地面に伏していた、少女の形をした淡い光。
ゆっくりと上がったその顔も、実態を持たない朧気な光そのものだった。
しかしその顔立ち。特徴的な瞳の色。最後にその顔を見た時はうなじが見える長さで切り揃えられていた髪は背中まで伸びているが、そこに居るのは紛れもなく。
「レイ…」
少女の形をした淡い光は顔だけでなく、上半身もゆくりと起こしていく。
淡い光の胸が地面から離れると、その下から見知った頭が見えてきた。
淡い光がその細い身体で隠していたもの。
その身を挺して、守っていたもの。
ゲンドウは淡い光の顔から、地面に横になっている男の子の顔へと視線を移す。
「シンジ…」
ゲンドウが男の子の名前を呟いた瞬間だった。
淡い光は、何かに弾かれたように起こしかけていた上半身を地面に伏せ、そして両腕を使って男の子を抱き締める。抱き締められた男の子は気を失っているのか、淡い光の腕の中でぐったりとしている。
男の子を抱き締めながら、警戒するように、あるいは怯えたように、伸びた前髪の隙間から赤い瞳を覗かせ、男の子の実の父親である碇ゲンドウの顔を見つめる淡い光。
そんな表情をを浮かべる淡い光に、ゲンドウは頬の筋肉を緩めながら、自分に出しうる限りの柔らかい声で語り掛けた。
「大丈夫だ。お前たちを傷つけようとした者は、全て消えた」
ゲンドウは左手を地面に付き、身を屈めて巨人の手の下へ入り込む。
「この騒乱もあと少しで終わる。終わったら食事にしよう」
少女の形をした淡い光の顔が、睫毛や鼻筋まではっきりと見えた。
「私と、お前と、そしてシンジとで、…な」
淡い光に向かって、ゆっくりと右手を差し伸べる。
淡い光の顔から警戒の心が緩み、怯えの表情が消えていく。
淡い光は右手で男の子を抱き締めながら、ゲンドウの差し伸べた手に対し、ゆっくりと左手を伸ばしていく。
ゲンドウの手のひらの上に、そっと、淡いの光の手が重なった。
まるで重さというものを感じない手。
温かさも冷たさも感じない手の形をした光。
ゲンドウの表情が強張る。
自身の手に重なる淡いの光の左手。その人差し指の、第一関節から先が無くなっている。
人差し指だけではない。中指も、薬指も、ゲンドウの右手に触れているあらゆる部分が、溶け始めている。
淡い光の手が、少しずつ形を崩し始めていた。
ゲンドウは視線を上げ、淡い光の体全体を観察する。
溶け始めているのは手だけではない。地面についた膝から下、男の子の体を抱く右腕。外部から圧力が加わる全ての部分が、崩壊し始めていた。
ゲンドウは小さく溜息を吐きながら、淡い光の名を呼んだ。
「レイ…」
右手に重ねられた淡い光の左手を、ゆっくりと離す。
淡い光の赤い瞳を見つめた。
「やはり今のお前では肉体の顕現化とその維持は困難だ」
おそらく男の子を守りたい一心で、独力でコアからのサルベージ、そして肉体の再生を行ったのだろう。しかし「彼女」が目覚める以前に繰り返し行われたサルベージの模擬実験で得られた結論の通り、コアに残されていた損傷著しいデータだけでは「彼女」の肉体の完全再現は果たせておらず、不完全なサルベージで得られた肉体は人間の体を成すどころか、早くも崩壊すら始まっている。
「すぐに初号機のコアに戻りなさい」
淡い光が消失を免れる道は、それしかなかった。
しかし、淡い光が返事をしない。
「後日、改めてお前のサルベージを行おう。それまでの辛抱だ」
淡い光は返事をしない。
「早くしない。そうでなければ、お前の肉体は魂ごと崩壊することになる」
ゲンドウはやや語気を強めて言う。
しかし、淡い光は返事をしない。
少し離れた場所から見れば朧気な光であっても、間近で見れば目が焼け付いてしまいそうな少女の形をした淡い光。
