だだっ広い空間の床に置かれた簡素なパイプベッド、小さなチェスト、小さなテーブルに小さなイス、簡易トイレ。まるで監房のような、病室のような。必要最低限のものしか置かれてない、寂しい場所。
そんな場所には不似合いな、子供のはしゃぐ声。
腕白な男の子は、今日も巨人の体を遊具代わりにして遊んでいる。
巨人が垂直に立てた手の指を、短い四肢を伸ばしてうんせうんせとよじ登る男の子。指の先端に辿り着くと、おぼつかない足取りで立ち上がり、遥か下の床を見下ろして、怖がるどころかきゃっきゃとはしゃいでいる。
はしゃいでいる内に小さな体が前後へと揺れ始め、そしてついには足場を踏み外し、男の子の体は数十メートル下にある床へと真っ逆さま。
巨人はすぐにもう片方の手を男の子が落下する地点へと差し出し、その手のひらに無数の光の鱗粉を溢れ出させる。男の子の小さな体は無数の光の鱗粉の中へ。男の子の背中が光の鱗粉に接触すると、まるでトランポリンの上に落ちたかのように、ぼよよ~んと男の体が柔らかく跳ねた。
光の鱗粉の中と空中とを何度か行き来し、やがて男の子の体が光の鱗粉の中に落ち着くと、男の子は再びきゃっきゃと笑い声を上げる。
そんな男の子の鼻先を、巨人はおぞおずと伸ばした人差し指で、極めて繊細な動きでちょいちょいっとつついた。男の子はくすぐったそうに身を捩らせつつ、巨人の丸太のような指をよじ登り始める。
画面上に映るのは、男の子が巨人の体を巨大な遊具代わりにして遊んでいる光景。しかしそれを見る男の目には、少女が人形とドールハウスで遊んでいるように見えていたのかもしれない。
執務室で卓上のモニター越しに映る第7ケージの様子を見ていたら、ただ1人の男のために用意されたものとしては無駄に広い部屋の奥にある扉が開き、白髪の男が入ってきた。
碇ゲンドウはすぐに卓上モニターのスイッチをオフにし、背もたれから背中を離し、両肘をこれまた1人の男に用意されたものとしては無駄に大きなテーブルに付き、組んだ手の上に顎を乗せて冬月コウゾウを出迎える。
部屋に入ったと同時に彼の上官が卓上モニターのスイッチを切った瞬間を目ざとく見ていた冬月。
「何を見ていた?」
ゲンドウは何も答えずジロリと冬月を睨み、早く用件を済ませるよう目で訴える。
冬月は鼻で軽くため息を吐くと、持っていたボード状の端末機の画面に目を向け、彼らの事業の進捗状況を報告し始めた。
「ゼーレよりマーク9以降の機体の譲渡が正式に決定した。半年後より順次、機体の引き渡しが始まるだろう」
冬月が次々と読み上げる報告を、微動だにせず黙って聴いているゲンドウ。
「最後に綾波レイの新しい素体への転送についてだが」
冬月がその言葉を発した瞬間、瞬きさえしなかったゲンドウの目が、一度だけ短く閉じられた。
「綾波レイを着床させるための新しい素体だが、綾波タイプのプラントは特に汚染が進んでいる場所だ。現在急ピッチで除染を進めているが、使えるようになるまではあと1年は掛かるだろうな」
「それでは遅い」
冬月がこの部屋に入ってきて初めて発したこの部屋の主の声に、冬月の片方の眉がぴくりと動いた。
「ではダミーシステム用にストックしていた素体を使うか。それならば大量にあるが」
「ダミーシステム用は基準を満たさなかった欠陥品だ。そんなものにレイを入れるわけにはいかん」
「ではどうする。人間の臓器移植と同じだ。時間の経過と共に、魂の移植も困難になるぞ」
「ゼーレから支給された素体がある。あれを使え」
「ナンバー4、5、6のことか?」
「ああ。ナンバー6がいいだろう。未成熟故、人格の上書きもし易いはずだ」
「……」
冬月は、黙ったままゲンドウの顔を見下ろしている。ゲンドウは瞳だけを動かし、冬月に視線を向けた。
「どうした。何か問題でもあるか」
問われた冬月は、それでも暫しの間黙ってゲンドウの顔を見つめ、そして。
「ああ、分かった。すぐにでも工程表を作らせよう」
* * * * *
この組織の副司令官に与えられた執務室に、その主が居ることは殆どない。この日も冬月が副司令官の執務室に初めて入ったのは、1日の全ての仕事を終えた夜更けだった。
扉を開けると、総司令官の執務室に比べれば遥かにこじんまりとした部屋が現れるが、それでも人一人に与えられた仕事部屋としては十分な広さがあるため、冬月にはなんの不満もなかった。
部屋の中央には副司令という役職に相応しい重厚なテーブルと本革製の椅子。
そのテーブルの端の方に置かれた簡素な丸椅子。その丸椅子に座る人影の背中を見て、冬月は溜息を吐いた。
「ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが」
手にしていた本を夢中で読んでいた人影は、その声でようやく冬月の訪室に気付いたらしい。
飛び跳ねる様にして立ち上がり、持っていた本を隠すように自分の背中に回し、冬月の方へと向く。
「す、すみません…、つい…」
顔を真っ赤にさせて、伏し目がちの目で冬月を見つめる、肌にぴったりとくっ付く黒いプラグスーツを着た、空色髪の女の子。
「ここ。とても静かで…。落ち着いて本、読めるから…」
