気なくまたうなづいた。老人はその後俯いたまま、彼に顔を向けることなく滔々と語り出した。

 まず呪術師とはうちに内包する呪力という力で森羅万象を歪めるものたちをいうらしい。

 普通呪力なんてものは感じ取ることはできても見ることはできない。電気や空気と同じだ。雷と同じで膨大な量になれば可視化もできるそうだが人間では不可能な領域らしい.というのを一、二時間掛けて遠回りしながら教えられた。

「じゃあ、ぼくはダメですね」

 開口一番そういった。彼には呪力がない、何度となく魔道の門を叩けど諦めるほかなかった。今回もそうなのだろう。席を立とうとする彼に、老人は杖で床を叩いて押しとどめた。

 "我ら言霊を手繰る徒に呪力など必要ない。なぜなら言霊、言葉そのものに力が備わっているからだ。──重要なのは言霊が見れるか、見れないかだ"

 老人は静かに口を閉ざした。

 当たりだ。

 彼は歓喜という感情を久しぶりに思い出した。そしてレイミアに感謝した。レイミアの経験があったからこそ一筋の光明を見出すことができたのだから。

 老人の言葉によれば言霊を見透かす眼をも者は稀だという。先天的に特殊な眼を持っているものや、視力を失ったものや異界帰りを果たした物がごく稀に発現するらしい。老人は後者だった。()()身体が滅び、魂だけになってから浄眼に極近しい眼を手に入れたと言っていた。

 

「肉体が滅んだ?」

 なんの冗談だ、と訝しんでいると老人は纏っていた分厚い布を取り払った。取り払った先には何もなかった。いや、厳密には透明なモヤがあって、ひとの輪郭や皺を描いていた。俗にいう幽霊、それが老人の本当の姿であった。

 "言霊が観れるものだと知ったのは亡霊に身を窶したあとぼことだった。生前、預言者などと呼ばれていたが言霊ひとつ見えなんだ"

 老人はそういい……なら自分はなんなんだ? 当然の疑問が降って湧いた。

「ぼくはどうしてそんな眼を持っていたんだ……? そんな眼を手に入れたのは……レイミアと出会ったから?」

 思い当たる節は、それくらいだった。彼女がそばにいた時、はじめて言霊を視認できた。感応といって視界を共有した名残がいまだに残っているのか、彼にはわからなかった。

 "喝"

 嗄れた声が鉄槌となって腹部を打ち据えた。言霊による打擲だった。思わずうずくまった彼に、老人はゆらと身を起こして前に立った。

 "言葉を濫りに嘯くなかれ。言とは万物を分け隔てる切り口、そして万物を内包しうる匣。匣に秘めたるものはそなた自身でもある"

「なにを……どういう…………」

 "そなたの一言がそなたを語るのだ。出雲から現れし、蛇女に魅入られたものよ"

 総毛立つとはこのことだった。そして己の不覚を恥じた。

 少し考えれば分かることだった。レイミアも言葉の一言で多くのことを悟った。なら目の前の、言霊使いを名乗った老獪なる人物もまたその術をもっていても不思議ではない。臍を噛む思いと同じくして老人を息の根を止めてしまうか、という算段を本気で練った。

 "殺すかね……それもよかろう。しかしそなたは言霊を手繰り、抑える術もなくなると思え"

 眼光が揺らいだ。殺意を鈍らせるほかなかった。この摩訶不思議な現状を打破できそうな術は呪術以外になく、呪術すらも八方塞がりになってしまえばもう希望も何もない。

「阿」

 老人が近くにあった木片を拾い、初めて声とわかる声を上げた。声は咽喉から迸ると、口唇を伝り空気を揺るがして老人のもった木片を裂いた。瞠目する彼に、心せよ。と老人は言い放った。

「吽」

 ふたたび老人……いや師が言葉を手繰れば、木片の傷はみるみる消えていった。

 阿吽とは万物の始まりと終わりを意味する言葉。あらゆるものに作用し、あらゆる変化を起こす。阿吽という二対の言葉がひとつが術なのだった。

 "はじめはこれで言霊を磨きなさない"

「は、はい」

 "そのあとは、痛みで覚えなさい"

 言うと師はおもむろに腕の布をまくった。まくった腕には己の教えを体現したように裂傷が数多と刻まれていた。先刻、木片を裂いた術を己の身に施したのだというように。

 

 それからというもの師の元で日時を費やした。日数が足りなくて何度か逆行を余儀なくされたがそのたびに師は迎え入れた。

 亡霊だから人の理に縛られない。彼が一言話せば、逆行をし、別の己が師事したのだと悟った。

 "これ、イエス・キリストの黙視なり……。必ず速やかに起こるべきことを顕さんと、神のかれにあたえしものを、しもべヨハネに示し給えるなり──"

 師はキリスト教の流れを汲む者で、暇さえあれば聖書の一説や彼にも聞きかじったことのある黙示録をくちづさんだ。

 講釈は少し迂遠だったが確実な進歩を実感できた。

 "言とは事。言葉はただ言葉であるだけで万物を切り取る力を有する。故に呪力など介在せずとも構わない"

「言葉が万物を?」

 "左様。主もまた創造の一週間の一日目に、言霊によって光をお作りになられた。光あれ、と"

 言葉と同時に薄ぼんやりとした光が灯った。

 "この真理からは何人も逃れられぬ。それが、悪魔でもまつろわぬ神であっても"

「まつろわぬ神?」 

 "そう。神や悪魔、精霊、英雄らが地上へまつろわぬ身として現れる折には伝承逸話という言葉と言霊によってその相が定められる。同じ神でも数多ある尊名から、言葉によって切り抜かれ、真の姿として現れるのだ"

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。カミサマが地上へ現れるって、そんなむちゃくちゃな…………。おとぎ話の話じゃ?」

 何かを教授する時も、やはり聖書の引用が多かったが今度は神は実在するとまで言われて流石の彼も受け入れがたかった。

 "そなたが巻き込まれた異変は人の領域で語れるものか? "

 絶句した。抗弁のしようもなかった。

 "この身は時たま滅びを予見する。そのたびに滅びの見えた地を訪れ警鐘を鳴らす。滅びを引き起こすのは決まってまつろわぬ神か、それに準ずる者ばかりだ"

「神が、世界を滅ぼす……それって止められないんですか?」

 "止めれもすれば、滅びるときもある。至高たる神がただ1柱おわすればまつろわぬものなど現れず済むのだが、かつてバベルの塔崩壊以来、人類の言葉は幾万と別れ、散り散りとなってしまった。

 人々は方々へ散って魔女リリスが産み落としたシィディムと呼ばれる悪魔を、自分たちの神として各々の言葉で思い思いに切り取り崇めはじめた"

「悪魔を神に……言葉で区切って神にした……そんなことあるんですか?」

 "うむ。神が一人であれば言語もひとつ。裏を返せば言語が1つであれば神もまたひとつとなるのだ"

 深いため息とともに首をふった。茫洋とした輪郭には拭いきれない憂鬱さといくつもの滅びを看取ってきた懊悩の跡があった。

 唯一絶対の神に救いを見出す師とは逆に、神なんてものがいるなら殴り飛ばしたい衝動に駆られた。

 

阿吽(裂けろ)

 岩を真っ二つにするほど強力な言霊を出せるようになった。力が身についている実感に手を握りしめる。

 力に溺れた訳じゃないがこのまま極めいけばカミサマってやつも痛い目合わせられそうだ、口に出さずとも口がニヤけた。

 "喝"

「あだっ」

 不埒なことを考えていたら察したように言霊の打擲を受けた。顔をあげれば師が厳然とした表情を浮かべて立っていた。

 "神に決して抗おうとしてはならぬ。神とは意志を持った天変地異なり。人は迫りくる大海嘯を止められるか? 地震を縫い止めることできるか? 嵐を切り伏せることができるか? "

「できない、ですね」

 "神とはそういうものだ。ただそこにいるだけで災いを呼ぶ。海の神は津波を呼び、嵐の神は嵐を呼ぶ。戦いの神は戦いを引き起こし、獣の神は人を獣へ窶すだろう。あるいは言霊ですら歪めてしまうかもしれん"

 神に抗うな。魔道に関わるものたち全ての共通認識であり、絶対の掟でもあった。神は総じて人を蟻や路傍の石程度にしか認識していないのだという、だからこちらも干渉しなければ被害は少なくなる。触らぬ神に祟りなしだった。

 ならなぜそんな大いなる存在が、自分を逆行の渦のなかに閉じ込めたのだろう。それが酷く気にくわなかった。

 それから幾年月。

 これまで体質的な問題で呪術を使えなかったが、いざ呪術を学ぶと才覚的な問題が彼を阻んだ。ひとつの術しか適性がなかったのだ。

 阿吽の言術。

 阿吽とは始まりと終わりを現す言葉で、あらゆるものに作用した。そして彼の才覚はそれさえ収めれればいいというように、阿吽以外の言霊を認めなかった。

 一芸特化。それでも彼は特に気にとめなかった。もともと呪力がないと言われて散々門前払いされてきた身だから一つだけでも扱えるならそれでよかった。

 それに術ではなく基礎となる部分……言霊から心情を読みとる、心の裡を隠す、それらの術は有益だった。いの一番に教えられる基礎中の基礎らしかったがレイミアの一件もあって是が非でも欲しいと願っていたから身の入りようは一入だった。

 言霊の棘をなくすのは案外簡単だった。言霊を視認できればそう難しいことではない、という言葉通り意識すれば可能になった。

 レイミアを傷つけたくないと彼女の傍を離れてもう何百年と経っていたが、その果てに術を修得した。くずおれるほどの歓喜に支配され、その場で情けなく泣いてしまった。

 けれどレイミアのもとへは行かなかった。師に止められたのもあったが、顔を合わせる気になれなかったのだ。もうレイミアと会わないと決意した日から幾年月の年月が経っていた。どんな顔をして、それも彼女はこちらを知ってすらいないのに、会えばいいのかもう分からなくなっていた。

 逆行すると出雲から関東に行かなければならない。移動も面倒だったが、雑踏を行き交うと無数の言霊を読み取ってしまい激しい嘔吐に襲われるようになったのは辛かった。

 言霊を習い、対策を講じれるようになってもこの有様なのだからレイミアは辛かったはずだ。

 それから幾許かして相変わらず阿吽の術しか使えなかったが、何千回目かの果てに免許皆伝を言い渡された。

「免許皆伝って本当ですかお師さん」

 "そなたに授けられる教えなどそなたと出会った日からなかった"

「でもそれは何度も逆行してきたお師さんに教授してもらったからです。ありがとうございました」

 "そなたは格を高め続けよ。そなたは器、言霊も器なのだ。器は大きいほど力を増し、収められる言葉も大きく、そして、強くなる"

「はい」

 "今でこそ阿吽しか扱えぬそなただが、言霊を極め続ければいつか必ず逆行の渦からも抜け出せるであろう。

 そして、そなたはもうひとつの才を磨き上げよ"

「もうひとつの才、ですか?」

 "そなたは器。まるで言霊のごとき器なのだ。それがお主の最大の才能。総てを理解した時、そなたならきっとゴルゴタやダヴィデの言霊を行使できるようになるだろう"

「よくわかりませんが……分かりました」

 "そして──蛇女と別れ、総て忘れよ"

 音が搔き消えた。

 血が血管を破かんとするかのごとく波涛さながらに荒れ狂った。耳鳴りじみた音が外界の音を遮っていた。音は彼自身の奥深くから吐き出される言葉。許されるものか、認めてはならない。拒絶の声だった。

「何故」

 自分でも驚くほど血の通わない声だった。反響した声がそばにたっていた樹木を寸断した。

 "あれは忌々しい神の敵対者たる蛇につらなる者。決して人が馴れ合ってはならぬ存在なのだ"

「お師さん。あなたには感謝しています……だけどあなたの言葉でも、頷けない」

 "聞き分けよ。あの者は蛇に連なる忌むべき魔性。そなたは魅入られておる"

 眼光を鋭くして師と呼んだものを眺めた。彼女を敵と呼ぶのなら、彼の敵も同然だった。

 "あの娘がなぜそなたと同じ言葉を交わせたか、考えてみよ。言霊が見えるだけで言葉はとは交わせぬ。千の言霊はとうに滅ぼされた……敵対者たる蛇によって! 蛇は言霊を滅ぼし、神を滅ぼそうしているのだ! "

「やめろ! おれの記憶を読み取って、良いように解釈するんじゃねぇ! おれとレイミアを侮辱するな!」

 "レイミア? 目を覚ませ愚か者! あれは蛇の化身よ……忌まわしき夜の魔女の一側面に他ならぬ! "

阿吽(近づくな!)

 師と己の間が言霊によって裂け、巨大な溝を生み出した。

「もうあなたとは出会わない」

 "不肖の弟子め……"

 喧嘩別れになってしまった。それからは結局どうこうする宛もなく、師の言葉通り各地にある霊地をまわった。

 

 修行の旅は九州から東北まであらゆる霊地や聖地だった。と言っても1週間もすれば死ぬので腰を据えた修行というものが不可能だったのだが。

 特筆すべきは栃木にある男体山を訪れたときだろう。東照宮まで電車で向かい、そこから戦場ヶ原付近まで徒歩で向かっていたのだが、そこで()()()()()()()()()したのだから。

 山道を歩いていると麓に方で豪快な破砕音が鳴り響いて、気づけば神がいた。理屈だとか、直感だとかそんな迂遠なものではなく、

 本能がけたたましく叫んだ。眼前の存在は神、まつろわぬ神なのだと。

「ワシを戒めておった縛が解かれたのはそうか、おぬしの蛇に当てられたか」

 そのまつろわぬ神は開口一番なにかを得心したようにうなづいた。赤い目に金の眼光。姿形はひょうきんな猿のようだが、挙動のひとつひとつに隔絶した武の臭いを感じて息が詰まった。神々の中でも自分にとっては天敵なのだ、小さく悟った。

「まつろわぬ神……これが」

「なんじゃ、へんに落ち着いているのう。蛇に連なるおぬしが『鋼』であるワシに見つかった以上死ぬしかないんじゃが」

「ま、まぁ……めちゃくちゃ怖いですし何故かすっごく息苦しいんすけど、なんか死ぬのにはもう慣れましたんで……」

「はてな。死ぬことが慣れたとは不思議なことをいうのう」

 なんとなく間抜けた会話を挟んだからか猿の神様はあぐらをかいて、二、三世間話を交わした。

 神様にはいくつか種類があって、太古から敵対関係にある勢力があるらしい。大地の女神が属する蛇と呼ばれる陣営とそれを征服し、力と変える英雄が属する鋼があるとのことだった。師の言っていた蛇という言葉が真実かもしれない、そんな危惧をおぼえ、慌てて振り払った。

 そこでお開きになるようだった。

「さて、殺すかの」

彼の腹が。

「どうにかなりませんか」

「どうにもならんのう」

「ひとつだけ教えてください。ぼくのなかにある蛇って言ってましたけど、それってなんなんですか?」

「まぁおまえさんが通りかかったからこの孫様も下界に出られれたからのう──リリス。冥途の土産に教えといてやろう」

 即死した。

 

 あれから何度か日光へ訪れ、例外なく殺された訳だが猿顔の神様の正体は結局わからなかった。2度目以降は話をしようとする前に殺されたし、日光に祀られた神を覗いても猿猴神君というマイナーな神がいるばかりで自分を「孫様」と呼ぶ神には結びつかなかった。

 収穫もなく早々に調査を打ち切ってリリスを調べた。

 曰く、最初の女。

 曰く、すべてのシェディムを産み落とした悪魔。

 曰く、アダムとの対等を認めらず神のもとをとびだし紅海に住み着いては子供をさらい死に至らしめた。

 ……などなど碌な逸話がなかった。成り立ちからして悪魔じみた側面を持っている女神だったからユダヤ教やキリスト教に取り入れられても色濃く残ったようだ。

 確かに悪しき存在、と言われればそうなのだがリリスに逆行を司るなにかがあるのか? と聞かれれば首を捻らなければならなかった。これなら時の神であるクロノスやカイロス、それにアイオーンなどといった神が黒幕だと言われてた方がまだ納得出来た。

 それからも書物やリリスの情報を求めて各地をさまよったが断片的な情報が手に入るばかりで核心はベールに覆い隠されていた。

 師の元を離れて人の中で生活し、裏世界にも顔を出すようになって、100年近い年月が流れようとしていたが確かな情報は得られない。

 なら人ではなく、まつろわぬ神に聞けばいい。彼は苦渋の決断を下した。

 死の確率は非常に高い。それでも彼はまつろわぬ神を探すようになった。解決の糸口はやはり彼の者たちしか握っていないように思えたし、それに残機∞の不死身なのだ。足踏みするより一歩進むことを選んだ。

 ただ、そう易々と会えるものでもない。人の人生において出会すことなど滅多にないと言われるほどで、2度目の邂逅は、探しに探し回って十年は過ぎた頃だった。

 日本で見つからなかった彼は業を煮やしてヤケクソ気味に他国を飛び回っていた。出会ったのはイタリアで地理もわからずさまよっていた時、かの女神は現れた。

「ほう。なるほど」

 死を幾万と繰り返してきた彼だが、その女神との邂逅は自意識を喪失寸前になった……濃密すぎる死の気配によって。

 外見は銀月の髪をもつ少女だった。

 ただ壮絶な美しさを備えていてひと目で超上の存在なのだと悟った。女神は振りまいている美しさとは裏腹に草木を枯らすほどの死の怖気を満々と撒き散らしていた。死に聡く、慣れ親しんだはずの彼でさえ嘔吐させるほどの死臭を。

「そなた、蛇の眼か」

 可憐な唇から玲瓏な言の葉がもれた。後退りたかったがそのひとひらの言の葉に圧壊しそうだった。

「智慧の神たる妾はそなたを蛇に連なるものと囁き、神託の神たる妾は目して語らず。なれど妾は悟ったぞ。この幹たる次元から分かたれた外史とでも呼ぼうか……正しき潮流より外れ、泡沫さながらの支流であるこの流れにおいては、妾は脇役なのだと」

