Fate/Stardust Vendetta―星屑の復讐僤―― 作:ソクリ
スラム掃討戦の中で、ヨハン・N・シュテルンの決死の奇襲によって、兵を近くに置いていなかったリーゼリット・N・エトワールはスラムの人間たちに連れらされる憂き目にあってしまった。
スラムの人間たちによるリゼをどのように扱うのかについて、議論が交わされる中で、ヨハンと同じく忌み血―――このスラムへと放り込まれた七星の血を引いている少年によって、リゼは助けだされる。
少年は口にした、リゼを助けたのはあくまでも自分が助けたいと思ったからだと。スラムの人間たちが浮かべるような相対的な王族への恨みではなく、現状を変えるために何をしなければならないのかを考えるべきであると語った少年に、少しずつ、リゼは心を開き、少年もまた自分たちの生活を変えるためには、このスラムの人間たちの現状に理解を示そうとしているリゼをこの地から救い出すことが必要であると理解し、リゼを王国軍に引き渡すためにスラムの中での逃避行を始める。
我々はこれが過去の出来事であるからこそ、リーゼリットが王国軍と合流し、少年たちの逃避行が成功することを知っている。
しかし、それはあくまでもリゼの視点から見た話である。彼女の視点で見知った話もあれば、彼女の視点でないからこそ知ることができる物語も存在している。
ヨハンという人間から見たこの一連の出来事、そして現在に至るまでの物語はリゼの認識には存在しえないこともある。
リゼを少年に奪われるに等しい結果となったヨハンは単独で彼らを追いかける。それが執念ではあるものの、スラムの人間としての執念ではなく、彼個人の、リゼに対する思慕の感情からの追跡であることを、この時の彼はまだ理解することが出来ていなかった。
自分の本心を理解しないままの追撃は―――決して彼の求める結末を与えてくれるわけではないというのに。
・・・
「んっ……」
リゼが声を上げて目を開けると、あたりはすっかり明るくなっていた。場所は空き家になっている家の裏にあった物置、そこから差し込める朝日によってリゼは目を覚ましたのだ。一瞬、自分がどうしてこんなことになっているのかとリゼは考え、自分の現状を思い出すとバッと起きあがった。そこでここまで一緒に逃げ来た少年が壁に背を預けてこちらを見ていたことに気付いた。
「やっと起きたか、あんたやっぱり大物だよ、皇女だけある」
「ご、ごめん、少しだけ眠るって言ったのに」
「寝ていなくて動けないなんて言われるよりはだいぶましだ。幸い、追手の連中も来ていない。此処の家は昔、世話になったことがある人のでさ、困ったときにはここに逃げ込んで来いと言われていた。通りからは死角になっているから気付くのが難しいんだとさ。本人は、王国軍との戦いで、あっさりと死んでしまったけどさ」
「あ……」
「……悪い、アンタを責めるつもりがあったわけじゃない。アイツも血に逸っていた。いつもだったら、大して必死になることなんてないくせに、今回は張り切ってしまったんだ。王国軍に自分たちの力を見せつけるんだって……、もしかしたら色々と限界だったのかもしれない。いつまでも希望を持ち続けるってのは、世界を憎むよりも余計に大変なことだからな」
少年の言葉はどこか自分に言い聞かせているような言い方だった。リゼを連れてここからなんとか脱出しようとしている自分もまた同じように、無駄な努力と分かっていてやっているのではないのかと、そんな希望を持ち続けることは、スラムの大多数が行っている世界を憎しむ行為よりもよほど、難しい行為なのではないかと自分に問うているようだった。
「私……、君とこうして話をするまでは、スラムの人たちに対して、特別な何かを想うことなんてなかったと思う。王都の他の人たちと何も変わらない人たちって思っていた。それは良く言えば、平等に見ているけれど、悪く言えば何も見ようとしていなかっただけ。平等だと思っているから、自分に反抗する人を間違っているって考えちゃうんだと思う」
