ケージに降りると、そこにはだだっ広い床に腰を下ろし、両膝を抱えて座っているまるで小山のような巨人。巨人の視線の先には、ベッドの上ですやすやと寝息を立てて寝ている男の子。
ベッド上の男の子を一瞥したゲンドウは、巨人の顔を見上げる。
「レイ」
ゲンドウの声に、巨人は少しだけ首を動かして、鎧兜の眼孔から覗く黄金色の瞳をゲンドウへ向けた。
「お前の新しい肉体に入る日が決まった。明日だ」
巨人は暫くゲンドウの顔を見つめ、そしてベッドの上の男の子を見つめた。
巨大な腕を動かし、巨大な手を伸ばし、巨大な人差し指をベッドの方へと近付ける。
巨大過ぎて厳つ過ぎる見た目には反する、極めて繊細な動きで、ベッドの上で眠っている男の子の頬を、ちょんとつついた。頬を突っつかれた男の子は、目を閉じたままくすぐったそうに手足をじたばたさせている。
その様子を見ていたゲンドウ。自身の口の口角が少しだけ上がっている事に、おそらく本人は気付いていない。
「明日になれば、装甲と人工神経越しではない、お前自身の指で直接シンジに触れることができるようになるだろう」
巨人の口の両端から、やや多めの蒸気が漏れた。
巨人の指がちょんちょんと、2度3度、男の子の頬を突っつく。
頬に柔らかい刺激を受け続け、次第に男の子の小さな瞼が上がっていき、瞼の向こうから男の子のつぶらな瞳が現れた。男の子の瞳が自分の頬をつつく巨人の顔を捉えると、安眠を妨げられたにも関わらず、男の子は嬉しそうににっこりと笑う。
男の子がベッドから体を起こすのと同時に、ゲンドウはベッドに背を向け、廊下へ繋がる扉へと歩き始めた。
扉に向かって5歩ほど歩いたところで。
急にゲンドウの視界が塞がれた。
突然、目の前に現れた大きな壁。
それが行く手を塞いだ巨人の手であるとすぐに気付いたゲンドウは、後ろを振り返る。
「何のつもりだ、レイ」
巨人の顔を見上げた。
ゲンドウの行く手に手を置いた巨人は、黙ってゲンドウを見下ろしている。
「私は忙しい。行くぞ」
立ちはだかる障壁はぶち破ることで越えてきたゲンドウだが、さすがに巨人の手をぶち破る術は持っておらず、巨人の手を迂回して扉へ向かおうとした。
再びゲンドウの視界が塞がれた。
目の前を塞ぐ、巨人の大きな手。
行く手を阻む自身の胴体くらいはあろうかという丸太のような指を見つめながら、ゲンドウは大きくため息を吐く。
「いい加減にしなさ…」
やや苛立ちがこもった声で言いながら振り返ろうとして、ゲンドウは息を呑む。
ゲンドウの目の前に、巨人の大きな2本の指が迫っていた。
顔に近づいてくる大きな指の腹。顔を潰されそうになったゲンドウは、咄嗟に顔の前に手を翳し、亀のように首を引っ込める。
そんなゲンドウの頭上を巨人の指は素通りし、彼の首根っこへ回された。巨大な親指と人差し指がゲンドウの着るジャケットの襟首を摘まみ上げる。そのまま上に向けて、ひょいっと引っ張った。たちまち、宙に浮いてしまうゲンドウの体。
「な、何をする! 馬鹿な真似は止めなさい!」
ゲンドウの口からこうも上擦った叫び声が発せられたのは、もしかしたら生まれて初めてだったかも知れない。
しかし巨人はそんなゲンドウの声を無視して、摘まみ上げたゲンドウをある方向へと移動させていく。
「やめなさい! やめなさいと言っている!」
まるでイタズラがバレて折檻される猫のような宙吊り状態のゲンドウは、無様にも手足をジタバタさせるが、その手足は巨人の手に届くことなく、空しく空を切るだけだった。
ゲンドウを目的の位置まで移動させた巨人は、パッと摘まんでいた指を離してしまった。
支えを失ったゲンドウの体は重力の法則に従って落下。そのお尻は、激しい音と共にパイプ製のベッドの上へと着地する。
突然空から降ってきた知らないおじさんに驚いた男の子は、目を丸くした。
しかし次の瞬間には。
「きゃっきゃっ」
突然空から降ってきたおかしなおじさんに対して、声に出して笑い始める。そして。
「だあ…」
四つん這いでベッドの上を移動しおじさんの近くに寄ると、その紅葉のような小さな手を、ぺたんとおじさんの膝の上に乗せた。
「何を…!」
その手の感触に激しい拒否反応を示したゲンドウは、男の子の手を反射的に払いのけようとした。しかし寸での所で手を止める。
すぐ側で、巨人が彼の一挙手一投足をじっと観察していたからだ。
もし自分が男の子の手を払い除けでもして、男の子を泣かせてでもしてしまったら、この巨人からどんな制裁が加えられるのか。また巨人の指に摘まみ上げられ、床にでも叩き付けられてしまったら。「彼女」に限って、そんなことはないとは思うが…。…いや、しかし…。