 なにかを一人で悟り、納得した幼女神は「ククッ、精々足掻けよ人の子よ」と言い残し踵を返した。

「待って……くれ!」 

 とっさに追いすがって去ろうとする女神に見苦しく懇願した。

「リリス、という言葉に聞き覚えはないか! そうじゃなくても、このループはいつ終わる! どうやったら終わる! 知ってるんだろうカミサマ!」

 這い蹲る彼に、女神は視線を向けた。冷厳なる視線に、視線のかち合った眼球が凍てつく思いだった。

「知らずともそなたは最短の道を進んでおる。いや、知らぬ方がより歩みは早くなるというもの。そのまま突き進むがよい、人の子よ」

 突き進む、といってもどうすればいいのだ。ふたたび疑問をぶつける前に女神は消えてしまった。

 それから何度も試みたがまつろわぬ神と出会うことは無かった。

 女神とあってなにも得られなかった訳じゃない。まつろわぬ神と出会った1番の収穫は情報ではなく、どうやら己の格も上がったのだ。神と何度も遭遇し、どういう化学……魔反応が起きたのかあらゆる言語に不自由しなくなったのはこの頃だった。

 つまり音に聞く、千の言霊を体得した証左だと思った。千の言霊は熟達の魔術師や、高位の人外しか獲得できない、魂の位階が高まりによる高等魔術でもあった。

 1歩1歩進んでいる。確信を得てから、変化は立て続けに起きた。死は決まって七日の正午に訪れたのに1度の逆行を繰り返すほど死亡時間が伸びていったのだ。

 最初はただの違和感だと思った。けれどいつも終末の鐘じみていた正午のサイレンが長くなって、試しに計測してみれば。

「よし!」

 一筋の光明をみた。思わず声をあげて空を仰いだほどだった。

 1秒、また、1秒と生存時間が伸び、そしてさらに数年の修行を重ねた頃だろうか──何者かに狙撃された死んだ。

 

 

 

 

 死は死だ。

 けれど高揚があった。

 これまで直面してきた死はほぼ自然死で、まつろわぬ神は例外として、人為的な極わずかだった。それが今回狙いすましたように狙撃して殺された。

 計画的な死だった。

 おそらく彼の格が上がったことで世界の干渉力によって殺せなくなったのだろうと勘づいていた。だから今度は、人が彼を殺しに来た。

 女神の言う通りだった。自分は前進している、間違いなく。止まっていた時計の針が軋みをあげて動き出していた。

 何度目かの逆行を経てどこかの"組織"が自分を付け狙っているのだという情報を得た。組織の魔の手はいついかなる場所においても七日目以内に彼の命を奪い去った。日本のみならず、海外においても同様だった。

 悟った。これほどの規模と影響力を持っている組織など日本には一つしか存在しない。

 正史編纂委員会。

 それをおいて他になかった。どこにいても正史編纂委員会は命を刈り取った。太刀で首を狩られた。使い魔にはらわたを食い荒らされた。

 正史編纂委員会のエージェントはひどく切羽詰まった様子で彼を殺しにかかった。言葉を交わす余裕も隙もなくて、言霊を読み取る行動さえ不可能なほどだった。

 息をつかさぬほどの怒涛の攻めに彼は生き残ることを考えるだけで精一杯だった。

 殺しの童貞を卒業したのも、その時期だった。

 生存競争、と言われればそれがしっくり当てはまった。殺さなければ生き残れない。そう言外に語っているようにも思えた。

 七日目だとかそんなこと関係ないとばかりに逆行初日から殺害された回もあった。

 明らかな逆行中の変化。それにエージェントたちもこちらの手の内を知り尽くしたように言霊を読み取らせる愚は犯さなかった。手強い。彼は木陰で出血多量で倒れながら渋面を浮かべ、また死んだ。

 おそらく敵側には内通者……というより自分をよく知るものがいるのだろう。それも言霊を操れるようになった現在の自分を。それが意味するのはつまり逆行というレールから外れた存在がいる、はるか先にあったゴールが飛び込んできた思いだった。

 黒南風が嵐のごとく吹き荒れ、スカーフが赤く染まらんばかりに死を迎えた。人の悪意は縮まりきっていた時間を急速に拡大させた。

 死の猛威に挫けそうになった。それでも一歩、また一歩と彼は進んだ。ゴールがもうそこまで来ている。なら諦めるなんて選択肢はとるはずもない。

 彼は思案した。

 天の運、地の利、人の和。古来より戦いは三つの要素が勝敗を決する決め手となると言われる。

 天自らが殺しにくるのだから天運など望むべくもないが死を覆す無限の命が彼にはあった。天候は七日目に絞るならいやというほど慣れた雨。いいとこ五分五分じゃないだろうか。

 人の和はあちらに利があった。人間が徒党を組んで襲いかかり、対してこちらはたった一人。火を見るより明らかだ。

 ならば残った地の利だけは是が非でも握らねばならない。地の利のある場所なんてひとつしかなかった。

 彼は出雲で決戦に臨んだ。出雲は日本でも有数の霊地のひとつで、言霊の巡りも良い。敵を迎え撃つならばここ以外ないとすら思えた。

 腰を据えてからは、ひたすら死に覚えのゲームだった。敵の配置、襲撃の順番、風の向きや強弱、あらゆる要素を頭に叩き込み、時には盾とし時には鉾とした。

 8日目。7日目を超えた先にある未踏の世界にこそ逆行の終わりがあるのだと彼は信じきっていた。

 何十と頭を撃ち抜かれ、何百と体をかっさばかれる、何千と魔術の餌食となりながらも、不断の決意を貫けたのは終わりが見えたから以外にない。

 人の心は脆い。

 小さな光がなけれ彼は挫けていただろう。

 だが少しづつ彼の心は弱っていった。

 自分の死に続けた経験と殺し殺されを繰り返し続け、言霊ひとつで人間を屠れるほどになった。

 だが言霊は話した人間の総てを物語る。見知らぬ誰かの断末魔は、彼の心へ入り込んで、大切な人の断末魔だと錯覚してしまうほどに。

 言霊は諸刃だ。誰かを殺すのに向いていない。自分が殺されてしまう。

 言霊とは誰かに寄り添うための術なのだと、彼は人を殺しながら悟った。

 終わりたい。もう辞めたい。

 その一心で殺し続けて──その回は訪れた。

 

 黒南風が髪をさらった。

 きっとこの回が最後の逆行だ、ただの直感にすぎなかったが吹きすさぶ死と戦いの記憶がそう結論付けていた。

 腕に巻いていたスカーフをほどいて鼻先に当てた。きっとこのスカーフがないとこの場に立っていなかっただろう。

 

 ふと、風が吹いた。強い風だった。

 

 意地悪な風は彼の手に持っていたスカーフをさらって空高く舞いあげた。これまでの逆行にはなかった珍事に驚きを隠せず固まってしまった彼だったが自分を取り戻すと急いで風にそよぐスカーフを追った。

 杉がまばらになって景色が変わろうと、草花が消えて岩肌を踏みしめようと、森を抜けて崖を降りようと、風とスカーフは決して止まらなかった。

 そして彼から換算すれば数百年ぶりに、ある場所を訪れる形となった。彼が忌避し、近づくのをずっと避けていた場所。

 そう……レイミアの住まう小屋は変わらずそこにあった。

 彼は焦りを覚えた。

 心臓が跳ねて、血流が波打った。もしかしたら高揚だったのもしれない。

 崖を下って、彼女はいた。以前となんら変わらない同じ姿をしてそこに在った。洗濯物を干しながら、汗を拭う彼女は、ひどく懐かしくて知れず頬に熱い二条の線がはしった。とうに枯れ果てたと思い込んでいたから、引っ込め方が分からなかった。

 立ち尽くしているとレイミアがこちらの存在に気づいた。訝しげな表情浮かべて近寄って、彼女は彼女のままだった。赤い髪と小麦の肌。どこか婀娜っぽく、それでいて上品な雰囲気のある少女はやはりレイミアだった。

「…………レイミア、君なんだな」

「あなたは?」

 答えなかった。いや答えらなかった。拒絶されるのはわかっていたけれどコワレモノじみた彼女をそっと抱き締められずにはいられなかった。

「必ず、必ず、君に辿り着く……! 君の元へたどり着いて約束を果たしてみせるから……だから待っていてくれ……」

 ああ! 何もかも忘れ去って彼女を連れ去り、日がな1日海を眺める日々を送れたら! 

 彼の身勝手な行動。でも予想に反してレイミアは振り払うことはしなかった。嬉しかった。飾らずにそう思う。この一瞬を永劫引き伸ばして繰り返せたらどんなに良いだろう。

 でも。それじゃあだめだ。

 名残惜しい気持ちを殺してその場を去った。レイミアの熱を肌に刻んで、地獄へ戻った。

 レイミアがいつまでも彼の背中を見つめていた。

 

 街に降りた彼は自動販売機のそばで立ち尽くしていた。隠しようもない興奮が、いつもの冷静な思考を奪っていた。

「レイミア……」

 彼女のぬくもりが活力となった。動きを止め寒々しかった炉心に火が点る思いだった。

 最後だという確信はより一層強くなり、縁遠い希望なんていう言葉が彼の周囲で煌めいていた。

「絶対に勝つ」

 拳を握り、決意を芯とした。

 一歩、一歩、確実に準備を進めなくてはならない。

 けれど心が浮つくのを止められなかった。まるで退職を間近に控えたブラック企業の戦士かなにかのようで、心が軽やかだった。

 逆行のはじまる以前とは異なり、彼は人を見るようになった。人についても彼は考えを改めた。きっと逆行をはじめる以前の彼だったら到底受け入れられなかった解釈だった。

 人は────だ。人々は誰しも大切な誰かがいて、それを守るために戦っていて、怪物なんてどこにもいなかった。

 

 出雲にいる間、やはり荒木の元で世話になった。人の正邪の入り交じり、言霊にも虚飾の少ないあの場所は、素直に心地よかった。

 仕事の手順なんかも今更だったし、それなりに評価もされた。気分を良くした荒木は彼を連れて食堂で昼飯をとなった。

「お前、喋らないし、細いから正直使えないと思ってたが……案外やるなぁ」

「案外、はいらないですよ」

「その減らず口が叩ける度胸があればもう心配ねぇな!」

 ガハハと笑う荒木に、この人も変わらないなと苦笑した。

「まぁ、なんだ。時彦の倅は、時彦の倅はだったわけか」

「時彦……あの人のことですか」

 豪放磊落な彼にしては珍しくどこか言葉に迷っている風で、彼は気にするなと続きを促した。

「あいつは不器用だった。頑固でもあって、普通なら音を上げるくらい苦しんでても、決して誰にも相談しようとしなかった。俺もほっとけなくて、世話を焼いたが結局なんも話しちゃくれなかったなあ」

 何度か交流を繰り返したはずだが、寂しそうな荒木ははじめてだった。

「お前はあのころの若い時彦の目をしてる。なにか腹に抱えて、でも絶対に表に出さない。その目はあの時彦の目にそっくりだ」

 きっと逆行の始まった当初なら受け入れられなかった言葉だった。でも、言霊と培ってきた経験が彼なりに友人とその息子の仲を取り持とうとしているのに気づいて素直に受け入れるしかないじゃないかと少し目を伏せた。

「時彦ももうすぐやろ。……出てくる前に、親父さんに会いに行けよ」

 どこか探りを入れるような荒木に、この人も大概不器用だなもう苦笑を禁じ得なかった。

「ええ。行きますよ。ぼくもあの人のこと、知りたいですから」

 彼の言葉に拍子抜けしたような荒木の顔が愉快だった。

「それより、なんだか外国人が増えましたね」

「ああん? そうか?」

 窓越しの景色にも日本人には見えない人たちがみえてなにかイベントがあっただろうかと首を捻った。そんなもんだろという荒木は笑い、お勘定をして店を出た。

 彼らの出ていった食堂で流れていたテレビには──流暢な()()()を話す米国大臣のすがたが流れていた。

 

 翌日、刑務所にいる父に会いに行った。父の出所も8日目だったから、あの戦いをくぐり抜ければ新たなスタートが切られるのを意味していた。

 何もかもこれからだった。

 スカーフを口元に当てながら待合席で順番を待っていた。緊張していないと言えば嘘になる。父の顔を見るのは久しぶりで逆行をしていた体感時間を掘り起こすとおおよそ100年近く見てないのではないか。

「42番の方」

 受付番号を呼ばれて立ち上がった。

 

「久しぶり、だね」

 前回のような無言の時間は繰り返さなかった。父の顔は、記憶にある顔より皺が増えて髪に白いものが多く混ざっていた。もう10年以上もあっていなかったのだ。当然か。

 父とは絶縁するつもりでいたのに、今となってはその気はなく、穏やかに話しかけた自分に驚く。頭のネジが取れてしまったのだろうか。

 父は口を引き結んで、俯いたままだった。

「ずっと会いに来なくてごめん。ぼくはぼくで生きるのに必死で、それにあなたがやったことにも心の整理がつかなくて足が遠ざかってた……いや、違うな。来たくなかった。あなたの顔を見たくなかったんだ」

 父の膝上で握られた拳が、小さく白んだ。それを見ながら、でもねと続けた。

「僕にも大事な人ができたんだ。その人のためならなんでもできるって人が。……きっとあなたにとっての母さんのような人だよ」

 会話ではなかった。父はずっと黙ったまま微動だにせず、彼もまた一方的な独自ばかりだった。

 記憶のなかで親子の記憶は、殺し殺されの記憶しかない二人だ。拒絶し合うのが正しい。

 でも彼はそれを投げ打って、1歩進んだ。

「なあ、ここを出たら、また、一緒に暮らさないか」

 父が驚く気配を察しながらも言葉を続けた。

「あなたのやったこと、まだ全然許せないし理解もできないよ。なんで、って気持ちは正直今でもある。……でも、でもさ、大事な人ができて、ぼくも無理解じゃいられないよ。大切だからこそ間違った選択肢を選んじゃう気持ちも、今なら少しはわかるからさ」

 レイミアとの記憶を忘れたことはなかった。彼女のために暗闇のけもの道を進んできた。これが正解だったのか、まだ走っている彼にはわからなかった。

「あなたもそうだったんじゃないか? 大事で大事で大切すぎて、どれが正しいのかなにをすべきだったのか分からなくなって……結局あんな結末になっちゃったんじゃないかって」

 父は間違いを犯した。取り返しのつかない間違いだ。

 息子である彼ですら父とは死の具現なのだと刷り込まれるほど大きな間違いだった。

 でも父と立場を置き換えて、母の位置をレイミアに変えたなら、彼は父と同じ選択をしなかったなどと言える自信がなかった。

 今更気付いた。父が死の具現なら父の肯定は、死を肯定することにも繋がった。少なくとも以前の彼はそう思い込んでた。

 けれど彼は、本当の死に触れ続けた。何度も、何度も。

 いつしか()は超えるべきもので、乗り越え踏み越えることで8日目に辿りつけるのだと信じていた。

「この牢獄を出たらさ。また、一緒に生きよう……父さん」

 顔をあげた先にいた父は、静かに微笑んでいた。

 

 

 正午のサイレンが鳴った。

 以前はこのサイレンが鳴ると死を覚悟したものだ、終末のラッパに思えて仕方なかったでも今では開戦の法螺に思えた。

 決戦の地は出雲大社の裏手に広がる山だ。何度も踏み入れた場所だったし土地勘もある。それに、あの場所に近かった。

 彼はある方向を見た。そう遠くない場所に彼女がいる……彼女を思うと活力が満腔から吹き上がった。何よりも大切なものをそばに置きながら戦う。愚かしい行いだが彼なりの背水の陣だった。

 天候はいつもの土砂降りだった。

 しとどに降り注ぐ雨が、視界すら奪った。

 開戦の嚆矢は超遠距離からの狙撃だった。木々の合間を縫って、雨をものともせず、鷹の羽で誂えられた一矢が彼の脳髄を抉りさろうと直進する。初撃から正史編纂委員会は本気だった。

 尋常ではないこの神業に何度殺されたか分からない。現状でも彼の反射神経では反応すらできない。

 彼にできたのは死に覚え。タイミングを読み切って「吽阿(跳ね返れ)」と口ずさめば、矢は弧を描いてそのまま相手に返った。

 刹那、身をかがめて斬撃を避け切った。

 躍動する視界の端に捉えたのは見慣れただるま顔の剣士。撃剣会の師範代だった。

 相性は最悪の一言に尽きる。剣を見るほど足が震え、心意気が萎えてしまいそうになる。

 彼が怯んだのを察したように剣士は──寒光一閃。横薙ぎに切り払い、草や枝どころか木の幹が両断された。

 風に聞いたことがある。日本でも最高峰の技量を有する撃剣会の師範代は、剣術だけならば武林の至尊と謳われる王にも匹敵するのだという。王とはなにか知らないが、大層な武名だ、と呆れた。

 早々に息が切れる。

 彼の体は争い事にとことん向いていなくて、数度の交錯ですら多大な負荷だった。

 剣士は人の領域を超越していた。手詰まりに何度悩んだかしらない。

 だがある時光明を見出した。人の領域では勝てないなら、それを上回ればいい。雨のなか剣豪たる彼はなにを振り回しているのかもっと考えるべきだった。

「俺の勝ちだ」

 笑止、と目が語っていた。

 位置取りは間違いない。ここは庭も同然で間違えるはずもない。あとはタイミング……そう今! 