王宮の中で報告されてくるスラムの話しは耳触りの良い話はほとんどなかった。王都の人間に危害を加えている。王国軍の邪魔をしている、国王への反対の意思を表明している、どれもこれもが聞いていて、怒りを覚えるような話ばかりであったと思う。
両親がそんなスラムをどのように考えていたのかはリゼには分からない。きっと二人は忌み血の事も知っていただろう。権力闘争に敗北した王族たちがスラムへと追いやられたのだとすれば、今回の自分の戦いもそうした忌み血の人間たちを消し去るために起こした戦いなのだろうかと思えてしまう。
「俺だってそうだよ、あんたたち王族は俺達のことなんて全く顧みていないんだと思っていた。分かり合うことなんてできない。同じ人間でも同じようにはなれない。だから、このスラムの人間たちはアンタたちに対してずっと憎しみを抱いているんだって。
だけど、違ったな。少なくとも、あんたは俺達の現状を知り、どうにかできないかと考えてくれている。なら、これから少しずつでも考えてくれればいいんじゃないか」
「出来るのかな、私に。私の身体には七星の血が流れている。昨日のスラムでの戦いの時みたいに、私が無差別に誰かを傷つけてしまう存在になってしまうんじゃないかって思えて」
「俺も、アンタを捕まえたアイツも忌み血って奴だ。アンタの話しを聞く限り、元をただせば、同じ血族なんだろう。だけど、少なくとも俺はアンタが心配しているような存在にはなっていない。誰かを傷つけることに躊躇を覚えることがないこともあるが、それが間違っていることだってことは分かっている。だから、あんたも深く考える必要はないんじゃないか。すべてはあんたの心がけ次第で変わっていく、俺はそのように思うぞ」
少年の言葉は現実を知らないからこそ言えることかもしれない。七星の血はそんなに甘いものではない。リゼも七星の血によって醸成された魔術回路を使って、自分の理性を呑み込まれかけていた。あのようなことが今後も起こることになれば、戦いを求める存在へと変貌してしまうのではないかという懸念も当然にある。
けれど、心地いいと思えてしまったのか、あるいは希望を持ちたいと思ったからなのか、リゼはあえて少年の言葉を否定しなかった。そうであってくれればいいと思ったのだ。
「なんだか、君に励まされてばかりだね」
「アンタが王族というには不甲斐ないからじゃないか?」
「うっ……、仕方ないでしょう、世間知らずなんだから。ねぇ、だったらさ、道すがら、キミの知っていることを教えてよ」
「俺の知っていること?」
「うん、君がこれまでに見てきたことでも聞いてきたことでもイイ。色んなことを教えて? 私、今、とっても知りたいって思っているの。今まで自分で世界を見てこようとしなかったから、余計に知らないことを知りたいって思うようになっているの」
少年からすれば傍迷惑な話だ、自分は別にリゼの使用人でも何でもない。単純に彼女を王国軍に引き渡すための道中でアクシデントが起こらないように護衛を務めているに過ぎない。本当であれば会話をする必要もないのだが、リゼの願うような表情にはぁとため息を零す。
「大して面白い話なんて知らないぞ、俺は」
「うんうん、それでもいいよ~」
目を輝かせるリゼに、内心で面倒だと思いながらも、相手をするのだから、自分も本当にヤキが回っていると思わずにはいられない。
それからしばらく、話しをして、準備を整えて、二人は王国軍を見つけるために拠点を出た。既に日差しが昇っている以上、王国軍と合流することはさして難しいことではないと考えていた。
しかし……、二人は肝心なことを忘れていた。二人は既にこのスラムの中でその居場所を追われているのだ。
「こっちの道はダメだ、あっちから迂回するぞ」
「でも、こっちに進めば、開けた道に出るからみんなに見つけてもらえる可能性が―――あ痛ッ!」
「あのな、俺はこれでもスラムの人間だ。王国軍とスラムの連中がぶつかり合いかねないような状況をみすみす自分から作ろうとするわけがないだろう。俺はさっさとお前を王国軍に引き渡して、スラムから撤退させる。その為にアンタを連れ出しているんだ!」