動けないでいるゲンドウ。知らないおじさんが無抵抗であることをいいことに、調子に乗り始めた(ようにゲンドウには見えた)男の子は、おじさんの足の上をよじ登り、ゲンドウの腰に抱き着いてしまった。
まるで軟体の捕食動物にでも捕まった小動物のように身を捩らせながら、ゲンドウは巨人を睨み付ける。
「何のつもりだ! レイ!」
この組織における最高権力者の心の底からの怒号。
しかし巨人は何も語らない。涼やかな表情?で、ゲンドウとその腰に抱き着く男の子の様子を見つめている。
「俺は怒るぞ…!」
ゲンドウが顔を真っ赤にさせて拳を振り上げた(何処に振り下ろすつもりだったかは知らないが)、その時。
背後で扉が開く音がした。
それに続いて、キュルキュルと、若干潤滑油が切れ気味のキャスターの転がる音。
見ると、男の子の世話係をしていた白衣の女性が、テーブルワゴンを押しながらこちらに向かって来ている。巨人の存在にビクビクしながらテーブルワゴンを押す女性は、巨人の手に隠れていたベッド上のゲンドウの姿を見つけてギョッとしてしまった。そしてゲンドウの腰に抱き着いている男の子を見つけて、さらにギョッとしてしまう。
もしかしたらこの世界で一番見てはいけないものを見てしまったのではないか。立て続けにギョッとしてしまった女性は、掛けたメガネの奥の目を点にしてしまっている。その彼女が押してきたテーブルワゴンの上にあるものを見て、今度はゲンドウがギョッとしてしまう番だった。
「なんだ…、それは…」
低い声で訊ねるゲンドウに対し、女性は震えた声で答える。
「食事です…」
確かに、テーブルワゴンに載せられているのは食事だ。そんなの見れば分かる。問題は、テーブルワゴンに載せられた食事は、2人分ということだ。
2つの食品トレー。2つのスプーン。
2つの食品トレーのうち1つは、いかにも子供向けの小さなトレー。2つのスプーンのうち1つは、いかにも子供向けな、柄に花柄の模様が付いた小さなスプーン。2人分の食事のうち、1つは男の子用のものであるということも、見れば分かる。
では残りの1つは、一体誰のために用意された食事なのか。
「誰のために用意された食事か?」
自分の中に渦巻く疑問を、率直に口にするゲンドウ。
女性は激しく瞬きを繰り返しながら答えた。
いや、ゲンドウの鋭い眼光に怯えて声を出すことすらできない女性は、ただゲンドウの顔を見つめていた。
「これが答えだ」とばかりに。
ゲンドウは生まれて初めて眩暈というものを感じた。
そして2人のやり取りを見守っていた巨人を再度睨む。
「お前の仕業か…、レイ…」
女性を怯えさせたゲンドウの鋭い眼光も巨人は何処吹く風。どうしたらよいのか分からず硬直してしまっている女性のお尻を、大きな人差し指でそっと押す。
お尻を押された女性は「ひっ」と短い悲鳴を上げつつ、震えた手で食品トレーとスプーンを、ベッドの前にある小さなテーブルの上に並べた。そして巨人の顔を睨みつけたまま硬直してしまっているゲンドウに対して深々と頭を下げ、テーブルワゴンを押しながら逃げるようにして扉の方へと走り去っていった。
「だぁ…」
おじさんの腰に抱き着いていた男の子は、テーブルの上に並べられた食事に目を輝かせ、おじさんから離れてベッドから滑るように下りると、テーブルの側に置かれた子供用の椅子に座る。そして食事と一緒に準備されていた子供用エプロンを首に巻くと、小さなスプーンを右手に持ち、トレー上の食事を突っつき始めた。
3つの区画に分けられた食品トレー。そこに盛られたものは、それぞれ色は違うが、全てペースト状の食事。まるで食欲などそそられない見た目の食品を、男の子はぎこちない動きでスプーンを操りながら、スプーンの先にペースト食を掬い、大きく開いた口の中へと運ぶ。口を閉じた男の子の顔が、幸せそうな笑みで溢れた。
「自分は一体何を見せられているのだ」という表情で、男の子の食事する様子を見下ろしていたゲンドウ。
ズズズ、と何かを引き摺るような音。見ると、巨人の指が空いている椅子をゲンドウの前に寄せていた。
ゲンドウは巨人の顔を見る。
「冗談だろ…」
ゲンドウの顔を見つめる巨人の口の両端から、シューッと蒸気が立ち昇った。
「冗談だよな…」
巨人の口の両端から、ジューッと勢いよく蒸気が立ち昇った。
未だかつて経験したことがない大量の汗を額に浮かべるゲンドウ。
額に青筋を浮かせ。
眉間に深い皺を寄せ。
奥歯を噛み締め。
もし先程の女性が見たら刹那に失神してしまいそうな物凄い形相を浮かべ、巨人と男の子とを交互に睨んだ。
握り締め過ぎで震えていた右拳を、ジャケットの右ポケットに突っ込む。
