異常に肥大化した白い月を背に男は跪き、地面に蹲っている少女の形をした淡い光に向けて手を差し伸べている。
淡い光の腕の中には小さな男の子。すぐ側で幾千もの巨大な花火が瞬いている中で、瞼一つ動かさず、深い眠りの中に落ちている。
淡い光は地面から顔を上げ、男の顔を見つめていた。
赤い瞳に真っすぐに見つめられて。
碇ゲンドウは珍しく視線を逸らし、地べたを見つめる。
焼け爛れて黒ずんでいるコンクリートの地べたを見つめていたら、その視界の隅に見えていた少女の形をした淡い光の姿が消えた。
視線を上げると、淡い光が男の子を抱きかかえたまま立ち上がっていた。
「レイ…」
ゲンドウも立ち上がると、改めて淡い光に向けて手を差し伸べた。
「シンジを私に預け、お前はすぐにコアの中へ戻りなさい」
淡い光。
全身から光の雫を地面に落とし続け、少女の象形を保てなくなりつつある淡い光は、差し伸べられた手に一度も視線を向けることなく、目の前に立つ男の顔をじっと見つめている。その腕の中の男の子を、ひしと抱き締めながら。
ゲンドウは、半歩ほど前に出た。
「安心しろ。シンジは私が守る」
半歩ほど前に出て近付いたはずなのに。
なぜか視線の先にある淡い光の顔が小さくなったような気がした。
視線を淡い光の足もとに落とす。
淡い光の小枝のような細い左足が、半歩、後ろに下がっている。
顔が小さくなったのではない。
淡い光が、ゲンドウから遠ざかったのだ。
淡い光の足は半歩後退しただけに留まらなかった。
一歩一歩。
地べたに、光る小さな足跡を残しながら、後ずさっていく淡い光の足。
淡い光は、ゲンドウと距離を取り始めていた。
視線を淡い光の顔に戻す。
淡い光はゲンドウの顔を見つめながら、視線の先に在るものを拒絶するように、頭をゆっくりと左右に振っていた。
その淡い光の赤い瞳が、明滅を始めた。
「レイ…!」
声を張り上げるゲンドウ。
遠ざかっていく淡い光を追いかけようと、ゲンドウがその足を一歩前へ踏み出そうとした瞬間だった。
突如、ゲンドウの前に現れた黒い壁。
行く手を大きな壁によって遮られたゲンドウは、踏み出そうとした足を引っ込めるしかなかった。
まるで空から降ってきたかのように、突然現れた壁。
昨日、全く同じ体験をしているゲンドウは、その壁が巨人の手であることはすぐに理解できた。
「レイ…!」
ゲンドウは巨人の手の向こう側に居るであろう者の名を叫ぶ。
返事はない。
ゲンドウの両手が巨人の手で作り上げられた壁に張りつく。一分の隙もない壁。右拳で叩いてみたが、小動もしない。
「レイ! レイ!」
それでも壁を殴りながら何度も「彼女」の名を叫ぶが、壁の中は沈黙を保ち続けている。
そして壁が動き始めた。
ゆっくりと、地面から浮き上がっていく壁。
ゲンドウは2歩ほど壁から遠ざかり、身を屈めて壁の下を覗き込む。
壁の向こう側。そこに2本の淡く光る細い足が在ると期待して。
しかし覗き込んだ先にあるのは焼け爛れたコンクリートの地面。そしてその地面の上に残った、2つの淡く光る足跡だけ。
壁の向こう側には、誰も居なかった。
ゲンドウは地上から離れていく壁、巨人の手を見上げた。
「レイ!」
巨人の手はゲンドウの呼びかけを無視してどんどんその高さを増していく。地上のゲンドウから、離れていく。
そしてその手が行き着いた先。
そこは、巨人の顔。
巨人の下顎ががくんと落ち、巨人の口が大きく開いた。
ゲンドウは遥か頭上にある巨人の口を目を細めて凝視した。
巨人の手の指の隙間から見える、光輝く人の影。
「レイ!」
ゲンドウの呼び掛けに、地上に背を向けていた人影が、ほんの僅かだけ振り返る。乱雑に伸びた髪の隙間から、赤く光る瞳が地上のゲンドウを見下ろしていた。
しかし人影がゲンドウを見下ろしたのはほんの一瞬のみ。その腕に抱いていた男の子を抱え直し、目前でぽっかりと開いている巨大な口に向かって、ゆっくりと歩き始める人影。
綺麗に並ぶ白い歯を跨いで。
柔らかい真っ赤な舌を踏んで。
深い深い闇へと繋がる咽頭へと消えていく人影。
「レイ…」
ゲンドウはもはや声も届かぬ所へ行ってしまった少女の名を呟くしかできない。
少女の形をした淡い光と男の子を口に含んだ巨人は、下顎を上げ、広げていた口を噤む。