「そ、そこまで考えていたの?」
「流さなくていい血を流す必要はないだろ、アンタも皇女だったらそれくらい考えて動いてくれ!」
「くっ、年下の癖に、私の方がお姉ちゃんなのに……!」
「悪いが、アンタを姉と思うことはないな、大きい妹か何かじゃないか?」
「はぁ? 私が妹って、ちょっと聞き捨てならないんですけど!」
などと口喧嘩を続けながらも二人は広いスラムの中を出来る限り人目につかない場所を通りながら進んでいった。目を覚ましたのは既に朝というよりも昼が近い時間だった。拠点を出てからは食事をすることもなく二人はずっと動き回り続け、気付けば、日が陰り始めていることに気付いた。
「まずいな、さすがに2日も夜を越すのは避けたいな」
「そうだね……、私を見つけることが出来なかったことで、王国軍が暴走する可能性だってある。そうしたら、スラムの街が本当に壊されちゃうかもしれない」
リゼの不安も鼻で笑う事が出来る内容ではない。実際、スラムの暴徒たちを鎮圧するために動いてきた王国軍にとって、スラムの街が多少壊れる程度のことは起こりえても仕方がないことなのだ。それが小規模であろうと被害が甚大であろうとも、国を背負う皇女を見つける為であれば彼らは躊躇なくそれを実行するだろう。
もしも、リゼがその時に亡き者になっているようなことがあればそれを理由にスラム総ての浄化を行ってもおかしくない。スラムの人間たちもそれを分かっていたからこそ、簡単にリゼの命を奪うようなことはしなかった。
とはいえ、限度がある。このままずっとリゼを見つけることが出来なかったとなれば彼らもしびれを切らすであろうことは明白だ。それまでになんとかリゼを王国軍の下に辿り着かせなければならないが……、
「気配がするな」
「え……? きゃあっ!」
バンと少年に手で押されるとリゼの下いた場所に向かって上空から落下してくる物体があり、次の瞬間にはそれが少年に対して牙を剥くように握ったナイフを振り下ろして来る。
「くっ……! 一撃で潰してやるつもりだったのに……」
「お前、何のつもりだ!」
「何のつもり、それはこっちの台詞だ! どうして、彼女を解放した! 彼女が解放されたことでこのスラムは騒然としている!」
「だろうな」
「分かっていながら、裏切るようなことを肯定するんじゃねぇよ!!」
少年を突如として襲撃したのは、リゼを連れ去った張本人であるヨハンだった。その表情には怒りが露わとなっており、呪詛で呪い殺してやりたいと思うほどの激情をかみ殺して抑え込んでいることが少年にも分かった。
「情報は既に王国軍の耳にも聞こえている。彼女を見つけるために連中も血眼になって捜している。俺が必死にやったことを、スラムの人間たちがようやく手にすることが出来た逆転の可能性を……、王国軍に覆されるのだったら、まだ我慢できるし、受け入れることができる。だが、同じスラムの人間に、それを覆されるだなんて、バカにしているにも程がある!!」
次々と放たれるナイフによる刺突をギリギリで躱しながら、少年はヨハンの懐に入ると、ヨハンの身体に体当たりをして、ヨハンを倒し、その上に覆いかぶさる。
「くっ、退け!!」
「いいことを聞かせてもらった。王国軍の耳にも情報が入っているのなら連中は必ず俺達を見つけるはずだ。此処で俺たちが騒いでいるのなら猶更だ。兵士たちはそういう空気を必ず読みとる」
「時間稼ぎをしようってのか」
「それが必要ならな。王国軍が見つければ、俺が別に最後までいる必要はない」
少年自身がリゼを王国軍に引き渡すことで何か見返りを求めているわけではない。少年としてはリゼが王国に戻り、彼女自身の出来ることでこのスラムの状況を変えるように働きかけてくれるのであればそれ以上に求めるものなどない。
だからこそ、リゼを王国軍が見つけるまでの時間稼ぎに徹し続ける。