その淡い光の顔をよくよく観察してみると、顔の形をした青白い光の中に収まる2つの赤い瞳は、正面に跪くゲンドウの顔を見ていなかった。
淡い光の瞳は、目の前の男ではなく、男の肩越しに見えるものを見つめていた。
ゲンドウは淡い光の視線を追って、背後を振り返る。
背後には、巨人の大きな親指。その親指の隙間から見える、「外」の風景。
ゲンドウは淡い光へと向き直る。
「レ…」
淡い光の名を呼ぼうとして、ゲンドウは出かけた声を飲み込む。
淡い光の赤く光る瞳が、まるで信号を送り出す機械のように、チカチカと明滅を繰り返していた。
ゴトン、と頭上から重いものが軋む音がする。
ゲンドウと淡い光、そして男の子を覆っていた巨人の手が動き出したのだ。淡い光と男の子を隠すように地面に伏せられていた巨人の左手が、その下に居る者たちを潰してしまわないよう、ゆっくりと慎重に浮き上がっていく。
離れていく巨人の手を見上げていたゲンドウ。その目に、星々が瞬く夜空が映り込む。
巨人の左手が完全に取り払われた。
ゲンドウは、視線を淡い光へと移す。
いつの間にか、淡い光は立ち上がっていた。音もなく。その腕に、男の子を抱きかかえたまま。
そこは四方を囲む壁も、空を塞ぐ天井も何もない、開けた場所。巨大な爆発によって、巨人を除く周囲のあらゆるものが吹き飛ばされた場所。
外からの冷たい風が、ゲンドウと淡い光の間を吹き抜けた。
淡い光の背中まで乱雑に伸びた髪が揺れる。風によってたなびく癖のある髪。その毛先から、青白い光の粒が飛沫のように飛び散り、地面に落ちて光のまだら模様を浮かび上がらせる。男の子を抱きかかえている細い腕の肘から光の水滴が滴っており、淡い光の足もとに朧気に光る水溜まりを作っている。
ゲンドウは目を細めて淡い光の横顔を見つめるが、淡い光は相変わらずゲンドウのことを見ていない。塞いでいた巨人の手がなくなり、見通しが良くなった視界。頭を左右にゆっくりと振りながら、10分前とはすっかり様変わりしてしまった周囲の様子を観察している。
そして淡い光はゆっくりと歩き始めた。
ゲンドウは、彼の横を音もなく通り過ぎていく淡い光の背中を声も掛けずに見送り、そしてその足もとに視線を下ろす。地面には、淡い光の足跡。人の足の裏の形をした光跡が、ぽつぽつと地面の上に残っている。
その細腕に抱える男の子の体を、時々抱え直しながら歩く淡い光。30歩ほど歩いて、淡い光の前に続いていた地面が無くなった。
半歩先の、足場のない空間を見下ろす。
淡い光は、絶壁の上に立っていた。
淡い光より3歩後ろの位置に立ったゲンドウ。
淡い光の背中に、声を掛ける。
「お前が「外の世界」を見るのは初めてだったな…」
淡い光は返事をしない。
眼下に広がる風景に、釘付けになっている。
「これがお前を救うためにシンジが引き起こしたニア・サードインパクト、それに続くサードインパクトの結果だ…」
淡い光はゆっくりと体の正面をゲンドウの方へと向けた。腕の中の男の子は未だ覚醒した様子はなく、姿勢を保てずずるずると淡い光の腕の中からずり落ちていき、その度に淡い光は体を縦に揺すって男の子の体を抱え直し、その度に細腕から迸る光の雫が床の上に滴り落ちる。
2人が立っている場所。そこはかつて地中深くに存在した広大な地下空間を利用して作られた要塞の中枢。1度目の大厄災がもたらした地殻変動によって地下要塞は地上へと顔を出し、立て続けに起きた2度目の大厄災による地殻変動でその中枢は地上から遥か上空へとせり上がっていた。
