観音開き式の自動扉が開いたその先に広がる異様な光景。
床に這い蹲るような姿勢の巨人。
その巨人に間近で睨み付けられながらも、平然と立っている男性。
扉の向こうに広がる異世界に圧倒され、呼ばれてこの場にやってきた白衣を着た女性は一歩後退りしてしまった。
扉が開いたことに気付き、男性を睨みつけていた巨人はその大きな顔をこちらに向けた。厳つい鎧兜の隙間から覗く鋭い巨人の目に見つめられ、女性はさらに2歩、3歩と後退りしてしまう。
女性はこのまま回れ右をして、来た廊下を走って帰ってしまいたい気持ちで一杯だったが、巨人の前に立つ男性の顔もこちらを向いていることに気付いてしまう。女性をこの場に呼んだ張本人である男性が、こちらを見て待っている。この組織における絶対の権力者である男性が、女性が来るのを待っている。彼女にこの場から立ち去る選択肢など無かった。
目を瞑って気合を入れ直し、震える膝に喝を入れながらゆっくりと彼ら?のもとへと歩き始めた女性。
巨人は扉から入ってきた女性の動きを、黄金色の瞳でじっと追い続けている。猛獣の檻の中へと自ら足を進め、入っていく。気が気でない女性は、巨人の顔を視界に入れないよう視線をずらしたが、その視線の先には猛獣などよりももっと恐ろしい調教師、この組織の最高司令官が立っている。仕方なく、視線を1メートル先の床に落とし、膝を震わせながら、彼ら?のもとまで歩き続けた
やがて女性は巨人と、男性。碇ゲンドウの前に立つ。
ゲンドウの目には、巨人が被る鎧兜のバイザー越しに見える目が、まん丸に広がっていくのがはっきりと見えた。
巨人の口の端から出し入れされていた荒い呼吸が、止まった。
巨人の前にびくつきながら立つ、白衣を着た女性。背中まで伸びた黒髪をサイドアップに纏め、メガネを掛けたおっとりとした顔立ちの中年女性。
「それがシンジだ」
ゲンドウは女性を見る。
いや、正確には、女性がその腕に抱いているものを見る。
女性が抱いているものに釘付けになっていた巨人の瞳が、その声に反応して一瞬だけゲンドウに向けられ、しかしすぐに女性の腕の中へと戻る。
「プラグ内にあったシンジの服に付着していた血液サンプルを元に肉体の超高速培養を試みたが、この短期間では4~5歳児程度までの肉体の再現が限界だった」
女性が抱いているもの。
女性の腕の中に在るもの。
すぐ側に立つ男性が、それが彼の息子であると主張するもの。
それは小さな子供。
男の子。
女性の腕に抱かれた男の子。
スヤスヤと寝息を立てている男の子。
「移植されたパーソナルデータについては問題なく新しい肉体に定着した。それに付随する記憶も、全て保持されている」
ゲンドウはもはや男の子以外は全て視界に入ってない様子の巨人の横顔に向けて言う。
「しかし4~5歳の肉体と14年掛けて形成された人格、すなわち蓄積された記憶との大幅な乖離がもたらす様々な障害を考慮し、現在シンジの記憶には封印を施してある」
親指をおしゃぶり代わりに咥えながら寝ている男の子。
「そのため、見た目は4~5歳であっても」
時折、口を開け、口の端から涎を垂らしながら大きく欠伸をする男の子。
「中身は赤子同然だ」
抱きかかえる中年女性の豊満な胸に頬を押し付け、女性の白衣に涎の染みを作る男の子。ゲンドウが表現する通り、その寝顔は無垢な赤ん坊そのものだった。
「記憶の封印については、肉体の成長と共に段階的に解いていくことになるだろう」
巨人の人差し指に触れていた右手を離し、ポケットの中に入れる。
「レイ。シンジについては何も心配はいらない」