「それに、お前の言動を聞く限り、彼女に手を出すつもりはないし、他の連中と手を結んでいるようにも見えない。だから、時間稼ぎは正解だ。お前が自分の手柄を横取りされたことに怒って単独で向かってきてくれたおかげだよ」
「バカに、してくれるなよッッ!」
ヨハンはその挑発めいた言葉に反応して、七星の魔力を使うことで少年を弾くと、ナイフをさらに突き出して攻撃を続けるが、怒りに塗れた攻撃は冷静に時間稼ぎだけに徹している少年に見切られて躱されていく。
怒りの声を上げたのは、ヨハンがどうして、リゼを1人で追いかけて来たのか、その本心を知られたくなかったからでもある。自分が捕まえて生殺与奪の総てを奪った相手に対して抱いているこの胸の感覚、それを表現するのはヨハンには難しすぎたし、憚られるモノであると思っていた。
照れ隠しのような面もあったのだろう。だが、それはあくまでも彼女に対しての感情である。少年に対しては怒りしか湧いていない。
どうしてお前が横からかすめ取る。どうして彼女と楽しそうに歩いている。同じ忌み血なのに、同じスラムの人間なのに、自分がやりたいと思っていたことをお前はどうしてあっさりとやってしまうのかと、大義のためではなく個人的な感傷の気持ちを以てヨハンは少年へと攻撃を続けていく。
「お前は敵だ、このスラムに災いを齎す。お前のせいだ、お前のせいで全てが失敗する。お前が、お前が、お前が……ッッ」
「そうやって、誰かに不幸の責任を押し付ければそれで自分は幸せになれるのだと、お前は本気で思っているのか?」
「何をッ!」
「俺は自分のやったことを後悔していない。彼女を解放したことは決して間違ってはいない。何百年と憎しみ合い続けてきたスラムと王国の間で新たな動きが生まれるかもしれない。俺達だって救われるかもしれない。俺はその為に、今も動いている」
「血迷ったことを言うな! 皇女を王国軍に返せばすぐに、俺たち全員を討伐するための兵を差し向けてくる。あいつらはそういう奴らだ。許してはおけないんだ。俺達は戦わなければ生き残ることすらできないんだ!!」
「だったら、なおさら闘うべき相手を見誤ってんじゃねぇよ!!」
怒りのままに声を上げるヨハンに対して、少年は凶器を向けられているにもかかわらず毅然と声を上げた。その声にヨハンは気圧されて攻撃を止めてしまう。
「戦わなければいけないって言うんだったら、自分が何と戦わなければならないのかを見極める必要があるだろ。彼女を殺せばすべてが解決するのか? するはずがない。皇女を殺された王国軍は俺達を全力で殺しに来る。お前たちはその場しのぎの考えを巡らせているだけだ。本当に闘う気があるというのなら、今の俺達の現状を変えることを考える必要があるんじゃないのかよ!」
「うるさい、一人前のように、知った口を利くんじゃない!!」
「そうか、だったら、まずは頭を冷やせ!」
怒りに身を任せるヨハンの動きを察知するのは少年にも決して難しいことではなかった。ヨハンも七星の血を使って戦うのはまだ二回目、自分の力に呑まれ、邪念が過った思考では隙を見せていると言われても仕方がない。
少年は再びヨハンの懐に飛び込むと拳を顎へと突きたてて、カウンター気味に入った拳はヨハンの顎を穿ち、彼の視界に火花が飛び散る。そして、ヨハンが硬直したところで足払いをすると、ヨハンは自ら体勢を崩して、後頭部を地面に叩き付けて、そのまま気絶してしまった。
「ふぅ、なんとかなったか……」
「な、なんとかなったって、大丈夫だったの!? 怪我とかない!?」
ヨハンが意識を失ったことで戦いが終わると、すぐさまリゼは少年の下に駆け寄り、安否を尋ねる。しかし、少年はあっけらかんとした井戸を浮かべていた。
「見ればわかるだろ、俺だって忌み血の人間だ、少しはあんたのような魔力を使うことができる。あっちも頭に血が上っているような様子だったからな。そうでなければ、こんなにあっさりと相手を制圧することはできない」
「そこまで無理をしなくても良かったのに……、私のことなんて見捨てて、逃げればよかったじゃない」