2人が立つ場所。そこから見える、まるで血で塗りたくられたような地上は、遥か下。地上を覆う雲海ですら、眼下にある。生命の息吹など感じられない赤く染まった大地は怪獣の爪で引っ掻かれたように大きく何重にも裂け、地下要塞の真上にあった近未来的な都市は特大の溶鉱炉に沈められたかのうように蹂躙し尽くされ、高層ビル群に代わって地上から生えているのは、まるで地上から消えて言った生物たちを弔う墓標のような十字状の形をした奇妙な赤い塔だった。
赤く変色した大地。星々が瞬く空と地上とを結びつけるかのように聳える、幾つもの十字状の塔。そして夜空に浮かぶ、破裂寸前のように肥大化した白い月。
縮尺も象形も色彩も全てが出鱈目な景色。
それらを背景にして立つ、少女の形をした淡い光。
淡い光に抱きかかえられた、小さな男の子。
その光景は何もかもが出鱈目のはずなのに、不思議と収まりの良い、統一性のとれた幻想絵画のようにゲンドウの目には写った。
目の前の幻想絵画に何時までも見とれているわけにもいかなかった。遥か下の地上で、十字状の形をした奇妙な赤い塔の隙間を、幾つもの黒い影が蠢いていることに気付く。少女の横に立ったゲンドウは地上を這う黒い影を凝視し、ポケットから通信端末機を取り出して、副司令を呼び出した。
「叛乱分子の第2波を目視で確認した。地上部隊。おそらく1個師団はあるだろう」
スピーカーから、「やれやれ」という呟きと共に冬月の声。
『マーク4の量産型を実戦投入するか。まだ試験運用段階にも至っていないが…』
「実戦こそが最高のテストの場だ。今宵、我々は叛乱分子との全面戦争に突入した」
『出し見惜しみはなし…、か』
冬月との通信が終わったと同時に、地上を這う幾つもの黒い影から、無数の閃光が瞬いた。地上で発生した閃光は光の尾を引きながら天高く、夜空へと伸びていく。
地上から空へと向かう、無数の光の筋。大規模な流星群のように空を駆け巡る光の筋たちは、ゲンドウらが立つ場所よりもさらに高く上空へと舞い上がり、やがて宙に大きな弧を描きながら落下を始める。
光の筋たちが目指す先。その先に立ち、落下してくる無数の光の筋たちを見上げていたゲンドウの隣では、男の子を抱きかかえる淡い光が、赤く光る瞳を瞬きするかのように明滅させている。
淡い光とゲンドウの背後で、蹲るように両膝と両手を地面に付けていた巨人。その巨人がゆっくりと動き出し、地面を這って移動すると、淡い光とゲンドウの頭上にその身を乗り出す。そして右手を地面から離し、空に向けて突き出した。
淡い光とゲンドウたちが居る場所に目掛けて、まっすぐに落ちてくる光の筋たち。淡い光もゲンドウも、瞬きもせず、涼やかな目でその光の筋たちを見つめている。
光の筋たちの正体は、炎を纏った鉄と火薬の塊。
炎の中央にある円錐形の榴弾がゲンドウの目にもはっきり見えた時。
それはまるで夜空に瞬く無数の花火のようだった。
遥か彼方の地上で砲身から飛び出し、大空を駆け、淡い光とゲンドウが立つ場所まで遥々やって来た無数の榴弾たち。それらは、目標地点まであと100メートルの位置まで至って、空中で次々と大爆発を起こし始めた。
100メートルという至近距離での爆発。しかし淡い光とゲンドウのもとにまで、爆発の衝撃波は伝わってはこない。彼らの前に張り巡らされた見えざる壁。2人を護るように身を乗り出す巨人によって発生させられた絶対不可侵の壁によって、無数の榴弾たちは目標地点まであと一歩のところで弾かれ、大量の火薬が起こした無数の爆発たちも、目標地点に立つ淡い光とゲンドウに塵一つ付けることすら叶わなかった。
それでも地上を這う無数の影たちは、次々と光の筋を天に向けて打ち上げては、2人が立つ場所に向かって砲弾の雨を降らせ、見えざる壁に幾つもの花火を咲かせている。
眩い光をまき散らす花火たちをぼんやりと見つめていた淡い光。
その隣で、やはり夜空に瞬く花火を見上げていたゲンドウは、一度人差し指で丸渕眼鏡を押し上げると、淡い光の方へと体を向けた。