しどろもどろに言い訳をする少女に、冬月は苦笑いしながら椅子の方へと向かう。
「まあいい。続けたまえ」
「は、はい…」
部屋の主の許可を得た女の子は、すぐに丸椅子に腰かけると、閉じていた文庫本を開いて続きを読み始める。
冬月も自身の椅子に座り、テーブルに置かれていた端末機を起動させ、今日のうちに溜まったメールと明日のスケジュールのチェックを始めた。
ピピピッという軽い電子音。
女の子は黒いプラグスーツの手の甲にあるコントロールパネルを見つめ、小さな画面に表示された文字を確認する。パネルのボタンを押してアラームを止めると、再び文庫本を読み始めた。
その様子を横目で見ていた冬月は苦笑しながら口を開く。
「本日の活動限界が来たのではないか?」
冬月の低い声に、女の子は弾かれたように顔を上げ、冬月を見た。
「早く自室に戻りたまえ」
「で、でも…」
膝の上に広げた文庫本と冬月の顔とを交互に見つめる女の子に、冬月は苦笑いを続ける。
「本は逃げはせんよ。また明日、続きを読めばよかろう。これは命令だ」
最後の言葉を使われると、女の子は有無を言うことを許されない。
「はい…」
あからさまにしょげた様子で立ち上がる女の子。
「気に入っているよだね」
冬月は女の子が胸に抱いている文庫本を見つめる。
「はい…」
女の子は小さな口に柔らかい曲線を描いて答えた。
女の子が持つ文庫本は冬月が与えたものだった。
訓練と実験とメンテナンス。この建物の中で、女の子はそれなりに忙しい日々を過ごしているが、それでもぽっかりと空く時間はあり、そんな空いた時間を持て余している様子だった女の子に、冬月は読書を勧めてみた。最初は女の子の先任に当たる少女がかつて好んで読んでいた医学書や哲学書を与えてみたが、「生まれて」10年にも満たない女の子にその内容を理解できるはずもない。頭から煙を立ち昇らせながら、それでも懸命に読み進めようとしている女の子に、冬月はもう少し読みやすい実用書を与えてみた。他にも歴史書や偉人の自伝など、色々と試してみてようやく落ち着いたのが、今女の子が持っているジュブナイル本である。
「どこまで読み進めた?」
「まだ4分の1ほど…です」
「面白いのか?」
「は…い…」
「どのような内容だ?」
「男の子と、女の子の…、お話しです…」
冬月はふっと笑った。
「俗に言うボーイミーツガールもの、というやつか。どんな時代であろうと、若人が好む物語は結局のところそれだ…」
「ぼー…?」
「なんでもない。早く帰りたまえ」
「は、はい」
女の子は冬月に向かってぺこりと頭を下げると、ドアに向かってトテトテと小走りに歩いていく。
ドアの前で止まり、冬月に向かってもう一度ぺこりと頭を下げる女の子。
「おやすみなさい。冬月先生」
冬月は端末機の画面を見つめたまま応える。
「ああ、おやすみ。ナンバー6」
* * * * *
総司令官の執務室。
今日も総司令官碇ゲンドウは、副司令官冬月コウゾウの長々とした報告を受けている。
「先月の反ネルフを標榜する組織の創立宣言件数は6。これでアフター・サードインパクトにおける同様の宣言は100件を超えることとなった。記念の祝杯でも挙げるべきかな」
毎度毎度事務的な報告はつまらない。たまには趣向を変えるのもいいだろうと報告の中に冬月なりの冗談を織り交ぜてみたのだが、その冗談を聴いた唯一の人物であるゲンドウの顔は眉一つ動かない。冬月は咳払いを一つ入れて続ける。
「先月のネルフに対するテロ予告は325件、実際にネルフ関連施設を狙ったテロ行為は77件。いずれも過去最多に達したな」
「小物に構う必要はない」
珍しく、報告の途中でゲンドウが口を挟んできた。
「我々が注意を払うべき組織は一つだけでよい」
「元ネルフ副司令官、加持リョウジが海洋生態系保存研究機構とやらを中心に立ち上げた組織か」
ゲンドウは深く頷く。
「ゼーレの活動を抑え込み、ユーロネルフもコア化の波に飲まれた今、我々の計画を成しうる上で最も警戒すべきは彼らの動きだ」
「加持リョウジがサードインパクトで命を落として以降は表立った動きはないが…」
「ああ。以来、葛城一佐も消息を絶っている。サードインパクト時にネルフから大量離反した職員と共にな」
「無論、諜報部は最重要手配テロリストの一人として葛城一佐の消息を追っている。しかし連中は各地の難民キャンプを転々とし、拠点を移動し続けているらしい。キャンプでの反ネルフ感情は連中の扇動もあって烈火の如くだ。諜報活動は容易ではない」
「我々が第13号機の建造に着手したという情報は、彼らにも伝わっているはずだ。故加地一派に対する警戒は特に厳にすべきだ」
「私としては先月のテロの半分を主導したゼーレ原理主義派どもを重点的に取り締まるべきだと思うがね」
「もうすぐ一佐の夫の命日だ」
「なるほどな…」
互いに伴侶を失った者同士、通じ合うものでもあるのだろう。ゲンドウの一言に妙に納得してしまった冬月は、早速その場で週明けのテロ対策委員会招集の指示を出すことにした。
「最後に綾波レイの転送作業の件だが、予定通りでよいのだな?」
「ああ、構わん」
「では明日、転送作業を実行する」