 ──劫。

 轟音、そして大電圧を伴った落雷が剣士を直撃した。

 降りしきる雷雨のなかで彼は剣士となんど戦い殺された正攻法で勝てないのはわかっていたけれど、言霊は払われ、銃弾を切られ、地雷も見切られ、爆弾による爆発も両断されれれば、もう超常現象に頼るしかなかった。これでも雷を切ってしまうのではないかと冷や汗を禁じ得なかった。

 見事、唇の動きだけの簡潔な賛辞とともに彼は息絶えた。

 次はざわめく気配と魑魅魍魎が林を縫って現れたのは同時だった。どこにこれほどの数が潜んでいたのかと悪態をつきたくなる。

 あれらは式神。人に使役された異形である。雪崩を打って彼に迫った。

 

 式神の主は各方面から集められた呪術師たちだ。彼が教えを乞い、才なしと門前払いされた呪術の大家もいれば、民から引き抜かれた在野の術師もいた。彼らは山の開けた場所に急造のお社を作るとそこから式神を飛ばして件の男を急襲した。

 千人規模で臨んだ近年日本の呪術界において大作戦といってもよかったが、楽観的な大方の予想を裏切り数多の実力者がたった一人の男によって打ち倒されていた。

 誰かがいった。あれは黄泉軍(ヨモツイクサ)だ、黄泉から現れた鬼なのだと。彼ら正史編纂委員会の勢力にとって真実、彼の見解は滅びの運び手だった。

「術を維持せよ! 数で攻めるのだ!」

「馬鹿な、術士10人で編み出した鵺の爪牙を避け切っただと? あれは人間なのか?」

 彼が生きたまま日を跨いだなら覆しようのない滅びが訪れる。故にこそ彼らは生命をかけて、彼の命を取ろうと画策した。

「やだねぇ……一人をよってたかって。マ、報酬の率がいいから僕もやるんだけどさ」

 水盆に映し出された彼は平凡そのもので呪力も感じなかった。それなのに巧みな足取りと、熟知した地の利で圧倒的な数の差を凌いでいた。

「皆の衆! やつは言霊を読み取る! 一切気取られてはならん!」

 お社にいたすべての人間が布を噛んだ。攻撃はさらに苛烈なものへと変化したが、総てを把握していると言わんばかりに如才なくお社へ駆け込んできた。

「コレ、不味いも」

 荷物をまとめて出ていこうとしたところで「──阿吽(死ね)」土羽をのぞいた人間は息絶えた。死の顕現はこちらを向いた。

「……土羽。あんたか」

 おや、僕の名前を知っていたのか。反射的に拳銃を発砲しながら顔を見て「吽阿(返れ)」幸が薄そうだ、それが土羽の最後の思考になった。

 

「はぁ……はぁ……」

 以降彼はひたすら騒乱に身を置いた。極限状態のなか12時間というの超長時間の戦闘を強いられていたのだ。生き馬の目を抜く緻密さと果断さを要求される過酷な状況は彼の精神を削りに削った。

 しかし、彼は未踏領域にまで足を踏み入れることに成功した。正史編纂委員会のエージェントを悉く葬り去った彼は、木陰で息を整えていた。

 ここから先は彼を以てしても未知の領域だった。何が来るか分からない。喉が痛い。短い単語を厳選し戦いが長引かぬよう配慮したがやはり人間。限界は来るもので、喉が破け、咳込めば鉄の味が滲んだ。

 

 でも。

 戦いは、終わって、いない。

 

 雷光が森を照らした。陰鬱な木の影に白いもやが疾走している。早くはない。けれど確実に彼へと距離を詰めた。

「わかっていたんだ!」

 彼は叫んだ。豪雨のなかにあって揺らめくもやに懐かしい気配を感じてしまったのだから。そして抱いていた疑問の解となった。

「どうして正史編纂委員はぼくが言霊を使えるのを知ってたのか! 言霊に対応してみせたのか! 

 そんなのぼくを知る誰かでしか不可能だって! ぼくは否定して目をそらして、でもやっぱりだった! 最後の敵は──お師さん、あなたなんでしょう!?」

 最後の刺客にして最大の敵が現れた。

 白いもやは揺らめきを強め、一定の間隔を保ったまま近づくことも遠ざかることもない。

 ゆらめきは人となって衣を纏うと「喝」と口ずさんだ。衝撃が口唇から生まれ、彼が「阿吽」と言い放ち衝撃が拮抗した。

 "滅びは回避せねばならぬ。それが預言者たるわたしに科せられた使命であるあからこそ"

「使命、また使命か! 使命ってやつがそんなに大事なのかよ! そんなに偉いのかよ──阿!」

 言霊は質量を伴った砲弾だった。常人ならば消し飛ぶ威力のそれはしかし陽炎じみた老人をすり抜ける。

 攻撃が効かないのではない。受け付けないのだ。まるで次元の異なっているかのごとく手応えがない。

 圧倒的な位階の差。覚えがある……何度か邂逅した意思を持った災害たちと同じだった。

「お師さん……あなたはまつろわぬ神だったんですか?」

 "否。この身は尊崇すべきお方の足元にも及ばぬ木っ端。されど聖人に列せられた身でもある。そして蛇による逆行も、この身には意味をなさぬ"

 聖人。信徒の模範となるべき行いをした者もいれば神ならぬ身でありながら奇跡を起こした者に贈られる尊称だ。

 おそらく後者なのだろう。現に師は超越者としての相を宿していて、あらゆる魔術や兵器を受け付けない性質があった。

 そして逆行の埒外にすらいたというのだ。だからこそ師は彼に師事できて、正史編纂委員会を動かせた。

 師の苛烈な攻めと無敵の防御に彼は逃げ回る他なかった。言い訳のしようのないワンサイドゲーム。こちらの攻撃はことごとく空振り嬲られる様子はもう狩りといっても過言ではない。

 杉がまばらになって景色が変わろうと、草花が消えて岩肌を踏みしめようと、走りに走って、汗を拭いながら蹲った。こぼれたのは弱音だった。

「どうして戦わなくちゃいけないんだ」

 でも本音だった。

「ぼくはもう……誰も殺したくない……殺しすぎた。殺されたくだってない! 逆行をする度に同じ人間を何度も殺してるんだぞ! ぼく自身何度死んだ!? 嫌いだった土羽だって殺したくなかった!」

 師は彼のもとへ一息に辿り着くと、杖で強かに打擲した。

 "我が弟子よ……そなたは死なねばならない運命にある"

「どうして! どうしてぼくだけ!」

 

 "神を否定する言霊の塔──バベルの塔を作り上げてしまったがゆえに"

 

「バベルの、塔?」

 "そう。バベルの塔こそ世界を滅びに導くきざはし、リリスを登極させるための最後の扉。それを8日目に持ち越させる訳にはいかぬ"

「分からない……分からないよ! なんなんだ滅びって、教えてくれよ!」

 這い蹲りながら髪を振り乱して叫んだ。地を這う虫じみていて尊厳などという高尚なものはどこにもなかった。

 師はその姿を眺めつつ、口を開いた。

 "前提として、この次元はリリスによる滅びが確定した世界なのだ"

 這いながら逃げていた手が止まった。耳と正気を疑いながら振り向くと、師の酷く沈痛そうな顔があってさらに困惑した。

 "世界はひとつではない。

 大樹のごとく幹があり枝葉があり、連綿と果てしなく続いておる。それが世界の真理なのだ"

 荒唐無稽な話だった。それこそかつて聞いたレイミアの使命のように。

 言霊は多くを物語る。真贋すら容易に察することができて、師が決して嘘を付いていないと理解してしまった。

 "複数ある次元のなかでも大樹と例えたように幹さながらの正史があり、枝葉となる並行世界がある。幹から枝が別れる理由はひとつ。覆せない矛盾が生じたとき世界は別れ、それが枝葉さながらに別れていくのだ"

 分からない。分からない。淡々と語る師が恐ろしい。

 "我らのいる此処はリリスの来臨によって、根幹となる次元から別れた。リリスは滅びをもたらす。根幹たる世界は幹たる己が存続するために、"リリスが現れた"という矛盾の起きた此処を切り離し枝葉とした。つまり此処は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()"

「滅びがなんだよリリスなんて知らない! ぼくは関係ないはずだ、ぼくを殺したってなにが起こるって言うんだ!? 殺し殺されはもうたくさんなんだ! お師さんあなただって殺したくないっ!」

 "そなたを屠るのは滅びを遠ざけるため。蛇の目であり()()()であるそなたを殺すことで世界は延命されるのだ"

 彼の癇癪じみた言葉に、師は至って冷静に返した。熱せられた妄想が、現実の壁に投げつけられたようだ。

「観測者?」

 "そう。そなたは蛇の目……リリスの眼なのだ。リリスはこの世に来臨してすぐに何者も辿り着けない深淵に身を潜めた。神への復讐を果たすという誓いとともに。

 盲い聾たに等しい深淵でそなたの目が外界を繋ぐ糸だったのだ。逆行の起こる以前、そなたは1巡目の世界でそのような契約を結んだ"

「契約……?」

 なんだ。何をしたんだ。遠い昔の記憶なんてとっくに埋没してしまって咄嗟に掘り起こせなかった。彼はそう思い込んだ。

 "逆行とはただ繰り返すだけではない。そなたの目は世界の中心根幹たるリリスの目と繋がってしまった……ゆえにそなたの死はリリスにとって世界の終末に捉えられ、そなたの目覚めは世界の開闢であった。

 逆行とは即ち、そなた自身が終わりを迎えて、次なる始まりを得る言わば再生の儀式でありながら、小規模な創世と終末でもあったのだ"

 彼の生と死はそのまま世界の創造と破壊に繋がったなどと。師は荒唐無稽にもほどがあった、けれど至極真面目な顔で語っていて信じないという選択肢を取れそうになかった。

 "リリスの滅び。それは言語の統一し、己以外の神を否定た末におこる。観測者たるそなたが言葉を交わせば、人々のなかにある言葉はリリスのもとへ届き、徐々に姿を消していく。代わりにそなたの吐く言葉に置き換わっていったのだ"

「ぼくの言葉が、人々の言葉に……?」

 "違和感を覚えなんだか? そなたは各国を巡っていたであろう? その中で言葉に不自由するものがいたか? 星の裏側に住まうものたちでさえ滞りなく話すことができたであろう。そして此処にはもはやバルバロイは存在しない"

『外国人が増えましたね』

『そうか? こんなもんだろ』

 荒木との会話が脳裏をよぎった。たしかにネイティブでさえない外国人観光客は同じ言葉を話していた。

 なぜ気づかなかったのか、彼は愕然とした。

 "そなたは蛙だったのだ。投げ入れられれば逃げ出すほどの熱湯であっても、冷水からゆっくりと温めたなら気付かないのと同じように、温度を感じ取れなかった。ただ、そなた言葉が薪となり滅びの塔を成すほどの灼熱にしたのだ"

 師の言葉は優しく、そしてしたたかに彼を打ちのめした。

 "そなたの吐く言葉はただの言霊には収まらぬ。そなたは逆行し、魂を磨きあげるうちに人よりも聖人や仏に近しい存在となっていたのだ"

 繰り返すことはそれだけでもう神事だった。伝統や習慣、修行とは古から伝わる神話や偉業を真似続けることだ。古から伝わる偉業や逸話を踏襲することでそこに含まれる霊力を得るのだ。

 逆行もまた繰り返すことに他ならない。同じ生と同じ刻を一切の怠惰も赦されず繰り返させられる。それが修行と呼ばずしてなんと呼ぶ。彼は知らずに魂を精錬しつづけ彼という存在位階は人間を超越していった。

 "格の上がったそなたの言葉は、そのまま人々に反映される。そして強固になった人々の言霊はバベルの塔を築くための煉瓦と変わった。

 バベルの塔とは人々が意志と技術を結集させ、神に近づことした象徴。神に近づくとはつまり神の否定に他ならぬ"

 バベルの塔の完成。それは言語の統一と滅びのはじまりを意味した。

 かつて古代の世において築かれたバベルの塔は、自分たちの文明を過信した人々より実現不可能な規模で建設がなされた。神はその様子をみて、言語がひとつであるからこそ結託したのだと理解し、言葉を乱された。

 しかし今度は逆のことが起きていた。神は言葉を統一し、言葉を統一したからこそバベルの塔は生まれたのだから。

 "神を否定する言霊の塔はすでに完成し、それでも滅びないのはひとえに全なる父の御加護ゆえ"

 彼と師は昔日のように講釈を受ける姿勢となっていた。師は杖で地面を叩き、彼は岩場に深く腰掛けうなだれていた。

 "主は七日で世界をおつくりになられた。天地開闢からはじまりの一週間は創世を意味する。破壊と創造が同時に起きることのないように、創世が為されている間滅びは訪れないのだ"

 彼の目覚めは世界のはじまり。彼が目覚めてから一週間という時間は創世という概念に護られ、滅びをもたらすバベルの塔に蓋をするのだ。

 畢竟、一週間を超えればバベルの塔は現れた逃れようのない滅びが訪れるのを意味した。だからこそ正史編纂委員会も誰も彼も果ては運命に至るまで、彼を殺すのに躍起になった。

 当初は平々凡々だった彼も逆行を繰り返すうちに格が上がり、ある時を境にちょっとやそっとの悪運では死なないほどになった。それからだった。師が動き、正史編纂委員会を焚き付け殺し回っtのは。

 それが一週間を越えられない真実だった。

「なんだよ……なんなんだよ……訳わかんねぇよ……。ぼくの言葉がみんなの言葉になった? 聖人に近しい存在? リリスとか、滅びとか、なんなんだよそれ……」

 拳を岩に叩きつけた。何度も、何度も。

「ぼくはただ望んだだけだ。逆行の渦を終わらせて、8日目の先にある未来を……人並みの幸せってやつをさ……やっと歩めるはずの未来だったんだぞ……それなのに、それなのに!」

 彼の嘆きを静かに聴いていた師は極めて穏やかに彼へ語りかけた。

 "弟子よ。蛇に魅入られし不憫な弟子よ。そなたが望むなら儂に身を委ねよ……そうすればそなたの内に巣食う蛇を駆逐し、逆行を終わらせられるのだ"

「逆行を終わらせる……」

 "左様。そなたの逆行は蛇が起点となっておる、その原点を抹消さえすれば、そなたは以前の人へと戻れるのだ"

 逆行が終わる……なら、もう好きにしたらいい。師の言葉の意味はよくわからなくて投げやりな思考のままうなづいた。

 逆行の終焉。その言葉は愛の囁きのように甘やかで、子守唄さながらに優しく彼を魅了した。

「もう終わりたい。終われるのなら、お師さん、お願いしま……」

 

『それがわたくしの使命を阻む道なれば』

 

『わたくしの使命は──神を否定すること』

 

『わたくしはあなただけのレイミアです』

 

 埃を被っていた過去の言霊が、彼のなかを吹き抜けていった。気づけばスカーフを握りしめて鼻先に当てていた。深呼吸を繰り返して、冷静さを取り戻した気分になれた。

「ちょっと待て……抹消ってどうなるんだ? ぼくのなかにある蛇って一体なんなんだ?」

 抱くべき疑問が遅れてやってきた。師はただでさえ細い目をさらに眇めて、黙り込んだ。

 それだけで多くの事、彼は悟った。

「レイミアなんですね。

 お師さん……あなたが言う蛇はレイミアのことなんですね……」

 理屈は分からない。でもレイミアが逆行の起点となっていたのは察していた。なら逆行の終焉とはレイミアの終焉も意味するのだろうと直感的に理解した。

「ダメですよ。それだけは」

 力なく言った。

「ぼくの命ならいくつでも何度でも持っていってください。どうせ減りもしない、価値のないものです。でも、レイミアは、レイミアの繋がりだけは奪わないでください」

 "愚か者め。蛇に魅入られてしまった愚かな弟子め"

「不出来な弟子でした。でも、ぼくは、レイミアだけは譲れない」

 師はもう喋らなかった。深く深くため息をついて、対する彼も目を伏せた。

 彼は初めて乗り越えるでも踏み越えるでもなく、死を受け入れた。目を瞑る。雨音だけが轟く世界で、師の声は明瞭そのものだった。

 

 "喝"

 

 言霊の一撃が放たれ、ふたたび死を迎える──はずだった。

 

 誰かに背中を押された。強い力で前のめりになった体は地面を転がって、視界の端に映りこんだ光景が夢物語や白昼夢のようで到底信じられなかった。

 彼を押したのはレイミアだった。彼女は言霊を見ることができる稀有な存在で、師の放った言霊が凶悪極まりないことを悟ってしまった。

 戦場に選んだここは一体どこだった? 何を以て背水の陣などと嘯いていた? 彼女なにを読み取って、それも忘れくっちゃべっていた馬鹿はだれだ? 遠巻きに覗いていた彼女を予想出来なかった劣等は誰だ。

 臍下丹田が灼熱と化したような焦燥が彼の中で暴れ狂った。現実と空想の認識が曖昧になるほどの現実逃避に脳が悲鳴をあげていた。それほど信じられなかったのだ……レイミアの死が。

 

必 ず 君 に 辿 り 着 く っ て 決 め た の に 。

 

「あっ……」

 たったひとつの言霊でレイミアという存在は掻き消えてしまった。まるで幻覚が現実の壁に突き当たったように何もかも。

 一種の壮絶な美しさを宿しながら彼女はこの世から去った。

 彼はその光景を見詰めながら自分の道程が間違っていたのだと遅れ馳せながらきづいた。

 彼は知るべきだったのだ。

 お社のことを。

 消えた八雲のことを。

 バベルの塔のことを。

 終わりに向かう世界のことを。

 リリスのことを。

 そして──レイミアのことを。

 けれど今この瞬間、全ては遅きに失した。逆行の要であったレイミアは喪われたのだから。もはややり直しはきかない。突き進むほかにないというのに彼は無知のまま、途方もない哀絶にまみれた。

 

「なんだよこれ」

 

 

 

 

 

 唐突だが、師はかつて彼に才能の話をした。

 言霊とは別の稀有な才能の話だ。

 その才能は多くの場合、血統によって発現する事例が多く、増してや後天的に獲た事例など皆無に等しかった。それでも彼は才能と資格を獲た。

()()()()、とは得てしてそういった異能を獲得しやすい傾向にあるのだ。それに彼の内面もまた取得しやすい土壌だったのだろう。

 常に自己否定を繰り返していた彼には、自分を殺す術……心を無にする術を心得ていた。何も感じず何も考えない。見ない。生まない。聞かない。感じない。

 それが日常だったから無に近づくことが最大の壁であるというのにそれほど高いハードルではなかったのだ。

 加えて肉体面でも彼は長けていた。

 彼は呪力が溜められないのではない、呪力を自ら捨てたのだ。それは先天的なものではなく幽世という異界に迷い込んだとき、死へ近づき刹那でも長く生き長らえるために呪力を捨てさったのだ。

 心身ともに自分を無に近づけ、まっさらな器とする。それが彼の持ちうる最大の才能。

 期せずしてレイミアと契約を為し、逆行の渦へ呑まれてしまったのもこの才能が絶大だったせいだ。

 神の力の一端をその身に降ろす異能は西洋においては降臨術と呼ばれ、この日ノ本においては──神懸り。そう呼ばれた。

 

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ……神よ、なぜ我を見捨てたもうや……」

 