頸を仰け反らせ、喉仏を上下に大きく動かし、口の中にあるものを飲み込む。
そして今度は頸を前に倒し、胸を大きく上下させながら、口の両端から大量の蒸気を吐き出す。
淡く光っていた巨人の瞳が、煌々と輝き始めた。
絶え間なく空へと打ち上げ続けられる光の筋。無数の光の軌跡は大きく放物線を描いた末に、赤い大地から突き出た巨大な構造物へと向かって落下していくが、その全ては構造物に辿り着くことなく空中で次々と爆発していく。
地上に展開された自走砲群による砲撃。ネルフ本部強襲の第2波は、自走砲群の標的である構造物の頂上に立つ巨人、エヴァンゲリオン初号機が展開する不可侵の壁、ATフィールドによって全てが阻まれていた。
夜空を支配する幾筋もの細い光の軌跡。
その中にあって、一際輝く大きな光の筋が混じり始める。膨大な量の推進剤を燃焼させ、重力と空気抵抗に逆らいながら空中を押し進む数十基もの巡航ミサイル群。それらは地上部隊のさらに後方。野を越え、山を越え、朽ち果てた都市を越えた先に広がる海上に展開された、ミサイル巡洋艦を中心に構成された大艦隊から放たれたものだった。
海上から発射されたミサイルたちは朽ち果てた都市を越え、山を越え、野を越えてようやく目標物であるネルフ本部まで辿り着いたが、しかしそれらも結局は、初号機が張り巡らせるATフィールドを穿つには至らず、積載された大量の火薬は本来の目的を果たすことなくただ夜空を明るく彩り、地上を無駄に明るく照らすだけの花火として生涯を閉じたることになる。
さすがの碇ゲンドウも、目前で繰り広げられる火薬の祭典に対しては、手を翳し、目を細めずにはいられない。
そのゲンドウの背後で、体動する初号機。
空気の揺らぎを感じ、ゲンドウは振り返る。
初号機が、立ち上がっていた。
立ち上がれば高層ビルの高さに匹敵する初号機のその顔は、初号機の足もとに立つゲンドウの位置からはとても見ることができない。
初号機の動きは立位しただけに留まらない。
膝を折り、腰を低くし、身を屈め。
初号機のその予備動作を見て、ゲンドウは怒鳴った。
「待て! レイ!」
ゲンドウが声を張り上げた瞬間、初号機の膝は伸び、腰は上がり、体全体が大きく躍動する。
竜巻のような突風。そしてコンクリートの地面に巨大な足跡を残して。
初号機の巨体が、空中へと躍り出た。
砲弾とミサイルの雨は未だ止んでいない。無数の光跡の束の中に飛び込んでいく巨人。巨人の周辺に張り巡らされた見えざる壁に触れた無数の砲弾やミサイルが、次々と爆発。爆発物で満たされていた空は誘爆の連鎖によって隅々まで爆炎に満たされ、まるで昼間の太陽のように光り輝いた。
巨人が去ったことによって絶対不可侵の壁の加護を失った構造物の頂上に立つゲンドウは、空を埋め尽くすほどの爆発がまき散らす衝撃波を正面からくらいそうになり、その場に膝を付いて地面にしがみ付いた。構造物を襲う爆風によって、ゲンドウの丸渕眼鏡が吹き飛んでしまう。
どのような大爆発も、燃焼するための材料が無くなれば消えてしまう。巨大な爆発が空中に集まった火薬の全てを消費尽くした結果、空は闇と煙に包まれることになる。
大量の埃を被ったゲンドウはそれらを払おうともせずにすっくと立ち上がった。初号機の巨体が飛び立っていった夜空へと、眼鏡を失った目を細めて見つめる。
ポケットの中の通信端末機から呼び出し音。通信端末機を耳に当てる。
「碇だ」
通信相手である腹心の声は、珍しく乱れている。
『碇。初号機を実戦投入するつもりか』
相手の問い掛けに対し、3秒の間を設けて。
ゲンドウは、少なくとも声音だけはいつもと変わらない調子で答えた。
「初号機は我々の支配下を離れた」
ゲンドウの応答に対し、相手もやはり3秒の間を設けて。
『…どういう意味だ』
ゲンドウは細めていた目を閉じながら答える。
「初号機は…」
頭を振り、主語を訂正する。
「レイは今…、私の手を離れ、独自に行動している」
その言葉を聴いた相手は、太陽が西から昇ってくるのと同じくらいあり得ないとでも言いたげな口調で言う。
『レイが我々を…、お前を裏切ったということか…』
その問いについて、ゲンドウの返答はなかった。