気が付けば世界は暗転していた。
眼球を焼かれ失明してしまったか。
あるいは体を、命を燃やし尽くされた末に辿り着いた死後の世界とやらは、漆黒の闇なのか。
後者の可能性については早々切り捨てた。自身の大願を成就する前に死ぬことなどありえない自分が、今日この時、死後の世界とやらの門を叩くことはなどありえないからだ。
前者の可能性について否定するまでの時間もそう掛からなかった。漆黒の闇と思われたこの場所に、僅かな隙間から差し込む微かな光。その光に手を翳してみると、いつも身に着けている白い手袋が薄っすらと見えた。
目の前で爆弾が弾けた。
それは人類が操る範疇の中で最大級の威力を誇る爆発。
間近でその光を見た者には、絶対の死を約束する爆発。
自分は何かに覆われている。大きなものによって、包まれている。
その「何か」によって、自分の死は免れた。
その「何か」によって、人体など刹那に蒸発させる業火から、自分の命と体は守られた。
その「何か」の正体を、ゲンドウはすでに理解している。
「レイ」
ゲンドウは呼び掛けてみた。
自分を覆う「何か」に変化はない。
自分を包む「何か」に、そっと触れてみた。
触れた手を思わず引っ込めてしまいそうになるほどの、熱を帯びた「何か」。
闇の外の在りようが伝わってくる。
「レイ」
再度の呼びかけ。
やはり自分を覆う「何か」に動きはない。
ここで時間を浪費するわけにはいかないゲンドウは、光の筋を漏らす闇の隙間に両腕を突っ込む。強引に隙間を押し広げ、その中に頭を突っ込み、上半身をねじ込んだ。
そこはかつて「第7ケージ」と呼ばれていた。
エヴァンゲリオンと呼称された汎用ヒト型決戦兵器の格納庫だった場所。
ニア・サードインパクトのトリガーとなった初号機が幽閉されていた場所。
そして今は、男の子と巨人の寝室兼遊び場。
分厚いコンクリートと鉄筋に囲まれた、六面体の広大な空間。
が、あった場所。
ゲンドウは自分を覆っていたドーム状の「何か」の隙間から、体を捩らせながら外へと這い出る。何とか2本の足も外に出すと、ジャケットやズボンに付いた埃を払い落としながら、「何か」の上に立つ。
左右を見渡した。
そこにはコンクリート製の壁があるはずだったが、何も無かった。
天を仰いでみる。
そこにあるはずの天井の代わりに、夜空に浮かぶ大きな月が見えた。
足もとに視線を落とす。
ゲンドウを閉じ込めていたドーム状の「何か」。
5本の太い指。広い手背。
それは、その下にあるものを包み込むように伏せられた、巨大な手だった。
ゲンドウの視線は手から繋がる太い腕の上を這い、肩へ移っていく。そしてゲンドウの視線が行き付いた場所にあったものが、額に一本角を生やした巨人の顔だった。
巨人の頭部。鎧兜の形をした装甲は、間近で炸裂した強烈な爆発がまき散らした熱風と衝撃に晒され、表面は溶けて大きくひしゃげ、その巨人の象徴でもある額の一本角もぐにゃぐにゃに変形している。頭部だけでなく、肩当、胸当て。巨人が纏う様々な装甲が、熱に炙られて酷く損傷していた。
足もとの巨人の手の装甲はほぼ無傷なところを見ると、おそらく巨人が発生させることができるあらゆる物理的干渉を拒否する防壁、ATフィールドは、全て手に集中させたのだろう。
「レイ…」
ゲンドウは三度、巨人の顔に向かって呼び掛けた。
しかし、返事はない。
ゲンドウは視線を動かす。
動かした先は、今彼が立っている巨人の右手と対になる、巨人の左手。
巨人の左手も右手と同様に、その中に何かとても大切なものを包み込むように柔らかく、守るようにしっかりと握られ、地面に伏せられている。
ゲンドウは巨人の右手から降り、地面に立った。炙られて蒸気を立ち昇らせる地面に降り立った瞬間、靴底がジュッと音を立てたが、ゲンドウは構わず巨人の左手に向かって歩き始める。
巨人の左手まであと10歩の位置で、ジャケットのポケットに入れていた通信端末機からコールが鳴った。応答すると、端末機のスピーカーから冬月の声が聴こえた。
『本部内でN2爆弾と思われる爆発を確認。本部上層階の半分が吹き飛んだぞ』
冬月の報告に、ゲンドウは落ち着いた声で答える。
「ああ。爆弾は、私の目の前で爆発した」