 "おお……忌まわしきゴルゴタの丘の気配。まつろわぬ神をも屠る呪詛を我がものとしたか! "

 

 人類のほんの上澄みにしか会得し得ない魔術の秘奥を、彼は行使していた。常道では彼自身の会得は不可能だ。何せこの魔術は騎士と呼ばれる武と魔術に長けた戦士が、溢れんばかりの才能を消費し血の滲む努力を重ねてこそ体得できる奥義なのだから。

 呪力は皆無、剣を振れば即死。そんな彼に扱える術ではない。

 だから彼はアプローチを変えた。己の身を器にし、神への憎悪と絶望を呼び込むことによって術の行使を成し遂げたのだ。

 かつて救世主が果てたゴルゴタの丘と同質の冷気が、周囲を凍えさせた。彼の胸裡に渦巻く赫怒と反比例するように。

 決着は呆気なかった。

 神も聖人も屠る呪言が振るわれれば如何な聖なる亡霊も易々と引き裂かれた。

 布切れがちぎれるような光景をどこか他人事のように眺めて、永い永い逆行の渦を反芻した。

 師も、荒木も、父も、高知に土羽、湖月堂の店主や甘粕だって、殺した正史編纂委員会のものたちにも、そしてレイミアにも。彼との間には確かな絆があった。

 憎悪であれ、感謝であれ、正と負の方向はあれど間違いなく繋がっていたのだ。

 

 人はレイミアだった。

 レイミアを失い、失った彼女の影を透して見えた繋がりを見て、やっぱりかと確信を得ることができた。

 

 人はレイミアと同じように怪物じみた魔性と酷薄さを持ちながら、それでいて非情さに徹し切れない情深さと陽だまりのような温かさをもっていた。

 父は死を救いとし、殺すことで愛の証明とした。荒木は豪快な優しさの裏に計算高い悪徳さを隠し持っていた。

 言霊はその人の総てを物語る。

 なら、言霊を読み取る彼が無理解でいられるはずもなかった。言霊とは他者がいなければ成立しない、寄り添うための概念なのだから。

 師はレイミアを殺した。

 けれどそれも己を慮ってのこと。……師にとって蛇とは尊崇尽きぬ主の敵対者であり人祖アダムを誑かした悪性そのものだった。

 レイミアが世界人類の敵だから、魔性の蛇(リリスの一側面)だったから、排除しようとしたのだと、わかってしまったのだ。

 だから泣きながら殺した。

 師の確かな絆と愛を心に受けながら、赦しを乞い、よくもレイミアをと罵倒して。

 いくつも彼と繋がっていた手があった。あったはずだった。

 けれど気づけば繋がっていた手には何もなくなってしまった。

 

 空は薄明かりに照らされていた。

 8日目の朝のことだった。

 

 

終章

 

 

晦冥聖塔叙事譚

 

 

 

 時間は0時を過ぎ、8日目を迎えた。ただ、悲願の果てにあったのは望んだ景色とは掛け離れた景色。

 空は分厚い雲に覆われ、どこから現れたのか天上を突き抜かんばかりに塔が(そび)えたっていた。

 あれが件のバベルの塔なのだろう。

 世界中どこにいても見ることのできる塔だと言うのに、見ている人間はほんのひと握りしかいなかった。世界の裏側を知っている人間ですら、見えているものは限られている。バベルの塔は言霊を識るもの瞳にのみ姿を表した。

 彼もまたその1人のはずだった。けれど雑踏を行き交う人々と同じように塔に興味を示さなかった。

 どうでもよかった。

 もう、なにもかも。

 いつの間にか街へ降りていて、宛もなく歩いていた。幽鬼じみた足どりは亡霊だった彼の師が乗り移ったかのようで痛々しい。彼を見かけた人は、思わず距離をとって腫れ物を扱うように遠巻きにみた。

 やがて誰もいない場所に出た。電柱と田んぼがある田舎道を歩き続けた。

 ジリリリリリッ! 

 公衆電話が鳴っている……掛かってくるはずもない、ありえない、と表してもいい異様な光景だったが彼は通り過ぎようとした。

 風が吹いた。

 強い風は彼の歩みを止めるとそのまま鳴っている受話器をさらった。放り投げられた受話器は重力に従って転がり落ちた。

『おう。しみったれた面ァしてやがんな』

「……八雲?」

『……八雲、だと? ──フン! いつもの皮肉も抜かせないほど腑抜けになったか!』

「…………なんの用だが知らないが、ほっといてくれ。もうなんにも興味が湧かないんだ、生きてても仕方がない……」

「ほぉー、そうかいそうかい。オレの勘違いだったか、知りたいと思ったんだがなぁ……」

()()()と、()()()()について。途端、弾かれたように受話器を掴んだ。

「どこにいる……お前は今、どこにいるッ!」

 八雲の癇に障る哄笑が鳴り響いた。

 

 指定された場所は八雲の事務所だった。向かってみれば事務所は昔日のように間違いなく存在していた。

 今ま存在していなかった事実こそが嘘だと言わんばかりに。

 でも今は頓着していられなかった。

 ドアを蹴破るように中へ入れば、八雲がふてぶてしい笑みを浮かべながら椅子に座っていた。殴りかかってしまいそうな感情を抑えつつ、八雲の胸ぐらを掴んだ。

「久しぶりだなぁクソガキ」

「八雲ォ! テメェ、今までどこに!」

「よしな、知りたいことは教えてやるよ。オレは、いやオレたちはもう時期に消えるからな」

 八雲の言葉通り、彼の身体は不自然なほど軽く、よく見れば半透明だった。ただ師と同じ霊体という訳ではないようだ。

 なにせ消えかかっていても内包する力は膨大で、強大な気配は既知のものだった。

「お前まつろわぬ神だったのか」

「おう。まあ、まつろわぬ神なんざとっくに引退して隠居した身だがな」

 ニタリと笑みを浮かべ、いかつい容貌から獣が牙を向けてくるような錯覚を覚えたが、奇妙な愛嬌も介在していた。

「スサノオってんだ。改めてよろしく頼むぜ」

 

 

 

 

「さっきの話、どういう意味だ? まつろわぬ神のアンタが消えるって。まつろわぬ神なんて……いやそもそも神なんて存在が消えたりするのか……?」

「ああ。消えるさ……神なんざ移ろいやすいもんよ。同じ神格であろうとたった千年も経てば人間のなかにあった伝承や説話が書き換えられ、性格や相ががらりと変わっちまうんだからな」

「性格や相が?」

「おう。田舎の土地神が一神教の神になったり、今じゃ男の騎士でも昔ならアマゾネスの女王だったりな。オレ自身、日ノ本の伝承が集まってできてるくらいだ」

 神話や伝承など世界規模の剽窃で、民族の移動や文化の交わりなどで塗り替えられていくものだ。仏教が伝来し神道の神々と仏が融合習合され本地垂迹説が根付いたように、数百年も遡れば過去と現在の神がもつ顔など千変万化と変わった。

 だからスサノオは移ろいやすいと評したのだ。

「何より……そのオレたち神の最大の弱点ともいえる急所を突けるリリスが呼び出されちまったからな」

「またリリスか」

 リリス。何度も耳にし、師もまた滅びの元凶だと叫んでいたのを思い出す。

「この世にゃ何柱か、そういう輩がいるんだよ。最後の鋼だの、破壊神だの、現れたら終わり。どうしようもない神々がよ」

「現れたら終わりって、そんな」

「……まつろわぬ性ってのは厄介でな。どんな温厚な神でも狂わせちまうのよ……リリスだって例外じゃねぇ

 やつは誓ったのさ。復讐ってやつをな。己を貶め、追放した父に。それを許容した世界そのものに」

「…………」

 否定しようとする彼を遮って八雲……スサノオは身を乗り出して瞳を合わせた。

「おいクソガキ、お前さんリリスにどれくらい知ってる?」

「そんなに知ってるわけじゃない……知識なんて最初の女ってくらいだ」

「知ってるじゃねぇか。そうだ、唯一神から生み出された人間アダムの片割れがリリスだ。この神も神の子も聖霊もアダムもいない次元で、唯一神に創造された最初の女だからこそ、神の後継者足り得る資格も有しているのさ」

「…………神の後継?」

 言っていて酷く嫌な予感がした。まるで周囲を不穏な気配が漂って首元を真綿で閉められている感覚だった。

「リリスはでアダムと対等を主張したが叶えられず、やつは神の下を飛び出した。……ま、そこまではいいんだが、その後が問題でな。楽園を飛び出したリリスは、すべての悪魔を産んだ逸話があんだよ。シェディムっつてな」

「すべての悪魔を生んだ……ちょっと待て。一神教での悪魔の立ち位置って、まさか」

「察しがいいじゃねぇか。そうだ、異教の神々……唯一絶対の神をのぞいた神を生んだのさ」

「そんな、出鱈目だ!」

 否定したいの叫ぶだけに終わってしまった。

 スサノオの言うとおり神は移ろいやすく、だが、強固なものでもあった。

 まつろわぬ神は神話内からそのまま飛び出てきた存在だ。神話の世界にいるべきものが現実に現れるから歪み、それがまつろわぬ性となる。

 神話の軛から外れ、原初の姿へ戻ろうとするからまつろわぬ神。……けれど神話内の存在である以上、当てはめられた属性にはどこまでも忠実に再現されてしまうのだ。

「唯一神から生まれながらすべての神を産んだ女……リリスは持ってんだ、すべての神の起源になれる格ってやつをな。すべてを生み出したとは、すべての神でもあったってことでもある……全にして一、ってな具合にな」

 人差し指をピンと立てて、ニタリと口角を吊り上げた。

 唯一神とは結局、他の多神教の神々が分散して持つ職能を一挙に引き受けた存在だ。つまりあらゆる要素がひとまとめにされた究極の混沌(カオス)を指す。

 リリスもまた唯一神から生み出された存在であり、似かよった相を保有していた。総てを生み出したとは総てをを内包していたからこそ。

「……見な。外の景色を」

 言われて初めて意識した。馬鹿みたいな巨大さを誇る塔が、天を穿いているのを。

 バベルの塔。師が教授してくれた滅びの塔が、厳然たる事実として存在していた。

 そこへバベルの塔に一直線に向かう影があった。遠目からだと豆粒のような大きさが、最新鋭の戦闘機でも影すら踏ませない速度で飛翔していた。

「…………あれは、日光でであった猿の神様。出てきていたのか」

「そうだ。名を斉天大聖、孫悟空と言った方がお前には通りがいいかもな。あいつはオレらで日光に封じ込めていてな……蛇の相をもつ神が日ノ本に現れた時、退治してくれるよう番犬代わりにな」

「あんた、そんなことまでやってたのか。というか蛇の相ってぼくが殺されたのはそういう……」

「おら、よく見ろ」

 訝るような目でスサノオを見ていたが、外の光景に異変が起きた。かの有名な筋斗雲にのった猿神はぐんぐんと上昇し、バベルの塔へ吶喊しようとしていた。

 空気を叩く爆音が事務所にも轟いて彼の脳裏に、これはひょっとしてと淡い期待が生まれた。

 けれどそこまでだった。一気に勢いを喪失し、分厚い雲から飛来した極大な稲妻に撃たれてしまった。あの途方もない武威を誇った闘戦勝仏があっけなく堕天していく。

「そんな……ありえない」

 何度も殺されたからこそ斉天大聖の武は魂まで刻まれていた。しかしかの神すら打ち倒されたという事実が衝撃となって彼の心を一撃した。

 鋼の英雄神たる斉天大聖。それすら歯牙に掛けない塔と、リリスの気配に彼は怖気が止まらなかった。

「チッ、あの猿野郎もなしの礫か。本来の十分の一も力を出し切れていやがらねぇ」

「力を出し切れていない、ってあれでか?」

「当たり前だ。神の疾走……神速なんてものを人間が認識できるわないだろ。あいつも大概弱ってたのさ……」

 いかつい顔に皺を寄せスサノオは渋い顔になった。

「なあ、教えてくれ。ぼくたちはどうやって滅びる?」

 彼は問いかけた。まだ断片だけで全てが繋がっていない。

「それにあんたたち神はなんで消えかかっているんだ? リリスがすべての起源、言霊の統一、ああそれで? だからって世界が滅びる理由にはならないだろ」

「さっきもいったがリリスによる下克上だ。バベルの塔なんてけったいな代物も、オレたちが消えかかっているも、総てがリリスが唯一神に成り代わるための布石よ」

「唯一神に、成り代わる?」

「自分以外の神を否定して消せば、自動的に唯一神になれんだろ?」

 至極真っ当だ……この上なく間違ってもいない……でも、そうじゃないだろ。彼は思った。

「そもそもの話だ。神ってのは元々一柱しかいねぇのさ」

 古代の人間が、いや現代に至るまで人々が、大自然や大災害のなかで大いなる存在をその身に感じた時、細やかな種類など見分けがつくだろうか。

 戦争で九死に一生を得た、なんて時にこれは軍神アレスの御加護に違いない! と感じるだろうか。はたまた、とんでもない幸運が舞い降りた、これ観音様ではなく弥勒菩薩さまのお導きだ! と一々どこぞの神がもたらしてくれた加護だなどと判別するだろうか。

 そんなことはありえない。

 ただ漠然となにか巨大な存在がいると錯覚し、思い思いの神に感謝を捧げるだけだ。いくつも存在する神々とは、結局、感じ取った大いなる存在を言葉で着飾っただけなのだから。

「事とは言。言葉は万物を刻む切り口ってのはお前さんがよく知ってることだろう。それは神であってすら変わらねぇ」

 スサノオの言葉は言霊使いの根幹となる言葉だった。

 言語は神すらも切り分ける。一柱だけの神も言語が生まれ、派生し、数が増えて行くごとに言霊という神を形容する切り口が複数になり神もまた複数となっていった。

 ただ単に神を意味する言葉ですら何万とあるのだ。そして名は個性を得て、ひとつの格をえるようになる。

 インドラという英雄神の尊称が一人歩きして、遠方の国にて勝利を意味する神になったように。

 きっとバベルの塔崩壊以前は、そうでなかったのだろう。

「リリスはそこを突くのさ。言語をひとつに戻すことによって、オレら神々はひとつだった原初へ立ち返る。神は唯一無二となり、神の後継でありリリスである己がその地位を勝ち取る……それがやつの企みさ」

 壮大にして途方もない計画であった。妄執と脅威に、知れず握りしめた爪が皮を裂いていた。

「止められないのか」

「リリスを倒そうにも、やつは楽園から追放されて紅海付近に住み着いたなんて伝承があってな……結局、天使に見つかってるんだ。

 まつろわぬ身に落ちてまでその愚は犯すつもりはないらしい……何人も決してたどり着けない場所に潜んじまってる」

「探さなかったのか?」

「探したさ。オレだけじゃねぇ、協力者もいた。お前さんの知己だぜ。リリスの来臨を察したオレと、滅びを預言する聖人だったお前の師である翁は結託してリリスに対抗しようとした……でもなリリスの居場所はついぞ見つかることは無かった」

 師は以前から多くの事を知っている様子だったが、スサノオに協力していたらしい。それでも覆せなかった。絶望的、という言葉すら生ぬるいように思えた。

「いかに神でも振るう鉾は届かなけりゃあ倒せねぇ。ましてや人ではリリスには勝てはしねぇ。滅びは時間の問題だ」

「手詰まりじゃないか」

「ああ。でもな、絶対なんてものは絶対にないのさ。矛盾が生まれるんだよ。無敵や不死、そんな輩が出張ってきた時には必ずそれを打ち倒す力も生まれる。

 かつて世を騒がしたヤマタノオロチを俺が倒したように」

 胸を反らして自分を指さしたスサノオは、そして、と付け加え、

「リリスを打ち破る力は──お前だ」

 彼を指差した。

「ぼく?」

 理解が遅れたがすぐに否定と憤りが吹き荒れた。

「ふざけるな。ぼくはただのなんの力もない人間なんだぞ。斉天大聖すら倒せるような神に、勝てるはずがないだろ。それこそお前が倒すって方が何倍も現実味があるだろ」

「まァそうだな。テメェがまだ、ただの人間でいるってんなら……そうだろうなァ」

「なに……?」

 スサノオはケッケッケと怪鳥じみた笑い声をあげた。まるで自分が黒幕(トリックスター)なのだと嘯きそうなほど憎らしい声だ。

「認識ってのは曖昧で強固なもんだ。特に……この幽世ではな」

「幽世、ってここはお前の事務所だろ」

「違ぇな。おまえがそう認識してるだけだ。よく見てみな」

 言われて、辺りを見渡した。なんら変わらない事務所の一室だった。そう、なんら変わらない。

 もうそれ自体がおかしいことに彼はやっと気づいた。何せ事務所の主は、まつろわぬ神であるスサノオなのだ。八雲などどこにもいない。その違和感が仕事を始めるとあとは早かった。

 事務所の風景が、ところどころからヒビ割れ、古風な畳や障子が現れた。現代的なものなど欠けらも無い、古びた庵があるだけだった。

 驚愕に目を点にした彼に、スサノオは豪快な笑みを向けた。彼自身、Yシャツやズボンなど履いておらず、貫頭衣を腰のところを紐で括ったどこか弥生時代を思わせる粗末な服を着ているだけだった。

「出雲から幽世に来れるよう細工しててな。出雲ってなあ異界に繋がってる話には事欠かない土地でな。入口に海桐花が咲いてたろ? あれを境界にしたのさ」

 幽世。

 現実世界とは別の、神話の世界に近い世界があるとは話に聴いていた。肉体より精神が上位にくる世界で、只人では数時間もいれば死に至るとも。

 海桐花とは扉の意味も有する草花ではあるが、現実と異界を繋げてしまうとは。スサノオの神としての格を秘かに感じ取ってしまう。

「……幽世に来るのなんて初めてだ。ああ、でもお前と出会ってから訪れていた事務所は幽世だったなら退院してから来ているのか」

「違うね。お前は退院する以前に1度だけ幽世を訪れていた……なあ、お前さんはなんでオレと出会った? よぉっく思い出してみな」

「それはお前が……」

 轢いたんだろう、そう言葉にしようとして出来なかった。陸に打ち上げられた魚さながらに口をパクパクと動かし、しかし、言葉は出ないままだった。

「オレはお前さんを轢いた、か。そうらしいな……で、それは本物の記憶か? 」

 そもそも前提がおかしいのだ。まつろわぬ神であるスサノオが車に乗るだろうか、いいやありえない。スサノオはおそらく幽世から1歩も出ていないのだ。

「違う、ぼくは八雲……スサノオになんて会ってない。

 あの日、事故が起きたと思い込んでいた日。受験日当日、ぼくは()()()にあった。あの()()で……」

 偽りの記憶が音を立てて崩れ去っていった。認識とは思い込んで信じている間は強固で揺らぐことはないが、一度でも疑ってしまうとあとはなし崩しにすべてが暴かれてまうもの。丁度、夢のなかで夢であると気づいた時のように。