「それじゃ、あんたが連れ去られる。それはダメだ、決めたことはやり通さないと。俺の目的はアンタを王国軍に引き渡すことだ。それが出来るまでは何が何でも守り通すさ」
「………っ!」
思わず少年の口から零れた守るという言葉にリゼは少々顔を赤らめた。自分を守るという言葉自体はいつも臣下から言われているし、王国軍からも昨日何度も聞かされた通りであった。しかし、何とも言えない話だが、それはあまり印象に残っていない。
言われて当たり前のことを人間は長く覚えていることはできないのだ。皇女としての扱いを受けているリゼが守ると言われるのは当たり前のことだ。
しかし、少年は何もリゼに臣従を誓っているわけではない。むしろ、実際の所は、リゼのことを敬う素振りさえも見せてはいない。そうした態度の少年は口にした守るという言葉であるからこそ、リゼは思わず頬を赤らめてしまったのだった。
「……。私は私になれるのかな……?」
「どういうことだ?」
「君がここまでしてくれるのは、君が私になってもらいたい私がいるからでしょ? それは理解できる。だけど、私は本当にその願いに応えられるような私になることができるのかなって……」
少年がここまでしてくれたことにリゼは当然に感謝を覚えている。命を奪われるかあるいは傷つけられていたかもしれない可能性を当たり前のように内包していた状況から救い出してくれたのは彼だ。今だって、彼がいなければ、自分を捕らえた忌み血の少年に自分は再び囚われていたかもしれない。
自分は弱い、七星の血を目覚めさせただけで戦う覚悟も出来ていなければ、自分がどうしたいのかも全く見出すことが出来ていない。そんな自分が果たして彼の望んでいるような自分になることができるのかとリゼが不安に思う事も無理はないだろう。
「知らない、俺が答えられるはずもない。そうできるのかどうかはアンタ次第だ」
彼は優しい言葉をかけてくれるわけではなかった。きっとなれる、信じていれば絶対に、そんな見せ掛けだけの優しい言葉を掛けたところで、リゼが救われるわけではないことをは知っているし、優しくしてやる道理も実際の所、彼にはない。
「アンタはこの国で最も偉い人間になるんだろう。だったら、それに見合うようにアンタがなるしかない。アンタにしかできないことだと思ったから、俺はアンタに手を貸した。戻ってからはアンタの番だ。自分で何をすればいいのか必死に考えて、自分で動くしかない。王族の連中とも、スラムの大多数とも違う、本当に変えなければいけないことの為に戦えばいい。どれだけ時間がかかっても、アンタがいつか叶えてくれるのなら、それで十分だ」
「でも、それだとすぐに君に恩返しが―――」
「アンタに恩を返されるほど弱くはない」
「ぬぐっ……、で、でも例えば、スラムから出るとか……」
「……? 俺はそんなことはしないぞ」
「え!? だ、だって危険だよ、ここに残ったら、何をされるか……」
「俺はここから出るつもりはない。今は騒然としているが、あいつらだってアンタは兵を引けば、自分たちが間違っていたことを自覚する。それくらいの道理は弁えている。それに、ここは俺の生まれ故郷だ。此処で生まれてここで死ぬ。こんな地獄のような場所だけどさ、俺は好きなんだよ、自分を育ててくれたこの街が」
優しく、朗らかに育ててくれたわけではなく、どちらかといえば、過酷な環境の中で生きることを強いられてきただけなのかもしれないが、それでも少年はこの街を愛していた。
語る少年は笑みを浮かべる。そういえば、出会ってから初めて笑顔を見たとリゼは思った。ずっと険しい表情ばかりをしてきた少年ではあったけれど、そこで浮かべる笑顔はとても年齢相応で、リゼはこの少年に出会う事が出来て良かったと思えた。
彼が今のような笑みを浮かべることが当たり前に出来るような世界を作りたい。今すぐにはきっと無理だと思う。だけど、これまでのようにただ王族だからと日々を漫然と受け入れ続けるだけではない生き方をすることはできるはずだ。
まだ遅くない。何もかもが遅いはずがない。ここからもう一度始めることが出来ればいいのだから。