巨人の横顔に、この男にしては極めて珍しい、優し気な声で語り掛ける。
「レイ。お前のサルベージも近々行われるだろう。それまでゆっくりと心を休めているといい」
一通りの説明を終えたゲンドウだが、その間巨人の目が白衣の女性が抱く小さな男の子から動くことはなかった。そんな様子の巨人に、ゲンドウは口角を小さく上げ、ふっと小さく笑う。
巨人の目はあくまで男の子に集中しているが、技術者の一人で男の子の子守りを命じられていた白衣を着た若い女性にとっては巨人から睨まれているような気がして、気が気でない様子だ。気の毒なほどに顔面を引き攣らせている女性に対し、ゲンドウは指示を下す。
「もういい。下がりたまえ」
彼女にとっては救いとなるゲンドウの指示に女性は小刻みに何度も頷くと、すぐに踵を返して扉の方へと足早に歩き始めた。
猛獣どころの話ではない。
自分など身じろぎ一つで簡単に踏み潰してしまえそうな巨獣の檻から、さっさと逃げ出してしまいたい。小走りで扉へと向かう女性の背中はそう物語っていたが、そんな女性の想いは扉の数メートル手前で断ち切られてしまうことになる。
何かが頭上を横切ったと思ったら、突然視界が塞がれた。
扉まであと数メートルはあったはずなのに、何故か今、目の前に壁がある。壁が、行く手を通せんぼしている。
女性が、突然現れたその壁が、人の手の形をしていると気付くのに数秒の時間を要した。
人の手にしてはあまりにもデカすぎる手。
顔を引き攣らせながら、恐る恐る背後を振り返る。
巨人の顔が、目の前にあった。
「ひっ…!」
女性が上げ掛けた悲鳴は、巨人が素早いかつ極めて繊細な動きで突き出してきた巨大な人差し指によって封じられることになる。
女性の顔の数センチ前まで突き出された巨人の巨大な人差し指。
女性の呼吸が止まる。
女性の腕に抱かれてスヤスヤ寝息を立てている男の子の安眠を妨げまいと思って、女性の口を噤ませるために人差し指を突き出したらしい巨人。
その巨人の配慮は女性の脳味噌をフリーズさせてしまったことで、一定の効果は示されたようだ。
女性は、巨大な指を突き付けられ、完全に固まってしまっている。
しかしその5秒後。
徐々に状況を把握し始めた女性。
自分の顔など、いとも簡単に圧し潰すことができそうなほどの、巨大な巨獣の指。
その指が、自分の鼻先の数センチメートル前にまで迫っている。
いや、「圧し潰すことができそう」などではない。
この巨獣の人差し指は、今、まさに自分の顔を圧し潰そうとしている。
こんな大きな指を目と鼻の先にまで突き付けられては、女性がそう勘違いしてしまうのも、無理からぬものであった。
「きゃあああああああああああああ!!」
結局悲鳴を上げてしまった女性。
顔をしわくちゃにさせて金切り声を上げる女性に、むしろ巨人の方がびっくりしてしまい、突き出していた指を引っ込めてしまう。
「いやあああああああああああああ!!」
悲鳴を上げ続ける女性に対し、狼狽えてしまう巨人。どうしたらよいのか分からず、巨人の手が女性の頭上をおろおろと彷徨う。
結局。
「ぎぃやああああうぷっ!?」
巨人は人差し指を超繊細な動きでちょんと突き出し、女性の口もとを押さえて強引に口を噤ませた。
女性の悲鳴が消え、静寂に包まれる檻の中。
巨人の肩と胸が上下にゆっくりと揺れる様は、まるでほっと安堵の溜息を吐いたようだった。
しかし巨人が安心したのも束の間。
巨人が女性を黙らせるのが、少しばかり遅かったようだ。
女性の腕の中の小さな男の子は、すでに小さな瞼を開けてしまっていた。
小さな男の子は小さな両拳で小さな目をぐりぐりと押さえる。