 彼は海馬から濁流のごとく雪崩打つ、記憶の波涛を受けてふらつきながら座り込んだ。人が記憶を探るとき目を上へ向けるように、白目を向いて、唇には泡が浮かんでいた。

 

「ぼくは……幽世に迷い込んだ時、()()()じゃなかった……?」

 

 冬。

 霧の出た早朝。

 

「誰かが…………隣にいた」

 

 神韻縹渺たる出雲大社。

 学生服を着て俯く自分。

 

「あれは……誰だ?」

 

 森。

 小さなお社。

 

「そうだ。ぼくはあの日、受験のプレッシャーに押しつぶされそうになってた……」

 

 足場の悪いけもの道。

 朽ちた鳥居とひび割れた石畳。

 

「落ちてしまったら居候していた家から追い出されるって脅されてたから……」

 

 受験票をかざして見上げた曇り空。

 自己否定ばかりの鬱屈とした思考。

 

「──全部、思い出した」

 俯くと伸びきった髪が彼の面貌を覆い隠して、表情は読み取れない。でも髪の隙間から垣間見える彼の眼光は鋭かった。

「あの日、寝付けなかった。

 受験が近づくほど単語を復読しても覚えたそばから消えていって、計算式を前にしても思考が散漫になって答えを出せなかった。文字を書こうとして指が痙攣した。やること全てが間違っている気がして、一呼吸息をすれば怒鳴られると恐れていた。

 あとから書痙なんだって調べて知った。自責の念や強迫観念が本来のパフォーマンスを妨げてしまう、そんな精神病らしい。

 ぼくの居場所は揺らぎやすかった。母さんが死んで、父さんは服役中。そんな息子を誰が好き好んで引き取るっていうんだ。

 どの家でも減点方式。トイレを使ったら白い目で見られた、足音を立てたらはたかれた、皿を割れば腹を蹴られた。しっかりした基盤も繋がりもないから、つつけば放り出されるのは理解していたからされるがままだった。

 灰皿に捨てられた吸殻に火をつけて喫煙するのが数少ないストレス解消法だった。視界に入らないよう努力して、蔑まれると安心するようになった。

 高校受験はただのわがままだった。母さんの通ったっていう学校に通わなきゃいけないって思ったんだ。

 繋がりがほしかった。誰かの。諦めてばっかりだったけど譲りたくなかった。だから不安で、夜に抜けだした。川べりの欄干は冷たかった。音がない夜で何かをしていないと不安になった。神頼みしようと思った。神なんて信じてなかったけど何かに縋りたかった。歩いて出雲大社まで向かって、お参りして、それでも足りなくて八雲山の奥にあるって聞いた奥宮に向かったんだ。朝も早くて、だれともすれ違わなかった。奥宮にも誰もいなくて、合格祈願をすませたら沓石に腰掛けていた。時間を持て余しながら、でも、時間が来るのを嫌がってた。

 期待とか、上手くいくとか、そんなの一切思ってなかった。譲りたくはないのはそうさ、でも、ムリだって諦めてた。

 足音が聞こえて石段の下から誰かが登ってきたのはその時だった。ぼくは潮時だと思って、山を降りることにした。彼女と出逢ったのは……その時だった。

 最初は目線すら向けていなくて、人の形をした木偶が脇をぬけていったように見えた。だから呼び止められた時は仰け反ってしまったな」

 

『あのー……これ、落としましたよ』

 

「ぼくの落とした受験票を拾った彼女は、小さく笑いかけてきた。誰かに話しかけられたのも、笑いかけられたのも、誰かの顔をまともに見るのも久しぶりで、引き攣った笑いしか返せなかった」

 

『あはは、受験票を落とすなんて、よっぽど抜けてるんですね! うーん、受験前だからそんなに暗いんですか? あ、でも私たち、同じ学校受けるみたいですよ。もしかしたら同じクラスになるかも!』

 

「彼女は明るかった。朝も早いのに、それも受験前なのに、気だるさや不安なんてどこにもみせず、ぼくに笑いかけた。彼女はあけすけでぼくに関わった人間が言葉にするのを躊躇った言葉を、どストレートに投げてきた。でも不快さはなくて、困ったように笑って許せる人徳を彼女は備えていた。

 それから少しだけ話をした。石段の端っこで、積み上げられた同じ石に腰掛けて、ぼくたちは話をした。ぼくが距離をとっても彼女が近づいてきて、気づいたらふたりとも端によっていたんだ。顔を逸らした先には朽ちた鳥居が見えて……ああ、そうか。あのお社と鳥居を見た時にあった既視感はこれだったのか。

 話をするのは九割が彼女だった。ぼくは相槌と頷くだけ。誰かと話をするのなんて何年ぶりだっただろう。喉と舌が上手く動かなくて吃音症みたいに言葉が震えてて情けなかったな」

 

『あっ、もうこんな時間ですよ! 急がないと!』

 

「彼女の言葉に名残惜しさを覚えて、動揺した。名残惜しいなんて、人との会話を楽しんだみたいじゃないか。それから一緒に試験会場にまで行こうとも提案されて、ぼくは少し迷って結局うなづいた。

 ……幽世に落ちたのは直後だった」

 

『ねぇーえ! 早く行きましょうよ! 早く早く!』

 

「急かす彼女に手を取られて、焦りながら石段を下った。それがまずかった。朝露で濡れた石段は簡単にぼくらの足をすくって、そこから先の記憶は途切れてしまった。

 目が覚めると、僕と彼女は海にいた。訳がわからなかった。だってさっきまで森の中にいたのに気づいたら夏よりも過酷な熱波が体を灼いていて、背の高い雑草を枕にしていたんだから。

 海辺に寝転んでいたぼくらは夕日に染まった海に目を奪われた。自分が怪我したことすら気が付かないほど美しい景色だった。怪我に気づいたのは暑がった彼女が服を脱いで、ぼくも合わせるように服を脱いだときだった」

 

『血が出てるじゃないですか!』

 

「本当に間抜けな話なんだが彼女に指摘されるまでぼくは自分が怪我をしていることに気づかなかった。見てみれば足と腕に木の枝が突き刺さっていてのんきに、あぁ血が出てるな思った。そういえば彼女は暑がって、汗もかいているのに、ぼくは暑さを感じていなかったから、触覚が仕事をしてなかったのかもしれない」

 

『あ、見てください! あそこに小屋がありますよ! 行きましょ、誰かいるかもしれないですし、包帯かなにかあるかも!』

 

「彼女は小屋を見つけて、ぼくに肩を貸してくれた。あんな時だったのに人に触れるのを嫌がって、背筋が強ばってしまっていた。上手く二人三脚ができなくて、数十メートルの距離を進むのに十分以上掛かった」

 

『誰か、誰かいませんか!?』

 

「ドアを叩いて尋ねても返答はなかった。人の気配がなかった。

 彼女は立て付けの悪い扉を力づくで開け放つと、中に入った。中には小さな祭壇があるだけだった。銀盤を月に見立てたような祭壇で、蛇と女性のレリーフが刻まれた彫刻がいやに目についた。ぼくの悪寒をよそに、彼女は躊躇うことなく祭壇から布をとって包帯代わりにした」

 

『上手く巻けなくてごめんなさい……でも上手く巻けるようになるから。だからお願い、死なないで……』

 

「包帯を巻くのが下手だったな。手は震えっぱなしだったから無理ないんだけど。そうか、あの時壊した祭壇。きっと、それが……」

「ああ。それがリリスの祭壇だったのさ。リリスを祀るためじゃねぇ……決して顕現させないよう封じ込めるためのな」

「ああ、やっぱりか。覚えてるよ……変化はすぐに起きた。夕焼けが急に暗闇に取って代わって、小さな地震のあとに彼女は…………」

 膝を抱えて額に拳をあてた。地中から飛び出してきた黒い手は、彼女に絡みついた。

 あの時、彼と彼女の手は、握られたままだった。握られたままだったのに。彼女の手を握っていたはずなのに。

 彼は手を離してしてしまった。

 死神が魂を回収していくような強引さで、彼女は目の前でどこかへ連れ去られた。

「それからぼくは穴を掘った。地下に連れ去られた彼女は、地下に必ずいると信じて、ひたすら掘った。スコップやシャベルなんて上等なもの、あるわけがなかったから手で掘った」

 きっと半年前からずっと見ていた悪夢はそれだったのだ。

「幽世は人が生きるには辛い世界だった。息をするにも空気が鉛じみてて、目を開けるのさえ苦労した。指を動かすのにもエネルギーと意志を要求された。端的にいって地獄そのもので……。そのうち気づいた。死にかけていると楽になることに。あらゆる活力を捨て去って、無に近づくと楽になったんだ。

 だからぼくは生きるため死に近づいた。多くを捨ててしまった気がする。きっと呪力ってものも」

「幽世ってのは人が長居するには向かねえのよ。居座ろうとするなら、身体を呪力で満たすか、逆に無にするしかねぇ。お前は後者を選び、現実に戻ったあとも呪力は戻らなかったってわけだ」

「全部、自業自得だったのか。はは、それでアンタに拾われた。それがぼくたち二人の本当の記憶だったわけか」

「おう」

「そうか……ぼくは……こんな大切なことも……大切な人のことも……忘れていたのか……」

 沈痛な表情浮かべて彼は呻いた。彼女のことも忘れて半年も安穏と日常を送っていった自分が恨めしかった。逆行中、欠けらも無い思い出すことのなかった自分が憎くて仕方ない。

「話を戻すぞ。滅びの話だ。

 まつろわぬ神ってのは大なり小なり、ただそこにいるだけで影響を与えちまうのは知ってるな? 裁きの神がいれば天罰が落ちる、火の神がいれば火山が噴火する……って具合にな。

 その性質を利用して、リリスは言語を減らそうとした。リリスは決して一言主みたく強力な言霊の権能を有してるわけじゃねぇ……ただの根気なんだよ。自分を虐げた神を()()()()、その殺意を権能にまで押し上げやがった。正気じゃねぇのさ。

 必ず神聖なる全能の神を穢し、貶め、己がその地位に登り詰める。その不断の決意があればこそ、やつは世界の滅ぼす悪魔になれた」

「…………」

「だが影響を与えるっつても、幽世に引きこもってちゃいけねぇ。骨子となる神がいなくちゃ話にならない。そこでリリスは自分の分身……いやそれ以下だな。言葉を消すっていう影響だけを持たせた端末を……お前にわかりやすく言うなら()()()()を作ったのさ。さらった人間と、自分の一側面を使ってな」

 

『わたくしの使命は──神を否定すること』

 

 言われなくてもわかった。アンテナとはなにか、誰だったのか。すべて彼女が自分の口で行っていたではないか。

「レイミアがアンテナだった。そうなんだな?」

「おう。あの蛇女は肉体と精神が混ざり合うことによって生まれた、神祖でも権能もない、ただの道具だ。

 蛇女をあんてなとし、何千何万の時間をかけて真綿で締めるように世界を殺そうとリリスは画策した。それが本来の計画で、本来起こるべき滅びだった。

 長い時間がかかるはずだった。万の年月は下らない、膨大な時が必要だった。……正攻法ならって話だがな」

 本来であれば幾万という歳月が必要だったリリスの復讐。けれど逆行の時間を度外視するとたった一週間で世界は滅びかけてしまっている。

 なぜか。それを計画したのはリリスでも、彼でも、ましてやレイミアでもない。

 犯人は……

「だから、オレと翁はリリスの計画を強烈に後押し、そして砂をかけた。おまえさんという砂をな」

 目の前にいる。

 長い年月を掛ければ確実に為されていたリリスの復讐は、しかし、スサノオという悪戯者によって狂わされた。単調でつまらない物語を、トリックスターが引っ掻き回して番狂わせを起こすように。

 本来は幾星霜の時を掛けなければならなかった野望。それを1週間で為す。

 急進的な変化には、必ず致命的な歪みが生じるもの。スサノオと翁がいたからリリスの計画は1週間ぽっちで完遂間近になり、それと同時に致命的な欠陥も生み出したしまったのだ。

「お前は何をしたんだ?」

「簡単なことさ。蛇女とお前さんを引き合わせた、それだけだ。お前たちはリリス呼び出したからこそ、リリスの絶対を阻む力も持ってしまったのさ。それがなにかはオレもわからなかった。だがお前さんは成し遂げてくれたぜ……蛇女と仲良くリリスの手伝いをな」

 カッと、意識が白むほどの怒気に呑まれて、スサノオに掴みかかっていた。

「ふざけるな! ぼくたちが出会ったのはテメェのせいだって言うのか!? お前の手のひらで踊っていたと!?」

「ああ! いいように踊ってくれたぜェ! そしてオレはお前を殺し続ける段取りをし、翁はお前の格をあげるため師となった! まァ、翁はお前に情が湧いたのか、途中下車しやがったがな!」

「貴様ァ……!」

 激情が力となり、興奮が筋肉を躍動させた。殴らなければ、殺さなければ気が済まない、こいつは自分とレイミアの記憶を穢したのだから。師の想いを嘲ったのだから。

 だが体が行動を起こすよりは早く、制するような動きでスサノオに胸ぐらを掴まれ引き寄せられた。

 

「──お前はリリスの眼である前に、()()()の瞳だ」

 

 冷厳なる双眸が、彼を見下ろしていた。神の眸であった。これまでいかつくもどこか愛嬌のあった表情は消え、絶対者が路傍の石を見下ろすような冷たさしか感じ取れない。

「覚えているだろう。お前と蛇女は一巡目で契約を交わした。お前が瞳になるという契約なのを。リリスの眼と繋がるのなんざ、あとから引っ付いた効果にすぎん」

「だから……なんだよ!」

「ラミアの伝承は知っているだろう? お前は逆行中、そこらの伝承を読み漁ってただろうが」

 その通りだった。下半身が蛇の伝承や逸話を彼は探し求めた時期があった。メリジューヌにナーガ、白蛇伝。マイナーなところではシャフメランが当てはまるか。

 数々の伝承のなかでラミアの名はあった。古代リビュアの女王とも言われ、その美貌によって主神ゼウスに見初められた女性だ。ゼウスと関係をもった美姫がそうであるように彼女もまた女神ヘラの怒りを買った。

 ラミアはヘラによってゼウスとの間にできた子をすべて失った。ヘラは苛烈だった。子供を全て奪っても、とどまらず、ラミアから眠りを奪い、子を失った苦しみから逃れられないよう仕向けた。喪失の記憶に苦しむラミアを哀れんだゼウスは苦しみの根源である瞳を取り外せるようにした。

 それが伝え聞いたラミアの話だった。

「だからなんだ……! 分からない……分からない…………! アンタが何を言いたいのかこれっぽっちもわからねぇ!」

「目を逸らすんじゃねぇッ! もう気づいてんだろォが!!!」

 スサノオは彼の胸ぐらを引いて、地面へ叩きつけた。

 ああ、わかっていた、とっくの昔に。

 

 ──レイミアはラミアそのものだ。

 

 ラミアはリリスの半身でもあった。なら、リリスの一側面と、人であった彼女と交わって半身半蛇の乙女が出来上がったなら、答えはひとつだった。

 レイミアに子はいなかった。誰との繋がりもなく孤独だった。だから失うものもなかった。だから苦しみ()がなかったのだ。

 瞳は伝承において終わりのない苦しみの具現。あの日の契約でラミアの瞳となり、瞳のなかの迷宮に囚われた彼は絶え間ない苦しみが襲うようになった。

 話はそれだけは終わらない。

 瞳を得たレイミアは苦しみ続けることになったはずだ。

 レイミアの苦しみとはラミアと同じく愛したものを奪われる喪失の苦しみ。

 二巡目以降、彼女は言った。自分には瞳がある、と。明確に瞳がないと行っていたのは一巡目だけだったのだ。

 伝承のように瞳を取り外せるわけでもなく、孤独であるというのになにか大切なものを喪い続ける苦しみを、レイミアは味わっていたのだ。

「気付きたくなかった……。薄々察してはいたんだ……ぼくが何者になってしまったのか。でも、確定させてしまったら芋づる式に、彼女が苦しんでいる現実も確定されてしまいそうで……だからぼくは逃げたんだ。目を逸らした。逸らしつづけた。彼女には逃げないでくれって偉そうに言ったくせに」

 悔恨が彼を包んで希死念慮が手を差し伸べた。嗚咽が止まらなくなって自己嫌悪で自刎したかった。

 こんな時だと言うのにレイミアへの想いが一方通行じゃなかったことを期せずして知ってしまって、喜んでいる自分が気色悪くて仕方なかった。

 ごめん、ごめんレイミア。君を苦しめてしまった……けれどありがとう。ぼくなんかを想ってくれて。

 もう会えない彼女を想い、偲んだ。

「早合点するな───レイミアはまだ生きている」

「え?」

 スサノオの言葉に、あらゆる感情が白になった。

「言っただろう。これも契約なのさ……おまえが死ぬ姿を見せ続けられると。おまえが本当の意味で死を迎えない限り、蛇女は生きながらえる……何があってもな」

 スサノオの言葉は救いなのか、新たな苦しみなのか判断がつかなかった。スサノオは手をサッとかざして何かを喚びだした。

「お前に残された……いや、世界に残された選択肢は三つある」

 それは三つの"神具"と呼ばれる神の武器や叡智を刻んだ宝物であった。スサノオはそれらを彼の前に並べながら、選択を迫った。

 

「総てを投げ打って進むか」

 ひとつは剣。反りのない刀で蕨手刀とも呼ばれる古の刀であった。

 

「総てを忘れて退くか」

 ひとつは勾玉。赤みを帯びた月光さながらの輝きを宿す璽であった。

 

