父が逝った。齢八十の大往生だった。
葬儀も恙無く終え、やっと一息つけた。決して大きな式ではなかったが、想像していたよりも多くの人が父の顔を見に来た。それが可もなく不可もなかったと自分で豪語していたその人生を物語っているようで、少しだけ嬉しい。
顔も知らない彼らが父について語る事を通して、自分の知らない父の顔を見られるかもなんて考えていた。例えば不謹慎かもしれないが、寂しさから一夜の過ちを犯しただとか、若い頃はやんちゃしていただとか。
家で見る父はいつも一人静かに本を読んでいて、たまに自分に笑いかけながら、すまないな、なんて言葉をかけていた。
休日も忙しく自分に構ってやれなかった事に対してか、後妻を娶るつもりもなかった事に対してか。
三十路で妻に先立たれ、大して出世する訳でもなかったが子を最後まで育て上げた男やもめ。
最早自分の中ではぼんやりとしている母に対して父は誠実であったらしい。隠し子も愛人も、そんなドラマがある訳がなかった。
ふと時計を見るともう深夜の二時半だった。小腹が空いたな、と立ち上がる。妻と子はもうとっくの昔に就寝していて、自分も何とはなしに起きているだけだ。
冷蔵庫を漁る。
薄暗い部屋の中をぼやけた灯りと虫の羽音のような雑音が満たす。
ここ数日は慌ただしく、店屋物ばかり取っていたためか中には大した物がなかった。それでも腹が寂しいと訴えてくるのをどうしたものか、と考え倦ねていると普段自分から開ける事のない戸棚が目についた。気持ちつま先を伸ばしてそれに手をかける。
中に入っているのは何の変哲もないカップラーメン。三分間待てば美味しく召し上がれるというやつだ。
ただ、自分は数えるほどしかそれを食べた事がない。最後に食べたのはいつだったか。母が亡くなってすぐだった気がする。
「カップ麺ばっか食ってると身体に良くないからな、母さんの分まで俺がちゃんと作るよ。父さんにはそれしかできないから」
父はよくそんな事を言っていた。言葉通り、父は毎日定時に仕事を終えて欠かさず夕食を作っていた。休日もあまり出かけられず、父兄の催し物にも父は中々参加できなかったが、それでも愛されていたと感じるのはきっとそれだろう。
蓋を半分ほど開け、中からかやくを取り出すと均等になるように麺の上に広げる。湯気をひっきりなしに噴き出す薬缶からお湯を注ぐ。
この歳になって初めてカップラーメンを作る事になるとは、と自分の事ながら苦笑が滲む。妻子もよくそれで自分を揶揄っていた。
父の身体に良くないという言葉が染み付いているのか、独り立ちしてからもあえて買う気にならなかった。
三分間は意外と長いという事に今更ながら気付く。普段意識する事もないそんな刻まれた時間に少し面白味を感じながらただ待つ。
気持ち早めに再びその蓋を開けると、独特の香ばしい蒸気が顔を覆った。
軽く混ぜてそれを啜る。ラーメンと呼ぶには何だか可笑しさを感じる柔らかな麺を噛み切りながら少しだけ考える。
「70点くらいかな」
そう嘯いた。
父はよく自分が作った料理に点数をつけていた。やれ今日の出来は100点満点だ、65点くらいだ、と。
それに倣ってこのカップ麺に点数をつけるならこれくらいだろう。良くもないけど悪くもない。
汁まで残さず飲んだ。深夜の塩辛さが背徳感を増す。
腹は膨れたが、無性に父のラーメンが恋しかった。少し茹で過ぎて柔らかくなった麺に、沢山のもやしと乗せられたハム。休日によく出されていたそれには飽き飽きとしていた筈なのに、どうにも懐かしくてしょうがなかった。
「おじいさんになって目や耳が弱ってもな、ご飯が美味しかったら許せる気がするんだよな」
父の言葉の意味が何となく分かった気がする。休日に遊びに連れて行ってもらった記憶は今はもう殆どないが、味覚はその味を覚えている。
人参嫌いだった自分のために細かく刻んだ後さらに原型を留めなくなるまで煮込んだカレーが、店で出てくるような物とは程遠い固く焼かれたオムライスが、やたら餡の詰まった餃子、その全てが父との記憶だ。
どれもただ、本当に美味しかった。
病院食はつまらないと父はよく嘆いていた。
そんな父が最後に味わった物は何だろうか。それは彼を満たしたのだろうか。
どうせあの人は自分の人生を70点くらいだな、と点数付けるような人だ。
それがどうにも癪で食べ終わったカップラーメンの容器に吐き捨てる。
「80点くらいだよ」
あんたの人生は自分で思っていたよりは少しだけ良かったのだと。
きっとこれから先もカップ麺を食べる機会があるだろう。便利だし、不味くないし、安い。そしてその度に思い出す。
父がそれを自分に与えなかったあの日々を、与えてきた愛を。
そしてそれはもう二度とは得難い物なのだと。
もやしだらけのラーメンも、黄身の潰れた目玉焼きも、不格好なハンバーグも。
流しで皿を洗うその背中も、跳ねた油に向かって叫ぶ上擦った悪態も、二人だけの食卓も。
父が死んでから初めて少しだけ泣いた。
故郷は遠きに在りて思うものだとしたら。最早自分の帰る場所はなくなってしまったのだと、やっと気付けたから。