『目の前だと?』
「ああ。至近だ」
『無事なのか?』
「私は無傷だ」
平然と答えるゲンドウに対し、返ってきたのは呆れたような冬月の声だった。
『悪運の強い奴だ。加えて報告する。爆発の少し前に初号機が再起動し、実験房から姿を消した』
「ああ。初号機なら今、私の目の前に居る」
今度のゲンドウの返答に対して、冬月は「やはりな」と答えた。巨人の「暴走」についての冬月の短い感想を無視し、ゲンドウは続ける。
「おそらくこの爆発は本部の破壊のみを目的としたものではない。何らかの合図だろう」
『攻撃の第2波か…』
「ああ」
『分かった。マーク7と綾波タイプのパイロットはすでに確保済みだ。マーク7にはナンバー4を搭乗させ、いつでも出撃できるように待機させておこう。……しかしながら…』
冬月が漏らしたらいい溜息の音が、無線通信を通してゲンドウの耳に届けられる。
『ついにエヴァという超常兵器の矛先が、人類に向けられる日がやってきたか』
通信端末機をポケットにしまったゲンドウは、巨人の左手の前に立った。ゲンドウを覆い、爆発から守った巨人の右手同様、左手にも爆発の影響はみられない。もしこの左手も何ものかを護っているのであれば、自分同様その「何もの」も無傷でいることだろう。
巨人の顔を見上げる。
「レイ。この手を開けなさい」
巨人は何も答えない。
巨人の顔をじっと見つめる。
起動時は黄金色に輝くはずの巨人の瞳。
光を宿していない巨人の瞳。
ゲンドウは巨人の左手に向き直ると、その手首に向かって歩み寄る。手首を覆う一部の小さな装甲を手動で外すと、その下からバルブが現れた。ゲンドウはそのバルブを握ると反時計回りに回し始める。すると巨人の指を制御する人工伸筋腱が緩み始め、頑なに閉じていた巨人の指と指の間に隙間が生じ始めた。
バルブを全開にさせたゲンドウは手首から離れ、巨人の親指の前へと行く。そして巨人の親指の爪の部分に両手を引っ掻け、力を振り絞って引き始めた。人工伸筋腱による固定が無くなったとはいえ、ゲンドウの体と3倍くらいの大きさはあり、かつ分厚い装甲を纏った巨人の親指である。ただでさえ焼け爛れた地面の上。すぐに汗だくになってしまったゲンドウは、体を休めて一息つくと、第1ボタンまで留めていたジャケットの前を全開にした。
巨人の親指と人差し指の間に30センチメートルほどの隙間ができたら、その隙間に身を滑り込ませる。そして背中を巨人の人差し指に当てると、両足で巨人の親指を蹴っ飛ばすように押した。ズズズと親指が動き、親指と人差し指の隙間が開いていく。
巨人の親指を押すゲンドウの膝が伸び切り、親指と人差し指の間が1メートルほど出来たところで、ようやく巨人の左手の中が見えるようになった。
ゲンドウは額から滝のように落ちてくる汗を袖で拭いながらその場に片膝をつき、巨人の左手の中を覗き込んだ。
思わぬ重労働に荒くなっていたゲンドウの呼吸。
その呼吸が止まった。
ゲンドウは、息を呑んだ。
まるで血のような赤い線が格子状に走る大きな月。
人工的な光が何もない夜空の下、その月明りだけが地上をぼんやりと照らし出している。
月の光は、巨人の大きな左手の中までは届かない。
しかし巨人の左手の中は明るかった。
まるで夜空に浮かぶ月のような淡い光が、巨人の手の中を照らしていた。
巨人の手の中をぼんやりと照らし出すもの。
光の、源。
それは、一人の少女。
全身から淡い光を放つ少女。
いや。少女の体が光を放っているのではなく、少女そのものが光だった。
頭部らしきものがあり、胴体らしきものがあり、腕らしきものがあり、脚らしきものがあり。
だからその淡い光が人の形をしていると分かるし、丸みを帯びた肩や腰、膨らんだ胸元から淡い光が象っているのは女性、少女だと分かる。
その少女の形をした淡い光は地面に伏していた。
小ぶりなお尻、痩せた背中、小さな後頭部をゲンドウに見せながら。
ゲンドウは呼び掛ける。
「レイ」
その呼び掛けに、少女の形をした淡い光は反応を示した。
ゆっくりと、地面に伏していた顔を上げる。
淡い光の中に、ぽつぽつと並ぶ2つの赤い瞳。
「レイ…」
ゲンドウにとって、数年ぶりにその目で見る「彼女」の顔がそこにはあった。