「総てから目を反らして立ち止まるか」

 ひとつは鏡。太陽を想起させる金色の輝きを放つ宝鏡であった。

 

「──お前さん次第だ」

 スサノオは胡座をかくと、姿勢を正して懇願した。

「頼む。この危機を打破しちゃくれねぇか。滅ぶしかねぇこの世界を救っちゃくれねぇか」

 正史編纂委員会を裏で操る"古老"を組織し、世界の管理者を名乗るスサノオは、しかし、常に嘯く諧謔も纏う余裕も捨て去り、頭を下げながら縋るようにいった。

「ぼくは…………おれはッ」

 かの神ですら平身低頭を躊躇わない状況で、すべての命運を握っているのは自分。そんな重大を通り過ぎて無茶な状況に、性根が凡人と変わらない彼は耐えきれるはずもなかった。

 及び腰になって後ずさったあと、脇目も振らずに逃げ出した。スサノオの深いため息が耳から離れなかった。

 

 

 

 

 外は雨が降っていた。

 彼はびしょ濡れになるのも構わず、当てどもなく歩き続け、ほどなくして公園のブランコに腰掛けながら雨に打たれていた。

 どうすればいい。

 逆行の渦に呑まれて以来、何度も抱いた疑問が浮き沈みした。しかも、普段のような1寸先も分からないような状況なんかじゃなく、全てを明確に把握したうえで選択肢までお膳立てされた上での悩みだった。

 さっさと選んで、次に進むべきだ。これまで培ってきた経験はそう語る。でも理性は恐怖して竦んでいた。

 なにせこれまでのようなやり直しの利く状況ではないのだ。

 一度決め、一度選んでしまえば、残りの選択肢は全て消失する。間違いのないゴールとそこへ繋がる道を探すためにコンティニューを繰り返すなど、許されない。

 本来の現実がそういう仕様の試練であるように。

 

 ……ふと、雨が止んだ。

 

 誰かに傘を差されていた。顔をあげると、見知った人物だった。

「父さん……」

 それどころか唯一の肉親であった。

 父はいつの間にか出所して、シャバへ出てきていたらしい。時間を見ればもう夕刻に近くて、1日が終わろうとしていた。

「どうした。こんなところで……泣いているのか?」

 雨粒で誤魔化しきれなかった涙に父は気づいた。目元を拭おうとしてきた父の手を、彼は首を振って振り払った。嫌だったわけではないけど、父にそうされるのが気恥ずかしかった。

 彼はしばし無言で、父もそのまま立ったままだった。言葉が出てきたのはどれくらいの時間が経過した頃だっただろう。

「父さんはさ……」

「ん?」

「どうして母さんを殺したの」

「……っ」

 決して責め立てている訳でもなく純粋な疑問として父に問いかけた。父からの返答は、すぐにはやってこなくて隣のブランコに腰掛けると深く呼吸してからぽつりぽつりと話し始めた。

「母さんと一緒になれたのは駆け落ちしたからなんだ。母さんは従姉妹で、父さんとは小さい頃から一緒にいてな。恋だとかよくわからなかったが一緒にいるのが当然だとずっと思っていた。

 付き合って、一緒の時間を過ごして、やがてお前ができて、一緒になろうという話になった。そして両親に……お前から見たらおじいちゃんおばあちゃんになるのか、に話をした」

「いとこ、だったんだ……というかできちゃった婚なの。ぜんぜん知らなかったんだけど……。あ、でもいとこまでは結婚はできるんだっけ」

「ああ。……でも両親は頷かなかった。それどころか親戚一緒になっておぞましい、穢らわしいの大合唱で……大の大人が口を揃えて同じこと言うんだ。ちょっとおもしろかったよ」

 はは。と笑った父だけど彼にはわかった。わかってしまった。どれほどの失望がその時にあったのか。

 言霊使いの宿命とはいえ、落ち込んでいた心をさらに蹴飛ばされる思いだった。

「結局、実家から逃げ出した。まだ若かったし、どこまでも行ける気がした。秀勝くん……荒木くんのことだよ……世話になったのもその時期だったかな。なにをするにも金が必要だった。色々褒められないこともやって、なんとかお前が生まれて……でも、ついに借金で首の回らなくなった」

 父は遠い場所を見ていた。今ここではない場所を。

「死ぬ決意を固めた。ほんとうは母さんとお前は巻き込むつもりはなかった。私だけが死んで、死亡保険で金が入ればいいと思った」

「…………」

「でも、母さんは聡明な人でな。私の浅はかな考えなんてお見通しだったらしい。話し合ってぶたれて悩んで四方八方手を尽くして、やっぱりどうしようもなくて心中しようとなった……幼いお前をみすみす地獄に残すわけにもいかなかった。だから心中を選んだんだ」

 水族館に連れて行ってもらった。唐突に思い出した。ぼくら三人が家族だったころは貧しくて父はいつも忙しそうで、夜に起きると母は静かに泣いていて、子供ながらに生きるのが息苦しかった。

 だから父と母と手を繋いで遊んだ水族館がたまらなく楽しかった。きっとあれは最後の思い出にづくりだったのだろう。

「結局、心中を考えてたいたには父さんだけだった」

 父の言霊から漏れでた記憶が、彼の赤々とした過去の記憶と交わった。父は泣いていた。暴れる幼い自分を必死に抱きながら、1人だけで焼けていく母を見ていた。

「いつから考えてたのかは知らない。でも母さんは自分だけ死ぬつもりだった。燃えていく母さんを見て、お前を頼むと言われて、わけがわからなくなって、母さんの遺書にはあとから気付いた。母さんは死ぬ事で、私とお前を重荷から少しでも解放しようとしたんだ」

 どうして、と正直思わずにはいられなかった。

 もっと上手くやれたはずだ、と叫びたかった。

 母一人が死んで一体なんになったのだろう。父は絶望のまま牢獄へ入れられ、彼は現実という地獄に孤独なまま立ち向かわなければならなかった。

 でも彼らに苦渋の決断を責め立てることなど彼には出来なかった。言霊を知れば知るほど、憤りは萎えて、悲しみと無力感だけが燻った。

「考えていた。許されたとは思っていない。それでも私は……償いたかった。お前に、母さんに、刑期を終えるあいだずっと…………」

 父の言葉を静かに聴いていた。

 一つだけわかったことがある。

 父と母の境遇は、今の自分とレイミアに少しだけ似ていて。

 一つだけたしかなことがある。

 レイミアは今この時も苦しみ続けている。

 

 頷いて、瞑っていた目を開いた。もう、迷いは断ち切っていた。ここに至って彼の肚は決まった。

「父さん」

 立ち上がって、父の前にたった。父も立ち上がって並ぶと、自分の方が身長が高いことに気づいた。

 父の細くなった肩を抱いた。死の具現で黒い巨人だと怖れていた怪物はどこにもいなかった。血の通った、血の繋がった、ただの人だった。

「おれはあなたと母さんの息子だったみたいです。それは逃れられなくて、変えられない真実みたいだ」

 父から手を離すと、精一杯の笑みを浮かべた。

「いってきます」

 雨はいつの間にか止んでいた。

 

 

 

 

「来たか」

 

 事務所のあった場所にいくとスサノオはまだそこにいた。ただ先刻会った頃より、身体の消失が進行していて幾ばくの猶予もないことを言外に知らせていた。

「フン、いい顔になったじゃねぇか」

 けれどスサノオはそんなもの、おくびにも出さなかった。怒るどころかおおらかに迎え入れた。間違いなく彼は日ノ本が誇る英雄神であった。

 ならば自分も返礼しなければならない。報いなければ。世界を救う土台作りをしてくれた真の英雄に。隠れなき誉ある勇者に。偉大なる友人に。

「ぼくは選んだぞ」

 掴み取るのは、過去でも現在でもない。

「ぼくは……総てを終わらせる。レイミアもリリスも……そして、僕自身も」

 未来だけだ。剣を握りしめると裡に宿る蛇が拒絶を叫んで荒ぶった。膝が笑ってくずおれそうになるのを剣を杖にして阻止した。

 目線をスサノオを合わせる。英雄神は凄惨なほど豪快な笑みを浮かべた。

「いいだろう! オレはお前さんの選択を祝福する! 誰が何を言おうが関係ねぇ! 誰が指差そうが知ったことか! 

 三千世界に武威轟く、吹き荒ぶ神こと速須佐之男命が認めてやる!」

 大音声が、庵を、そして幽世を、揺るがしていた。

 これは宣戦布告。誰もたどり着けない場所に潜み、世界を転覆しようと暗躍するリリスに真っ向から突きつけた挑戦状なのだ。

 どこを探してもいないのならば、天地神明森羅万象三千世界のあらゆる総てに向ければいいと言わんばかりにスサノオは声を張り上げた。

「お前の歩んだ道程を、お前の成し遂げてきた功績を! 過去をなかったことにされようとオレだけは覚えていよう! 我が名の"スサ"とは進むことを意味する! 進み続けることを選んだ小さき勇者に最大の祝福を──ッ!」

 周りの景色はコマ送りのように移り変わっていた。古風な庵はいつの間にか姿を消し、かつて彼と彼女がたどり着いた夕焼けの海辺に立っていた。

「──さぁ、この先にお前さんを待ってるやつがいる。行ってやんな。その先どうするのかはお前さん次第だ」

 スサノオに後押しされ彼は彼のそばを離れた。振り向かなったけれど、一歩踏み出すとスサノオの気配は消えていてリリスに呑まれたのだと悟った。

 スサノオの示した場所はかつて彼自身が掘り続けていた穴だった。人一人がやっとくぐれる広さだったけれど、歩いても歩いても終わりが見えなくて、過去の自分はどれだけ無茶をやったんだと呆れ顔になった。

 明かりのない昏い道をひたすら歩み続けた。これまでと同じように。この先に本当になにかあるのか、正解なのか、知り得る術はなかったけけど、ゴールを信じて進んだきたのだ。

 ほどなくして行き止まりに突き当たった。佩いた刀が重苦しくて、ここまで歩いただけで息も絶え絶えだった。だがこれしきの壁、何ほどのことでもない。

阿吽(邪魔だ)

 一言で壁は粉々に崩れ去った。

 彼女のもとへなにをするのか。彼は決断していた。師の散り様をみて、父の悔恨を見て、スサノオの智慧をみて、自分の経験を翻って、悪魔的な発想をもって彼はリリスを打ち倒す策とした。

 どれほど辛い選択になろうとも、彼は退く気はなかった。 

 

 壁が崩れた先は広い空洞だった。中央には光もないのに光沢を放つ金色の御簾があって、それ以外は土ばかりしかない。

 疲労した体に鞭打って足を引きずりながらその場所を目指した。金色の御簾をあげ、奥に進むと白い几帳が下りていて二重の仕切りとされていた。几帳の奥で誰かが身を起こす気配がした。赤い燐光が舞って、白い維子と交わりひとつの絵画じみた美しさがあった。

 燐光が舞い、馥郁たる芳香が、鼻腔に届いた。もう誰なのかそれだけで察せた。

 

「君に会いにきた」

 

 思考の前に言葉が出ていた。努めて穏やかな声で、彼女へ語り掛けた。

 几帳の奥の影は、彫像と化したように動かなくなくなり、言葉も返さなかった。几帳は深く閉ざされていた。拒絶されていた。

「約束、覚えてる? ……"ぼくが怪我もせずに訪ねてきたなら、また会ってくれるか"。そして君は言ってくれたよな……ぼくがもどってきたら必ず迎え入れてくれるって」

 彼女との、はじまりの彼女と交わした再会の約束は、忘れたことがなかった。目を逸らしたことはあるけれど、忘れたことはない。

「ぼくは戻ってきたよ。君との約束を果たすために、君のもとへ戻ってきた。君へ辿り着いてみせたよレイミア」

 優しく語りかけると、少しの沈黙のあとにゆっくりと几帳が独りでに上がった。

 その先には彼女が、レイミアがいた。目を瞑っているのは以前のまま。伏せ目がちになって、表情を諦観で彩りながらとぐろを巻いていた。

「来てしまわれたのですね」

 ああ、うなづいて彼女の前に立った。喜怒哀楽、万感の思いが胸のなかで木霊した。

 約束を知っているレイミアは一人しか居ないから。一巡目の契約を結んだ、はじまりのレイミアしかいなかったから。もう会えないと嘆いていた彼女との再会に、心が痛いほど沸き立っていた。

「君は、あの時のレイミアなんだな。ぼくがはじめて出逢った、最初のレイミア……瞳がなかった君なんだな」

「そうであり、そうではないのです。わたくしは、わたくしです……あなたと出逢ったすべての蛇の尾をもつ婢女がわたくしなので」

 おそらくレイミアはすべての記憶を……逆行の渦で起きた出来事をすべての憶えているのだろう。彼はリリスの瞳として外界の情報をリリスへ送っていた。なら、その中継器ともいえる彼女も、彼の記憶を識っているのだろう。

「わたくしは瞳を獲てから、ずっとあなたが見てきた総てを共有してきました。あなたの目覚めも、あなたの苦悩も、あなたの喜びも、そしてあなたの死も」

「それが契約で、君がラミアから生まれた宿命」

「はい……ゆえにわたくしは存じております。あなたは選択を為されたのですね。誰にもなじることの出来ない気高き決断を」

 腰に佩いた一本の剣を見咎めて、目を伏せた。

「ぼくは……弱くなってしまった。随分と色んなものに右往左往するようになってしまったよ。他人の声に、他人の悲しみに、他人の喜びに。きっと以前なら関係ないって切り捨ててた」

「今はそうではないのですね」

「いつからかな。気づいたんだ。人はレイミアと変わらないんだって……ぼくを受け入れてくれもすれば、害しもする。怪物なんかじゃなくて、ぼくと変わらない弱い存在なんだって。こんな当たり前のこと、ぼくは目が曇ってて気づかなかったんだ」

「強く、なられたのですね。本当に強く」

「強くなんかなってないよ。本当に強かったら、きっと君がいなくてもリリスに立ち向かおうとしたはずだ」

「それでも、強くなられました。本当の強さはきっと弱さを知ることからはじまるのです」

「ありがとう」

 

 深く息を吸った。

 もう後戻りは出来ない。決断はもう為した。

 覚悟、なんてもの自分にとってはあまりにも不釣り合いで、似合ってなくて、未知のもので……けれど決して翻さない覚悟をもってレイミアの手を握った。

「ぼくは君が大切だ。何よりも。それは今でも変わらない」

 

 リリスのもとへ行くには。

「でも、だけど!」

 レイミアとはここで別れなければいけなかった。

 

「出逢ってきた人たちも、同じように大切なんだ……僕が手にかけてきた人だって、僕がレイミアが大事だと思うくらい大事な人がいたんだ。ぼくと君のような繋がりを、誰しも持っていたんだ。

 ぼくたちだけが特別なんかじゃないんだ。

 言霊って、残酷だよな。知りたくもない感情や記憶を、好き勝手に見せられるんだからさ。だからさ……身勝手なままじゃ、いられないよ」

「はい」

「君と別れたくない。君とずっと生き続けていたい……それを選べない自分が、本当に、嫌いだ」

 スサノオが明示した三つ選択肢。それは過去と現在と未来を象ったものだった。

 勾玉は過去。総てを忘れ去って何も知らない頃に戻って、バベルによる滅びを迎える選択だった。

 鏡は現在。観測者である彼が時の止まった鏡の異界に封じられることで滅びを、つかの間、停滞させる選択肢だった。

 剣は未来。あらゆる総てを投げ打って、勝率のない大博打を打つ乾坤一擲の選択だった。

 レイミアは彼の選択を、彼の眼を通して覗き見ていたから知っていた。彼が何を思い、何を求め、自分の元に来たのか。

 逆行、又は、ループとは永劫繰り返される時間をいう。それは永劫終わらない時間と変わらず、永遠の命を持っているともいえた。

 だからレイミアは、わたくしと鏡のなかへ入りずっと紅い海を眺めながら穏やかな時を送ることも出来るのですよ。と、囁きかけることもできた。

 けれど彼女は言えなかった。言えるはずもなかった。

 どれを取っても必ず絶望が待ち受ける残酷な選択肢を前に、悩みに悩み抜いて、悩み抜いた果てに、それでも決断した彼に、泥を塗るマネは出来なかった。

「わたくしが生き続ける選択を選べば、あなたの言う人の繋がりは総て断ち切られるでしょう。そして、あなたが本当に救いたい人も救えないでしょう」

 だから叱咤した。振り返るなと、一度決めたなら突き進めと、オルフェウスになるなと言霊に載せた。

「ああ……ああ! わかってるよレイミア」

 

「……でも、知っててほしい。ぼくは君だって同じくらい大切な──救いたかった人なんだ」

 

「おかしな人。わたくしはもう、あなたに出会って、心を通わせたあの日から、救われているのですよ」

 

 小さく、顔を綻ばせた。彼らは再会して、やっと笑いあった。

「ぼくは───になるよ。そして滅びを阻んでみせる。進みつづけるためには君が必要なんだ」

「はい。わたくしは、あなたの選択を祝福します」

「一緒に死んでくれるかい……レイミア」

「はい……はい。勝ちに、いきましょう」

 彼女を胸に抱いた。ぎりぎりと力いっぱい抱き締めてレイミアを感じた。彼女もか細い腕を背に回して、長い尾を自分と彼に纏わせた。

 二人でうなづいて、剣を放り投げた。真上に投げた剣はくるりくるりと放物線を描いて、彼らの生命をしたたかに斬り捨てた。

 

 彼らを斬った神剣の銘を天之尾羽張斬といった。

 かつてスサノオの父神でもあるイザナギがカグツチを斬り捨てた際に揮った神剣である。

 妻であるイザナミは火の神カグツチを産み落とすと、火傷を負ってしまい死に至った。怒り狂ったイザナミは佩いていた刀でカグツチの首を切り落としたのだ。

 その剣こそ天之尾羽張、またの名を稜威雄走といった。

 羽張は大蛇を意味し、稜威とは天の威光を指す言葉で、雄走りは鞘走る、鋭利な刃のひらめきを意味した。

 鋭き刃で蛇を切り、天の威光を示す。

 それこそ天之尾羽張の本質。並んで語られる天叢雲剣と同じく生粋の《鋼》の征服神であった。

 数多の《鋼》の英雄がそうであるように、天之尾羽張もまた打ち倒した龍蛇から力を奪い取っていた。つまり切り捨てた蛇、カグツチの持っていた権能を奪ったのだ。

 ではカグツチの権能とは? 