「何だ、なんだか楽しそうな顔をして、気持ち悪いぞ」
「……キミ、結構失礼だよね? 女の子への接し方をちゃんと覚えないと後で苦労するよ?」
「……よくわからん」
何故、女の扱い方という話が出てくるのかも少年は理解できなかった。そうした関係性の上に自分たちがいるわけではないことをリゼも十分承知していると思ったのだが、理解が出来ない。少年にはリゼの複雑な感情を理解することができなかった。
それから暫く、いよいよ日差しは陰り、茜色の夕日が浮かび上がろうとしていた。まもなく夜の帳が落ちる。そうなればリゼを捜索している人々も何処まで彼女を見つけるために動くことができるのかもわからない。
タイムリミットは刻一刻と近づいている。そう思う最中で―――
「………、声が聞こえるな」
「またスラムの住人の人たち?」
「いや、この音は鎧の音……可能性はあるな。路地裏から出るぞ」
路地裏に隠れて、常に周囲の気配を探知しながらここまで二人は動き続けてきた。しかし、ここに来て、音を察知した少年は路地裏から人の目につきやすい路地へと出ることを提案した。
危険性は遥かに増すが、リゼにとってもいつまでも隠れているわけにはいかない。少年は口には出さないが、疲れが見え始めている。リゼ以上に周囲に気を配り、気配を察知するために意識を割き続けているのだ。疲労を感じない筈がない。
「うん、行こう」
リゼは少年の言葉に頷き、そして二人は周囲を確認して、すぐに外へと出た。久方ぶりに出る大通りはスラムの陰鬱とした空気の中でも、日差しが入り、それだけでも、リゼが良く知っている世界へと戻ってきたように思えた。
空を見上げる、茜色の空、まもなく夜が訪れるであろう境の時間帯、昨日の今頃は自分は捕まっていて、まさか今、スラムの中をこんな形で冒険することになるとは夢にも思っていなかった。
「リーゼリット様ッッ!!」
そこで声が聞こえた。その声と共に硬い靴の音が響き、リゼも少年もそれがスラムの住人ではなく、リゼ側の人間、王国軍のモノであることをすぐに理解した。
「セルバンテス……!」
「リーゼリット様、ご無事で在りましたか!! ああ……なんと、なんと詫びればいいのか。我々王宮近衛が傍に控えておきながら、リーゼリット様を攫われるようなことになるなど、リーゼリット様の補佐として、命を絶たねばならぬものかとすら思いましたが……よくぞ、よくぞご無事で……!」
リゼを見つけ、涙を流して泣き崩れそうになっていたのは、王宮近衛としてリゼのスラム鎮圧作戦に同行した騎士セルバンテスであった。一日中、リゼを探し回っていたのか、目にはクマが出来上がっており、彼自身も疲労の色を隠すことが出来なかった。
「お怪我はありませんか。連中に何かされるようなことは……?」
「ええ、大丈夫よ。何かをされる前に逃げ出すことが出来たから。私一人だけじゃ、無理だったけれど、協力してくれた人がいるから」
そういうと、リゼは視線を少年の方へと向けた。少年は何かを言う事もなく、リゼとセルバンテスの様子を見ているだけだった。
リゼの言葉と視線に少年のことに気付いたセルバンテスは彼に声を掛ける。
「君は……?」
「彼は、私を彼らから救ってくれた恩人です。彼もスラムの人間であることに変わりはありませんが、どうか寛大な処置をお願いします。彼がいなければ、私はこうして生きて戻ってくることは出来なかったかもしれません」
「別に、そんな大したことをしたわけじゃない。俺も巻き込まれてしまったから、一緒にいただけさ。あのままだったら、俺だって殺されていただろ? こんな掃き溜めでいつ死んでもおかしくなかったとしても無意味に死ぬのは嫌なんだ」
少年は自分を謙遜するような言葉を使う。王国の人間からすればスラムを礼賛するような言葉を使うよりも、このスラムの中で不満を持っているような空気を醸し出している方が良く受け止められると理解しての言葉であろう。そういう機微を見抜くことができる洞察力を彼は持っていた。