小さな口を目一杯広げ、大きな欠伸をする。
何度か目を擦りながら顔を起こし、自分を抱きかかえている女性の顔を見上げた。
極限まで引き攣った女性の顔。
その女性の口もとに当てられた、大きな丸太ん棒のような何か。
男の子は女性の口もとに当てられた大きな丸太ん棒の出所を探るように、ゆっくりと首を捩じっていく。
寝起きでうすぼんやりと開いていた男の子の目が、ぱっちりと開いた。
そこにあったのは、巨人の顔。
額に一本の角を生やした巨人の顔。
厳つい鬼のような鎧兜を被った、巨人の顔。
途端に、巨人は女性の口もとに当てていた指を引っ込ませ、その手で巨人の顔を隠してしまう。
恥ずかしそうに。
醜い醜い顔を見られまいと。
右手だけでは足りず、左手も使って、両手で顔を隠す。
首を縮め、背中を屈め、蹲って。
小さな男の子の前で、デカい図体を縮こませてしまった巨人。
そんな様子の巨人を見て男の子は。
「ああ…」
男の子は笑った。
「だあ…」
見た目は4~5歳くらいの男の子。
しかしその仕草、動きは赤ん坊そのもの。
「ああ…」
言葉を発しない男の子は、頭を抱えて蹲ってしまった巨人に向かって、その小さな手を一生懸命伸ばそうとする。
伸ばそうとして、女性の腕から身を大きく乗り出してしまう。
女性は相変わらず巨人に恐怖しており、男の子の動きに気付いていない。
男の子の腰から上が、完全の女性の腕の中から出てしまう。頭の方へと移動してしまう男の子の重心。ぐらりと、男の子の体が前のめりに揺らいだ。
重力に引かれる男の子の上半身。男の子の体が、女性の腕の中からずり落ちる。
ついにでんぐり返しでもするかのように、男の子の体が宙を半回転。
そのまま、男の子の体は頭から真っ逆さまに床の上へと転がり落ちてしまった。
「あっ」
男の子の転落に、真っ先に声を上げたのは、腕の重みが消えたことに気付いた白衣の女性。
「あっ」
モニター越しに檻の中の様子を覗っていた冬月も声を上げる。
「あっ」
やはりモニター越しに巨人の様子を見守っていた技術者たちも声を上げる。
「あっ」
そしてゲンドウまでもが、声を上げていた。
女性の腕の中から転落した男の子の体が、頭が、硬い床へとぶち当たる。
かに思われたが、男の子の体が着地した場所は硬い床ではなかった。
男の子が転落する様を、大人たちが棒立ちのまま見つめている中で、唯一動いたそれは、咄嗟に、それでいてそっと、男の子を抱いていた女性の足もとに人差し指を差し出す。
男の子が着地した場所。
それは、巨人が差し伸べた人差し指の、先っちょだった。
指の先に腹ばいの状態でちょこんと乗っかった小さな男の子。
男の子が頭部から真っ逆さまに床に落ちるという惨事を免れたことに、肩と胸を上下に揺らしてほっと安堵の溜息を吐くような仕草をした巨人は、その男の子の顔を見つめながら、ゆっくりと体を起こしていく。
どんどん視線が高くなり、床が遠くなっていく中で。
「きゃっきゃっ」
恐怖するどころか、無邪気に笑っている男の子。その男の子の遥か下では、腰を抜かした女性が床に尻餅を付いている。
体を起こした巨人はそのまま床に腰を下ろし、もう片方の腕で膝を抱えると、男の子を乗せた指を顔に近づけ、男の子の様子を興味深そうに見つめる。
男の子も急接近した巨人の顔に、相変わらず無邪気な笑い声を上げながら、短い腕を巨人の顔に向けて伸ばしている。
すると身を乗り出す男の子の体はまたもやでんぐり返しをするように指の先から転がり落ちてしまい、そのまま滑り台の要領で巨人の指の上を転がり落ちていく。慌てた巨人。男の子の体を受け止めるため、手の平に大量の燐光を溢れ出させる。