 カグツチは火の神だが、別つ神でもある。かつて神産みを為した創造の地母神イザナミを死をもって別ち黄泉へ送り、夫婦であったイザナギと離縁する要因を作ったのだから。

 肉体と魂、そして、男女を引き裂く権能をカグツチは有しており、天之尾羽張もまた保有していた。

 彼とレイミアは死によって別かたれた。同時に()()()()が分かたれたのだ。精神と肉体によって生まれたレイミアは神剣よって繋がりを完全に絶たれ、消滅した。

 

 レイミア……。死の途中でレイミアが消えていのを感じ取った。

 レイミアが腕の中で消えていきラミアとの繋がりを絶たれた肉体が、くずおれるのを最後にみた。顔にはまだ生気が残っていて意識を失っているようだが、まだ生きているのは察することが出来た。

 彼の願い通り……あの日、一緒に幽世へ迷い込んだ、本当に救いたかった人を救うことができたのだ。

 レイミアの死によって肉体は本来の持ち主のものとなった。そして、()()()()

 リリスの一側面であり、リリスの分身ともいえるラミアの魂は、錨であった肉体がなくなればどこに行くのだろうか。答えはひとつだった。

 帰るべき場所へ帰るのだ。決して辿り着けない深淵に潜むというリリスのもとへ。

 彼もまた死を迎えていた。

 肉体と魂が分かたれ純粋な霊的な存在へと。霊的な存在とはつまり──ラミアの瞳。

 彼の魂はこれまでと同じようにラミアとひとつとなって、ラミアは彼を抱いてリリスのもとへ。

 天に昇る魂か、地獄に堕ちる魂か。

 猛烈な速度で景色が駆け抜けていき、辿り着いたのは一瞬だった。

 千里の道という言葉すら生ぬるい道程を歩き切って、決して辿り着けない場所へ辿り着いて……彼は到った。

 金の髪を腰まで流した妖しき女。総ての元凶。彼の倒すべき敵。

 まつろわぬリリスのもとへ彼は到った。

 

 

 

 

 

 ──あはははは。

 

 ──暗闇の蔭でわたくしは見ていました。

 

 ──うつくしきわこうどの昂りを。我が怨みとわたくしを弑するため、吹き荒ぶ神が、預言の聖人が、わこうどが、わたくしの眼が、手と手あわせ声かさねた輝かしき物語を。

 

 ──わたくしは女。男に組み敷かれ下につく定め。

 

 ──わこうどたるそなたを閨によび、藺草と羊歯を絹のふしどとかえ、孔雀の羽に宝石を露と散りばめた衣でむかえ、ものぐるおしい熱を受け止めるのが務め。

 

 ──ああ! されど! わたくしはまつろわぬ身、枷と鎖はもの言わぬ骸とかして、人祖アダムは白骨とかした。

 

 ──ならばわたくしは目に不遜の光を宿しましょう。滅びの聖なる宴をはじめましょう。うつくしき夜をおしみましょう。輝かしきわこうどの転落をわらいましょう。

 

 これがまつろわぬリリス。彼は息を呑んだ。

 リリスはレイミアに似ていた。隠れなき婀娜に可憐さを介在させながら両立していた。髪色を変えればレイミアと瓜二つに見えるだろう。

 だが、リリスにはレイミアにあった人間臭さは皆無だった。正しく神自らから創造した作りものめいた美があった。

「まつろわぬリリス! 総ての因縁を終わらせる──今ここで!」

 リリスを目視した途端、彼は迅速果断に仕掛けた。問答をしている余裕なんてなかったし、そうそうに決着を付けねば容易に消し炭にされると予測できたから。

 彼は行使した。神憑りを。

 彼の持ちうる一番の才能こそ、まつろわぬリリスを倒すことの可能な唯一の方法である。

 神懸り己に降ろす神の名は──カグツチ。

 古事記においてカグツチは天之尾羽張によって切り刻まれ死に至った。そして彼もまた天之尾羽張によって切られ死に至ったという神性を獲得したのだ。

 死に至った経緯をなぞることによってカグツチの神性を足がかりとし、彼は神懸りを成し遂げた。

 

 ──火の閃く赤神! 日いずる母殺しの火を宿しましたか! 

 

 カグツチの御魂をその身に降ろすと、全身から爆炎が吹きあれた。神懸りは幽世で行えば暴走する。精神よりも肉体の方が上位にある世界で、荒ぶる神の御魂を降ろすなどという無謀は自死を望んだに等しかった。

 だけど、これでいい。

 彼は体が灼けていく痛みに堪えながら、自分を蝋にして熾した火を絶やさぬよう扇ぎ続けた。

 彼には策があった。現状、彼はラミアの瞳という神の一部であった……神の一部であり、彼自身でもあり、それはひとつの身体にふたつの自我が共存している状態といってもいい。

 吹けば消し飛びそうな自我だが、確かにあって、同じに肉体に2つの自我が存在する状態は、子を孕んだ状態に酷く似ていた。

 人が孕むのは人であるように、神を孕むのは神である。彼はいわば生まれる以前の、無色で何者でもない神であった。

 そして彼という小さな自我は神懸りを行った。

 降ろす神の名はカグツチ。焔を抱いて生まれ、母を焼き殺すという性をもった神だ。

 現状この世に神はまつろわぬリリス1柱しかいない。けれどそれは神々が完全に消え去ったことを意味せず、リリスが内包し、自分のなかに閉じ込めてしまったからこそ実現できた野望だ。

 ゆえにまつろわぬリリスの一部となり肉体に入り込んだ彼の神懸りに、カグツチは応えることができた。神懸りを通じてカグツチがダメ押しの権能を振るった。すなわち別離の権能。死とともに訪れる別離の権能を以て、リリスの腹のなかでまつろわぬリリスから完全に分離した。

 

「ォォオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」

 

 叫んだ。喉も枯れよと。

 カグツチは地母神であり神産みを行ったイザナミ殺しの神だ。

 リリスも元を辿れば地母神であり、そして総ての悪魔を生んだ女。イザナミとリリスは非常に近しい性質を備えていて、カグツチから燃え盛る火は利きすぎるほど利いた。

 

 ──おおお! かがやけるわこうどの息づかい! 愛の思いは我が身を焼くか! 

 

 だが様子が変だった。リリスを侵略し、殺し尽くすはずの火が止まる。凍りついた時さながらに火は動きをなくし、色も消えた。

 

 ──されど焼けぬ。炎とともに焼ける女陰のにおいは掻き消える。

 

 ──わこうどよ。なんじ神に非ず。カグツチに非ず。

 

 リリスの冷淡な声が、彼に勝敗を悟らせた。

 そもそもリリスは間違いなく彼の到来に気づいていたはずだ、なにせ彼の目はリリスに繋がっているのだから。それでも彼を迎え打ったのは勝利の確信があったからに他ならない。

 そうして絶対の裁定者であるリリスは、彼を否定した。カグツチであり、神であった彼を否定したのだ。

 そして新たなる裁定が下された。

 

 ──汝は、汝の半身たるレイミアを殺害せし殺人者。姉弟殺し。我が世、最初の殺人者也! 

 

 ──汝はカイン。人間也! 

 

 神懸りが解けた。ついさっきまで神に至らんとしていた者は唯一絶対の神の一言によって、人へと堕ちた。

 それもやりたくもなかった生贄を、嗤いながらなじられたことによって。

 

 リリィィィ───ィィィィスッ! 

 

 彼の怒りはまるで質量をもってリリスを葬らんばかりだった。彼という人生のなかで史上最大の怒りだったに違いない。

 しかし、それがなんになる。

 神と人との差は隔絶している。リリスは優しく息を吹きかけた。容貌優しき美女の吐息は艶やかで、そして強烈だった。

 彼の生命は露と消えた。

 多くの人の願いと意思を手にし、大切な人まで手にかけて、挑んだ乾坤一擲は何も為せずに終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒南風は吹かない。逆行は起きない。

 8日目を超えることでバベルの塔は顕現し、リリスの唯一神への登極は完了した。世界は滅ぼされてしまったのだ。

 それがこれまでの顛末だった。

 リリスに屠られたあと彼はどういうことか。自意識が存在していて、滅びの様子をパソコンのディスプレイから流すように眺めていた。

「ん? ぼくは、どうして生きてるんだ?」

 当然の疑問だが、誰も答えることなく虚空にとける。

 ……かに思われた。

「あなたは契約をなされましたから」

 返答をしたのは暗闇からいつの間にか現れたレイミアだった。

「レイミア。どうして君が? 君は確かにぼくが殺したはずだ……リリスのもとへ行くために。ああ、そうか。ここは黄泉の国とかなのか。だったら納得だ」

「ふふ。残念ながら違います。……その答えも、契約のなかにあるのです」

 彼は驚いたり疑問をぶつけたりもしたが、一貫して穏やかで、和やかな雰囲気に包まれていた。

 どこか解放されたような気持ちを味わっていたのだ。

「契約? ぼくはなにかしたかな……たしか君の目になる。そういったんだよな」

「はい。そしてもうひとつ、わたくしたちは契約を交わしました」

「…………君は、ぼくの話し相手になる?」

 やっと思い出した記憶を口にすると彼女は淡い笑みを浮かべた。

「そうです。あなたはわたくしの目となり、わたくしはあなたの話し相手になる。それこそわたくしたちが持ちうるリリスへの最大の武器……スサノオ様の仰られていた絶対を打ち破る力なのです」

「そんななんでもないようなことが? 随分と頼りないな」

「そうですね。ですが、話し相手とは自分と他者がいなければ成り立たない概念です。他者がいなければ言霊も生まれず、自我も生まれないただ"無"だけが在るだけしょう。ですが話のできる誰かさえいれば自己と他者は確立され、存在を取り戻すことが出来るのです。今、こうしているように」

「でも分からないな。ぼくはリリスによって殺されたはずだ、なら消えなきゃおかしいじゃないか」

 ぼくの疑問にレイミアは静かに頷いて、

「リリスはふたつの間違いを犯しました」

 そう言った。

「間違い?」

「ひとつは言語の統一によって神を消そうとしたことです。言葉、言語、言霊、それらすべては先ほども申し上げた通り、自己を他者へ伝える概念なのです」

 他者へ、伝える……。レイミアの言葉を反芻しながら思い至った。

「そうか、言葉は誰かがいないと成り立たない概念なのか」

「その通り。言語の統一はなされども、言葉の消滅は有り得ません。言語すら消してしまえばリリス自身がやってきたように消えた神々と同じように消え去るでしょうから」

「そしてリリスは言霊に頼る以上、誰かを許容しなくちゃいけない。それは、最後に残った他者だったぼくになった?」

「はい。あなたは言霊によって作られたリリスの治世では、リリスが唯一絶対である限り滅びることはなく、契約によってわたくしも消えることはなくなったのです」

「なるほどなぁ」

 得心し頷きながら、彼は自然な笑みを彼女へ向けた。彼らは笑いあった、やわらかな笑顔で。

「ぼくはまた、君と出逢えたことを素直に喜ぶよ」

「はい。わたくしもです」

 

 闇でおおわれていた辺りは、いつの間にか光が差していた。

 地面からは砂のざらつきが手に伝わって、潮騒が耳に届くと眼前の景色は海に変わった。

 白んだ空は蒼穹を駆けぬけて、赤く染まって夕焼けになった。

 彼らの認識が世界を作っていた。2人ですごした穏やかな場所で、肩と肩を並べて夕日に染まる海を眺めた。

 

「なあ、リリスの二つ目の間違いってなんだったんだ?」

 しばらくそうしていた二人だったが、やがて彼がもうひとつの核心をついた。レイミアは少しだけ間を置いて、ほどなくて語りはじめた。

「あなたをカインだと……()()だと定義したことです」

「人間、ってぼくは最初から人間だけど……」

「ふふ。でもそうではないのです。リリスがあなたを人間と定めた、そこに意味があるのです。あなたは大きな矛盾を孕むようになってしまった」

「矛盾?」

「そう。これまでわたくしとあなたの契約の比重は、わたくしに大きく傾き、逆行という形で終わらない死をあなたは迎えなければなりませんでした」

「ああ。覚えているよ」

「今度は逆です。あなたの方へ大きく傾いたことで死に続けることからは生き続けることへ反転し、存在を保証するものとなりました」

「生き続ける、ぼくが? なんだか想像がつかないな……」

「そうでしょうか? よく考えてみてください。あなたはずっと生き続けていたはずです」

 生き続ける。もしや、と隣の彼女をみた。彼はずっと死に続けてきた、でも、死に続けるには生きなければならない。

 なら、ある意味で生き続けていることにもなるだろう。

「お察しの通りです。わたくしたちの契約は強力で、まつろわぬリリスがいるから成り立ち、リリスによって保証され、強力に後押しされてきました。それこそ逆行のという永遠の命を得るほどに」

 終わらない逆行とは永遠を意味するように、死に続けるには生き続けなければならない。レイミアはそう言っていた。

 これまで契約の天秤がレイミアの方へ傾き、死ばかりだった。それが彼の方へ傾いたことにより死の伴わない本当の永遠の命を手に入れてしまったのだ。

 人間と定義されたはずなのに神に等しき永遠の命を得てしまった。それは多大なる矛盾だった。

 

「永遠の命か。それを得たってなんになる、リリスとの差は圧倒的だ。そうだろ?」

「はい、それに永遠の命といっても脆いものです。もともとリリスによって保証された契約なのですから、契約もリリスが消えればただの口約束となるでしょう。そうすれば永遠の命も、今生き長らえているわたくしたちも、リリスによっての消滅によって消える定めなのでしょう」

「だろ。だったらここでずっとこうしていた方がマシじゃないか。総ての捨て去って、君とこのまま夕焼けを眺めているのも、ひとつの正解なんだと思う」

 ぼくの諦めきった後ろ向きの囁きに、レイミアは少しだけ嬉しそうに微笑んで、彼の肩へ頭を置いた。

「わたくしもそう思います」

 彼もレイミアの肩へ手を回して、穏やかな最期を望んだ。

「ですが……わたくしは問わなければいけません。──()()()()()()()()?」

「え?」

「これが契約なのです。自己と他者を分けるため、自分を確固たるものにしなけえばならない。そしてあなたが死に続けたように、わたくしはあなたへ問い続けねばなりません」

「それは……」

「わたくしの知るあなたはどんな人だったでしょう。わたくしが見続けてきたあなたは何をなしたでしょう。

 あなたは勝てないからと、負けてしまったからと、総てを投げ出す人だったでしょうか」

 彼らの触れ合っていた肌が離れて、見つめあった。やめてくれ、彼女の問いは刃のようで彼は切り刻まれる幻覚をみた。

 でも、逃げてはならない。レイミアは逃げずに彼を見ていた、選べたはずの穏やかな時を捨て去って。だったら逃げなんてしてはいけない。

 だって。逃げるなと言ったのは、彼自身なのだから。

「違う……違うよ。ぼくは……おれは勝つためにここまできた。総てを投げ打って、挙句の果てには君を手にかけてまで」

「それはなぜ?」

「大切だと思ったから。僕にとって大切だと思えたレイミアとの繋がりを、誰しも誰かと繋いでいて、それをなくしちゃいけないって……リリスだけの孤独な世界にしちゃいけないって……そう思ったんだ……だから!」

「なら戦いましょう。最後まで。まだ一度敗北しただけ……まだ1度死んだだけではありませんか。わたくしたちはなんど一敗地に塗れたでしょう。

 さあ、立って。刀折れ矢尽きるようと、わたくしたちが諦めなければ戦えます」

「でもどうやって勝てばいい!? 勝ち筋なんてどこにもないじゃないか!」

「確かに現状のままの人では神に勝てません。そして神でもリリスには勝てないのです」

「手詰まりじゃないか! だったらもう……!」

「だから勝つためには、"人"であり"神"でもあらねばならないのです」

「!」

 レイミアは穏やかそのものだった。でも繰り出される言葉は苛烈で強烈にすぎ、さしもの彼でさえ言葉を失った。

 ……でも、それが良かった。

 彼独りではいけないのだ。彼女独りでもいけないのだ。

 支え合い、激励しあい、時には手を取り合って引っ張って、不格好な二人三脚こそが──ボーイミーツガールという物語なのだから。

 

 夕日に見守られながら少女は少年へ語りかけた。

 両の手で彼の頬を抱いて、瞑った開いたことなのない目で見つめ合いながら。

 少女は蛇の尾をもつ妖しき女。女怪であった。

 彼女は問うた。

 

「今一度、問います。あなたは誰ですか」

 

 少女の目を見つめ返しながら、少年は不器用な笑みを返した。幸が薄そうで、隈もとれない眼光するどい陰鬱な少年だった。けれどその時だけは年相応の幼さが見えた。

 

「ぼくは、ぼくだよ。君のそばにずっと居続けると決めたぼく。その答えだけははずっと変わらない」

 

 彼の返答にレイミアは柔らかく眦をゆるめた。合格です、そう言っているようだった。レイミアは立ち上がった。座り込んだぼくを見下ろして、細い手で彼の手を引いて。

「そのために、あなたはどうしますか」

「ああ。君と居続けるために──リリスと戦うよ。挑み続ける。そうじゃないとぼくはぼくでなくなってしまうから。リリスに立ち向かってこそ、君のそばに居続けることが出来るから」

 二人はもう立ち上がっていた。敗残の惨めさを乗り越えて、次なる挑戦へ。勝つまで戦い続けるのだ。たとえ勝率のない戦いだろうと、絶対なんてことは絶対にないのだから。

「わたくしはレイミアからラミアとなり、リリスのもとへ参ります。もう肉体は滅んだ身、死を経ずともまつろわぬリリスの元へ飛べるでしょう」

 レイミアと繋いだ手を痛いほど握り締めあった。

「……そして、今度はあなたと共に……」

「ああ。独りじゃダメだった、なら今度は二人で。……行こうレイミア。そばに居てくれるかい?」

「はい……ずっと、ずっと、あなたのお傍に…………」

 

 それがレイミアのついた、最初で最後の嘘になった。

 

 

 

 

 

 

 ──あはははは。

 

 ──わたくしは血を口紅にして気怠い阿片を飲み干す女。わこうども、わたくしの眼も、汝らを振り絞る魂の踊りを呵呵とわらいましょう。

 

 ──憐れなあがきの滑稽さは、わたくしの膿みを払ってくれる。

 

 リリスは笑っていた。彼ら二人が性懲りもなく挑んできたのを、面白可笑しい喜劇を無邪気に楽しむ観客のように。

 今度はどんな足掻きを見せてくれるのだろう。好奇心に爛々と瞳を輝かせていた。好奇とは既知ではありえない感情だ、つまり。

「まさか、リリスは楽しんでいる? 眼は繋がっているのに、ぼくたちが何をするかを見もしないで?」

「おそらくそうなのでしょう。矮小なわたくしたちの反抗など、地力の違うまつろわぬリリスにとっては蟻が歯向かうようなもの」

「舐められてるな……!」

「ですが、そこに勝機はあります」

 

 小さく同意して彼はとある準備をした。準備とは神になる準備に他ならない。

 人が神になる条件とはなんだろう。

 高貴な生まれだったとき? 強大な力を得たとき? 死に至ったとき? 