セルバンテスも少年の言葉に異論を口に挟むことはなかった。もしも、この時にリゼを見つけたのがもっと血気盛んな兵士であったのならば、状況は大きく変わっていたかもしれないが、少なくともセルバンテスはリゼを無事に見つけることが出来たことに喜びを覚え、それ以上の何かを求めるようなことはしなかった。
「そうだったのか、感謝をする。君が望めば、王への面会も叶うだろう。皇女を救ったのだ、スラムから出る理由には十分すぎるだろう」
ただ、セルバンテスとて、ただのお人よしではない。王国軍がいる中でリゼが攫われることになった醜態を知る人間をこのまま解放することは望ましくない。できることであれば、王宮で召し抱え、出来る限り、王国側の人間として抱え込みたいという願望はあった。
国王にこの事実が知られれば、王国軍側の幹部は処分を免れない。目撃者をそのまま放置したとなれば、国王は余計にセルバンテスたちへの心証を悪くするだろう。
そうした意味でも彼をこのスラムから連れ出す提案をセルバンテスはしたわけだが、少年は首を横に振った。
「いいよ、俺にはここが似合っている。別に報酬が欲しくて彼女を助けたわけじゃない」
「彼はここでいいと言っているわ。あまり無理強いをさせないでもらいたいの」
リゼの口添えもあってから、セルバンテスはそれ以上少年に勧誘をすることはなかった。そもそもは自分たちがリゼを奪われるという失態を引き起こしてしまったという事実に変わりはない。騎士として責任を取ることになるのならば、それも致し方ないことであろうとセルバンテスも覚悟を決めたのだ。
「そうか、こちらこそ君の善意に対して不躾な言葉を投げかけた。改めて感謝をさせてほしい」
「俺はあくまでも、俺が正しいと思ったからしただけだ。謝る必要はない。ただ、逃げる時間くらいは欲しいな。あんたたちに襲われたら流石に俺も逃げられないだろうからさ」
「そのような不義理はしないとも。君のことは私も記憶に留めておくよ。いずれまた会う時があれば感謝を口にさせてほしい」
「…………。本当に一緒に来ないの?」
先ほどは少年が同行しないことを自ら口にしたはずなのに、本当に別れが迫っていることを自覚してリゼはもう一度問いかけてしまう。
たった1日半程度の時間を過ごしたに過ぎなかったが、リゼにとっては特別な時間だった。簡単に忘れることが出来ないほどには。けれど、やはり少年の答えは変わらない。
「ああ、お前こそ、俺なんかと一緒にいても仕方がないだろう。俺達は住む世界が違う。それは十分理解しただろ」
「でも……」
それでもなお、リゼは食い下がる。同情を買うためでも自分の立場を高める為でもなく、自分自身の正義の為にリゼを助けた少年は少し困ったような反応を浮かべて、目を逸らしながら口を開く。
「なら、いつかまた来ればいい。スラムに立ち寄れば俺はいつでもいる。あんたがまたここに来るような奇特な奴なら、またきっと会うことができるハズさ」
「うん、そうだね……、そうするよ。その時に君に示すことができるように、私も頑張って探して見せるよ、憎しみ合うばかりの地獄の先にも、花を咲かせることはできるんだってことを」
リゼの言葉に少年はフッと笑みを浮かべる。
「ああ、楽しみにしているよ」
「うん、いつかまた!」
そうしてリゼと少年は分かたれた道を進んでいく。いつかまたねと手を振るリゼを見送りながら、少年は再び闇の世界へと戻っていく。
この茜色の空の下での別れ、彼女はこれから先も忘れない。年月が経ち、詳細な記憶が薄れていくとしても、この茜色の空の下で交した約束だけは忘れない。
そして少年もこの数奇な運命のままに出会った彼女のことを心に留めおく。本当であれば憎しんで命を奪ってもおかしくない筈の関係性だったのに、どうしてか放っておけなかった困った皇女様のことを少年も忘れることはないだろう。
「なんで……一緒に行かなかったんだよ……」
ポツリとそこで声が聞こえた。その声の主が先程、襲い掛かってきた少年、ヨハンであることに少年はすぐに気付いた。