突如、巨人の手の平に溢れた光の粒子。それはATフィールドと呼ばれる、あらゆる外部からの接触を拒む光。しかし巨人はそのATフィールドをの結晶を手の平に大量に集めることによって、即席の光のクッションを作り出したのだ。
巨人の指の上をコロコロ転がり落ちる男の子は、そのまま光の結晶の中へと身を投げ、ぽてんと巨人の手のひらに着地。
巨人の手の平の中央にぺたんと座り込んでいる男の子。何度もでんぐり返しをして目が回ってしまったらしく、くりくりとした瞳を眼球の中でぐるぐる回しながら、頭をふらふらと揺らしている。
やがて視界が定まってきたらしい男の子は、自分を包む光の結晶たちの存在に気付く。たちまち目を輝かせた男の子は、手足をじたばたさせて、光の結晶たちを巻き上げさせ始める。
舞い散る光の粒の中で、「きゃっきゃ」と笑い声を上げながらはしゃぎ回る男の子。
そんな男の子の姿を、じっと見つめていた巨人。
巨人と、男の子の視線が重なった。
くりくりとした男の子の瞳に見つめられ、巨人は尻込みするように首を竦める。
男の子はばたつかせていた手足を下ろし、じっと巨人の顔を見つめ返す。
そして。
「だあ…」
無邪気ににっこりと笑った。
小さな男の子に笑い掛けられ、巨人はさらに首を竦めさせてしまう。
一方の男の子は、両膝と左手を巨人の手の平に付き、右手を巨人の顔に向けて伸ばし始めた。
巨人の顔に近づこうと、小さな身体を目一杯伸ばして、右手を突き出してくる男の子。このままでは手の平からも転がり落ちてしまいそうだったので、巨人は男の子を乗せた右手を、おずおずと自身の顔に近付け始めた。
徐々に近づいてくる巨人の顔。
男の子の笑顔も、大きくなる。
伸ばされた男の子の手が、何かを求めるようにグーとパーを繰り返す。
そして巨人の手首が巨人の口もとに触れ。
これ以上は寄せることができないところまで、巨人の手と顔が近づいて。
ついに、男の子の小さな手が、巨人の鼻っ面にぺたりと触れた。
その瞬間、まるで蒸気機関の排気弁を目一杯に開け放ったかのように、巨人の口の両端から大量の蒸気が吐き出された。
急激に立ち込める蒸気に、無邪気な男の子は「きゃっきゃ」と声を上げて笑い、「もっともっと」とでも言うかのように、巨人の鼻っ面をペタペタと叩いた。
異種間?の交流を、床の上から見上げていたゲンドウ。彼が握る通信端末機から、冬月の声が聴こえた。
『どうする。強制停止させるか』
ゲンドウは通信端末機を口に近付け、静かに告げた。
「いや、このままでいい」
『しかしこのままではお前の息子が危険ではないか』
「構わん。…冬月」
『なんだ』
「シンジの部屋の荷物を全てこちらに移せ」
『は?』
「シンジの居室を、この第7ケージに移す」
通信端末機のスピーカーから相手の溜息が聴こえたような気がした。
『貴様が冗談を言う人間とは寡聞にして知らなかったぞ』
呆れたような冬月の声。ゲンドウは静かに告げる。
「命令だ」
『…分かった』
モニター室からケージの中の様子を見下ろす冬月。
彼の視線の先には、巨人の手の平の上で巨人の顔にぺたぺた触れたり、巨人の大きな指に戯れたり、光の結晶を舞い散らせて遊んでいる男の子の姿。
視線を、その様子を見上げている男に移す。
「碇。お前の後を付いていくと決めて以来、この世のものとは思えない光景に何度も出くわす羽目となったが…」
巨人の横顔を見る。装甲に固められた巨人の顔が、柔らかく見えるのは気の所為か。
「…これは極めつけだぞ…」