 どれも正解で、どれも神話に記された方法だ。神になる方法など多種多様にあって、彼がどの手段で神へと至ろうかと悩むほどだった。

 彼の出した答えは、順を負って位階を上り詰めて行くことだった。

 

 最初は──英雄になること。

 

「そしてぼくはもう英雄なんだ」

 かつて述べたように繰り返すことはそれだけでもう神事だ。伝統や習慣、修行とは古から伝わる神話や偉業を模倣し続け、そこから霊力を得るのだ。

 彼の為した逆行も繰り返すことに他ならない。遂には彼は聖人などに近しい存在であると師からお墨付きさえもらった。

 ──しかし話はそれだけでは終わらない。

 繰り返す行為は神事で、模倣するのが為された偉業なのならば、伝統や習慣のはじまりとなった人物は何者だろう。

 そう、偉業をなした英雄なのだ。

 もう条件はすべて揃っていた。逆行を繰り返していた彼は一体誰を模倣していた? はじまりは誰だった? ……そんなもの己自身に決まっている。

 あとは簡単だった。彼は何万という逆行で、魂を精錬し、偉業まで成し遂げていた。

 彼は英雄であった。

 

 次は──神になること。

 

 英雄が神になる。そんな話は古今東西掃いて捨てるほどあった。そして彼はダメ押しのように永遠の命さえ携えていた。

 偉業と磨き上げられた魂、そして永遠の命。誰にも否定はさせない。押しも押されぬ神はいま、ここに誕生した。

 本来ならリリスによって人間と定義された彼。神になんてなれるはずもなかった。

 しかし彼は人間と定められたにも関わらず、永遠の命を持っていた。人とは定命のものでなくてはならない。永遠の命など人から外れた存在だ。

 人から外れたからこそ、かつての彼は契約によってラミアの瞳になれたのだから。

 永遠の命を保証する契約も、人間という決定も、すべて唯一神であるまつろわぬリリスによるもの。

 リリスの治世において彼という存在は矛盾を許容するようになった。人であって、神でもあるという矛盾を。

 彼は己が神に至った確信を抱くと、大きく息を吸って叫んだ。

 

「神様!」

 

「god!」

 

「dios!」

 

「Mextli!」

 

「Θεος!」

 

「신!」

 

「الله!」

 

「Tanrı!」

 

「Цаас!」

 

「พระเจ้า!」

 

「אֱלֹהִים!」

 

「Бог!」

 

「──! ──!」

 

 彼は叫んだ。

 ありとあらゆる言語で「神」を意味する言葉を。

 言葉とは誰かに語りかける自己と他者がいなければ成立しない概念ならば、消えてしまった神々に語り掛ければ存在を取り戻すのではないか。

 そして言霊使いとして言霊を手繰った。

 彼は神となり、リリスの中にいる神々と同格となった。対等の存在による己と他による認識は、果たして自己を失いリリスという石棺に収められた神々に火を点した。

 

 ──あははあはは。

 

 ──眠れる愛いシェディムをゆりうごかすわこうどよ。悪知恵とあまい夢はおわり。

 

 ──子は寝るもの。安眠を貪るもの、二度と醒めぬ眠りについて。

 

「なぁおい……神様!」

 リリスの誘惑と魔手が届く前に、彼は喉を裂かんばかりに叫び声をあげた。

「あんたたち情けなくないのかよ! 悔しくないのかよ! たった一柱の引きこもりの神にいいようにやられてさぁ…………それでいいのかよ!」

 結局は他力本願だった。自分一人ではどうしようなくて、レイミアとともに立ち向かっても勝機は見えなくて。だからもっと沢山の力を借りることにした。

 けれどそれがリリスへ勝てる道すじ。

 英雄から神へ至り、そして次のステップへ進むための布石だった。神に認められるため、彼は叫んだ。

 

 

「ぼくは悔しい! こんな身勝手なやつに父も友も師も奪われて、大切な人だって犠牲にしなくちゃいけなかったのが! あなたたちはそうじゃないのか!」

 彼は叫びながら感じていた。目覚めたばかりの神々の中にひとつの気運が高まるのを。

 だがまだ弱いざわめきで、だから叫んだ叫びつづけた。

「ぼくは人間だ! だけど神に至った! そしてその先まで──リリスを倒すため、先へ進まなくちゃならない! そのためにはあなた方の──神々の祝福が必要なんだ!」

 

 

 ──────。

 

 

 彼の叫んだ後には無音が残った。

 ちくしょう、ダメだったか……。ただの人間だった自分が神々を動かそうなど無謀にすぎたんだ。

 神は自尊心が形になったような存在だ

 自尊心がそのまま存在となり強さとなる彼らは、人間からぽっと出の成り上がりを認めてはくれなかったらしい。

 でも、俯かなかった。堂々と前を向いて、嘲りを浮かべるリリスを睨んだ。

 

 その時だった。

 

 ぱち、ぱち、とひとつの拍手が起きたのは。

 驚いてそちらを振り向くとスサノオがいて……いかつい顔にどこか愛嬌のある笑みを浮かべて彼を讃えていた。

 

 拍手はもうひとつ増えた。

 静かな落ち着いた音で、手を叩いているのは老人で、彼が屠ったはずの師だった。

 

 また拍手。

 猿顔の神、斉天大聖でどこかひょうきんさを織り交ぜながら手を叩いた。

 

 拍手、今度は銀髪の幼女神から。

 

 今度は秀麗な顔に倦みを纏わせた青年神。

 

 今度は異形の英雄神。

 

 今度は、今度は、今度は……! 

 

 彼の言葉は嵐のような拍手を引き起こした。拍手の嵐は大喝采へと変わり、彼へ確かな力となって包み込んだ。

 ただの人間であった彼が、艱難辛苦の果てに神々に認められる。これを偉業と呼ばずになんと呼ぶ。

 神々の祝福は彼を更なる高みへと連れていく。無銘の神々の王として、リリスの世界で顕現した。

 

 

 ──ばかな。

 

 

 リリスの驚愕の声が、更なる活力になった。

 決着を着ける時が来た。手に取ったレイミアの指からぬくもりを感じる。それが何よりの活力となった。

「行こう……リリスの1人芝居に幕を下ろしてやろう。そばに居てくれレイミア」

「はい。わたくしはあなたをあなたとして、至るべき場所へ導きます。どうかこの手を離さないでくださいませ」

 彼とレイミアという存在は一心同体だった。

 彼が神々の承認を得て、神々の頂点……つまり玉座に座る資格を得たというのなら彼女もまた同じ地位を得た。

 そしてレイミアは、リリスのもとへ辿り着くためにレイミアという名をラミアと変えていた。

 彼女の衣装が煌びやかなものへと。赤い髪には透きとおる玻璃のごとき純金と宝石を散りばめたティアラを乗せ、薄明を編んだ白のヴェールを肩まで流し、純白を衣とした。

 ラミアとは古代リビュアの女王。神々の王に見初められし美しき女王。

 そして伴侶の名こそ──

 

 ──みとめぬ。さえずるな。わたくしが絶対者! 唯一無二の神也! 

 

「でもアンタ以外の神様は嫌なんだってさ! ぼくは登り詰めるぞ……神々のてっぺんまでな。人として、神様の力を借りながら!」

 神懸りを行使する。降ろす御霊などひとつだった。

 神々の王であり、手を握るレイミアの伴侶。

 リリスが唯一無二の絶対ならば、こちらは全知全能の最強。対抗するならばこれほどの神格はいない! 

 彼もまた衣装を変えた。光彩を放つ胸当と手甲に脛当、静謐な雷光を折りたたんだ白銀の衣を纏って、リリスへの戦衣装とした。

 決着など火を見るより明らかだった。

 独神であるからこそ絶対でいられたリリス。けれど総ての神々が認める、絶対の前には無力なものだった。

 烈火のようにいきり立ち、雷鳴の如く轟然と鳴り響く万雷の拍手(ケラウノス)のなかでリリスという絶対のまつろわぬ神は滅び去った。

 

 長い、長い、旅は終わったのだ。

 

 

 

 

 砂浜に波に打ちよせる絶え間ない潮騒で目が覚めた。

 見えた世界は傾いていて、寝っ転がっているらしい。地面についているはずの頭には柔らかい感触があって、上を見るとレイミアの顔があった。

 彼女は手櫛で彼の収まりの悪い髪を梳きながら、やがて目の覚めた彼に気づいて淡く微笑んだ。

「リリスは倒せたのかな」

「はい。わたくしたちの中にあった契約も消え、止まっていた時の砂も動き出しましたから」

「そっか」

 彼女の膝枕から頭を起こして、肩と肩を支え合った。夕焼けのなかで眺めている時間が何よりも大切だった……何度この時間を求めて涙し、懊悩しただろう。それが有限なら尚更だった。

「そういえば沢山いた神様はどこに行ったんだろう」

「どこかへ去られてしまわれました。きっと神話の世界へお帰りになられたのだと思います……皆様、あなたに感謝を述べていらっしゃいましたよ。よくやったと」

「はは。ぼくはお膳立てされた道をただ進んだだけなんだけどな」

 会話がとぎれた。別に構わなかった。レイミアがすぐ隣にいて、存在を確かめ合えるならそれで。

「レイミア」

「はい」

「一緒にここで最期の時を過ごそう……ずっと苦しんで来たぼくたちなんだ。最期くらい穏やかに終わろう」

 レイミアの頷きを静かに待ちながら、ゆっくりと時の流れと心臓の鼓動を感じた。

 

「いいえ、あなたは死にません」

 

 最初、言われた言葉の意味がわからなかった。

 

「此処はリリスによって滅びが確定された次元でした……ですが今は違います。矛盾の元凶だったリリスが倒れ、世界に蓋をするものは消えました。

 矛盾が起きれば世界が分かれるように、矛盾がなくなれば元にもどろうとする力もあるのです。修正力と呼ばれる正しい形に戻す力が」

 彼女は笑んだ。

 見せたことのない笑顔で。魔性を介在させない綺麗な笑顔を彼だけに向けて。

「きっと、あなたは帰れます。総てがはじまる前のあの日に。冬のお社で、私というわたくしと出会う以前に」

 赤子がそうするように、彼は首を振った。認めたくなかったから。

「待ってくれ……君は……君はどうなる」

「そうですね。私と出逢えば……きっとリリスが甦ってしまうでしょう、そうすれば同じです。矛盾が起こり世界は別れるでしょう。ですからお願いがあります。どうか私とは出会わないでください、どうか……」

「違う! そうじゃない! ()はどうなるんだ……ぼくが出逢ったあの子じゃない……今、ここに居るレイミアはどうなるんだ!」

 納得とか理解とかそんな次元の話ではない。だって意味がわからなかった。もう自分と彼女は十分生きて戦って苦しんで、役目を終えたはずなのに、あとはただ穏やかに夕焼けを見れれば十分なのに。

 生き続けて行かなければならないのだという……

 

「わたくしのことなどお気になさらないでください。所詮、ラミアは決して本妻などではなくゼウスが数多く愛した女の一人なのですから」

 

 ……レイミアのいない世界で。

 嘘だ、とか。嫌だ、とか。認められない、とか。君がいない世界なんて、とか。そんな陳腐な言葉が雪崩を打って、でも縋る言葉は、言葉にならずに深い吐息になった。

 彼がこの場所にいるのは決断をしたからだ。レイミアだけのために世界を終わらせられないと、非情な選択を取ったからだ。

 縋って、後悔して、泣きわめく甘えは彼には赦されなかった。

「なあ……ひとつだけ訊いてもいいかな。もし、もしぼくじゃない他の誰かが君と出逢っていたら、同じようにリリスを倒して傍にいたのかな」

「おかしな人……そして、とっても、いじわるな人」

 首元で囁かれた言葉。拗ねた声がかわいらしくて、彼女の額が首元に当たって、擦れる前髪がくすぐったい。

 どうかこの一時を忘れませんように。

「あなただけです。わたくしを受け入れてくれるのはあなただけ。それだけは断言できます。どうか、それだけは信じて」

 レイミアの言葉はぼくの瞳に触れると雫へと変わって、彼の頬をはしる二条は、彼女の眦へとおちた。

「っ君は、ぼ、ぼくをおかしな人と言ったけれど……君は、最後まで、つれなかった」

 本当にそう思う。

 出会えたと思ったら引き裂かれて、何度も引き裂かれて、彼女辿り着くために心が青ざめるほど苦悩して。

 苦難の末に、再会して、また別れて、最後はもう出会わないでくれときた。

 手を伸ばしても、手を握っても、彼女は霞のごとくほどけて去っていった。

「はい。わたくしはつれない女ですから」

 レイミアはまた笑んだ。声は少しだけ明瞭さを増して、硝子のような脆さを帯びていた。

 

 レイミアのまぶたに触れる。神懸りをしてまだ少しだけ残っていたゼウスの神性を行使した。

 伝承のなかでラミアは瞳を取り外すことが出来た。取り外せるようになったのはゼウスによる権能によるもの。

 なら彼女に瞳を還すのだってできるはずだ。

「……瞳を」

「目を開いてくれるかい」

 小さくうなづいたレイミアのまぶたがはじめて完全に持ち上げられ、翠玉の瞳と繋がった。眩しそうに細められた瞳。はじめて瞳を見せてくれた彼女が、彼の頬を撫ぜた。

「わたくしはあなたの言うとおり、つれない女です。

 ……でも、どうか、どうか忘れないでください。わたくしが無へと帰ってしまっても、確かにわたくしが居たという真実をあなたが覚えてくだされば十分です」

 それは祝福と呪いの言霊だった。

「──わたくしは、あなただけのレイミアになれます」

 言葉が出なくて、堪えていたはずの涙が溢れだしそうになって、小さく頷しかできなかった。

「ありがとうございます。これでわたくしは悔いなくいけます」

 レイミアのとびっきりの笑顔のなかで、翠の瞳はすぐにすがたを隠してしまった。

 蕾はいま華開いた。そして咲いた華はもう散るのみ。

 彼はレイミアの首元で腕に抱き、引き寄せた彼女と赤い髪を鼻先に当て続けた。

 

「唄を……。最期に、君がいつも歌っていた唄を聞かせてくれないか……君をぼくの中に刻みこむために。君を絶対に忘れないように」

 

 

 

 

 

わたしはあの野で往き合うた

うつくしいきわみの乙女。妖精の娘か。 

髪ふさふさと足かろく、 

眼こそ妖しく。 

 

花の冠を編んでやり 

腕輪も香ぐわしい帯もこさえた。 

乙女はわたしを恋うかに見つめ 

あえかに呻いた。 

 

すすめる馬に 姫をのせ 

ひねもす み惚れぬ あですがた 

身を はすかいに姫はただ 

仙女の歌を うたいたり 

 

魔性の洞にわたしをつれゆき、

乙女はいたく咽び嘆いた 

その狂おしい眼によたびわたしは 

口づけをしてつむらせた 

 

乙女にあやされ、まどろんで、

わたしは夢をみた──おぞましや 

わが見た夢の終わりの夢、 

うすら寒い岡のあたりに。 

 

 

わたしは見た、青ざめた王も、諸侯も、

武士も、死人の色の青白さ、 

誰もが叫んだ──「汝すでに 

つれなきおみなに囚われたり」と。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さなお社の沓石に座り込んでいた。どうやら眠っていたみたいだ。

 随分と長い夢を見ていた気がするけれど、なにをしていたんだっけ。思い出せない。

 彼は手にあった参考書を見てから、ああ、今日は受験日だった。とやっと思い出した。さっきまでプレッシャー押し潰されそうだったのに一眠りしたら綺麗さっぱり消えていて、暢気な身体だなと微苦笑した。

 かつん、かつんと遠くから石段を登ってくる足音が聞こえた。理由は分からない。でも、その誰かと出逢ってはいけない気がした。

 立ち上がって、腕にスカーフを巻いていたことに気づいた。こんなスカーフしていたっけ。腕に結んでいたスカーフを手に取って眺めた。

 風が吹いた。いじわるで強い吹きすさぶ風は、手の中にあったスカーフを攫って、彼は追いかけることもせずスカーフを眺めていた。

 瞳から雫が止めどなく溢れて溢れて、それでも歪み切った顔を、さらに幾重にも歪ませて……無理やりほほえんだ。

 

「さようなら」

 

 涙の意味も、別れの意味も、わからなかったけれど。わかってはいけなかったけれど。口から出たのは白い息だけだったけれど。スカーフは風に乗って消えた。

 ……行かなくちゃ。

 彼は歩き出した。朽ちた鳥居をくぐり抜けて、石段を下った。誰かの足音を聴きながら、未来を思った。

 

 木々がさざめく。霧が風に乗って消えていた。朝日が影を映し出す。

 ふたつの影が触れ合って。

 

 

 ──二人はすれ違った。






当作品は詩人キーツの「つれなき美女」と「レイミア」から文を引用しており、原作カンピオーネ!やwikiを参考にさせて頂いております。

主人公がカンピオーネになれたのか、レイミアと再会できたのかは読み手様のご想像におまかせします。


…………企画最終日に10万字ぶち込むアホ。
ループものはセンスある方にしか書けませんね……実感しました。

機会を与えてくださった主催者様には感謝を。
赤髪バンザイ!


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