「分かるか…、レイ…」
その呼び掛けに、淡い光はゆっくりとゲンドウの方へと向く。
「これが世界の総意だ」
至近で弾ける花火たち。しかしその爆音すら見えざる壁は遮り、2人が立つ場所は静寂に包まれていた。
ゲンドウは静かな声で淡い光に語り続ける。
「この世界に渦巻く怨嗟の槍の矛先。それは全て私、そしてお前が抱くその子に向けられている」
ゲンドウのその言葉を咄嗟には理解できなかったのか。
淡い光の赤い瞳は、ぼんやりとした眼差しをゲンドウに向けている。
ゲンドウは語り続ける。
「世界が私と、そしてシンジの死を願っている」
淡い光が息を呑む音が聴こえたような気がした。
淡い光の赤い目が、まん丸に見開かれる。
そしてゲンドウのその言葉から逃げるように、淡い光はまん丸に広げていた目をぎゅっと閉じ、そして男の子の体を抱く両腕に、ぎゅっと力を籠めた。
ゲンドウは語り続ける。
「レイ。この世界に、シンジにとっての安息の地など、どこにもない…」
淡い光はゲンドウの言葉などもう聴きたくないとばかりに、抱き締めた男の子の短く刈り込まれた髪の中に、額を埋めている。
それでもゲンドウは語り続ける。
「シンジを守ってやれる者。それは私と、お前だけだ」
ついに淡い光はその場に両膝を折った。男の子のお尻を自身の太腿の上に乗せ、左腕で背中を抱え、右腕で腰を支える。淡い光の体全てを使って、男の子の体を抱き締める。淡い光の体全てを使って、男の子の体を覆い隠す。
この世界のどこからも、誰からも、男の子の姿が見えないように。
そう願っているように見える、淡い光の背中。
ゲンドウは蹲ってしまった淡い光の側に片膝を折った。
「レイ…」
ゲンドウが、「彼女」がこれほど恐怖を感じ、怯える姿を見たのは初めてのことだった。
小刻みに震えている少女の痩せた背中に、ゲンドウは語り続ける。
「私とお前とで、シンジを守ろう…」
淡い光は蹲り、顔を伏せたまま。
しかし、その小さな頭が上から下へと小さく揺れた。その揺れは何度も繰り返され、次第に揺れる幅も大きくなっていく。
淡い光はまるで自分に言い聞かせるように、決心を促すように、小刻みに何度も頷いていた。上下に揺れる頭に合わせて、乱雑に伸びた淡い光の髪もふるふると揺らめき、毛先で弾けた燐光がゲンドウと淡い光と男の子の周辺をまるで蛍のように舞った。
淡い光の上下に揺れる後頭部を見つめ、ゲンドウは一度目を閉じる。寄っていた眉間の皺がほんの少しだけ薄くなり、強張っていた頬がほんの少しだけ緩み、ほんの少しだけ安心したように短い溜息を吐いた。
これまでも長く孤独な戦いを強いられ、そしてこれからも長く辛い戦いに身を投じていくことを決意したらしい淡い光。そんな淡い光を少しでも慰め、労わり、励ましてやりたいと思ったゲンドウは、その痩せた背中を撫でてやろうとしたが、下手に触れてしまうと少女の形をした淡い光の崩壊を促進させてしまいそうなので、背中に伸ばし掛けた手を寸でのところで止める。
背中を撫でる代わりに、ゲンドウは淡い光を勇気付けるためにこう言った。
「我々は第13号機の建造に取り掛かった。第13号機はエヴァンゲリオンの最終形態。覚醒すれば、神にも等しい存在となるだろう。神の御手にその身を委ねるパイロットは、悠久の時と絶えることのない真の安息を手に入れるのだ」
小刻みに上下に揺れていた淡い光の頭部が止まった。
ゲンドウは語り続ける。
「レイ。再びシンジをエヴァに載せるのだ。第13号機へ」
淡い光の顔が、ゆっくりと上がっていく。
「それが…、レイ。お前の、最後の役割となるだろう」
乱雑に伸びた淡い光の前髪の隙間から覗く真っ赤な瞳が、まっすぐにゲンドウの顔を見つめていた。