ポケットの中から通信端末機を取り出し、スイッチを押して話し掛ける。
「冬月…」
通信端末機は沈黙を守っている。
「冬月…」
通信端末機は沈黙を守っている。
「見ているのは分かっている…! 冬月…!」
『なんだ、碇』
明らかに笑い声を噛み殺している様子の副司令の声が通信端末機の小さなスピーカーから聴こえた。
「第7ケージ内の全てのカメラを切れ」
『それは保安上、問題があるのではないか』
「命令だ。今すぐ切れ」
『分かった…。くくっ…』
遂に堪え切れなくなったらしい副司令の笑い声を残して、通信は切れた。
ゲンドウはあからさまに不愉快そうに通信端末機を乱暴にポケットの中に突っ込みと、ベッドから立ち上がり、巨人が用意した椅子にドスンと音を立てながら腰を掛ける。そして食品トレーの横に用意された白のペーパーナプキンの端をシャツの襟の隙間に突っ込み、スプーンを手に取った。
まるで叩き付けるような動作で、スプーンを食品トレーの中に突っ込む。鉄製のスプーンとプラスチック製のトレーが辺り、カッカと耳障りな音を立て、撥ねたペースト食の粒がテーブルを汚した。やや多めに掬われたスプーンのペースト食を、ずるると音を立てて啜り、口の中に入れる。大きな鼻息を立てながら咀嚼し、大きく喉を鳴らしながら嚥下する。
ひと口ふた口と、味も素っ気もないペースト食をいかにも不味そうに口に運びながらふと視線をずらすと、男の子がこちらを見上げていた。
ゲンドウは3口目を口に運びつつ、男の子を睨む。
「さっさと食え」
ぶっきらぼうに言う。
すると男の子は何を思ったかスプーンを逆手に持ちかえ、頭の上にまでスプーンを掲げて、勢いよく食品トレーに向けて振り下ろした。
当然、周囲に飛び散るペースト食。
男の子はスプーンでペースト食を掬うと、スプーンの先に山盛りになったペースト食を、乱暴気味に小さな口の中に突っ込む。掬われたペースト食の殆どは口の中に収まらず、男の子の口の周りを汚し、エプロンを汚した。
そして男の子は再び乱暴に食品トレーにスプーンを突き刺し、乱暴にペースト食を掬い、乱暴に口に運ぶ。それを繰り返す。見る見るうちに、男の子の周りが赤、白、黄色のペースト食で汚れていく。
ついに、飛び散ったペースト食の粒が、隣に座るゲンドウのジャケットの袖にポトリと着地した。
ゲンドウの額に、何本もの青筋が浮かび上がる。
「なにを…!」
堪らず怒鳴り声を上げそうになり、握り締めていた左拳を振り翳してしまいそうになってしまう。
しかし寸でのところでこらえ。
目を閉じ。
一回だけ大きく息を吸い。
鼻から大きく息を吐く。
体内に溜まった怒りの熱を、呼気と共に外へと追い出す。
男の子のスプーンを持つ手に、大人の手が添えられた。
男の子が、不思議そうな顔で手の持ち主の顔を見上げている。
そんな男の子に、ゲンドウはぼそりと言った。
「食事は静かに食べるものだ…」
ゲンドウは襟元に突っ込んでいたペーパーナプキンを取ると、それで汚れた男の子の口の周りや手を拭いてやる。拭き終えて、ゲンドウの手が離れた後も、男の子はぽかんとしたままおじさんの顔を見上げていた。
ゲンドウはペーパーナプキンを丁寧に畳んでテーブルの隅に置くと、改めてスプーンを手に取り、自分の前に置かれた食品トレーにスプーンを下ろした。トレーの手前から、そっと柔らかい動作でペースト食を掬う。背筋を伸ばしたままゆっくりとスプーンを口元まで運び、音を立てず、啜らず、すっと素早く口の中へと流し込む。
おじさんの一連の動作を、口を半開きにしながら見つめていた男の子。
ゲンドウはゆっくりとスプーンを下ろしながら男の子を見下ろす。
「こうだ…。やってみろ…」
暫くはぼんやりとおじさんの顔を見上げていた男の子。声で返事をする代わりにニッコリと笑い、逆手に持っていたスプーンを正しく持ちかえると、おじさんの動きを真似て、ゆっくりとした動作でペースト食をスプーンで掬う。スプーンを口に、ではなく、顔を前に出し、口からスプーンに近付けたところはゲンドウにとっては減点ポイントだったが、それでも静かな動作でスプーンを口元まで運び、そしてずずっと少しだけ音を立てて啜った。
口をもごもごさせながら隣のおじさんの顔を見上げ、
「だあ…」
ニッコリと笑い掛ける。
「咀嚼中に口を開けるな」
ムスッと答えるゲンドウ。
「足をばたつかせるな」
「食事中に立つな」
「服の袖で口を拭くな」
「残さず食え」
スプーンの音と、時折ゲンドウからの極々短い指導が飛ぶだけの、静かな食卓。
父と子の、慎ましやかな食事会の様子を、巨人は食卓から少し離れた場所で、床に頬杖を付きながら見つめていた。