「俺は別にここから出たいと思って助けたわけじゃない」
「ふざけるな、彼女は俺が連れてきた。なのに、目的もなく勝手に帰したのか!」
「彼女は兵を引くだろう。そういう約束をした。結果的にこれ以上スラムが戦場になることはない。俺は俺のやり方でこの街を救った」
「そんな御託を聞きたかったわけじゃない! 俺はまだ彼女とまともに話をしたことも……」
「お前は……、彼女が憎かったんじゃないのか?」
「憎いさ。憎いよ、アイツらが来たから両親が死んだ。家が焼き払われた。だけど……だけど……、俺は、俺は目を奪われていたんだ。彼女の姿に、憎しみで殺してやりたいと思っていたのに、それなのに、俺は……殺してやろうという気持ちさえも薄れて……」
ヨハンが最初にリゼを襲撃した時、根底にあったのは恨みと殺意だった。家族を奪った者を許せない。だからリゼの命を奪って、自分が死んでしまったとしても構いはしない。
そうした感情の下に動いていた。そのはずなのに、気付けばヨハンは、リゼの命を奪うことなんて考えられなくなっていたし、他の誰かがリゼを傷つけるようなことも認められなくなっていた。その感情を何と表現するのかを彼は知らない。
そして、少年にそんなことを吐露されたところでどうしようもない話だった。
「お前はやっぱり間違ってるよ」
「何が!」
「そう思うのなら、最初からお前が俺のやったことをやればよかったんだ。彼女を本当に自分でどうにかしたいと思っているのに、それを他人に任せにしたからこうなったんだろ。お前は最初から最後まで全部はき違えていた。だからこうなったんだ。もっと自分に素直になれよ。お前は何のために戦っているんだ」
「お前に……、お前にそんなことを言われる筋合いはない」
「そうだな、俺もお前も忌み血を引いていることだけが共通点だ。別に仲良くする必要もない。俺はここに残る。彼女を追いかけたいのならお前が追いかけろ、傍で支えてやる奴だって必要だろ」
「出来ると思っているのか、俺に……」
「出来ないのならお前はそこでずっと足踏みしていろ。今日と何も変わらない明日を生き続ければいい。それはそれで幸せなことだろ」
スラムの大多数の人間がそうしているように、ヨハンもまた燻った思いを抱え続けていればいいと少年は告げ、その言葉にヨハンは歯を食いしばって、声を上げる。
「俺は……必ずお前を越える。そして、今度こそ彼女と向き合う」
「そうか、好きにしろ。縁があったらまた会うこともあるさ。その時には、お前が俺を越える男になっていることを楽しみにしているよ」
そうして、彼ら三人の数奇な出会いは終わりを迎えた。運命の夜は終わりを迎えたのだ。
彼と彼女は再会を誓いあいながらも、きっとそれは難しいのだろうと互いに内心では理解しあっていた。そして彼と彼も再会を誓い合った。互いに口には出さずとも、いずれ自分たちはもう一度、顔を合わせることになるのではないか、そんな予感を抱きながら別れを告げたのだった。
けれど、結果だけを見れば少年とヨハンがもう一度再会をすることはなかった。ある時に忽然と、少年はスラムの中から姿を消したのだ。その行く末を知る者は誰もいない。まるで最初からいなかったかのように少年はスラムという街から消えてしまった。
そして、そんな出会いから4年の歳月が過ぎた。スラムにおける王族たちへの怒りは消えることなく、一度は中座に終わったスラム鎮圧の空気は再び醸成されつつあった。
その空気の中で、二度目のスラム鎮圧戦が巻き起こる。指揮役として選ばれたのは再び、リーゼリット・N・エトワール、彼女にとっても「彼」との再会を願っての出立であった。
しかし、この二度目の戦いで起こったのは彼との再会ではあった。
リーゼリットとヨハン、いずれ主と従者になる二人の真の意味での再会であったのだ。
いつかまたねと手を振り合ったけど、もう会うことはないのでしょう、最後の嘘は優しいウソでした、忘れない……だ。
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